老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

現憲法の基本理念(国民主権、平和、人権)の視点で「世直し」を志す「護憲+」メンバーのメッセージ

歴史と歌と(3)(民衆運動と歌)

2020-10-02 16:19:04 | 社会問題
(1)60年安保闘争から全共闘運動へ

1969年(昭和48年)全共闘運動がピークを迎えていた頃、新宿駅西口広場を多数の若者たちが占拠し、フォークソングを歌っていた。通称、フォークゲリラ。

戦後の学生運動で全共闘運動ほど、歌と闘争が分かちがたく一体化した運動はなかった。彼らが歌う歌は、古い政治体制や既成の価値観などに対する【抵抗】精神の発露でもあったし、同時に仲間たちの【連帯】の証でもあった。時にはくじけそうになるもろい自分自身に対する鼓舞の歌でもあった。

下にいくつか新宿フォークゲリラの映像と音声、東大安田講堂攻防戦の映像と「友よ!」の歌声を紹介しておく。

昨年ごろ、繰り返し流された「香港民主化運動」の映像と何がどう違うのかを見てほしい。日本警察と香港警察がダブって見えるのは私だけではないだろう。

※中日新聞ビデオ
https://www.bing.com/videos/search?q=%e3%83%95%e3%82%a9%e3%83%bc%e3%82%af%e3%82%b2%e3%83%aa%e3%83%a9+%e6%96%b0%e5%ae%bf&docid=608055309317574134&mid=936062E2D22A27528392936062E2D22A27528392&view=detail&FORM=VIRE
※機動隊ブルース
https://www.bing.com/videos/search?q=%e3%83%95%e3%82%a9%e3%83%bc%e3%82%af%e3%82%b2%e3%83%aa%e3%83%a9+%e6%96%b0%e5%ae%bf&&view=detail&mid=53DC6D7797F657D9AE8F53DC6D7797F657D9AE8F&rvsmid=936062E2D22A27528392936062E2D22A27528392&FORM=VDRVRV
1969年10月21日 国際反戦デ―
https://www.bing.com/videos/search?q=%e3%83%95%e3%82%a9%e3%83%bc%e3%82%af%e3%82%b2%e3%83%aa%e3%83%a9+%e6%96%b0%e5%ae%bf&&view=detail&mid=7C5811EBDE68D019055B7C5811EBDE68D019055B&&FORM=VDRVSR
東大闘争安田講堂(友よ!)
https://www.bing.com/videos/search?q=%e3%83%95%e3%82%a9%e3%83%bc%e3%82%af%e3%82%b2%e3%83%aa%e3%83%a9+%e6%96%b0%e5%ae%bf&&view=detail&mid=145285D31A417A51C0FF145285D31A417A51C0FF&&FORM=VDRVSR

その10年前、戦後日本で最大の大衆運動が起きた。安保闘争である。全学連主流派が主導して国会突入を図り、機動隊との衝突の中で東大生樺美智子さんが死亡した。これで闘争に火が付き、全国各地でデモが頻発した。

しかし、運動もむなしく、強行採決された安保条約が自然承認されてしまった。その夜、国会を包囲した人々の間から自然発生的に【赤とんぼ】の歌が歌われた、と吉本隆明が書いている。(筑摩書房 戦後日本思想体系 ナショナリズム 解説)

10年後、新宿に集まった若者たちフォークゲリラたちが歌った歌との落差が、10年間の日本の大衆運動の深化を物語っている。新宿に集まった若者たちは、自ら作り出した手作りの歌を武器に自らの闘争を戦っていた。

このように、大衆運動と歌は切っても切れない。同時に、大衆運動で歌われる歌を見れば、当時の大衆の心理が垣間見える。

60年安保闘争の記録は、以下でどうぞ。
NHK放送史
https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030036_00000

(2)江戸~明治~大正時代の大衆運動と歌

🔶江戸(ええじゃないか騒動)

江戸時代にも大衆運動はあった。その大半は農村の「百姓一揆」とか都市部の「打ちこわし」という形を取り、広範な大衆運動的形態を取る事はなかった。

大衆運動的形態と歌が絡み合ったものは、幕末の「ええじゃないか騒動」に尽きる。百姓一揆や打ちこわしのように飢饉が原因ではなく、豊作なのに、その分け前がもらえないで取り残された使用人や若い衆が災厄払いの「勝手正月」と称して踊り狂った。金持ちたちの貪欲さに対する見事なしっぺ返しだった。これが東海道から全国に広がり、ついには幕府を倒す大きな要因になった。当時の世相(気分)と歌と踊りが合体した見事な大衆運動だった。

大会社はしこたま儲け、余剰金を積み立てているのに、非正規労働者や下請けなどはほとんどその恩恵に預からない。平成の世の労働者と瓜二つ。幕末の若者たちは、踊り狂い、歌い狂って、幕藩体制の屋台骨を揺さぶった。平成の若者たちは、ハロウィンで踊り狂うのだろうか。

