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老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

現憲法の基本理念(国民主権、平和、人権)の視点で「世直し」を志す「護憲+」メンバーのメッセージ

私の小中学校時代

2006-11-11 16:05:05 | 教育
私が小学生の頃「いじめ」の対象になったのはクラスにいた障害児の子どもでした。ある日その子が持って来たお弁当(この日は何故か給食がなくてお弁当を持って来ていた)が「くさい」と隣の席の女子が騒ぎだし、みな「くせえ」「くせえ」の大合唱になりました。先生はその子を1人だけみなから離してお弁当を食べさせました。

それでも「くさい」「くさい」と騒ぐ子に向って「うるさい!静かにしろ!」と怒鳴りその子の机を蹴りました。この先生は子ども達がうるさいのを極度に嫌う先生でした。ちなみにこの人は女性の教師でした。

その他体育も鉄棒なんかも、一生懸命やっても出来ない子ども(私とか)はみなの前で何度もやらされました。出来ない子ども達は失敗するとみなに笑われ中にはまねする子もいました。先生はそんな子ども達を注意するでもなく、出来ない子は努力が足りないというスタンスで何度でもやらせました。それ以来私は体育が嫌いになりました。

中学の先生は強権的な人が多かったような気がします。担任の日本史の先生は宿題を忘れたり、問題が解けなかったりすると生徒を殴りました。スリッパで男子の頬を叩き女子の頭を拳骨で殴りました。殴る直前ニヤニヤ笑うので「あ、殴るな」と皆すぐ分かりました。その顔で笑いながら生徒を殴りました。噂では酒乱の気があり、奥さんにも逃げられたらしいと子ども同士で話をしていました。

図形の担当の先生は「スカットさわやか、コカ・コーラ」と言って生徒の頭を腕で押さえて脳天を拳骨で苦グリグリやりました。私も一度やられた事がありますがあんまり痛くなかったのを覚えています。国語の女の先生は宿題を忘れた生徒のもみ上げを引っ張るのが得意でした。一度やられた友人は涙が出る程痛かったと言っていました。

だからと言って親に言って校長先生や教育委員会に訴える親はいませんでした。良い時代だった、とは思いません。障害を持っている子にしてもその他の子ども達も我慢を強いられていた時代だったのだろうと思います。大人達の会話の中で平気で「かたわ」などという言葉が出てきた時代でしたから。

先生が強くて怖い分、子供同士の中には不思議な連帯感が生まれました。皆で授業をボイコットしょうという動きがあり、実行しましたが、もっと怖い先生が出て来て参加した子ども達は、さんざん殴られお弁当も食べさせてもらえず「二度とこのようなことはしません」と誓わされて夕方遅く解放されました。

息苦しい中学時代が終わった時には解放感で一杯でした。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
パンドラ

コラム「雀百まで踊り忘れず」を読んで

2006-11-11 15:50:19 | 教育
もし私が宮天狗さんと同じ時代を生きていたら、私も同じような生き方・振舞いをしていたかもしれません。当時では相当勇気のいる行動・言動だったとお察しいたしますが、級友の方々から格調高い?バッシングだけで済んでいたのは、宮天狗さんの筋が通った気持ちが伝わり尊重されていたからでしょうか。(クラスの雰囲気がわからず、憶測で失礼いたします)現在の軽薄・軽率なイジメとは格が違います。

私がプラモデルを作っていた中学生の頃、父が自分の写真アルバムを取り出し、一枚の写真を見せてくれました。それは教室に軍艦の木製模型が展示されたショットで、尋常小学校の授業で生徒が自作した数々でした。「昔はプラモデルなどなかったから、全部木から削り出して作った」と自慢しつつ、その頃のエピソードを少し話しました。

私が聞いた記憶によれば、教員は憲兵崩れの元軍人。常に軍刀を帯刀し、それで鉛筆を削っていた。その姿が恐ろしかった、と。剣道の授業では背が高くて腕力のあるヤツが竹刀を振り回し、背が低かった父はわざと高い位置から面打ちをされ、後頭部を叩かれるのが嫌だった、そうです。

