5月に予定されている私のコンサートのプログラムの中に、ドビュッシーの「プレリュード(前奏曲)」を入れています。
この前奏曲では、ドビュッシーは曲の始めのところではなくてその曲の終わりの余白の部分に各曲のタイトルを書き込むという、ちょっと変わったことをやっています。第1巻の10番。「深い静けさのうちにやんわりとなる音の海の霧のなかで」これは、この曲の楽譜の最初に書いてある言葉です。そして曲の終わりの楽譜の余白に「沈める寺」というタイトルが書かれています。このタイトルは、ドビュッシーが幼少の時に読んだケルト地方の伝説に由来していると言われています。その伝説とは、大きな教会の大聖堂のが、そこの住人の不信仰や王女の嫉妬により、海に呑み込まれてしまうという伝説だそうです。
この「沈める寺」という曲は、冒頭の付点全音符の響きを聞きながら、四分音符がさざなみのように静かに刻まれていきます。その五度和音の連なりは、それだけで人を不思議な世界へと誘って行く魅力をもっています。
その不思議な静けさから少しずつ動きをつけて、だんだん高揚していきます。沈められていた大聖堂が少しずつ姿を現し、ついには、堂々たる姿を海の上に表します。ハ長調の毅然とした和音が連なり、いかにも立派な建築物がそびえ立っている様子が強調されます。
そして、再び海に呑み込まれ深く海底に沈んでいきます。後に残ったさざなみのような音が静かに静かに余韻を残して・・・。
私は、この最後のところのさざなみのような音を聴くと、大勢の人がお経を唱えているのが遠くに微かに聞こえているような、そんな気がしてなりません。例えばタイのような仏教国で大勢のお坊さんたちのお経の声がしてくる、そんなイメージがわいてくるのです。
実際、ドビュッシーがオリエンタルなものに深く興味を示していたことはよく知られていますので、まんざら私の感じ方もまちがっていないのではないかしら?という気もします。それほど不思議で魅惑的な五度進行の和音の連なりですね。
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この前奏曲では、ドビュッシーは曲の始めのところではなくてその曲の終わりの余白の部分に各曲のタイトルを書き込むという、ちょっと変わったことをやっています。第1巻の10番。「深い静けさのうちにやんわりとなる音の海の霧のなかで」これは、この曲の楽譜の最初に書いてある言葉です。そして曲の終わりの楽譜の余白に「沈める寺」というタイトルが書かれています。このタイトルは、ドビュッシーが幼少の時に読んだケルト地方の伝説に由来していると言われています。その伝説とは、大きな教会の大聖堂のが、そこの住人の不信仰や王女の嫉妬により、海に呑み込まれてしまうという伝説だそうです。
この「沈める寺」という曲は、冒頭の付点全音符の響きを聞きながら、四分音符がさざなみのように静かに刻まれていきます。その五度和音の連なりは、それだけで人を不思議な世界へと誘って行く魅力をもっています。
その不思議な静けさから少しずつ動きをつけて、だんだん高揚していきます。沈められていた大聖堂が少しずつ姿を現し、ついには、堂々たる姿を海の上に表します。ハ長調の毅然とした和音が連なり、いかにも立派な建築物がそびえ立っている様子が強調されます。
そして、再び海に呑み込まれ深く海底に沈んでいきます。後に残ったさざなみのような音が静かに静かに余韻を残して・・・。
私は、この最後のところのさざなみのような音を聴くと、大勢の人がお経を唱えているのが遠くに微かに聞こえているような、そんな気がしてなりません。例えばタイのような仏教国で大勢のお坊さんたちのお経の声がしてくる、そんなイメージがわいてくるのです。
実際、ドビュッシーがオリエンタルなものに深く興味を示していたことはよく知られていますので、まんざら私の感じ方もまちがっていないのではないかしら?という気もします。それほど不思議で魅惑的な五度進行の和音の連なりですね。
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