老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

現憲法の基本理念(国民主権、平和、人権)の視点で「世直し」を志す「護憲+」メンバーのメッセージ

芸者・おもてなし・グローバルな視野(3)

2014-03-05 14:24:28 | 安全・外交
鹿鳴館の果たした役割については、様々な評価があるでしょうが、鹿鳴館を彩った女性たちが、差別的視点でみられていた存在だったからこそ、世間の常識を打ち破って活躍できたという側面は見落としてはならないと思います。それを見抜いた明治の高官たちの新しさは、江戸幕府の高官たちをはるかに上回っていた、と思います。その新しさが、明治時代の最大の外交課題だった【不平等条約】改正を最後に実現できた大きな要因だったと思います。

実例をあげます。鹿鳴館外交を提唱した外務大臣井上馨(旧姓井上聞多)は、幕末英国に留学しています。映画になった長州ファイブの代表格です。同行した残りの4人が伊藤博文(旧姓伊藤俊輔)遠藤勤助、山尾庸三、井上勝(旧姓野村弥吉)です。彼らは、ロンドン大学に留学し、ほとんどが理系を専攻しています。ところが、彼らの留学時、長州藩は攘夷決行と称して、外国船を攻撃していました。その報復として、4ケ国艦隊の長州攻撃が始まろうとしていました。この事を聞いた井上馨と伊藤博文は急遽帰国。何とか長州藩攻撃を避けようと英国大使と交渉しています。藩の中での地位も低く、何の役職も持たないただの藩士だったにもかかわらずです。その時、オルコックを説得した論理が見事でした。

「西欧と日本を比べると文明において大人と子供の違いがあります。日本のような子供に本気で喧嘩を仕掛けるなど、大人のやる事ではありません」
これを受けたオルコックも人を見る目があったのでしょう。長州攻撃の延期を受け入れます。

しかし、彼らは、攘夷決行にはやる藩内の大勢に抗しきれず、通称【馬関戦争】がはじまります。当然、武器に劣る長州藩は大敗。講和会議が始まります。長州藩の全権大使は高杉晋作。通訳として、伊藤博文、井上馨が出ました。普通なら莫大な金額の賠償金を請求されて当然でしたが、高杉などは幕府の外国船打払令を忠実に実行しただけとして幕府に責任を押しつけました。その時英国に残った遠藤・山尾・井上(野村)たちは、英国の外務省と交渉。長州藩らの新しい勢力が権力を握れば、英国との貿易が自由などと説得。本国から下関戦争を終わらせるように日本大使オールコックに訓令を出させるよう努力しています。

明治維新になってから、伊藤博文は総理大臣、井上馨は外務大臣。遠藤勤助は造幣局に勤務、外国人任せだった造幣を全て日本人の手で行うようにしました。山尾庸三は、後の東大工学部の前身である工学院を設立、同時に日本で最初の聾啞教育を始めました。野村弥吉(改名して井上勝)は、日本最初の鉄道(新橋~横浜)をつくり、鉄道の父と称されました。それまで6時間、7時間かかった新橋~横浜間を1時間でつないだのです。彼は、江戸時代の日本に流れていた時間・空間意識を劇的に変えて見せました。文明開化、欧化主義とは、このような時間・空間意識の変化というものも包含されている事を忘れてはなりません。この変化こそが、明治の人々の意識を変えたのです。

日露戦争までの日本の支配層には、このように、旧来の常識を打破する識見と行動力がありました。偏見・タブーを打ち破る自由な視点がありました。【坂の上の雲】で有名になった秋山兄弟もつまらない規則やタブーを屁とも思わない自由闊達さがありました。たとえそれが司馬遼太郎の言うような見果てぬ「坂の上の雲」だとしても、明治初期の政府高官には、その雲をつかむための使命感がありました。その雲をつかむために必要ならば、世間の偏見・タブーに立ち向かい、どんなに理解されがたい行動も辞さない勇気がありました。同時に、日本と言う新しく生まれた「国家」に対する誇りも持っていました。

