旧暦「天地始粛」(てんちはじめてさむし)。ようやく暑さが鎮まる時季を言いますが、そうかもしれませんね。お不動さんの境内を歩いていて、何となく「涼しさ」を感じました。そしてふと、前夜読んだ坂村真民さんの言葉を思い出しました。「念ずれば花ひらく」第4章「真実の自己を求めて~一遍との出会い」の「涼しい風」です。(写真は東福寺・霊源院)
一遍の涼しさ
芭蕉の軽み
そこには何か共通したものがある。
前者は私の宗教であり、後者は私の文学である。
いつも五体に感ずるのが、この涼しさなのである。わたしに言わせたら、一遍のすべてが、この涼しさなのである。
真民さんは若い頃、家族を連れて九州から四国に移るとき、豊後の荒れた海を渡って辿り着いた八幡浜で「何とも言えぬ明るい風が吹いていた。おお、これが仏島四国の風だなあと思った」と綴ります。「涼しい風を吸うて育った人たちは、みな鈴のような、仏心を持つようになるのであろうか。移り住んだ静かな港の町、三瓶という処は、わたしたち一家を心から迎えてくれた」とも。以後、この「涼しさ」という言葉が真民さんの詩の大きな柱の一つになっていきます。それは単に感覚的なものではなく、伊予の国に生まれた一遍を通じてひとつの精神性を表わす言葉でもありました。
では、「涼しい」とはどういう意味?手許の広辞苑を調べてみました。
「ほどよく冷やかである。暑苦しくなくすがすがしい。ひんやりして気持よい」
「物のさまがさわやかである。すっきりしている。澄んで清い」
「心がさわやかである。煩いがない。さっぱりしている」
「いさぎよい」
「厳としたさまである。きっぱりしている」
「潔白である。無関係である」
読んだだけで涼しさを感じます。ねっとり汗がまとわりつく肌、ギスギスした人間関係、そんな空間に何となく「涼しい風」が舞う。心が洗われ、素直に世の中を見通すことができる。そんな気分になります。真民さんの考える「涼しい風」が意味するところは、もっと深いところにあるのでしょうが、私の心の書庫にしっかりと納めました。
話は変わりますが、今週は、NPOでのお仕事を除いて、さあて、何をしたでしょう?家内が退院して以後、洗濯物や洗い物、お買い物と慣れない仕事に汗を流しました。改めて主婦業の大変さを身をもって体験させていただきました。お隣からはお庭で採れたというボール一杯ものブルーベリーをいただき、ジャムづくりにも挑戦しました。
この夏は近所に暮らす長女一家が災難でした。お盆の頃に家族で九州に旅行を計画していたのですが、なんと出発2日前に旦那がコロナに罹ってしまい、急遽キャンセル。長男君は修学旅行でドイツに行ってきたし、次男君は私らと神奈川に行ってきましたが、楽しみにしていた家族全員の旅行が台無しになってしまいました。というわけで、先日、一家をお寿司屋さんにお招きし憂さ晴らしのおもてなしをしました(笑)。
こうして私の「夏」は静かに幕を閉じようとしています。今夜半、近畿地方にやってくるという台風10号が大きな被害をもたらさないことを願っています。
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