中学校では「チビでメガネ」の私は暴力的イジメの対象でした。幸い、空手を習っていた級友に助けられ、自分も武道をやろうと。ただ、父の話を聞いていたので、迷わず柔道を習いに行きました。(大人になり、剣道具が高価なことを知りました)

水泳の時間にプールで3人に沈められ、危なく溺れかかった事もありました。一歩間違えば「授業中の事故死」状態で、加害者3名は「遊びだった」と言い訳しましたが先生はメチャメチャ怒っていましたね。メガネができない、プールの中で背が立たない状況は、被害者にとってはスゴ~イ恐怖です。

その状況が「柔道」で一変しました。ある日の休み時間、遊び半分でイジメるヤツを巴投げで放り投げたのです。それで「あのチビが柔道やっている」という噂が広まったようです。しかし、投げた私も投げられた彼もビックリしました。畳の上でないと如何に危ないか・・・という事でその後、幸いにも二度と使うことはありません。暴力はいけませんね。

結果的に、精神力が強くなったようです。でも、全ての子供には当てはまらない事例でしょう。イジメられている子供に「もっと強くなれ!」なんて、絶対に言いたくありません。今、息子には剣道を習わせている次第です。いつまで続くかわからないので、防具は中古品です。(近隣に柔道場がなかったので)

長くなりましたが、イジメは絶対に許しません。巷でイジメを苦にした子供の自殺が報じられると、自分の体験からたまらない気持ちになります。ウチの子供たちは私が必ずイジメから守ります。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
猫家五六助

愛知県犬山市の教育長

2006-11-08 10:05:38 | 教育
「dr.stoneflyの戯言」というブログからの紹介です。
http://dr-stonefly.at.webry.info/200611/article_5.html

犬山市は全国学力テストに参加しない、と表明しているのだそうです。文部科学省の役人とのやりとりが、朝日新聞の地方版?に載っているそうです。
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200611060149.html

こんな教育長がまだいるのだと、感動しました。(日本でまさかただ1人?)

その教育長のことばを要約してくれています。

ここから引用・・・・・

教育基本法は、子どもの人格の全面発達を教育の中心に位置づけているからいいのだ。人格の完成とは、善悪の規範意識も含め、一人ひとりが主体となり自主的、自律的に人格の発達を遂げていくということだ。これに対し改正案は、道徳心や国を愛する態度など徳目をならべ「国家目標」となっている。「人格」を「国家目標」としてゆがめようとしているのだ。

必要なのは子ども主体の授業をつくりだすことであり、その為に少人数学級の実現である。国は教育基本法の実現に不可欠な少人数学級の実現に投資すべきである。
今しなければならないのは、教師が子どもと向き合える環境づくりを考え実行することで、法制度を変えることではないのだ。

ここまで・・・・・

愛知県犬山市の教育長を応援します!

「護憲+BBS」「教育基本法危うし!」より
コナシ

フィンランドの教育

2006-11-08 10:05:24 | 教育
きょう(11/7)の新聞の第一面に「来週衆院委可決へ」という記事が載っていて、不安な気持ちでいっぱいです。

「とりあえず」というブログでフィンランドの教育について書いていてそれがすごく印象的だったので紹介します。日本と正反対方向の改革で学力が世界一になったのだそうです。

一部引用します・・・・

学力低下に対する日本の答えは授業時間を増やし、中央集権的に教育内容に立ち入ろうとすること、さらに教員を評価して、読み書き計算などの機械的な反復練習を徹底する、さらに規律を教え、愛国心などの思想良心にまで立ち入った強制を行うというような流れとなって現れているが、これらはすべてフィンランドの教育改革とは正反対である。
フィンランドでは教科書検定をやめ、教育を地方分権化し、カリキュラムを自由なものにし、子供たちに対しても16歳まで学力テストのようなものはなし。子供が勉強は自分が生きていく力をつけるためのものであることに気づくまで待ち、支援する。教員に対する評定などの評価は行わない。