その理由は、井上馨や伊藤博文らの留学経験にあった事は間違いありません。留学当時の彼らは、長州藩という狭い藩閥意識のくびきの中で生きていました。しかし、留学すれば否応なしに【日本】【日本人】と言う事を意識せざるを得ません。国や国家のありようが、外国から見た日本を決定する、という現実を厭と言うほど経験したのです。彼らの主導した【欧化主義】や【殖産興業】、【近代的国家構築】などには、外国から見た日本と言う視点が痛いほど感じられます。

鹿鳴館外交にしても、ただただ外国流儀を取り入れる「奴隷根性」ではなかったのです。そのような明治政府高官の願いを具体的に社交の場で体現したのが、芸者上りの女性たちでした。

陸奥亮子のように、外国流儀を自家薬籠中のものにして、ワシントン外交界の華と謳われるまでになったのです。国としての誇りを失わず、外国流儀を身につける。まさに明治政府の理念そのものでした。言葉の本当の意味でのグローバリズムではなかったかと思います。これができたのは彼女たちの聡明さもあったでしょうが、何より彼女たちが【芸妓】として生き、自立した女性としての精神をもっていたからだと思います。

閑話休題
先日、冬季オリンピックが行われました。NHKはじめ各マスコミは、オリンピック以外に報道することがないかのようにオリンピック一色。やれ金メダル、やれ銀メダルなどと狂奔し、感動を強制するメディアの姿に眉をひそめた方も多いと思います。多額の放映権料を払っているため、関東一円の雪害で大打撃を受けた地域の報道をネグレクトし、オリンピックの映像を延々と見せられるのでしょう。ここにもまたお金【産業的なもの】に過剰に縛られた現在のメディアの象徴的な姿が現れています。

このようなオリンピック報道ですが、一人だけわたしの関心を引いた選手がいます。スノーボードパラレル大回転で銀メダルをとった竹内智香選手です。彼女はスノーボードで三回目のオリンピック出場です。スノーボード競技での日本のレベルの低さを実感し、自ら単身でスイス(この競技で最も強い)ナショナルチームでの競技練習に参加させてほしいと売り込みました。当然、他国の選手の強化にスイスチームがおいそれと助力するはずもありません。それでも彼女は粘り強く懇願し、ついにスイスナショナルチームの強化練習に参加しました。

その後、この競技で世界最高と評される個人コーチのアドバイス「どの国でも他国の選手に自国の選手が負けるような強化をするわけがない。智香は日本に帰って、強化すべきだ」という意見に従い、日本に帰りました。彼女の懸命さ(実力も)に打たれた日本の関係者の多くが彼女に協力し、ついに銀メダル(金も夢ではなかった)を獲得したのです。

わたしは、竹内智香選手の姿が鹿鳴館を彩った女性たち(芸妓)の姿の二重映しに見えます。これこそ、本当のグローバルスタンダードの姿なのだと思います。

日本国内ではほとんど知られていないスノーボードパラレル大回転なる競技に本気で打ち込み、単身留学。世界の技術・レベル・体力を身につけ、それを国内で新たな高みに押し上げる。まさに、グローバルな女性です。このような人はスポーツの世界では珍しくないのですが、政治の世界では稀少動物です。

鹿鳴館の女性たちを誹謗中傷し、揶揄した時代遅れの人間たちと同じです。安倍政権中枢やその仲間たちの国際感覚の無さを見ていると、明治政府高官やその妻たちの国際感覚との落差に愕然とします。如何に彼らが歴史を学ばない非知性的な人間なのか。暗澹とした気持になるのは私だけではないと思います。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水
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芸者・おもてなし・グローバルな視野(2)

