鹿鳴館の果たした役割については、様々な評価があるでしょうが、鹿鳴館を彩った女性たちが、差別的視点でみられていた存在だったからこそ、世間の常識を打ち破って活躍できたという側面は見落としてはならないと思います。それを見抜いた明治の高官たちの新しさは、江戸幕府の高官たちをはるかに上回っていた、と思います。その新しさが、明治時代の最大の外交課題だった【不平等条約】改正を最後に実現できた大きな要因だったと思います。
実例をあげます。鹿鳴館外交を提唱した外務大臣井上馨(旧姓井上聞多)は、幕末英国に留学しています。映画になった長州ファイブの代表格です。同行した残りの4人が伊藤博文(旧姓伊藤俊輔)遠藤勤助、山尾庸三、井上勝(旧姓野村弥吉)です。彼らは、ロンドン大学に留学し、ほとんどが理系を専攻しています。ところが、彼らの留学時、長州藩は攘夷決行と称して、外国船を攻撃していました。その報復として、4ケ国艦隊の長州攻撃が始まろうとしていました。この事を聞いた井上馨と伊藤博文は急遽帰国。何とか長州藩攻撃を避けようと英国大使と交渉しています。藩の中での地位も低く、何の役職も持たないただの藩士だったにもかかわらずです。その時、オルコックを説得した論理が見事でした。
「西欧と日本を比べると文明において大人と子供の違いがあります。日本のような子供に本気で喧嘩を仕掛けるなど、大人のやる事ではありません」
これを受けたオルコックも人を見る目があったのでしょう。長州攻撃の延期を受け入れます。
しかし、彼らは、攘夷決行にはやる藩内の大勢に抗しきれず、通称【馬関戦争】がはじまります。当然、武器に劣る長州藩は大敗。講和会議が始まります。長州藩の全権大使は高杉晋作。通訳として、伊藤博文、井上馨が出ました。普通なら莫大な金額の賠償金を請求されて当然でしたが、高杉などは幕府の外国船打払令を忠実に実行しただけとして幕府に責任を押しつけました。その時英国に残った遠藤・山尾・井上(野村)たちは、英国の外務省と交渉。長州藩らの新しい勢力が権力を握れば、英国との貿易が自由などと説得。本国から下関戦争を終わらせるように日本大使オールコックに訓令を出させるよう努力しています。
明治維新になってから、伊藤博文は総理大臣、井上馨は外務大臣。遠藤勤助は造幣局に勤務、外国人任せだった造幣を全て日本人の手で行うようにしました。山尾庸三は、後の東大工学部の前身である工学院を設立、同時に日本で最初の聾啞教育を始めました。野村弥吉(改名して井上勝)は、日本最初の鉄道(新橋~横浜)をつくり、鉄道の父と称されました。それまで6時間、7時間かかった新橋~横浜間を1時間でつないだのです。彼は、江戸時代の日本に流れていた時間・空間意識を劇的に変えて見せました。文明開化、欧化主義とは、このような時間・空間意識の変化というものも包含されている事を忘れてはなりません。この変化こそが、明治の人々の意識を変えたのです。
日露戦争までの日本の支配層には、このように、旧来の常識を打破する識見と行動力がありました。偏見・タブーを打ち破る自由な視点がありました。【坂の上の雲】で有名になった秋山兄弟もつまらない規則やタブーを屁とも思わない自由闊達さがありました。たとえそれが司馬遼太郎の言うような見果てぬ「坂の上の雲」だとしても、明治初期の政府高官には、その雲をつかむための使命感がありました。その雲をつかむために必要ならば、世間の偏見・タブーに立ち向かい、どんなに理解されがたい行動も辞さない勇気がありました。同時に、日本と言う新しく生まれた「国家」に対する誇りも持っていました。
その理由は、井上馨や伊藤博文らの留学経験にあった事は間違いありません。留学当時の彼らは、長州藩という狭い藩閥意識のくびきの中で生きていました。しかし、留学すれば否応なしに【日本】【日本人】と言う事を意識せざるを得ません。国や国家のありようが、外国から見た日本を決定する、という現実を厭と言うほど経験したのです。彼らの主導した【欧化主義】や【殖産興業】、【近代的国家構築】などには、外国から見た日本と言う視点が痛いほど感じられます。
鹿鳴館外交にしても、ただただ外国流儀を取り入れる「奴隷根性」ではなかったのです。そのような明治政府高官の願いを具体的に社交の場で体現したのが、芸者上りの女性たちでした。
陸奥亮子のように、外国流儀を自家薬籠中のものにして、ワシントン外交界の華と謳われるまでになったのです。国としての誇りを失わず、外国流儀を身につける。まさに明治政府の理念そのものでした。言葉の本当の意味でのグローバリズムではなかったかと思います。これができたのは彼女たちの聡明さもあったでしょうが、何より彼女たちが【芸妓】として生き、自立した女性としての精神をもっていたからだと思います。
