またショッキングな事件が起こりました。世間を震撼させた1997年の神戸連続児童殺傷事件、別名【酒鬼薔薇事件】事件を彷彿とさせる少女(16歳)による猟奇的殺人事件です。まだ、取り調べ中なので、正確な事は分からないが、事件の内容は、世間の耳目を集めるには充分すぎるものです。
多くの有識者と呼ばれる人たちが、様々な解説・解釈をしていますが、「群盲象をなでる」感は否めません。先入観や予見をできるだけ排除して、いままで明らかになった事実と少女の成育歴・環境などを手がかりにこの事件を眺めて見たいと思います。
まず、事件を時系列でみると、以下のようになります。
・7月中旬⇒容疑者と被害者の少女が合う約束を交わす
・7月26日
○15時頃、被害者が容疑者の家に遊びに行くと両親に告げ外出
○18時40分頃、被害者が母親に「19時頃に帰る」とメール
○20時~22時頃、事件発生
○23時頃、被害者の父親が警察に捜索願いを提出
・7月27日
○3時20分頃―警察官が容疑者のマンションで被害者の遺体発見
○6時10分頃―容疑者を殺人の疑いで逮捕
・7月28日
○容疑者を長崎地検佐世保支部に送検
【事件概要】
●26日20時 - 22時頃、被害者の後頭部を工具で複数回殴り、ヒモのようなもので首を絞めるなどして殺害したと容疑者が供述。死因は頸部圧迫による窒息死。
遺体は、頭と左手首が切断されていた。胴体部分にも刃物で切ったとみられる複数の傷があった。
【犯行前の詳細な流れ】
3月⇒ 女子生徒が寝ている父親を金属バットで殴打。⇒父親が精神科医に相談⇒医師から「同居が続けば命の危険がある」と告げられる。
4月⇒女子生徒の一人暮らしが始まる。
5月⇒父親再婚。
6月⇒精神科医が「このままでは人を殺しかねない」と児童相談所に電話。この間、詳細な時期は不明だが、学校側は女子生徒の一人暮らしをやめさせるよう父親に忠告。
7月⇒児童相談所に電話した精神科医は、7月に両親と3回、面談。
事件の数日前⇒女子生徒が父親と再婚したばかりの母親に「人を殺してみたい」などと話していた。
事件前日⇒父親とみられる人物から児童相談所に電話。「職員がいない」ため、電話を切った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
世間の人にショックを与えたのは、いわゆるバラバラ殺人を16歳のそれも少女が行った、という点です。遺体損壊と呼ばれるこの種の行為自体は珍しくはないのですが、少年・少女が行ったとなれば、事は別です。神戸の事件もそうでしたが、世間の人の常識の埒外になります。【一体全体どうなっているんだ】という思いに駆られるのは当然でしょう。
神戸児童殺傷事件の時にも、多くの人がそれぞれの立場からそれぞれの解釈をしていましたが、いまだストンと胸に落ちる解釈はありません。
今回の場合は、加害少女が学校の教師(担任)・スクールカウンセラー・精神科の医師・児童相談所などからかなりきめ細かいカウンセリングや指導を受けていた事が分かっています。それでも凶行は防げなかった事に事件の深刻さがあります。教師や担任の指導(佐世保は「命の大切さの教育」は、全国のどこよりも行われていた)・スクールカウンセラーのカウンセリング・精神科の医師のカウンセリングや治療も効果がなかったという事になります。
もし、「自分がこの少女の担任だとしたならば、一体何ができただろうか」と自問自答すると、絶望的な無力感に襲われます。なぜなら、この少女の心を突き動かしている衝動は、言葉に表現できない混沌としたものだと思えるからです。
小説が好きな人ならカミユの【異邦人】を思い出すかも知れません。主人公ムルソーが殺人を犯した動機を【太陽が眩しすぎたからだ】と嘯くのですが、この動機なき殺人を描いた作品は、世界中に衝撃を与えました。映画の好きな人は、アラン・ドロンが主演した【太陽がいっぱい】を思い出すかもしれません。わたしには、今回の事件は、かって小説や映画の世界で表現されたものが、現実に表現されたもののように思えるのです。心理学でいう一種のサイコパス的な犯罪にも見えます。