引用終わり・・・・

全文はこちらです。
http://luxemburg.exblog.jp/d2006-10-31

「護憲+BBS」「教育基本法危うし!」より
コナシ

「やらせ質問の疑い」について

2006-11-03 16:01:11 | 教育
内閣府 やらせ質問の疑い(11/3毎日)

『9月に青森県八戸市で開かれたタウンミーティングで、同県教育委員会が内閣府の指示を受け、教育基本法改正案に賛成する立場から質問するよう地元の中学校長を通じて関係者に文書で依頼した疑いがあることが分かった。』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これ、内閣府が、各県の教育委員会に頼んで、教育委員会が人選をしたということですね。

実は、教育界では、この「やらせ質問」は常識なのです。いわゆる官製研究会(例えば、文部省の指定研究会とか各県の指定研究会など)では、各県の指導主事が指導に入ります。名目上は、指定を受けた学校の研究会ということになっていますが、ほとんどは指導主事が詳細な指導をして行うのです。

各学校の研究の中心は、通常教務主任と研究主任がなります。そして、この研究の評価で、教務主任は教頭、研究主任は教務などという風に出世の階段を登るのが通例です。

研究会当日、授業参観、研究発表の後に質疑応答があるのですが、そのとき研究成果をもろに否定したり、批判したりする質問が飛び交っては、いろいろ困ることがあります。つまり、指導した指導主事・教務主任・研究主任などの苦労が水の泡になります。ですから、質問をする人間は必ず【素晴らしい研究で大変参考になりました。一つだけ分からないことがありますが、教えていただけないでしょうか】などという枕詞をつけて質問をするのが礼儀ということになっています。

それだけでは足りないので、さくら(いわゆるやらせ質問をする人)を用意します。これを依頼される人は、教育委員会の覚えめでたい人ないしは研究会をする学校の校長の覚えめでたい人、ないしはその研究の中心校長(各校長は何かの研究の代表になっています)の覚えめでたい人ということになります。つまり、出世コースに乗った人間が、やらせ質問をするということです。

厭な話ですが、これが教育界の常識ということです。中には、こういう馴れ合いが大嫌いで、鋭い質問を浴びせかける人間もいますが、そういう人間はチエックされて、後々出世に響くというわけです。

今回の場合、教育界の上記のような体質がもろに出たというわけでしょう。まあ、教育委員会のようなところに長くいると、白も黒も見えなくなるなるということです。

「護憲+BBS」「安倍晋三総裁の誕生」より
流水

「教育」とは

2006-11-02 09:54:35 | 教育
「いじめ、高校の履修不足、などの報道について(パンドラ)」は、まさにそのとおりだと思います。

なぜマスコミが今になって連日このように騒ぎ立てるのか、教育基本法の改正と関係があるとしかおもえません。マスコミにそうさせる勢力のせいなのか、マスコミが自ら御用機関に成り下がったのか、その両方か。そして何人もの命が喪われてゆく。だれも責任をとらない・・・のですよね。

私は、こういうことになったのは、立身出世主義、拝金主義がはびこる今の社会のせいだと思っています。本来、教育とは、ものを考える力、人格形成、教養をつける場であるはずです。それこそが、どういう道に進もうが、役に立つ基本だとおもいます。 
 
財界は、出身大学によって選抜し、直ぐ使える人間を、と大学に注文します。全員の希望を受け入れるわけではないのに。高校は、いい大学にどれだけ入れたかが価値になっています。こういう社会で生徒が入試だけを目標にするのも残念ながら当然だとおもいます。 

さらに言えば、文科省の共通試験です。はじめは国公立の大学受験生だけでした。でも今は、全私立に受け入れをすすめています。確かにその試験で受験生全員の序列はできるでしょう。でもそれは、暗記力だけの序列です。回答が○×式ですから。つまり回答は出ている中から探せばいいのです。あれだけ多くの答案を短期間に採点するには、それしかないのです。 

文科省は、自分の省に税金を多く分捕るために、あるいは天下り先をふやすために、日本の国力を低下させようとしているというのは言い過ぎでしょうか。今の高級官僚たちは全員、その試験でいい成績をとった人たちです。

