愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

奈良市中ノ川 旧伊勢道石龕仏/他

2012年07月16日 | 石仏:奈良

国道369号線、柳生街道中ノ川信号を左折すぐ脇道に左折し、林道を暫く進むとこの首無し石龕仏に出遭う。

昨日紹介の中ノ川、尾根道伝いの浄瑠璃寺へ通じる旧道は、多分南山城各地からの伊勢参詣道としても盛んに利用されて居たのだろう・・。

このなだらかな峠道より北方には、南山城旧加茂町山中の新興住宅街と、そのずっと向こうにも恭仁京(くにきょう)址や、海住舟寺のある山並も見える。

もう足音も聞こえなくなって久しい旧道の峠と思しき辺り、斜面に突き出した岩を奥壁に利用し、大きい板石三枚を組み上げ石龕を造り、珍しい丸彫り古式石仏を安置している。

もう遥か昔に頭と両手先を亡くし、近年までは江戸時代に補作された地蔵の頭部が載せられて居たようですがそれも無くなり、現在写真のように小さな小石が乗せられていて哀れを誘います。

座高1m足らず、円頭光と体躯を一石から丸彫り、別石の円盤型蓮台に結跏趺坐して居ますが・・、真直ぐ前に伸び出した両手首の先も無く、持ち物も印相も不明です。

体躯の写実的な造りや円頭光、蓮台の優れた作風から鎌倉後期の造立だと考えられています。

石龕仏の背後には背の高い石塔、元は十三重ノ塔だと思われますが??現在十段しかなく相輪も見当たりません。

初層軸部には其々月輪内に金剛界四佛の種子を薬研彫り、鎌倉後期の作風を良く表し、塔高約3.6m。

こんな処を訪れる人は相当な物好きなんでしょうね・・・・・・。

撮影2011.7.9


奈良市中ノ川 辻堂地蔵石仏

2012年07月15日 | 石仏:奈良

大事な錫杖と宝珠を放せず、手も突けないまま、偶々そこに有った硬い石角にでも顔面から倒れてしまったのだろうか??何とも痛ましいその顔面。

目鼻立ちもあったものでは御座いませぬ。

奈良市中ノ川町は奈良市街、般若寺より柳生へ向かう国道369号線、中ノ川町交差を県道33号線方行に取るとすぐに出遭う集落。

京都府南部の旧加茂町に接しており、ちょうど浄瑠璃寺の裏手山懐にあたる。

中ノ川町バス停横の在所道との四辻に吹き抜けの簡素な辻堂が建ち、小石仏と共にこの地蔵石仏が安置されている。

地蔵石仏はいつの時代にどんな理由で倒壊、顔面を強打したのだろう??ちょうど目の下辺りで光背までも写真のように、上下真っ二つ。

御覧のように余りにも痛ましい姿です。

総高120cm、立派な舟形光背を持つが折損、室町期の特徴有る蓮華座に立ち、見た目はもっと大きく見えますが・・・像高約90cm。

右手錫杖、左手宝珠の定型地蔵立像、光背にしっかり読める室町中後期、永正14年(1517)銘。

いつの時代からその目は光をなくしたのだろう、見えない歳月を心眼で見てきたのだろうか?? 

硬く結んだ口元も何を語るでもなく・・・

背後に置かれた阿弥陀と地蔵の双体箱石仏。

こちら、いかにも可愛い阿弥陀板碑。

ここ中ノ川は奈良から「石仏の里・当尾(とうのお)」への道筋にも当たり見るべき石造品も多く残されている。

撮影2012.7.8/他


大淀町今木 泉徳寺権現堂外石仏群

2012年07月14日 | 石仏:奈良

昨日紹介の蔵王堂の傍らにも蔽堂が有り、堂内の石像と一群であったと思われる同年代の石像が多数 安置されている。

最近造られたであろう切石で造られた三段の基壇の上に、修験道特有の一種独得な十体近くの石造物が立ち並んでいる。

後段中央には他では見たことの無い 「天女不動大日石像」その前壇には見慣れない形の 二神坐像・・・・、他にも見慣れないものばかり。

高さ125cmの花崗岩自然石に上から飛天女、不動明王立像、智拳印を結ぶ大日如来坐像を刻んでいる。

なぜ不動像の上に天女が居るのだろうか??下部の大日は頷けるのだが・・・。

 

中央の不動明王がとりわけ大きいのは修験道関係の石仏だから??