※サイコパス:サイコパスは社会の捕食者(プレデター)であり、極端な冷酷さ、無慈悲、エゴイズム、感情の欠如、結果至上主義が主な特徴で[2]、良心や他人に対する思いやりに全く欠けており、罪悪感も後悔の念もなく、社会の規範を犯し、人の期待を裏切り、自分勝手に欲しいものを取り、好きなように振る舞う。その大部分は殺人を犯す凶悪犯ではなく、身近にひそむ異常人格者である。北米には少なくとも200万人、ニューヨークだけでも10万人のサイコパスがいると、犯罪心理学者のロバート・D・ヘアは統計的に見積っている。
先天的な原因があるとされ殆どが男性である[3]。脳の働きを計測すると、共感性を司る部分の働きが弱い場合が多いという[3]
・・・・
ウイキペデイア http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%97%85%E8%B3%AA
この定義では、男性に多いとされていますが、この少女は男性的資質が多かったと推定されます。(男言葉を好んで使っていたという証言があります) しかし、 このような心理学的説明は、何となく理解できますが、殺人まで飛躍した少女の行動の説明としては、弱いような気がします。わたしには、「太陽が眩しかったからだ」というムルソーの説明の方が腑に落ちます。
メディアは、このような不可解な事件が起きた時、【心の闇】などと報道し、その異常性を了解不可能なものとして報道します。しかし、【心の闇】などは誰にでもあるものだという視点が決定的に欠落しています。この理由は、メディアの人間観が、固定観念になっているからです。【人間というものは、悪にでも善にでもなれるものだ】、という人間観が決定的に欠落しているのです。
【命の教育】とか【心の教育】などと言いますが、【人間は善でなくてはならない】という固定観念に縛られた教育では、決して効果など上がらないと思います。しかも、その【善】というものが、【世間の秩序を守れ】という発想が見え見えでは、なおさらです。だから、今回の少女のような行動が起きると、誰が悪いのだという犯人探しに走るのです。
メディアは、池波正太郎の小説が何故人気があるか、という事を考えた方が良いと思います。「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵は、人間心理の達人です。「人間って奴は、家族のために一生懸命に良い事をやりながら、その手で他人を平気で殺す、何ともおかしな生き物だ」などという台詞を吐きます。善と悪があざなえる縄のように交互に顔を出す。人間と言うものは、そういう矛盾した生き物だという事を池波正太郎は熟知していたのです。
これは中国戦線で行われた兵士たちの残虐行為にも表れています。兵士たちは、故郷に帰れば、よき父であり、良き息子だったのです。どんなに立派な父親であっても、中国大陸では目を覆わんばかりの蛮行をしたのです。わたしは、この兵たちを責める気はありません。人間と言う奴は、置かれた環境によってどうにでも変わるものだからです。責められるべきは、蛮行を何とも思わない環境をつくった日本軍のありようです。
今回の佐世保の事件、表面的に見れば、父親も母親も学校もカウンセラーも精神科医も児童相談所も打てる手は打っているように思えます。それぞれの人がそれぞれの場所でそれなりの努力をしていたように見えます。それでも、教育評論家尾木氏のように、批判する人から言えば、【殺人】だけは防げたのではないか、と言うでしょう。それも一理あります。
わたしの目から見ると、今回の事件で最大の教訓は、人間は、置かれた環境によって、【善】にも【悪】にもどちらにも転ぶ存在だという認識が、関係者に欠落していた点に求められると思います。人間はそれだけどうしようもない存在だし、それだけ愛おしい存在だという事でしょう。難しく言うと、カミユや池波正太郎のような形而上学的人間認識が欠落していたのではないかと思います。