2014-03-05 14:20:39 | 安全・外交
ここでいう芸者(芸妓)とは、世界に喧伝されたFUJIYAMA・GEISYAGIRLとは本質的に違います。

岩下尚志は芸者論でこう書いています。

「頭は鬢(びん)を張り出して髷(まげ)の前を割った島田に、平打の笄(こうがい)一本、櫛(くし)一枚、簪(かんざし)一本という簡素なもの。
 吉原芸者のこの姿を、花鳥山水等の図案の打ちかけに総縫いの上着と無垢の下着、髪の上は小間物屋の店のようだと形容された遊女と比べれば、いかに遠慮をさせたかということが分ると思います。
 そもそも、身分の別のやかましかった近代以前における服装や髪型は、一目見ただけで、その人物の職掌が分るものでなければならず、めいめいの洒落や酔狂で装うものではありませんでした。オリジナリティなどという観念の種さえないのですから、当り前の話です。
 現在の私たちの感覚からは一寸分りにくいのですが、見板創始の際に決められた吉原芸者の容儀は、おそらく男装に近い気分が感じられたに違いなく、客の誘惑を拒否するという表象の形であったように思われます。」P76

一般的には、花魁も遊女も混同されていますが、吉原の主人公は芸者ではなく花魁(性を提供する遊女)であった事がよく分かります。芸者とは、宴の席を盛り上げるために芸を提供する補助者だったのです。芸者衆は、遊女の職種を奪わないように厳しい制限がありました。芸者衆は色香ではなく芸で宴席を盛り上げると言う遊郭の中での自分たちの【居場所】をよく心得ていた人たちだったのです。出過ぎず、目立たず、それでいて見事な芸で宴席を盛り上げ、多くの事に通暁していて、客のどんな会話にも対応できる、そのような存在でした。彼女たちは、接客の見事なプロフェッシヨナルな存在だったのです。

こういう彼女たちだったからこそ、鹿鳴館のような旧来の日本では想像もつかなかった世界で堂々と振る舞い、世界の中での地位向上に一役買う事が出来たのでしょう。

幕末の唐人お吉の悲劇は、彼女の庇護者が幕府高官でなかったという点にあります。伊藤梅子・木戸松子・陸奥亮子たちは、夫が政府高官でした。もし、唐人お吉に同じような庇護者がいたならば、彼女の活躍ももっと評価されていたかもしれません。

ここに、江戸幕府と明治政府の時代の違いを見る事ができます。伊藤にしても陸奥にしても木戸にしても、江戸時代の身分制度の中では、それほどの高位ではありません。どちらかと言えば、軽輩にあたります。これが、意識の中での身分制度のくびきから自由にしたのでしょう。この身分意識からの解放が、自分自身の意志で【芸者】を娶り彼女たちの能力を開花させたのだと思います。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水
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芸者・おもてなし・グローバルな視野(1)

2014-03-05 14:12:02 | 安全・外交
鹿鳴館(ろくめいかん)とは、皆さんが教科書などでご存じのように、外国からの賓客や外交官を接待するために明治政府によって建てられた社交場です。文明開化の象徴的建物で、いわゆる欧化政策を象徴する存在です。鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」、欧化主義が広まった明治10年代後半を「鹿鳴館時代」と呼ばれます。

鹿鳴館は、当時の外務大臣井上馨の時、内山下町の旧薩摩藩装束屋敷跡(現在の千代田区内幸町、現帝国ホテル隣のNBF日比谷ビル(旧 大和生命ビル)に建てられ、後に華族会館になり、1940年に壊されています。鹿鳴館落成の明治16年より明治20年までの時期がいわゆる鹿鳴館時代です。鹿鳴館建設の目的は、明治新政府の最大の外交課題で悲願ともいえる幕末に締結された諸外国との不平等条約の改正のためでした。特に、【関税自主権】の回復は明治新政府の国家のレーゾンデートル回復のための悲願でした。その為、諸外国の外交官や婦人たちを招いて行う社交場が必要だと井上馨は考えたのです。