風化が進み現地では余り良く見えもしない。

前段の頂部を山形に造った立方体の正面、月輪の中に男女二神座像を刻み出す備中式の道祖神。

高さ約50cmと小さいながら物珍しく、僕は初めてお目にかかる。

他にも上部に如来坐像、その下に不動明王立像を刻み出したもの。

これは善女竜王と呼ばれるもので竜に乗る衣冠束帯の神像を刻みだす・・・・と言う全く見慣れぬ石像で戸惑うばかり。

その他にも十一面観音立像や倶利伽羅不動像なども見られる。

一方、泉徳寺境内傍らには、墓地から移されたと云うこんな男女二神像も・・・・。

大和地域では馴染みの薄い道祖神信仰の石像のようです。

奥に見えるのが権現堂仁王門

ここ泉徳寺、とりわけ権現堂では修験道の一種独得な石像物が一同に会して、僕の頭は暫し混線状態。

今はなんでもない田舎寺院の佇まいですが・・・。

撮影2011.7.13


大淀町今木 泉徳寺蔵王堂石仏

2012年07月13日 | 石仏:奈良

嘗て女人禁制の信仰の山、吉野金峯山寺への古い参詣道にあたるこの大淀町今木の権現堂には、その信仰の思いを託す様に修験道の特徴有る石造物が数多く残されている。

権現堂の在る泉徳寺はJR和歌山線、近鉄吉野線、共に吉野口駅より国道309号線で約約3kmも南下した吉野川分水路脇、北面する山裾に建つ、役行者賀創建した大峯修験道のための入峯行場として知られている。

問題の権現堂は寺の東側、山の斜面に伸びる石段の上に仁王門が建ち、またその奥の石段を登ると権現堂が建っている。

仁王門の中央には天狗像、左右袖には木造仁王像。

泉徳寺の正式名称は「高野山真言宗天狗山泉徳寺」と云うらしいから、天狗にまつわる由緒でも有るのだろう・・・権現堂のあたりを指して「天狗山」という名前がついていたことでもわかります

所謂、今木権現堂と呼ばれる建物には権現堂の文字は無く蔵王堂に成っている。

内部正面に真新しい基壇を設け中央には主尊の蔵王権現石仏、向かって右手に双竜神、左手には役行者三像を置く。

主尊の蔵王権現は金峯山寺の本尊でもあり、高さ約1.3mの自然花崗岩に右足を上げ岩座に立つ蔵王権現像を中肉彫りで刻み出す。

動きの有る肢体、火焔を負って、三眼炎髪、右手に三鈷、左手は弥勒印を示し、独得な像容。

光背の向かって右側面に「備中国堺目東定久女人本願、永禄十二年己巳三月十一日」の刻銘があり、室町後期の永禄十二年(1569)、備中の女性が女人禁制の吉野金峯山寺に思いを馳せ、この地に奉納したもののようです。

右側の舟形状花崗岩に蛇が交互に絡みついたような双竜神石像、高さ約125cm、頂部には蓮華座上の馬頭観音と阿弥陀如来像(大淀町説明板)が刻まれている。

普段余り見かけない石像です・・・・・・室町時代後期 永禄十二年

高さ約1mの  役行者倚座像と前鬼・後鬼の丸彫り三像です。

これらは総て遠く離れた備中、山陰地方の女性達が女人禁制の修験道の山を目前にして適わぬ夢を託して寄進したものだそうです。

女性が不浄だと言うのはどんな理由があったのだろう??現代じゃ一寸考え難いような・・・・。

撮影2011.7.13


桜井市今井谷 如来形磨崖石仏  

2012年07月12日 | 石仏:奈良

どうしてこんな棚田畦道の片隅に磨崖の石仏さんが有るのやら・・・・・。

往時この石仏の横を多武峯(とうのみね)参詣道が通っていたのでは無いだろうか??さも無くばこの地に廃寺でも在ったのだろうか??