今回の事件、加害少女の人間の死に対する興味のいびつさが目につきます。猫の解剖を繰り返した事を考えれば、彼女の【死】に対する関心が、きわめて乾いていたと考えられます。つまり、人間の死に対する興味が、肉体の死とは何か、という生物学的興味に収斂している点に注目すべきだと思います。彼女の思考傾向が、きわめて形而下的(科学的・合理的)思考に傾斜している点に注目しなければなりません。教育の現場から言うと、異常行動が目立つ、という事になります。心理学的に言うと「脳の働きを計測すると、共感性を司る部分の働きが弱い場合が多い」と言う事になるのでしょうが、それでは何の解決にもなりません。
わたしは人間の心を、半円上にある針で説明していました。その針は、通常半円の真ん中にあります。真ん中の針の右が善、左が悪としますと、その針はそれこそ一分一秒で右・左に揺れ動きます。ほめられると右に動き、叱られると左に動きます。つまり、真ん中を中心にして右に左に微妙に揺れ動くのが人の心というものです。その動きを自分自身で読み取り、制御できるようになるという事が、大人になるという事なのでしょう。ところが、人と言うものの不可解なところは、右にも左にも極端に振れる事があるのです。右=善なのだから、右に振れるのは良いのではないか、と思われるかもしれませんが、そうではないのです。善に固執するあまり、そこでしか人を見る事(評価)ができなくなると、他者から見ると、きわめて息苦しい人間しか出来上がりません。
この傾向は現在の会社の社員評価・人事評価に典型的に表れています。仕事ができる、効率性を極限まで追求するという価値(善)に振りきれた人間は、人間社会に必要なもろもろの価値を排除する傾向が顕著になります。こういう上司と仕事しなければならない部下は、毎日がしんどいはずです。上司の価値観に合わせなければ生きていけないからです。歴史上でいえば、信長のような上司を持った明智光秀の悲劇です。彼の謀反を起こすまでの屈折した心情は、同情に値します。
それとは逆に左に振りきれる人間もいます。とにかく、自分を縛るものが大嫌い。少しでも自分の行動を縛るものには、徹底的に反抗します。このタイプの人間は、どうしても他人や社会の【秩序】とぶつかります。腕力が強ければ、暴力的になるでしょうし、弱ければ、内部に屈折し、澱のように溜まった他人や社会への恨み憎しみは、いつの日か外へ向かって噴出せざるを得ません。
こう見ると、右でも左でもどちらかに振りきれた人間は、普通の感性の人間にとっては、きわめて迷惑な存在です。この二つのタイプの人間は、円を描いて一致しているとも言えます。どちらも、バランスが取れていないのです。
ところが、コンピューターが浸透するにつれ、正解以外は、すべて駄目な社会が到来しました。つまり、右でも左でも振り切れなければ、駄目な社会が到来したのです。これが現代と言う社会の息苦しさの大きな要因だと思います。
おそらく、今回の加害少女の感性は、右にも左にも振り切れるタイプだったと思います。彼女はスポーツ(スケート選手)も勉強も素晴らしく才能があったといわれています。両親もエリート、兄も弁護士というエリート。人も羨む環境で育っています。それがどうしてと言う事なのですが、この説明は難しい。
ただ、言える事は、彼女は心の針が右に振り切れやすい環境にあった、と言えます。東大を目指すという目標を公言できるくらい勉強もできたのでしょう。スケートでも県代表になれるくらいの運動能力もあった。父親は弁護士、母親は東大卒で地元では有名な人物。つまり、彼女がやる事を制御できる環境が希薄だったと言えます。
おそらく、小学校の時、友人の給食に異物を混入させた時が彼女のバランスを取り戻す大きなチャンスだったと思います。その時、彼女自身と家族が、自分自身に正面から向き合っていたら、今回の悲劇は何とか避けられていたと思います。
