老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

現憲法の基本理念(国民主権、平和、人権)の視点で「世直し」を志す「護憲+」メンバーのメッセージ

日本沈没(2)

2020-03-24 16:38:55 | 安倍内閣
🔷森友文書改竄事件に見る政治家・官僚たちの絶望的な倫理の崩壊!

笹井さんが紹介されていた週刊文春の記事が大きな反響を呼んでいる。
https://bunshun.jp/articles/-/36667?utm_source=twitter.com&utm_medium=social&u

この事件で自死された赤木氏は倉敷市の出身。赤木と言う苗字は、岡山県北部に多くある名字で、わたしの故郷にも多くある。実は、わたしの母方の姓も赤木。赤木俊夫氏の死が伝えられた当時より、わたしは注目していた。

わたしは、彼の遺書を読んで体が震えた。これは、「自死」ではない。これは【憤死】である。

口を開けば、「伝統的日本人像」だの、「武士道」だのとのたまう奴に限って、武士道が何なのか、全く分かっていない。

【葉隠れ】という武士道の本がある。佐賀鍋島藩の山本常朝が書いた本なのだが、ある種尋常ではない武士の生き方を書いている。

(1)主君に【奉公】すると言う事は、日常的に【死】を覚悟しなければならない。主君から命を受けたら、自らの存在を捨ててでも、その命を行わなければならない。主君が間違った行為を行った場合、もしくは、行おうとした場合、自分の命を省みることなく、「諫言」を行う。「諫言」が聞き入れられる、聞き入れられないにかかわらず、自らの命を捨てる事を厭わない。

山本常朝は、建前としての「武士の生き方」を極端化した形で描いている。
例えば、
★「武士道とは死ぬことと見つけたり」と書くが、現実の武士たちは「命あってのものだね」と考えている。つまらない事で死んでたまるか、と考えている。
★「君、君足らずとも、臣、臣たるべし」⇒朱子学的武士道
⇒この思想は、「君主」の絶対化につながり、独裁思想の容認につながっている。孔子以来の伝統的儒学の教える君主としての「帝王学」の縛りがなくなっている。
この思想が、以降の日本の為政者を小粒にしてしまった。

(2)日常的にいうならば、たとえば路上での喧嘩に巻き込まれた場合、躊躇なくその喧嘩を行わなければならない。その結果云々を考える必要はない。常に命を捨て去る覚悟があれば、躊躇などするはずがない。その日、その時間を懸命に生きろ!命を惜しんでいては、そういう生き方はできない。

(3)だから、武士の鍛錬とは、【死】を恐れない生き方そのものを鍛錬する事。

(1)に書いたように、江戸の昔より、官僚にとって【諫言】という行為は、自らの存在そのものを賭けなければできなかった。江戸だけでなく、明治以降も、上司に「諫言」をした結果、どれだけ多くの官僚がその後の人生を誤ったか、枚挙に暇がない。

常朝の時代、主君が【絶対的存在】として存在した。【絶対的存在】であると言う事は、その下で「どう生きるか」を考えなければならない。【葉隠れ】はその一つの典型。

だから、江戸期以降の「帝王学」は、「絶対的存在」としての君主を如何に生きるか、が最大の課題になる。真剣に考えれば考えるほど「君主」として生き切る事の難しさが分かってくる。その中でも、自分の「家臣」をどう御するかは、君主の器量を図る最大のメルクマール。【聞く耳を持つ】君主になる事の難しさは、各藩の藩史が物語っている。

結局、凡庸な藩主にとって、一番無難な藩政運営は、藩政(実務)の大半を家臣に任せて、家臣の担ぐ神輿に上手に乗る事、という結論に行き着く。いわゆる【官僚政治】である。

山本常朝の描くような【武士道】など、大半の人間にとっては耐えられない。となると、上記のような【事なかれ主義】の生き方に流れていくのも人情だろう。

江戸期以降、日本の政治の大半は、このような「官僚政治」で行われてきた。多くの人は、明治維新期、江戸幕府の官僚政治は終焉したと考えているだろうが、そうではなくて、明治創成期の政治の大半を担ったのは幕府官僚だった事を忘れてはならない。彼らのDNAは、近代日本にも脈々と受け継がれてきたのだ。

今回、財務省理財局が、近畿財務局に森友問題の書き換えを命じたのだが、理由は明々白々。安倍首相夫妻(トップ)の非違行為(犯罪行為に近い)を隠蔽するため。その為に、佐川理財局長が先頭に立って、近畿財務局を使って、書類の改竄行為を行わせた。

本来なら、このような理不尽な要求(書類改竄)に対して、身を挺して「諫言」するのが官僚のトップの役割。それをしないで、部下に丸投げする。上司としてあるまじき振る舞い。そして、最後には、ノンキャリアの赤木氏に責任を押し付ける。彼らに、自らの生き方に対する【恥】の感覚はないのか。

日本語には素晴らしい言葉がある。

【廉恥】 ・・・いさぎよく恥を知る心が強いこと。性行がいさぎよく、節義を重んずること。
逆の言葉が「破廉恥」。

彼らに自覚があるかどうかは知らないが、佐川氏はじめ財務省幹部連中の所業を、通常は、【破廉恥】と呼ぶ。

それに対して、「廉恥」の人赤木俊夫氏は、その一部始終を詳細に文書に残し、【憤死】した。

それに対し、安倍晋三や麻生太郎のような2世・3世の政治家連中は、自らを江戸時代の【君主】のつもりでいる。麻生太郎の偉そうな口の利き方を見れば、彼の心の内が透けて見える。

もし、祖父吉田茂の側近白洲次郎が生きていれば、大声で叱り上げたに違いない。「もっと、おのれを磨けと!」

安倍や麻生たちは、「君、君足らずとも 臣は臣たれ!」を当然と思っている。他者は自分に奉仕するのが当然と思っている。「俺たちは身分が違うのだ!」と。彼らの脳内は、江戸時代の「無能な君主」そのものだと思わざるを得ない。

21世紀の時代に、江戸時代の感性そのままの『暗君』『暴君』を指導者として頂かざるを得ない日本に未来はない。

ここでも日本沈没の予感がする。

「護憲+BBS」「政権ウォッチング」より
流水
コメント
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