田圃の畦道脇に大石が突き出し、石仏が刻まれるのは、何とも不思議・・・しかし今やそれを窺う何物も無い。

昨日紹介の地蔵堂横の谷川沿い、棚田へと続く畦道を奥に詰めていくと畦道の傍らに覆屋が有り、中に有る大きな山形石に小さな石仏さんが刻まれて居ます。

ここまでしても赤い涎掛けは掛けなくてはダメなものでしょうかねえ・・・・・・。

それが地蔵さんで無く磨崖の如来さんで有ったとしても・・・最早ここまで行くと信仰心の執念ですね。

掛け辛い磨崖の石仏さんも苦笑いです・・・・、僕はしっかり外させて戴きましたが。

像高約30cmばかり の小さな如来立像が刻まれ、地元では薬師さんと呼ばれ信仰されてるようです。

素朴と云えば聞こえが良いけど拙い彫りでも、どこかほのぼのさせてくれます。

こんなに小さくて拙い石仏でも磨崖の石仏を見掛けるとなぜかしら心踊るものがあります。

何故こんなところにこんな石仏が・・・と、考えるだけでも楽しくもあり。

桜井市今井谷・・

この奥、多武峯(とうのみね)には明治の廃仏稀釈までは多くの寺々が存在して居たのだろう。

撮影2011.7.13


桜井市今井谷 地蔵堂地蔵石仏

2012年07月11日 | 石仏:奈良

今井谷の旧多武峯参詣道脇に地蔵堂が在り、一体の地蔵石仏と二体の名号碑が並び立っている。

大きな桜の木は昔と変わりませんが、道路が新しくなりすっかり見紛うばかりにコンクリート擁壁に囲まれ、おまけに手摺まで付いた階段もつけられています。

談山道の県道37号線から、高家(たいえ)を経由して明日香八釣(やつり)へ抜ける道路と、 旧多武峯参詣道の交差点南側。

三体の中央に立つ地蔵石仏は、足許をコンクリートで固められていますが総高約150cmの舟形光背を持つ定形地蔵。

形式化した線彫りの二重蓮台に立ち、像高約1m。

石材は分厚いものの、刻み出した地蔵は中肉ながら薄く迫力に欠け、力量不足が目立つ素人彫りに近い。

磨耗が進んで居るのではっきりとは云えませんが、像容もどこか稚拙でぎこちなく、しかし頭部は事のほか丁寧に彫られて居るようです。

光背の向かって右側が大きく欠落してますが大勢に影響なし。

紀年は不明ですが、江戸初期ぐらいの造立でしょうか??