「護憲+BBS」「マスコミ報道を批判する」より
松林

いじめ、高校の履修不足、などの報道について

2006-11-01 10:19:22 | 教育
みなさま、おかしいと思いませんか。

何故連日ここへ来て中学生の自殺、高校の必修科目の履修不足そして教職員の自殺などがテレビ、新聞などで報じられています。

「学校」は今日や昨日こういう状態になってしまったのではありません。実はもう何年も前からそこに通う子ども達にとってストレスが溜まる息苦しい場になっているのです。それなのに、次から次と連日このようなニュースが報じられているのでしょう。

2005年文科省は自殺した小、中、高校生の数を105人と発表しました。でも、警察発表では288人でした。文科省はその数字の乖離の理由を国、私立高を数字にカウントしていなかったからと主な理由に挙げました。

もちろんその数字の全てが、「学校」や「いじめ」によるものではないでしょう。でも、文科省発表の数字の3倍近い子ども達が自らを死に追いやっているのです。そして、それはここ何年も変わらない傾向なのです。履修不足問題も、実は以前から皆が知っていたーような気がします。

ここで問題にされるのは、学校の先生であり、いじめる子ども達を育てた家庭であり、入試に有利になるように仕組んだ「学校現場」であり‥そういう報道が盛んになると見えて来ませんか?

「ボランティア活動などで子ども達に他者を思いやる心を育てよう」、「家庭での、道徳、養育力を高め虐待などを防ごう」、「教育基本法を改正して、荒廃した学校現場をよりよいものに変えよう」という声が段々大きくなっていくように思えます。

「教育基本法」を変える必要があると、国民の何人が今思っているのでしょう。普段はそれほど関心がない問題でも、このように光を当てられ、ショッキングな報道が連日繰り返され流されると、とんでもない事が起きていると人々は思うでしょう。でも、とんでもない事はずーっと前から起きていたのです。それが報道されなかっただけなのです。

「護憲+BBS」「マスコミ報道を批評する」より
パンドラ

高等学校は何のためにあるのだろう?

2006-10-31 09:19:21 | 教育
今、高等学校(特に地方のいわゆる「進学校」)の「履修不足」が大きな問題となっています。http://www.asahi.com/special/061027/
これらのニュースを見るにつけ考えさせられたのは「高等学校(特に普通科)は何のためにあるのだろう」ということでした。

学校教育に「競争原理」が導入され、「少子化」の中「生徒の確保」のため「大学受験のための効率的な学習」という父母(あるいは生徒)のニーズに応えるという「顧客満足度」を争ったためかもしれません。あるいはひとつの学校がそうした「ズル」を始めたのを見て「それだったらウチも」と次々と拡がっていったのでしょう。(さもなければこんなに多くの学校でこのような事態にはならないと思います。)それにしても「教育機関」たる学校がこのような「不正」をやることの「教育効果」というものを、先生方は考えなかったのでしょうか?

私は今日、本社で「コンプライアンス」に関する研修をしてきました。民間でさえ、昨今このような問題に真剣に取り組まなければならないのに「学校」というところは特殊な世界のようです。実際「学校の先生」の多くは大学という「学校」を卒業するとすぐに「学校」を職場としていますので、「学校」以外の社会を知らずにいる人も多いかもしれません。また同僚がすべて「大卒」という不思議な職場でもあります。

自分が「学校」で経験してきたことに疑問を持たずに、同じことを自分もやっているということもあるのではないでしょうか。生徒を「子どもたち」と呼び、自分が「保護すべき存在」ととらえて「一個の人間」として見ることができなくなってはいないでしょうか。学校での「いじめ」の問題の根もそのようなところにあるような気がしてなりません。