当然、当時の欧米各国の社交場では、社交ダンスが行われていました。先日、【戦争と平和】を久しぶりに見ましたが、当時のロシア貴族の社交場での衣装、ダンスなどが忠実に再現されていました。平成に生きる私たちでもその華やかさには驚かされるのですから、明治時代に生きた人々にとっては、驚天動地の世界だったに違いありません。特に、江戸時代を生きてきた女性にとっては、人前で男女が身体を接して抱き合って踊るなど、信じられない世界だったと思います。それこそ【ふしだらな】という一言で切って捨てられる世界だったのです。たとえば、「「西洋踊りは猥褻で困り切りたる馬鹿踊りなり」(『朝野新聞』)などと酷評しているように世間では悪評さくさくでした。

当然、幕末の攘夷思想を受け継いでいる国粋主義者からは、井上の欧化主義に対して猛烈な反対が巻き起こったのです。これが、鹿鳴館がわずか4年足らずで閉館された大きな要因でした。

さて、鹿鳴館をつくったのは良いが、一体どのような女性がこのような華やかな社交の場で活躍できるのでしょうか。おそらく、この問題は、明治の元勲たちを悩ませたに違いありません。この間の事情について山田風太郎は【江戸の舞踏会】で面白おかしく解説しています。

http://www4.plala.or.jp/agatha/MEDONOBU.html

ところが、意外や意外、日本女性たちは、鹿鳴館で見事な活躍を見せたのです。その代表格が伊藤梅子です。初代総理大臣伊藤博文の奥さんです。彼女は、通称「馬関芸者」と呼ばれた下関の芸者さんでした。下関の宴席で彼女と遊んだ伊藤が一目ぼれ。前の奥さんと別れて梅子と再婚したのです。

梅子は、馬関稲荷町の置き屋「いろは」の養女で、芸妓時代の名をお梅といいました。博文には、英国留学前に結婚したおすみという奥さんがいたのですが、おすみとは正式に離婚して、お梅を正妻にし、梅子と名のらせたのです。

彼女は賢婦人の誉れが高い人で、伊藤の地位が上がるにつれて懸命な努力を重ねたようです。文字も書けなかった梅子は、当代一流の書家阪正臣の弟子になって練習し、見事な字を書けるようになり、夫の代筆をするほど上達しました。和歌もこなし、皇后との歌のやりとりもしています。英語は津田梅子にならい手紙くらいは書けたといわれています。また津田梅子からは、米国の習慣など勉強したと言われています。

鹿鳴館開設当時、梅子はまだ踊れませんでしたが、翌年から毎週行われた「舞踏練習会」では、梅子は渋る高官夫人たちを説き伏せ、70人近くの夫人を参加させています。彼女の活躍を評する時に必ず「芸者上りにしては」という枕詞がつきますが、そうではなくて、【芸者上り】だからこそできたと考えなくてはなりません。家庭的にも伊藤博文は、稀代の「女好き」で、女遊びが命と言っても過言ではない男でした。浮名を流した女性は数知れず、英雄色を好むを地で行ったような男でした。

その妻ですから、気苦労が絶えなかったはずです。それでも梅子は一言も文句を言わず、伊藤が大磯の自宅「滄浪閣」に馴染みの芸者を連れてくると、その帰り際に、「御前様は公務でたいへん忙しい方だから、あなたにきてもらって慰めてもらうのが一番のお気休めになるのよ。御前様はあなたをご贔屓(ごひいき)なんだから、ときどききて慰めてくださいね」といって、反物などの土産を持たせたそうである。NHKの歴史番組で当時の芸者の子孫の方が、その時もらった立派な簪を見せていましたが、話半分としてもよく心得た女性だったと思われます。

岩下尚志に言わせれば、芸者(芸妓)の言う男には4種類あるそうだ。【旦那】【客】【客もどき】【まぶ】。旦那は文字通りお金をくれる人で客は世間で言うお客と同義。客もどきとは、通常のお客とは少し違い、多少は心を移したお客。まぶは、自分自身が本気で惚れた人。旦那・客・客もどきはお金を貢いでくれるが、まぶは、自分が貢ぐのです。おそらく、梅子にとって伊藤博文という男は、【まぶ】だったのかも知れません。惚れた男のためなら、勉強もする、女遊びも我慢する、何でもやってのけるという覚悟があったのでしょう。