撮影2011.7.13


桜井市上の宮 旧多武峯(とうのみね)参詣道付近の石仏

2012年07月10日 | 石仏:奈良

桜井市街より、談山神社の在る多武峯(とうのみね)方面、あの聖林寺へと続く旧多武峯参詣道筋に見慣れない姿の石仏が在り、付近で見かけた石仏と共に紹介します。

そこははかと懐かしい景観を残す街道筋・・・、しかしこんな佇まいを見られるのもこの一画だけですが・・・・。

しるしの杉玉が居並ぶ造り酒屋さんの玄関口、談山正宗の名も見え、ここが談山神社のお膝元なのだと知る事が出来る。

そんな街道筋の古い景観を消しゴムで消し去ったような店先の、裏口正面にどかっと腰を据える大きな石仏さん。

勿論、石仏さんが先ここに居て、建物は最近こうした形で建てられたものでしょうが・・・・

周りに雑多のものが置かれ、石仏さんも日常生活に紛れ込んでいます。

まあ、これも庶民信仰、野に置かれた石仏さんの一つの姿なのでしょうが・・・・。

石仏は高さ約1.5m、大きな舟形光背を持つ如来形坐像ですが、右手は胸元で立て拝みし、左手は膝元で五指を揃えて手の平を見せる見慣れない印相。

目元、瞑想状態のように薄く閉じ、頭上の螺髪は立派ですがどうも馴染めない・・。

向かって右側、光背に宝永七年(1710)の紀銘が在り江戸時代中期の像立。

やっぱりなあ・・・という感を強くする。

近く街道の辻を西に折れ、立石橋の畔にはこんな地蔵さん

これも余り見慣れない顔付の地蔵さんだと涎掛け外してみると・・・・、やっぱり明治後期の近世仏。

やっぱり何かが違います。

近く寺川沿いの斜面に有る高田墓地の地蔵堂には・・・・

心落ち着くこんな地蔵さん。

総高約1mばかりの定型地蔵、磨耗風化が進んでいますが、見慣れた像容で少し童顔

台座はコンクリートで固められ、決定打には欠けますが・・・、室町期の地蔵石仏でしょうか??、古いものが良いと云うだけじゃ無く、どこか落ち着けます。

撮影2011.7.13


奈良市法蓮佐保山 興福院(こんぷいん)墓地阿弥陀石仏

2012年07月10日 | 石仏:奈良

奈良市中心街の真北、奈良県総合庁舎裏に当たる佐保山の山懐に抱かれ、格式有る尼寺の興福院が在り、その西に連なる墓地に等身大阿弥陀石仏が有る。

興福院は元近鉄尼ケ辻近くに在り、天平勝宝年間(749~757)、和気清麻呂が聖武天皇の学問所を移して創建し、現在地には江戸時代の寛文五年(1665)に移建し、元禄の頃に寺観を整えたと伝えられている。

夏草に覆われるかのよう、墓地の中央辺りに一目でそれと分かる背の高い石仏が単立しているが・・・何かとってつけたような感じもしないではない。

この石仏も尼ケ辻から引っ越してきたのだろうか??・・・・、そう言えば尼ケ辻方面には良い石仏が集中している。

 総高215cm、像高160cm、二重蓮台の上に立つ上品下生の来迎印を持つ阿弥陀如来立像。

厚肉彫りで刻みだされた体躯、尊顔共にゆったりとした優しい曲線で、特になで肩は特徴的。

鼻の頭が少し欠損する以外殆ど傷みも無く良好な保存時状態です。

紀銘は有りませんが鎌倉後期の像立。

この時期京都での如来石仏には坐像が目立つが、ここ奈良にはこうした立像の如来石仏が多い。

撮影2011.7.8


京都市左京区 小町寺(如意山補陀落寺)石仏群/他

2012年07月09日 | 石仏:京都

先日紹介の恵光寺から府道を挟んで対峙する寺が在り、通称小町寺と呼ばれ多くの石造物を残している。

小町寺と呼ばれる如意山・補陀洛寺は「小野小町」が晩年、小野一族の領地であり、父が住んでいたこの静原に帰り着き亡くなり、野晒しになっていた亡骸を弔った地であると伝える。

府道脇から直登の石段を登ると真正面に「小町寺」の扁額の掛かる最近建て替えられた新しい本堂がある。

本堂の正面には鎌倉期の像立だといわれる見事な阿弥陀三尊。

寺の上段は往古近隣の村々の郷墓があった土地、補陀落寺もそうした墓守寺の一つとして建立されたようです。

そんな墓地の最奥には基壇が設けられ、石仏がずらっと20m近くも並び立てられ、まさしく壮観です。

殆どは高さ50cmにも満たないような江戸期を中心とした小石仏ですが・・・・、総数にして三百体以上も有るようです。

中央後列には一列横隊で舟形光背を持つやや大きな石仏が約十五体ほど・・・、中でも中心基壇の五~六体が目を惹きつける。

中央には舟形光背の中、蓮華座上に結跏趺坐した厚肉彫りの定形地蔵、総高約1.2m地蔵坐像としては中々大きい。

向かって右隣は弥陀定印を持つ阿弥陀如来坐像、左隣には一寸見大日の宝冠と見紛う程の高い肉髻を持つ、やっぱり阿弥陀坐像??

三体共に肉付き良く、肩張り、膝張りも力強く鎌倉期の様式を良く踏襲している。

雛壇右端、一見地蔵かと見間違えた背の高い阿弥陀立像??風化磨耗が激しく 印相も定かでは有りません。

しかし確かに頭上の肉髻は如来のそれを表している。

境内から一段高い墓地入り口に建つ「小野小町供養塔」と呼ばれる五重層塔。

相輪は後補ながら塔身初軸部には顕教四方仏刻み、高さ約3m、鎌倉後期の建立。

境内脇には「小野皇太后供養塔」と呼ばれる総高2.4mにも及ぶ宝篋院塔。

塔身には月輪内に金剛界四仏の種子を刻み、鎌倉時代後期の建立。

撮影2007.3.31:2012.6.30


京都市左京区 恵光寺の石仏群

2012年07月08日 | 石仏:京都

京都に出たので一寸足を延ばして、京都郊外左京区、恵光寺に有る石仏群を訪ねた。

比叡山鉄道に沿って走る所謂鞍馬街道のまだまだ始まり辺り、静市市原町の府道40号線が切通しのなだらかな峠を越える両側の小高い岡に右手小町寺、左手恵光寺が建つ。

府道が旧道にに取って変わるまではおそらく両寺は軒を並べて建って居たのであろう??