閑話休題
先日、冬季オリンピックが行われました。NHKはじめ各マスコミは、オリンピック以外に報道することがないかのようにオリンピック一色。やれ金メダル、やれ銀メダルなどと狂奔し、感動を強制するメディアの姿に眉をひそめた方も多いと思います。多額の放映権料を払っているため、関東一円の雪害で大打撃を受けた地域の報道をネグレクトし、オリンピックの映像を延々と見せられるのでしょう。ここにもまたお金【産業的なもの】に過剰に縛られた現在のメディアの象徴的な姿が現れています。
このようなオリンピック報道ですが、一人だけわたしの関心を引いた選手がいます。スノーボードパラレル大回転で銀メダルをとった竹内智香選手です。彼女はスノーボードで三回目のオリンピック出場です。スノーボード競技での日本のレベルの低さを実感し、自ら単身でスイス(この競技で最も強い)ナショナルチームでの競技練習に参加させてほしいと売り込みました。当然、他国の選手の強化にスイスチームがおいそれと助力するはずもありません。それでも彼女は粘り強く懇願し、ついにスイスナショナルチームの強化練習に参加しました。
その後、この競技で世界最高と評される個人コーチのアドバイス「どの国でも他国の選手に自国の選手が負けるような強化をするわけがない。智香は日本に帰って、強化すべきだ」という意見に従い、日本に帰りました。彼女の懸命さ(実力も)に打たれた日本の関係者の多くが彼女に協力し、ついに銀メダル(金も夢ではなかった)を獲得したのです。
わたしは、竹内智香選手の姿が鹿鳴館を彩った女性たち(芸妓)の姿の二重映しに見えます。これこそ、本当のグローバルスタンダードの姿なのだと思います。
日本国内ではほとんど知られていないスノーボードパラレル大回転なる競技に本気で打ち込み、単身留学。世界の技術・レベル・体力を身につけ、それを国内で新たな高みに押し上げる。まさに、グローバルな女性です。このような人はスポーツの世界では珍しくないのですが、政治の世界では稀少動物です。
鹿鳴館の女性たちを誹謗中傷し、揶揄した時代遅れの人間たちと同じです。安倍政権中枢やその仲間たちの国際感覚の無さを見ていると、明治政府高官やその妻たちの国際感覚との落差に愕然とします。如何に彼らが歴史を学ばない非知性的な人間なのか。暗澹とした気持になるのは私だけではないと思います。
「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水
実例をあげます。鹿鳴館外交を提唱した外務大臣井上馨(旧姓井上聞多)は、幕末英国に留学しています。映画になった長州ファイブの代表格です。同行した残りの4人が伊藤博文(旧姓伊藤俊輔)遠藤勤助、山尾庸三、井上勝(旧姓野村弥吉)です。彼らは、ロンドン大学に留学し、ほとんどが理系を専攻しています。ところが、彼らの留学時、長州藩は攘夷決行と称して、外国船を攻撃していました。その報復として、4ケ国艦隊の長州攻撃が始まろうとしていました。この事を聞いた井上馨と伊藤博文は急遽帰国。何とか長州藩攻撃を避けようと英国大使と交渉しています。藩の中での地位も低く、何の役職も持たないただの藩士だったにもかかわらずです。その時、オルコックを説得した論理が見事でした。
「西欧と日本を比べると文明において大人と子供の違いがあります。日本のような子供に本気で喧嘩を仕掛けるなど、大人のやる事ではありません」
これを受けたオルコックも人を見る目があったのでしょう。長州攻撃の延期を受け入れます。
しかし、彼らは、攘夷決行にはやる藩内の大勢に抗しきれず、通称【馬関戦争】がはじまります。当然、武器に劣る長州藩は大敗。講和会議が始まります。長州藩の全権大使は高杉晋作。通訳として、伊藤博文、井上馨が出ました。普通なら莫大な金額の賠償金を請求されて当然でしたが、高杉などは幕府の外国船打払令を忠実に実行しただけとして幕府に責任を押しつけました。その時英国に残った遠藤・山尾・井上(野村)たちは、英国の外務省と交渉。長州藩らの新しい勢力が権力を握れば、英国との貿易が自由などと説得。本国から下関戦争を終わらせるように日本大使オールコックに訓令を出させるよう努力しています。
明治維新になってから、伊藤博文は総理大臣、井上馨は外務大臣。遠藤勤助は造幣局に勤務、外国人任せだった造幣を全て日本人の手で行うようにしました。山尾庸三は、後の東大工学部の前身である工学院を設立、同時に日本で最初の聾啞教育を始めました。野村弥吉(改名して井上勝)は、日本最初の鉄道(新橋~横浜)をつくり、鉄道の父と称されました。それまで6時間、7時間かかった新橋~横浜間を1時間でつないだのです。彼は、江戸時代の日本に流れていた時間・空間意識を劇的に変えて見せました。文明開化、欧化主義とは、このような時間・空間意識の変化というものも包含されている事を忘れてはなりません。この変化こそが、明治の人々の意識を変えたのです。