🔶明治時代の大衆運動と歌

▼地租改正反対一揆
明治時代の大衆運動は、「地租改正反対一揆」に始まる。明治新政府が全国一律の税率(地価の3%)を制定。これが江戸時代より高い税率になることが知られ、全国的に地租改正反対一揆がおきる。特に伊勢暴動(いせぼうどう)は、三重県、愛知県、岐阜県,堺県まで広がった一大騒擾事件。逮捕され投獄された人数は、5万人を超えた。この騒動で地租は、地価の3%から地価の2.5%に下がる。(竹槍でどんと突き出す二分五厘)

▼不平士族の反乱 (佐賀の乱~西南戦争)
明治政府の廃藩置県(1871)と徴兵令(1873)により、ほとんどの武士は失業した。金禄公債証書によりいくばくかの失業手当が出たというものの、武士と言う身分が消滅した衝撃は大きかった。
不平士族の扱いをどうするか、は新政府の大きな政治課題にならざるを得なかった。

そんな中で沸き起こったのが、【征韓論】。西郷隆盛などの主張は、不平士族の不満解消のため(働く場所を与えるため)韓国を征伐すべし、という内政的事情に基づくものだった。大久保などの主張は、日本の近代化が先で、今戦争などする余裕はないと言う主張だった。この二つの主張がぶつかり合い、西郷たちの主張が敗れ、下野した。いわゆる【明治6年の政変】である。

かれら征韓論者は、一斉に下野し、それぞれの地方に帰った。この時、下野した征韓論者を中心として、いくつかの士族の反乱がおきた。佐賀の乱(江藤新平)、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱である。そして最後に起きたのが、西南戦争である。日本国内で起きた武力による最後の内乱事件。

▼自由民権運動
西南戦争で西郷が敗れたことにより、不平士族たちは、武力闘争から言論闘争へと舵を切った。いわゆる【自由民権運動】である。この自由民権運動は多くの抵抗歌を生み出し、日本の演歌の始まりとなった。少し、演歌の歴史を追ってみる。

★演歌のはじまり
◎書生節⇒明治初期、書生(現在で言う大学生)が歌った流行歌⇒「書生、書生と軽蔑するな、末は太政官のお役人」など。
※「よさこい・書生節」http://www.youtube.com/watch?v=nVKdr5KfN1I

◎書生節が政治・社会に対する批判を強め、街頭で歌われ始める。(1883/明16年ごろ)⇒自由民権運動と結びつきを深める。⇒歌を演説に変える⇒「壮士自由演歌」「壮士節」⇒演歌のはじまり。

川上音二郎 「オッペケペ節」が代表。日本のラップのはじまりとかヒップホップの始まりともいわれる。
日本最古の音源 川上音二郎一座
https://search.yahoo.co.jp/video/search?p=%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%9A%E3%82%B1%E3%83%9A%E3%83%BC%E7%AF%80&tid=2d05b3fa1e1b42aa98c6f8042e72c5d7&ei=UTF-8&rkf=2&dd=1

壮士節の代表曲 
◎ダイナマイト節
https://www.youtube.com/watch?v=AmegfQjtB8k&list=RD8TuMWzJd6RM&index=2
◎植木枝盛の「人権数え歌」
https://www.youtube.com/watch?v=sA_Ym-nx6_U&list=RD8TuMWzJd6RM&index=9

◎明治初期の流行歌 (梅ケ枝 裁量節 等)
http://www.youtube.com/watch?v=kusg349IcMg&list=RD8TuMWzJd6RM&index=11

しかし、明治20年代後半になると、新しく普及し始めた唱歌や軍歌に押され、衰退した。

◆西欧音楽の導入

“ざんぎり頭を叩いてみれば 文明開化の音がする”。明治新政府は、社会のあらゆる分野に西欧文明の導入を図った。音楽分野も例外ではなかった。

宮廷の雅楽家⇒国際儀礼のために洋楽を学ぶ。
陸海軍の軍楽隊⇒規律訓練や士気高揚のため、洋楽を導入
文部省⇒国民意識涵養のため、唱歌を積極的に教育。⇒洋楽の積極的導入

明治初年、日本に洋楽を導入したのは、キリスト教教会をのぞけば、全て国家機関。
⇒洋楽導入は、国策。
目的⇒江戸時代の民衆は、「藩意識」はあっても「国家意識」はなかった。明治新政府の狙いは、中央集権国家建設のため、国民意識を「藩意識」から「国家意識」へと転換させることにあった。洋楽導入は、その大きなツールの一つだった。

その一つの成果が、海軍軍楽隊と宮廷の雅楽家が協力して作った【君が代】である。明治新政府の近代化方針が具現化されたもので、成立当初より政治的性質を帯びていたのも無理はない。

◆唱歌

その中で最も成功したのが、【唱歌】であろう。国民意識醸成(日本人としてのアイデンティティ醸成)のための装置としての学校教育の中で、最も成功した学科が音楽であろう。小学唱歌は国民の意識の中に深く根ざし、国民が日本人として自分を意識できる共通の財産になった。