この時彼女と関わった人たちがどのような子供観を持っていたかが知りませんが、もし【子供は未熟なのだから、教化し、指導しなければならない】という子供観にとらわれていたならば、その失敗は明らかだと思います。私自身は、【どんなに奇怪な考えであっても、どんなに未熟であっても、子供は子供なりに完結している】という子供観で接していました。どんなに辛くても、逃げずに自分自身と正面から向き合い、自分自身で変わらなければ、真の変容など望むべくもありません。どんなに可哀そうであっても、どんなに辛くても、どんなに世間体が悪くても、子供が真正面から自分自身と向き合える環境を整えるのが、親や学校やカウンセラーなど大人の責務です。それ以外、大人たちに出来る事はありません。変容するのは、子供自身で行わなければ、何の意味もありません。
もう一つ彼女について言える事は、形而下的思考(猫の解剖など科学的思考)に極端に傾斜する傾向が強いという事です。と言う事は、【人間とは何か】とか【愛するとは何か】と言うような形而上的思考を極端に排除している事になります。この萌芽は小学校・中学校時代から見えています。形而下的思考と形而上的思考の極端なバランスの無さ、(崩壊と言っても良い)が、彼女を今回のような凶行に走らせた原因ではないかと考えられます。
「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
流水
多くの有識者と呼ばれる人たちが、様々な解説・解釈をしていますが、「群盲象をなでる」感は否めません。先入観や予見をできるだけ排除して、いままで明らかになった事実と少女の成育歴・環境などを手がかりにこの事件を眺めて見たいと思います。
まず、事件を時系列でみると、以下のようになります。
・7月中旬⇒容疑者と被害者の少女が合う約束を交わす
・7月26日
○15時頃、被害者が容疑者の家に遊びに行くと両親に告げ外出
○18時40分頃、被害者が母親に「19時頃に帰る」とメール
○20時~22時頃、事件発生
○23時頃、被害者の父親が警察に捜索願いを提出
・7月27日
○3時20分頃―警察官が容疑者のマンションで被害者の遺体発見
○6時10分頃―容疑者を殺人の疑いで逮捕
・7月28日
○容疑者を長崎地検佐世保支部に送検
【事件概要】
●26日20時 - 22時頃、被害者の後頭部を工具で複数回殴り、ヒモのようなもので首を絞めるなどして殺害したと容疑者が供述。死因は頸部圧迫による窒息死。
遺体は、頭と左手首が切断されていた。胴体部分にも刃物で切ったとみられる複数の傷があった。
【犯行前の詳細な流れ】
3月⇒ 女子生徒が寝ている父親を金属バットで殴打。⇒父親が精神科医に相談⇒医師から「同居が続けば命の危険がある」と告げられる。
4月⇒女子生徒の一人暮らしが始まる。
5月⇒父親再婚。
6月⇒精神科医が「このままでは人を殺しかねない」と児童相談所に電話。この間、詳細な時期は不明だが、学校側は女子生徒の一人暮らしをやめさせるよう父親に忠告。
7月⇒児童相談所に電話した精神科医は、7月に両親と3回、面談。
事件の数日前⇒女子生徒が父親と再婚したばかりの母親に「人を殺してみたい」などと話していた。
事件前日⇒父親とみられる人物から児童相談所に電話。「職員がいない」ため、電話を切った。
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世間の人にショックを与えたのは、いわゆるバラバラ殺人を16歳のそれも少女が行った、という点です。遺体損壊と呼ばれるこの種の行為自体は珍しくはないのですが、少年・少女が行ったとなれば、事は別です。神戸の事件もそうでしたが、世間の人の常識の埒外になります。【一体全体どうなっているんだ】という思いに駆られるのは当然でしょう。
神戸児童殺傷事件の時にも、多くの人がそれぞれの立場からそれぞれの解釈をしていましたが、いまだストンと胸に落ちる解釈はありません。
今回の場合は、加害少女が学校の教師(担任)・スクールカウンセラー・精神科の医師・児童相談所などからかなりきめ細かいカウンセリングや指導を受けていた事が分かっています。それでも凶行は防げなかった事に事件の深刻さがあります。教師や担任の指導(佐世保は「命の大切さの教育」は、全国のどこよりも行われていた)・スクールカウンセラーのカウンセリング・精神科の医師のカウンセリングや治療も効果がなかったという事になります。