桂小五郎(木戸孝允)の奥さん松子もそのような女性でした。松子は出身は小浜市。落魄した武士の子孫だったらしいです。京都三本木で幾松という芸名で芸者(芸妓)になります。聡明で美人だった松子は、たちまち京都では有名な売れっ子芸者(芸妓)になります。三本木は長州藩邸の近くにあったため、多くの長州藩士も遊びに来ていました。

桂小五郎は、幾松をものにするために相当な散財をしたようですが、その後幕末の騒乱の中で幾松は桂のために文字通り命をかけて彼を助けています。新撰組の近藤勇が桂を切ろうと置き屋に乗り込んできたとき、桂を抜け穴から逃がし、鬼の近藤の脅しにも頑として屈せず、ついには近藤をして「大した女」だと言わせています。

さらに、元治元年(1864年)6月、池田屋事件が起き。続いて起こる禁門の変以降、長州藩が朝敵とされ、桂は幕府に追われる身になります。桂は、二条大橋周辺に乞食の姿となって隠れ潜んでいたのですが、幾松は自らもぼろをまとい、よく握り飯を持っていったと言われています。

その後、出石に逃れた桂を探すために、幾松は芸者(芸妓)を辞めます。そして、出石に潜伏していた桂を探し当てます。行ってみると、桂は一種のうつ状態になっていて、「死にたい、死にたい」と念仏のように唱え、まるで生きた屍状態でした。考えてみれば無理もない話で、桂は禁門の変で松下村塾以来の親友久坂玄随をはじめ仲間を400人近く亡くしていたのです。絶望感と自分だけが生き延びたという罪悪感にとらわれても無理からぬものがあります。

桂が木戸孝允となってからも、時折、死んだ仲間が夢枕に立つといって、鬱鬱とした精神状態になっていた、というのは有名です。明治維新以降、彼の活躍が大久保やその他と比してあまり目立たないのもこのあたりに原因があるのではないかと推測できます。しかし、松子はそのような桂を励まし、彼の回復のために一生懸命看病します。まさに「まぶ」としての桂に全てを投げ打って尽くしたのです。

もう一人、【鹿鳴館の華】と謳われた芸者出身の女性がいます。陸奥 亮子です。外務大臣陸奥宗光の奥さんです。没落士族旗本・金田蔀の長女として江戸に生まれた彼女は、東京新橋柏屋の芸妓になりました。新橋で一二を争う美貌の芸妓だったと言います。大変身持ちが固い芸妓として有名だったようです。陸奥が一目惚れしたようで、陸奥の奥さんが死去した後、結婚しています。

彼女も大変苦労したようで、陸奥が明治11年、政府転覆運動に荷担した疑いで禁固5年の刑に処せられ、山形監獄[に収監された時、亮子は、姑の政子に仕え、子育てをしながら獄中の宗光を支えました。この時、陸奥は多くの書簡を書き、亮子の教育に努めています。陸奥は明治15年特赦によって出獄。翌明治16年に欧州に留学しています。明治19年陸奥は政府に出仕。亮子も社交界に進出し、鹿鳴館の華と謳われたのです。明治21年、駐米公使になった陸奥とともに渡米し、「ワシントン社交界に華」と称され、陸奥の仕事に大きく貢献しました。

現存する陸奥亮子の写真を見ると、現在のわたしたちが見てもその凛とした美しさに圧倒されます。写真を見るだけでも、彼女の聡明さ、凛とした生き方が伝わってきます。

亮子の写真;http://meiji.bakumatsu.org/men/view/29

このように鹿鳴館外交を支えた女性たちには、芸妓上がりの女性がたくさんいました。よく考えてみればすぐ分かるのですが、江戸・明治初期の女性の職業と言えば、芸妓・娼妓などぐらいしかありませんでした。彼女たちは、元祖職業婦人だったのです。芸妓だったらからこそ、彼女たちは、自立し自らの意志で惚れた男たちを助けたのです。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水
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