この唱歌は非常によくできており、行事・季節・テーマ別など多岐にわたっており、歌を通して日本人としての自覚や誇りを身につけるように工夫されている。

一例をあげよう。正月の歌を見てみよう。「春の海」「お正月」(もういくつねるとお正月)1900年。「1月1日」(年のはじめのためしとて)1894年。「雪」(雪やこんこん)「早春賦」(春はなのみの)その他「越天楽」「高砂」なども入っている。小さいときからこの種の歌を歌っていれば、正月はどう過ごすべきか、などと説教しなくても、自然と身に付く。

唱歌にはこの種の工夫が無数になされており、洋楽を通じた日本人としての「メンタリティ」や「アイデンティティ」を涵養するという狙いが見事に貫徹されている。

最初に紹介した60年安保闘争で安保条約が自然成立した時、国会を取り巻いた民衆の中から自然発生的に歌われたのが、「赤とんぼ」。小学唱歌である。この挿話一つでも、如何に小学唱歌が成功したか想像できる。

※唱歌の歴史 明治・大正・昭和
http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/shoka-history.html

◆軍歌

もう一つ忘れてならないのが軍歌。明治政府は、徴兵令を敷き、国民皆兵制度を創設した。軍隊こそ、「国民意識の涵養」が最も必要な組織。同時に、戦闘意欲を掻き立てなければならない組織。本当の意味での戦闘意欲は、恐怖支配だけでは生まれない。本人の心からの意欲が必要。天皇中心の「愛国心教育」を強化。その一助として「軍歌」は、重要な役割を果たした。

※明治時代の軍歌
軍歌で振り返る明治の日本 前篇 黒船来航~陸海軍省設立
https://www.nicovideo.jp/watch/sm24493043
日本陸軍分列行進 歩兵の本領
https://www.nicovideo.jp/watch/sm737645
戦友
https://www.nicovideo.jp/watch/sm24522381
橘中佐
https://www.nicovideo.jp/watch/sm24484685
広瀬中佐
https://www.nicovideo.jp/watch/sm18617678
出征兵士を送る歌
https://www.nicovideo.jp/watch/sm714942
軍艦マーチ
https://www.nicovideo.jp/watch/sm4413922
愛国行進曲
https://www.nicovideo.jp/watch/sm4413512
雪の進軍
https://www.youtube.com/watch?v=LWdPpq2lNZs
敵は幾万
https://www.youtube.com/watch?v=2fomHmRf2-A

この中で【戦友】だけは、ある種独特な地位を保っている。この歌は、戦場で倒れた戦友と突貫(突撃)命令を受けた自分の心の葛藤を主軸に描かれており、戦争や戦場の惨さを浮き彫りにしている。

戦友の(2番)        (3)番
思えばかなし 昨日まで    ああ 戦いの最中に 
真っ先かけて 突進し     隣に居りし わが友の
敵を散々懲らしたる      俄かに はたと倒れしを
勇士はここに眠れるか     我は思わず 駆け寄って

(4番)            (5)番
軍律厳しき中なれど       折から起こる 突貫に
これが見捨てて 置かりょうか  友はようよう顔上げて
「しっかりせよ」と抱き起し   「お国のためだ 構わずに遅れてくれな」
仮包帯も弾のなか        と目に涙

(6)番            (7)番
あとに心は残れども       戦いすんで  日が暮れて
残しちゃならない この身体   さがしに戻る 心では
それじゃいくよと 別れたが   どうぞ生きていてくれよ
永の別れと なったのか     ものなど言えと 思うたに

(8)番
虚しく冷えて魂は
国へ帰ったポケットに
時計ばかりがコチコチと
動いているのも情けなや

後に心は残れども/残しちゃならないこの身体/ と私情と兵隊としての自分との引き裂かれた心情を切々と歌っている。

ここで歌われている戦場は、おそらく203高地の地獄のような攻防戦が想定されている。日本陸軍の「突撃攻撃」の悪しき伝統は、203高地の攻防戦から始まった、というのが定説。大将乃木希典は、自分の子供もこの戦いで失っている。日本陸軍の精神主義のはじまりの戦いであろう。

どんなに精神主義を高揚しようと、突撃させられる兵士たちは生身の人間。どの戦場でも、隣に居りし わが友の/ 俄かにはたと倒れしを/ という実例は山ほどあった。その中で人が死ぬ事に慣れてしまった兵の精神の荒廃が、多くの戦場での蛮行につながっていることを忘れてはならない。

その意味で、【戦友】と言う曲は、戦場でも人間性を失わない兵士を描くことで、ある種の反戦歌的要素を漂わせてくれる稀有な「軍歌」と言わねばならない。

「護憲+BBS」「明日へのビタミン!ちょっといい映画・本・音楽・美術」より
流水
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