府道から斜面を上がる参道を登り切った右手奥、土崖を背に一群の石仏が並びたてられている・・・・中心になる石仏は六体。

その脇にも小石仏が10体ばかり・・・・、赤い鶏頭の花が真をおきポツポツと供され印象的です。

中心の六体のうち中央の三体がずば抜けて大きく保存状態も良く、古式で見事な像容を持っている。

他の地域とは違った京都石仏の特徴を良く現している。

三尊の中央には高さ1.5mの舟形光背を負い、像高1.2mの結跏趺坐する坐像ですが、蓮台は殆ど土中にあり見えません。

右手、胸下で施無畏印(せむいいん)、左手は膝上に置き弥勒仏だろうか??

厚肉彫りで穏やかな表情、大きく張り出して力強い膝頭、写実的に肉付けされた体躯は鎌倉期の特徴そのまま。

向かって左手には定印を組む阿弥陀坐像、像高85cmと堂々としたもの

右手の一体も左手のものと同じく定印阿弥陀坐像で像高も等しい。

共に鎌倉期の様式を良く現していて、誰の目にも見栄えのする石仏です。

撮影2012.6.30


中京区 善導寺釈迦三尊石仏

2012年07月07日 | 石仏:京都

京都市街のど真ん中にあり、いつでも車で移動する僕にはどうも近づき難い石仏でした。

僕ら京都人が此処を呼ぶ時には、きっと「二条木屋町ドン突きの北側」とでも呼ぶだろう「浄土宗善導寺」。

喧騒と混雑の真っ只中にあり何度も躊躇していた石仏さんでしたが、やっとプッツン思い切って行って来ました。

案ずるよりも産むが安し、二条木屋町信号北側に有る竜宮門の善導寺は、門前に少しの空き地があり、短時間停車なら難なく可能でした。

写真では何度も何度も見たこの石仏は期待が大きすぎたのか、僕の勝手な思い込みだったのでしょうが・・・・思ったより小さくて唖然。

この境内の何処に有るのかと暫し捜し廻ったほどでした。

本堂脇、背の低い木立を背にして総高90cm足らず、赤っぽい砂岩にこの釈迦三尊が見事な像容で刻まれています。

清涼寺(嵯峨釈迦堂)の本尊(国宝)を模したと云われる石仏は中尊に像高約70cm、清涼寺式のあの独得な流れの衣文を持ち、右手施無畏印(せむいいん)、左手与願印 (よがんいん)の釈迦立像。