もし、「自分がこの少女の担任だとしたならば、一体何ができただろうか」と自問自答すると、絶望的な無力感に襲われます。なぜなら、この少女の心を突き動かしている衝動は、言葉に表現できない混沌としたものだと思えるからです。
小説が好きな人ならカミユの【異邦人】を思い出すかも知れません。主人公ムルソーが殺人を犯した動機を【太陽が眩しすぎたからだ】と嘯くのですが、この動機なき殺人を描いた作品は、世界中に衝撃を与えました。映画の好きな人は、アラン・ドロンが主演した【太陽がいっぱい】を思い出すかもしれません。わたしには、今回の事件は、かって小説や映画の世界で表現されたものが、現実に表現されたもののように思えるのです。心理学でいう一種のサイコパス的な犯罪にも見えます。
※サイコパス:サイコパスは社会の捕食者(プレデター)であり、極端な冷酷さ、無慈悲、エゴイズム、感情の欠如、結果至上主義が主な特徴で[2]、良心や他人に対する思いやりに全く欠けており、罪悪感も後悔の念もなく、社会の規範を犯し、人の期待を裏切り、自分勝手に欲しいものを取り、好きなように振る舞う。その大部分は殺人を犯す凶悪犯ではなく、身近にひそむ異常人格者である。北米には少なくとも200万人、ニューヨークだけでも10万人のサイコパスがいると、犯罪心理学者のロバート・D・ヘアは統計的に見積っている。
先天的な原因があるとされ殆どが男性である[3]。脳の働きを計測すると、共感性を司る部分の働きが弱い場合が多いという[3]
・・・・
ウイキペデイア http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%97%85%E8%B3%AA
この定義では、男性に多いとされていますが、この少女は男性的資質が多かったと推定されます。(男言葉を好んで使っていたという証言があります) しかし、 このような心理学的説明は、何となく理解できますが、殺人まで飛躍した少女の行動の説明としては、弱いような気がします。わたしには、「太陽が眩しかったからだ」というムルソーの説明の方が腑に落ちます。
メディアは、このような不可解な事件が起きた時、【心の闇】などと報道し、その異常性を了解不可能なものとして報道します。しかし、【心の闇】などは誰にでもあるものだという視点が決定的に欠落しています。この理由は、メディアの人間観が、固定観念になっているからです。【人間というものは、悪にでも善にでもなれるものだ】、という人間観が決定的に欠落しているのです。
【命の教育】とか【心の教育】などと言いますが、【人間は善でなくてはならない】という固定観念に縛られた教育では、決して効果など上がらないと思います。しかも、その【善】というものが、【世間の秩序を守れ】という発想が見え見えでは、なおさらです。だから、今回の少女のような行動が起きると、誰が悪いのだという犯人探しに走るのです。
メディアは、池波正太郎の小説が何故人気があるか、という事を考えた方が良いと思います。「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵は、人間心理の達人です。「人間って奴は、家族のために一生懸命に良い事をやりながら、その手で他人を平気で殺す、何ともおかしな生き物だ」などという台詞を吐きます。善と悪があざなえる縄のように交互に顔を出す。人間と言うものは、そういう矛盾した生き物だという事を池波正太郎は熟知していたのです。
これは中国戦線で行われた兵士たちの残虐行為にも表れています。兵士たちは、故郷に帰れば、よき父であり、良き息子だったのです。どんなに立派な父親であっても、中国大陸では目を覆わんばかりの蛮行をしたのです。わたしは、この兵たちを責める気はありません。人間と言う奴は、置かれた環境によってどうにでも変わるものだからです。責められるべきは、蛮行を何とも思わない環境をつくった日本軍のありようです。
