心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

無心であること

2011-08-21 10:42:19 | Weblog
 暑い暑い夏だったのに、お盆休みを過ぎた頃から、ずいぶん過ごしやすくなりました。特に今朝は、時々雨が降ったせいでしょうか、ひんやりとした肌触りに目が覚めて、しばしベッドのなかで季節の変わり目を思ったものです。
 先週は、火曜日に孫君を連れて京都・八瀬の河原に川遊びにでかけ、それで長期休暇の予定はすべて終了しました。翌日は、市内のホテルのラウンジでの打合せ、次の日は久しぶりの職場で書類の整理をすませ、そして広島に出かける。こうして徐々にエンジンがかかってきます。でも、通勤電車では、時期をずらしてこれから海外旅行にでかける家族連れの姿もちらほら。新幹線はまだまだ子供連れが多くて夏休み状態です。こんな風景も、いつの間にか元どおりになっていくのでしょう。夏休みの終わりとは、歳をとってもなんとなく落ち着かない、淋しいものです。

 そうそう、きのう広島駅の新幹線駅構内で、「おめでとう!なでしこJAPAN! 熊野化粧筆」の幟に人が集まっていました。先日、国民栄誉賞を授与された選手の記念品が、広島県熊野町が世界に誇る化粧筆だったからでしょう。化粧筆がどういうものなのかよくわかりませんが、さぞ肌触りが良いのでしょう。世界の美女たちを魅了するほどですから。いずれにしても、広島が元気になることは良いことです。

 ところで今夏は、ゆっくりした分、グレン・グールドの演奏をずいぶん聴きました。CDも、LPも。評論本はすべて書棚にしまいこんで、とにかく無心に聴きました。部屋中に、彼独特の世界が広がります。目の前に置かれた楽譜を、古い伝統や権威に囚われず自分なりに読み解きピアノに向かうグールド。聴きなれた単調なピアノ曲を一瞬にして壮大なオーケストラに変えてしまいます。大仰なコンチェルトを気品のあるピアノ曲にしあげてしまいます。繊細さと図太さ、弱弱しさと力強さが交差します。それはどこか、グスタフ・マーラーにも通じるものがあります。大袈裟にいえば、現代人に共通する心の在り様なのかもしれません。自らの立ち位置を永遠に追い求め続けているのかもしれません。時々ピアノの旋律に交じって聴こえるグールドの息遣い、恍惚として演奏する姿が、スピーカーの向こうにぼんやりと見えてきそうです。

 手許にあるLP「ゴールドベルク変奏曲」(1955年録音)は2枚組で、1枚目は演奏、もう1枚はCBSディレクターのジョン・マックル―アとグールドとの対話が納められています。多くのファンに惜しまれながらコンサート活動をいっさい止めてしまったグールドは、その後、レコードその他のメディアによる演奏芸術に情熱を燃やします。その制作現場を撮影したDVDをみると、ひとつひとつの楽章を調整しながら最高の作品を作ろうとしているグールドの姿が映し出されています。その芸術論を淡々と語り続けるグールド。そんな拘りがグールドの世界を創っています。その不思議さに心を奪われて40年。私にはグールドについての結論めいたものを見出すことはできません。ただ無心に聴き、何かを考え、何か求めようとしている、そんなお付き合いが続いています。
 この夏は、ずいぶん本も読みました。新しく手にしたもののほか、なんとなく思い出して、かつて読んだ本を再読する、そんな心の余裕もありました。単なる知識欲としてではなく、無心になって文字を追うと、以前とは違う発見があったり、妙に納得したり、感心したりすることがあります。読み返すことで、自らの思考の拙さに気づきます。
 最近、60年あまりの間に滲みついた無機質な知識や柵が徐々に崩れ去っていくのを実感します。というよりも、自分の身体に最後までまとわりつくものって意外と少ない、そんな気がしています。それで良いのでしょう。無理に大きな袋を提げて歩く必要はありません。美しいものを美しいと言える、ただそれだけで良いのです。心の中で、夏の終わりを告げるヒグラシの声を聴きながら、残された人生、そんな生き方がしたいとぼんやり考えています。
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