向かって右手脇侍は同様式で像高43cmの弥勒仏、左手には少し小さめの右手宝剣、左手に梵篋(ぼんきょう):を持つ文殊菩薩を配している。

永らく堂内奥にでも祀られていたのだろうか?風化磨耗の影響も殆ど無く凡そ完璧な保存状態ですが、右手如来の左目から鼻先の傷が一寸気がかり。

鎌倉時代中期 、弘安元年(1278)の銘を持つ名品で重要美術品指定。

境内脇の墓地入り口には、一寸見慣れない頭を持つこんな石仏。

両手の指先を丸めた弥陀来迎印を持ち微笑んでいる。

撮影2012.6.30


山科 四ノ宮明神の石仏

2012年07月06日 | 石仏:京都

JRの高架と新興民家の裏に挟まれた僅かな空間、狭い境内脇に粗末なトタンの覆屋を設えられ、安置されている石仏さん。

近所の子供達の絶好の遊び場と化しています・・・僕が撮影してる間も子供達かくれんぼに夢中。

山科地蔵堂脇を京阪線を越え、それと解る案内板のある民家脇の路地奥に四ノ宮明神の小さな祠と狭い境内がある。

祠の台石には琵琶琴元祖四宮明神の文字が刻まれ、この地も人康親王(さねやすしんのう)所縁の地である事が窺われる。

粗末な覆屋の下に置かれた石仏は小石仏を含めても三体、向かって左端の小石仏はともかくとして他の二体の石仏には一見の価値がある。

中央の三尊仏は、目と鼻の先に有る先日紹介の四ノ宮四体石仏にどこか通じるものが有り興味深い。

高さ約1m、舟形石の正面に、背の高い蓮華座上に座す阿弥陀坐像を中尊に、左右には観音勢至立像を配している。

背の高い蓮華座は約30cm、結跏趺坐して弥陀定印組む阿弥陀坐像は像高40cm足らず、左右の両菩薩像は共に像高ほぼ45cm。

かなり磨耗が激しく像容も詳らかではないが、四ノ宮四体仏と同時期の像立と考えられ、鎌倉末期~南北朝期の作

向かって右手の如来石仏も古式を伝える優れた石仏ですがやっぱり磨耗風化が激しく尊名も覚束無いほどです。

高さ約80cm強の舟形に整形した花崗岩に、像高約70cm足らずの如来坐像を、丸彫り近くまで深く刻み出している。

丸顔の頭上には螺髪(らほつ)まで刻み出し、衣文の流れは自然で写実的、体躯や膝張りにも力強さが感じられ、鎌倉後期の像立か??。

どうしても気に成る肩まで挙げた右手ですが・・・、僕には親指と薬指でOKサインを出しているように見えます。

膝上の左手はサッパリ何がなにやらで・・・・・弥勒仏だとする向きも有る様ですが、僕には尊名の確定は出来ません。

人康親王(さねやすしんのう)供養塔の首が挿げ替えられた如来石仏の体躯と似通っている。

撮影2012.6.30


山科 人康親王(さねやすしんのう)供養塔と石仏

2012年07月05日 | 石仏:京都

先日紹介の山科地蔵堂の裏、徳林庵東南角に人康親王(さねやすしんのう)供養塔と呼ばれる宝筺印塔と共に石仏が立ち並んで居る。

山科地蔵は元、伏見区六地蔵に在る大善寺祀られていた六地蔵の一体を保元年間(1156~1159)に、この地に移したもの。

仁寿二年(852)小野篁公(おののたかむら)の作だと伝えらる像高3mにも近い地蔵菩薩立像は圧巻ですが・・・これも鍵の掛かった格子戸よりレンズだけ入れてのストロボ撮影です。

山科地蔵の有る臨済宗徳林庵はその後、江戸時代の天文年間(1532~55)、人康親王(さねやすしんのう)の菩提を弔うために創建されたと云うが・・、死後1000年近くも経って妙な話です。

実のところ、そんな事は解らなくても良くって・・・・これが所謂人康親王供養塔。

石柱には「蝉丸:人康親王供養塔」と有りますが、蝉丸は同時代同じ盲目の琵琶法師だと云う事から混同されたようです。

中央に建つ宝筺印塔(供養塔)は塔身正面、月輪内に金剛界四仏の種子を薬研彫りする南北朝期の建立。

宝筺印塔の向かって左後に立つ石仏は・・・・・・いつものように涎掛けを失礼するとこんな像容。

総高約1.5m足らず、舟形光背を負い、右手は肩先、左手は膝の上、しかし風化磨耗が激しく印相は不明。

頭部には肉髻(にくけい)が盛り上がり如来型を示し、下部は殆ど石塊の如くに見えますが蓮台に結跏趺坐しているようです。

これだけ傷んでいると尊名は不明ですが、肉付き豊かで力強い膝張など全容からは鎌倉様式を踏襲した南北朝頃の造立か??

元は野の仏として置かれていたのか蓮台から下に土台のような石塊が有る・・・、この部分が土中に埋まり立っていたのだろうか??

右端にはこんな妙な石仏さん。

涎掛けを付けたままでは在り来たりの地蔵さん・・・外してみると、こんなん出て来ました~~~

肩から先を欠損、つい最近になり頭部と光背上部を補修したようですが明らかにチグハグ、体躯は左の石仏と同じく如来型、頭部は地蔵を意識した僧形。

元は蓮台に座する如来型坐像石仏だったのだろうが??やっぱり地蔵さんと呼んでるのだろうか??