今回の佐世保の事件、表面的に見れば、父親も母親も学校もカウンセラーも精神科医も児童相談所も打てる手は打っているように思えます。それぞれの人がそれぞれの場所でそれなりの努力をしていたように見えます。それでも、教育評論家尾木氏のように、批判する人から言えば、【殺人】だけは防げたのではないか、と言うでしょう。それも一理あります。
わたしの目から見ると、今回の事件で最大の教訓は、人間は、置かれた環境によって、【善】にも【悪】にもどちらにも転ぶ存在だという認識が、関係者に欠落していた点に求められると思います。人間はそれだけどうしようもない存在だし、それだけ愛おしい存在だという事でしょう。難しく言うと、カミユや池波正太郎のような形而上学的人間認識が欠落していたのではないかと思います。
今回の事件、加害少女の人間の死に対する興味のいびつさが目につきます。猫の解剖を繰り返した事を考えれば、彼女の【死】に対する関心が、きわめて乾いていたと考えられます。つまり、人間の死に対する興味が、肉体の死とは何か、という生物学的興味に収斂している点に注目すべきだと思います。彼女の思考傾向が、きわめて形而下的(科学的・合理的)思考に傾斜している点に注目しなければなりません。教育の現場から言うと、異常行動が目立つ、という事になります。心理学的に言うと「脳の働きを計測すると、共感性を司る部分の働きが弱い場合が多い」と言う事になるのでしょうが、それでは何の解決にもなりません。
わたしは人間の心を、半円上にある針で説明していました。その針は、通常半円の真ん中にあります。真ん中の針の右が善、左が悪としますと、その針はそれこそ一分一秒で右・左に揺れ動きます。ほめられると右に動き、叱られると左に動きます。つまり、真ん中を中心にして右に左に微妙に揺れ動くのが人の心というものです。その動きを自分自身で読み取り、制御できるようになるという事が、大人になるという事なのでしょう。ところが、人と言うものの不可解なところは、右にも左にも極端に振れる事があるのです。右=善なのだから、右に振れるのは良いのではないか、と思われるかもしれませんが、そうではないのです。善に固執するあまり、そこでしか人を見る事(評価)ができなくなると、他者から見ると、きわめて息苦しい人間しか出来上がりません。
この傾向は現在の会社の社員評価・人事評価に典型的に表れています。仕事ができる、効率性を極限まで追求するという価値(善)に振りきれた人間は、人間社会に必要なもろもろの価値を排除する傾向が顕著になります。こういう上司と仕事しなければならない部下は、毎日がしんどいはずです。上司の価値観に合わせなければ生きていけないからです。歴史上でいえば、信長のような上司を持った明智光秀の悲劇です。彼の謀反を起こすまでの屈折した心情は、同情に値します。
それとは逆に左に振りきれる人間もいます。とにかく、自分を縛るものが大嫌い。少しでも自分の行動を縛るものには、徹底的に反抗します。このタイプの人間は、どうしても他人や社会の【秩序】とぶつかります。腕力が強ければ、暴力的になるでしょうし、弱ければ、内部に屈折し、澱のように溜まった他人や社会への恨み憎しみは、いつの日か外へ向かって噴出せざるを得ません。
こう見ると、右でも左でもどちらかに振りきれた人間は、普通の感性の人間にとっては、きわめて迷惑な存在です。この二つのタイプの人間は、円を描いて一致しているとも言えます。どちらも、バランスが取れていないのです。
ところが、コンピューターが浸透するにつれ、正解以外は、すべて駄目な社会が到来しました。つまり、右でも左でも振り切れなければ、駄目な社会が到来したのです。これが現代と言う社会の息苦しさの大きな要因だと思います。
おそらく、今回の加害少女の感性は、右にも左にも振り切れるタイプだったと思います。彼女はスポーツ(スケート選手)も勉強も素晴らしく才能があったといわれています。両親もエリート、兄も弁護士というエリート。人も羨む環境で育っています。それがどうしてと言う事なのですが、この説明は難しい。