私より年上の人たち(特に地方出身の人たち)は「金の卵」と呼ばれ、中学を卒業するとすぐに働く人たちがたくさんいました。私は東京の出身ですが、それでも級友の1割ほどは中学を出てすぐに働きました。そして4年制の大学へ行ったものも2割とはいませんでした。多くの級友は高校を卒業すると就職しました。その方が中卒よりもずっとよい条件で就職できたからです。つまり「高卒」という資格を取ることが高校へ通う目的(すべてとはいいませんが・・・)になってしまったようです。現在ではおそらく中卒ではまともな「就職」は不可能でしょう。

一方、昔から「大学へ行く」ために高校へ通う人たちもいます。私も「進学校」でしたので夏休みや冬休みにも「講習」があり、浪人しているOBも含めた模擬試験もしばしば行われました。成績の上位100名は試験のたびに張り出されました。(私の母校は1学年9クラス、450名いました。)高校なのに履修する教科が選択できて、私は「日本史」を習っていませんし、数学も「数ⅡB」まで、3年生で2回目の「地理」「生物」「美術」を履修しています。(それでも週に4時間の「空き時間」がありました。)

また、私の母校には「定時制」があり、1学年4クラスもの人々が私たちと同じ教室で働きながら学んでいました。(机を使って定時制の生徒と「文通」することができました。)彼らは単に「高卒」の資格のために夜学んでいたのでしょうか。私は高校で「古文」や「漢文」、「倫社」「政経」といった中学では学ぶことのできなかった分野を学べたことに感謝しています。「受験技術」としての「英文法」や様々な公式、定義はすっかり忘れてしまったけれど、「平家物語」や「方丈記」、「史記」、中央公論社の「世界の名著」「日本の名著」を読んで学んだ素養は今でも活きています。

今回の問題が「何のために高等学校へ通うのか」「高等学校は何のためにあるのか」を高校生たちや教師、そして多くのおとなが考え直す機会になればと願っています。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
千葉の菊

いじめについて

2006-10-20 12:07:08 | 教育
いじめは日本の教育制度の問題でなく、日本社会の問題でなく、国籍に関係なく、人間の問題として考えることが大切だと私は思っています。いじめは近現代の日本で生まれたものではなく、大変古くからある普遍的な問題点だと思っているからです。そういう見方で考えて行かなくては、人の見ていないところで行われがちないじめという暗闇の核心を手でさわって本質を確認するのは難しい気がします。

9月にカナダ人のジョエル・アソグバさんのいじめに対する心の教育のための絵本朗読会のご紹介と報告をしましたが、外国人と日本人の間の子供がいじめにあっても、社会はあんまり関心がないのか、ニュースにもなりません。福音館や偕成社などの編集者さんはいらしていました。http://www2.saganet.ne.jp/joel/index.html

ジョエルさんの「にじのこどもたち」など、いくつかの本は同じページの中に日本語と英語とフランス語で書かれいてます。それは少なくともいじめが日本語を使う場所、英語圏、フランス語圏でも同じようにあることだからだと思います。本当に社会が、いじめを考えて解決の糸口をさがすなら、こういう人たちのことも分け隔て無く考えて行かなくて嘘だと思います。

この子たちも日本の国籍を持っている日本人なのに、日本人と日本人の間に生まれた子供のことは考えられるけど、親のうちひとりが外国人だと問題も違ってくる、というのでは、それこそ社会の差別であり、そんな風にしか考えられない社会自体の物のとらえ方が貧しく、いじめの温床になりうることを、国家も社会も気がついて欲しい。

私の中学生の頃(25年くらい前)の知っているいじめは、いじめられっ子をトイレに呼んで、みんなで制服のネクタイを取って水洗トイレに投げ捨てて、それを拾えと言ったり、生意気な子がいると、大人の目の届かないところに呼び出してリンチをして、まつげをライターで焼く、というような事件もありました。泣き虫の男の子はいやな掃除などを毎日押しつけられて、鞄などは蹴飛ばされ、それが毎日続いてもただ泣くだけ。

いじめは学校だけの問題として考えず、子供が学校と家を行き来する間に触れる地域の社会でだれかが話を聞いてくれるとか、子供にホッとできる居場所、あらたまったものでなくても、お茶を飲んでおせんべいなどを食べて地域の人とお話しできるような場所があるだけでずいぶん結果が違うのではないかな。