体躯だけを見てると、殆ど左の石仏に引けを取らないが、頭部はそれを知ってか知らずか??悲しげに見える。

もう一体、宝篋印塔の真後ろに隠れるようにしてこんな石仏の残欠。

弥陀定印を持ち頭部は断裂欠損、卍の丸瓦が載せられています。

これも他の二体と同じ頃の造立だと思われます。

この塔や石仏達は、その呼び名はともかくとして、どのような運命を辿って来たのか気に掛かる。

撮影2012.6.30


山科 四ノ宮四体石仏

2012年07月04日 | 石仏:京都

「旧東海道」京への入り口、六地蔵の一つ「山科地蔵」(四ノ宮地蔵)の徳林庵が在り、その脇、昔は茶店であった民家の奥に珍しい四体石仏が祀られて居る。

往古、京都(平安京)への主要六街道入り口には地蔵尊が安置され京へ入って来る厄を防いだ、それが現在にも踏襲され8月22~23日の「京の六地蔵巡り」として残されている。

京阪四ノ宮駅、表通りの東海道を西へすぐ、六角の屋根を持つ立派な徳林庵四ノ宮地蔵堂があり、古くは東海道の祈りの場、休み処としても賑っていた事を伺わせ、当時の面影を良く残している。

そんな地蔵堂の東側、旧東海道に面して、古くは茶店として賑った懐かしい匂いのする民家が在り、外からでも石仏の有るのが確認できる。

生憎く留守もり役のお婆ちゃんが不在、何とか無理を云い娘さんに鍵を開けて戴きましたが、余り時間を取れず、前の置物までは除けられず、少々残念。

ここでも石仏は大日如来として、賑った昔そのままの気配を残す店先の奥、真正面に須弥壇を設え祀られて居る。

旅人や近隣の信仰厚かったと見え、石仏は薫煙で燻され真っ黒・・・・、本来の石の色は何処にもない。

石仏は高さ1.1m、幅80cm、舟形状自然石の上部中央に一体、下部に三体の中肉彫り石仏を配している。

上部に中尊、大日如来として信仰されている阿弥陀坐像、蓮華座に坐し、像高約30cm強。

下部左右には像高40cm足らずの勢至、観音菩薩立像・・・・、中央、阿弥陀の下には地蔵坐像を彫り出し四尊石仏としている。

中尊阿弥陀坐像、小さくて真っ黒に煤け、尊顔も覚束無いが鎌倉後期~南北朝の造立とされ貴重で珍しい石仏です。

野外に置かれた事がなかったのか?保存状態は良好この上なし。

撮影2012.6.30


山科区 将軍塚大日堂大日如来石仏

2012年07月03日 | 石仏:京都

京都の石仏として余り紹介された事のない将軍塚大日堂の石仏です。

大きく古式豊かに見えるのですが・・、管理の人に頼んでみても近づく事は許されず、堂外に少し開いたガラス戸の隙間からのワンポイント撮影に成り、全容はイマイチ分かりません。

将軍塚は東山ドライブウエーの最奥に在り、往古桓武天皇が永くこ平安京を護るようにと祈りをこめ、将軍の土像に鎧甲を着せ鉄の弓矢を持たせ、太刀を帯させ、塚に埋めるよう命じられ、この塚を「将軍塚」という。

この塚の前に建つ大日堂は明治期に付近の土中より掘り起こされたこの石仏を本尊として、明治38年付近一帯を整備、青蓮院門跡の別院として建てられた。

この将軍塚の有る山頂を華(花)頂山とも云い、この掘り出された石仏は、往古付近に存在したと伝えられる古代寺院「花頂院」の遺仏だとも考えられている。

金襴に囲まれた須弥壇奥の石仏は舟形光背を背負う、見た目、像高約1mばかり、厚肉彫りの結跏趺坐する如来坐像です。

 

足許には小石仏が何体も置かれ、おまけに新しい御前立ち阿弥陀坐像石仏が置かれ、手印も台座も良く確認は出来ない。

胎蔵界大日如来の法界定印の様でもあり、上品の弥陀定印の様でも有り・・・。

体躯も尊顔も風化磨耗が激しく殆どのっぺらぼう・・・、おまけに金襴に隠れた頭上がどうなっているのやら??

撮影位置から石仏まではほぼ10m近くも有り、これが目一杯のズーミング・・・、確かに威風堂々とした古式な像容なのですがイマイチ決め手に欠いてます。

NETをいくら検索しても何のデーターも見つからない。

唯一、寺の案内には平安時代作の胎蔵界大日如来の文字。

京都では如来石仏を何でも大日如来と呼ぶ習わしが有るようなので信頼性に欠けますが・・・・。

しかし古式で素晴らしい如来坐像石仏で有ることには疑う余地が有りません。

せめて内陣に上がらせて呉れたらなあ・・・・あ~あっ。

撮影2012.6.30