ただ、言える事は、彼女は心の針が右に振り切れやすい環境にあった、と言えます。東大を目指すという目標を公言できるくらい勉強もできたのでしょう。スケートでも県代表になれるくらいの運動能力もあった。父親は弁護士、母親は東大卒で地元では有名な人物。つまり、彼女がやる事を制御できる環境が希薄だったと言えます。
おそらく、小学校の時、友人の給食に異物を混入させた時が彼女のバランスを取り戻す大きなチャンスだったと思います。その時、彼女自身と家族が、自分自身に正面から向き合っていたら、今回の悲劇は何とか避けられていたと思います。
この時彼女と関わった人たちがどのような子供観を持っていたかが知りませんが、もし【子供は未熟なのだから、教化し、指導しなければならない】という子供観にとらわれていたならば、その失敗は明らかだと思います。私自身は、【どんなに奇怪な考えであっても、どんなに未熟であっても、子供は子供なりに完結している】という子供観で接していました。どんなに辛くても、逃げずに自分自身と正面から向き合い、自分自身で変わらなければ、真の変容など望むべくもありません。どんなに可哀そうであっても、どんなに辛くても、どんなに世間体が悪くても、子供が真正面から自分自身と向き合える環境を整えるのが、親や学校やカウンセラーなど大人の責務です。それ以外、大人たちに出来る事はありません。変容するのは、子供自身で行わなければ、何の意味もありません。
もう一つ彼女について言える事は、形而下的思考(猫の解剖など科学的思考)に極端に傾斜する傾向が強いという事です。と言う事は、【人間とは何か】とか【愛するとは何か】と言うような形而上的思考を極端に排除している事になります。この萌芽は小学校・中学校時代から見えています。形而下的思考と形而上的思考の極端なバランスの無さ、(崩壊と言っても良い)が、彼女を今回のような凶行に走らせた原因ではないかと考えられます。
「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
流水
「イスラエル国こそがアメリカ鬼畜政府と日本鬼畜政府を使役してこの世の宝こどもたちを鏖殺(ころ)している戦争犯罪偏執狂悪魔の王国である」
魂を奪う契約の悪魔の常套手段が「偽善と裏切り」です。これで人間の魂をかき乱してその混乱に乗じて善を捨てさせ悪業に手を染めさせて悪魔の手下にしてその魂を奪うのです。
悪魔王イスラエルに忠誠を誓ったアメリカ政府と日本政府のいかなる偽善も戦争犯罪偏執狂イスラエル悪魔の命令であることを忘れてはなりません。
すべての国々は自国のイスラエル大使館を閉鎖解体し国連総会を開いてイスラエルUSA日本の3国を除く絶対多数でイスラエル国を国連永久敵国指定決議してから、鬼畜日本政府や鬼畜アメリカ政府の偽善を受け入れるかどうか斟酌すればよろしい。悪魔王国イスラエル国連敵国指定によって鬼畜の偽善が無毒化されていれば受け入れてもよい。
いかに飢餓や渇きに苦しもうとも善なる行いから離れないためには、戦争犯罪偏執狂悪魔が健在なうちに悪魔の手下鬼畜外道が差し出す偽善の蜜、盗泉の水を決して飲んではいけません。
よってプーチンロシア大統領の鬼畜政府日本国訪日はイスラエル悪魔王国を国連で敵国指定決議してからのほうがよい。その後であっても日本国内には一水会のごとき悪魔王イスラエルの手下鬼畜政治団体が残っているから、プーチン大統領が来日すれば明治日清戦争のときの大津の警察官によるロシア皇太子襲撃事件のごとくロシア大統領に対して日本国内移動中に要人暗殺テロを仕掛けてくる危険性が高い。報復の連鎖による日露戦争勃発すれば悪魔イスラエルの望むところとなります。
よって、日本国内のイスラエル大使館解体撤去が済んで悪魔イスラエルが日本国内で外交官特権治外法権をすべて失ってから後に、プーチンロシア大統領は粛々と訪日すればよろしいのである。鬼畜安倍政権政府がある間は訪日してはならない。訪日するだけでさえ悪魔イスラエルの偽善を手助けして悪魔を地上で延命させることになるから。