そんなところがあれば、人間への失望で孤独になって死にたいと思うような子供は減るのじゃないかなとも思いました。そんなことに色々と目を配り日常の生活で気をつけたいです。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
桃李

進行しつつある学校の退廃現象

2006-10-17 08:57:03 | 教育
北海道の滝川市での小学生のいじめ自殺事件、福岡の三輪中学のいじめ自殺事件などで、教育委員会、校長、教師などが厳しく指弾されています。しかし、マスコミ報道は問題の一端しか明らかにしていない。一体、今学校で何が起こりつつあるのか。少し、長文になりますが、説明してみます。

今朝の朝日新聞に注目される記事が掲載されていた。

「校長のパワハラ」と題された記事はこう伝えています。

「千葉市立中学校の50代の男性教諭が9月に自殺し、原因を調査していた同市教育委員会は、校長による行き過ぎた指導が背景にあったと認定し、近く校長を処分する方針を固めた。教務主任だったこの教諭は職場で、校長から繰り返し怒号を浴びせられるなどしていたといい、市教委はパワーハラスメント(職権を背景とした嫌がらせ)に当たると判断した。 ・・・」
http://www.asahi.com/national/update/1017/TKY200610160380.html

さらに、文部科学省の統計で、子供たちの自殺は毎年100名を超えているが、99年からいじめ自殺は一名もいないという数値が報告されています。

これらの事実を総合的に判断すれば、学校の倫理的退廃が深く浸透しつつあるのが見て取れます。

まず、ゆとり教育ばかり話題になりますが、その改革の時、文部科学省は、【職員会議は伝達機関】として位置づけたのです。その結果、職員会議が形骸化し、教師間の論議がなくなりました。わたしの現役時代、職員会議は議論の場でした。子供の現状を見ながら、指導をどうするかという教師の教育観が問われる場だったのです。

しかし、現在は、校長⇒教頭⇒教務主任⇒生徒指導主事・学年主任⇒一般教員というヒエラルヒィーが確立し、上意下達が徹底しています。教師たちは、自分のクラスにいじめがあると、自分の指導力不足の証明になるため、できるだけ隠そうとします。まして、出世したいと願う教師はなおさらです。

当然ながら、問題児と呼ばれる子供を担任すると、問題を起こす確率が高くなります。問題が起きると自分の評価に響くので、できれば問題児を担任したくないという心理が働きます。ですから、問題を起こした子供をうとましく思う心理が働くのです。「お前のお陰で俺の評価が下がる」というわけです。福岡の三輪中学の教師はこの典型だと推測できます。

同じ心理メカニズムが校長にも働きます。自分の学校でいじめがあるとそれは校長の評価に響きます。だから、明白な「いじめ」を「いじめ」と認めないのです。ですから報告にはいじめは0となるのです。また、いじめを防げなかった教師は指導力のない駄目教師と断罪します。【俺の立場はどうなるんだ】というわけです。そうやって、部下の教師を責めるのです。千葉県の事件の場合、この校長権力が異様に強くなった象徴なのです。

マスコミが指摘しないのは、こういう学校体制それ自体が【いじめの構造】そのものだということです。教師が恒常的にいじめ体質の中にいて、子供のいじめがなくなるはずがないのです。

「いじめ」の心理の根底にあるのは、セルフエステイームの感情です。【自尊心】は人間を成長もさせるし、退廃もさせる諸刃の剣の感情です。【自尊心】を失った人間は生きる意欲を失います。しかし、【自尊心】が異様に強いと、他者を傷つけます。この諸刃の剣の感情をコントロールできる人間関係や環境をどのようにして創出できるかに、「いじめ」をなくす鍵があるのです。

その意味では、現在の学校環境は、いじめを再生産することはできても、いじめをなくすことはできないシステムになっているのです。世間の目には見えないのですが、学校・教師の倫理的退廃は確実に進行していると言って良い、と思います。

「護憲+コラム」より
流水