日露戦争までの日本の支配層には、このように、旧来の常識を打破する識見と行動力がありました。偏見・タブーを打ち破る自由な視点がありました。【坂の上の雲】で有名になった秋山兄弟もつまらない規則やタブーを屁とも思わない自由闊達さがありました。たとえそれが司馬遼太郎の言うような見果てぬ「坂の上の雲」だとしても、明治初期の政府高官には、その雲をつかむための使命感がありました。その雲をつかむために必要ならば、世間の偏見・タブーに立ち向かい、どんなに理解されがたい行動も辞さない勇気がありました。同時に、日本と言う新しく生まれた「国家」に対する誇りも持っていました。
その理由は、井上馨や伊藤博文らの留学経験にあった事は間違いありません。留学当時の彼らは、長州藩という狭い藩閥意識のくびきの中で生きていました。しかし、留学すれば否応なしに【日本】【日本人】と言う事を意識せざるを得ません。国や国家のありようが、外国から見た日本を決定する、という現実を厭と言うほど経験したのです。彼らの主導した【欧化主義】や【殖産興業】、【近代的国家構築】などには、外国から見た日本と言う視点が痛いほど感じられます。
鹿鳴館外交にしても、ただただ外国流儀を取り入れる「奴隷根性」ではなかったのです。そのような明治政府高官の願いを具体的に社交の場で体現したのが、芸者上りの女性たちでした。
陸奥亮子のように、外国流儀を自家薬籠中のものにして、ワシントン外交界の華と謳われるまでになったのです。国としての誇りを失わず、外国流儀を身につける。まさに明治政府の理念そのものでした。言葉の本当の意味でのグローバリズムではなかったかと思います。これができたのは彼女たちの聡明さもあったでしょうが、何より彼女たちが【芸妓】として生き、自立した女性としての精神をもっていたからだと思います。
閑話休題
先日、冬季オリンピックが行われました。NHKはじめ各マスコミは、オリンピック以外に報道することがないかのようにオリンピック一色。やれ金メダル、やれ銀メダルなどと狂奔し、感動を強制するメディアの姿に眉をひそめた方も多いと思います。多額の放映権料を払っているため、関東一円の雪害で大打撃を受けた地域の報道をネグレクトし、オリンピックの映像を延々と見せられるのでしょう。ここにもまたお金【産業的なもの】に過剰に縛られた現在のメディアの象徴的な姿が現れています。
このようなオリンピック報道ですが、一人だけわたしの関心を引いた選手がいます。スノーボードパラレル大回転で銀メダルをとった竹内智香選手です。彼女はスノーボードで三回目のオリンピック出場です。スノーボード競技での日本のレベルの低さを実感し、自ら単身でスイス(この競技で最も強い)ナショナルチームでの競技練習に参加させてほしいと売り込みました。当然、他国の選手の強化にスイスチームがおいそれと助力するはずもありません。それでも彼女は粘り強く懇願し、ついにスイスナショナルチームの強化練習に参加しました。
その後、この競技で世界最高と評される個人コーチのアドバイス「どの国でも他国の選手に自国の選手が負けるような強化をするわけがない。智香は日本に帰って、強化すべきだ」という意見に従い、日本に帰りました。彼女の懸命さ(実力も)に打たれた日本の関係者の多くが彼女に協力し、ついに銀メダル(金も夢ではなかった)を獲得したのです。
わたしは、竹内智香選手の姿が鹿鳴館を彩った女性たち(芸妓)の姿の二重映しに見えます。これこそ、本当のグローバルスタンダードの姿なのだと思います。
日本国内ではほとんど知られていないスノーボードパラレル大回転なる競技に本気で打ち込み、単身留学。世界の技術・レベル・体力を身につけ、それを国内で新たな高みに押し上げる。まさに、グローバルな女性です。このような人はスポーツの世界では珍しくないのですが、政治の世界では稀少動物です。
鹿鳴館の女性たちを誹謗中傷し、揶揄した時代遅れの人間たちと同じです。安倍政権中枢やその仲間たちの国際感覚の無さを見ていると、明治政府高官やその妻たちの国際感覚との落差に愕然とします。如何に彼らが歴史を学ばない非知性的な人間なのか。暗澹とした気持になるのは私だけではないと思います。
「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水