「イスラエル国こそがアメリカ鬼畜政府と日本鬼畜政府を使役してこの世の宝こどもたちを鏖殺(ころ)している戦争犯罪偏執狂悪魔の王国である」
つまりウクライナでポロシェンコに武器弾薬を渡して戦争を起こしプーチン大統領搭乗機を撃墜暗殺しようとしたのも戦争犯罪偏執狂ユダヤフリーメーソン悪魔王国イスラエルのモサド指揮下CIAジャッカル混成の他国内無法テロ工作部隊であるということです。
日本政府も現在政府全体が戦争犯罪偏執狂ユダヤフリーメーソン悪魔王国イスラエルの絶対専制指揮下にある鬼畜棄民国家だから、イスラエル国大使館が日本国内にある限りウクライナ鬼畜政府テロリストと同等のイスラエル鬼畜テロリストが日本国内でプーチンロシア大統領暗殺テロを実行する危険が最大です。
戦争犯罪偏執狂死の商人ユダヤフリーメーソン悪魔王にとっては、戦争さえ起こせれば人間の生き血を吸って生き永らえることができるので、それがたとえ日中戦争や日朝戦争でなく日露戦争であってもぜんぜん問題がありません。
ゆえに、プーチンロシア大統領訪日は、国連でイスラエルを永久敵国指定し、世界中でイスラエル大使館を撤去解体してから後に予定延期するべきです。それまではいかに日本政府が甘い言葉で熱心に訪日を要請しようとも決して訪日を承諾するべきではありません。テロリスト相手にはいかなる交渉も断固拒否する。これが『テロとの戦い』における金剛則鉄則なのですから。
「☆STAP論文指導理研の笹井氏が自殺☆ニュースはイスラエルモサドの日本国内スピン報道」
これはイスラエルモサド諜報部員の仕業ですね。自殺偽装の手口がアメリカ国内と全く同じです。アメリカのTVドラマWiredで見ました。
世田谷一家四人惨殺事件や松本サリン事件など犯人が官憲の目をかいぐくって逃走し迷宮入りしてしまうテロ事件はすべて治外法権の外国大使館が手引きしています。日本ではGHQが去った後すべての迷宮入りテロ事件の犯人はイスラエル大使館へ逃げ込んで海外脱出を果たしました。創価殺人部隊の犯人も捕まっていない者はすべてイスラエル大使館の治外法権によって無事に海外脱出し官権の追及を逃れ続けています。犯人であるという証拠がイスラエル大使館モサドによってもみ消されて存在しないから、素知らぬ顔でまた日本国内に再潜入して悪魔王国イスラエルの草として日本国内で暮らしているのでしょう。
そしてイスラエル国営鬼畜放送局NHK&電通がこういうセンセーショナルな事件報道や台風災害報道(スピン放送)を行うときは必ず報道の表に出したくない即ちイスラエル戦争犯罪偏執狂悪魔王国がテレビ中毒に仕立てた日本国民TV視聴者に絶対知られたくない国内戦争犯罪ニュースがあります。それが下記に示したこれ●ですね。↓
「イスラエル国こそがアメリカ鬼畜政府と日本鬼畜政府を使役してこの世の宝こどもたちを鏖殺(ころ)している戦争犯罪偏執狂悪魔の王国である」
『イスラエル国営鬼畜外道放送局NHK解体投獄』
>マスコミは国民を騙すためにある(ふじふじさん)
受信料詐欺だけでも毎年3~4兆円をイスラエルへ裏送金してガザのこどもを殺しながらテレビ放送で莫大な電力を浪費して原油輸入価格を押し上げてカラー放送で日本人のこどもを脳傷害して殺し続けているNHKを廃局解体投獄することが必要十分条件です。
1.B-CASカード破棄してすべての個人受信契約解約
2.官公庁にテレビ設置購入費受信料電気料を公金不正流用している公務員汚職刑事犯罪を憲法99条違反内乱罪で厳しく断罪して全テレビ廃棄
3.渋谷区本社社屋に韓国国営放送と同居している外患罪を現行犯断罪
●日本の悪魔王イスラエル国営鬼畜テレビが絶対に報道しない日本国内戦争犯罪ニュース●
http://www.youtube.com/watch?v=y57TymwYADk&app=desktop
衝撃的すぎて、被害者の女子高生があまりに可哀想すぎて、加害者の女子高生がせめて反省し、後悔するくらいまで心が変化するよう祈るばかりです。