Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

落ち着き払ったメータ指揮

2019-04-16 | マスメディア批評
連日のフェスティヴァル訪問は近いと言っても大変だ。月曜日の新聞にベルリン、ザルツブルク、バーデンバーデンのフェスティヴァルの評が全面に別けて書かれている。見出しは空間内の巨象である。

地元のロッテ・ターラー女史の評は、中々上手く纏まっている。オペラ批評としてどうしてもウイルソンの演出に紙面が多く割かれるが、そのいつものような絵や意匠をして、特に地球儀などバロック的としている。同時に一人だけの純なデズデオーナは白塗りの白い衣装を与える ― 月曜日に登場したペコちゃんの衣裳やピエロ姿ではない。

そこに情景に合わせて赤い玉や線が出て来る背景にブルーとグレーがあり、生と死と感じられるとする。そして影の中で演技するような歌手には極度の集中力と身体の制御が求められて、主役たちはまるで運命に翻弄される操り人形のようだとしている。そして二人の愛情は、肉体的な制御の効かないものであるよりも、近づく近づかないの接近と遭遇以上のものではないとしていて、この見方は心理的にも劇場的にも面白い。

四幕で「柳の歌」が歌われるときに、ウイルソンが取ったゆっくりとした動きがここへと全て向けられてなされていたことに気が付いたとしている、つまり若い二人へのレクイエムとなる。それでも序曲代わりの巨象とその小象のプロジェクターの意味は読み切れないようだ。

そして最もこの演出の素晴らしさは音楽に全ての自由を与えていることであり、フィルハーモニーコーアの素晴らしさにも言及しつつ、メータの指揮について批評する。

落ち着き払ったその指揮は、ベルリナーフィルハーモニカーを演出に沿った完璧なレクイエムへと導き、後期のヴェルディのオペラを衝撃的にモダーンにしたという。そのヴァークナーの「トリスタン」のような管弦楽的質を四幕へのイングリッシュホルンで、そのあとでのオーボエのエコーで聴かせ、コントラバスの響きは ― 今回これは幾つかの重要な場面で音楽的に重要な意味を示していた ― 雷の場のブラス以上にスリル満点だったとする。そして弦のトレモロは、私たちの死への恐怖となったとしている。

中々上手な書き方をしている。地元のヴェテラン批評家として、来年以降もしっかり書いてもらいたいと思う。その内容に満足であり、出来るだけこうした劇場感覚が聴衆の共通感覚となって欲しい。



参照:
Zubin Mehta überwältigt mit den Berlinar Philharmoniker durch Subtilität. Lotte Thaler, FAZ vom 15.4.2019
華が咲くオペラ劇場 2019-04-14 | 文化一般
芸術の多彩なニュアンス 2019-04-16 | 文化一般
ブラインド聞き比べ 2018-04-12 | マスメディア批評
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芸術の多彩なニュアンス

2019-04-15 | 文化一般
9時20分過ぎにバーデンバーデンから帰ってきた。オペラと同じ時刻に始まって、予定では7時45分に終わるところが、シェーンベルク後のミヨーのアンコールと最後の拍手で駐車場を出たのは8時15分を過ぎていた。

9割も入っていなかったが、とてもいい演奏会だった。全ては駐車場に下りるところで後ろを向いて女友達に話しかけるおばさんの言葉に尽きる。「よかったね、ファツェッテンライヒで二楽章、三楽章もだけどそれよりも」。この言葉は私の脳裏には浮かんでいなかったが、膝を叩きたくなる表現で、残念ながら彼女に声を掛けなかった。

まさしくこの夜の山場はそこにあって、完全燃焼の演奏ではなかったのであの盛大な拍手の本心を知りたかった。その分、四楽章もベルリンの初日よりもアゴーギク的にもとても抑えられていて、ある意味次の段階に入っていた ー 支配人が楽団が指揮にまだ充分に応えられているとは言えないが、聴きものだという意味である。勿論、日曜日もあり、更に夏のツアーもある。

最後に一人だけ二回も立たせたのはホルンのドールであったということも、その課題を明らかにしていた。三楽章のホルンでもどうしても上ずる方へと音が流れるが、シェーンベルクからとても抑えていて、注目の的となっていた。そして先ずは高く評価したい。

シェーンベルクにおいても明らかに非力なコパンチンスカヤに合わせるためのとても難しい課題を皆がこなしていて、その代表的な立場にこのドールがいたからである。同じ会場で聴いたミヒャエル・バレンボイムのヴァイオリンは協奏曲の主題を提示して主導するだけの力量があったのだが、この女流には無理であった。それをカヴァーする為に如何ほどに難しい弱音などが要求され、柔軟な奏法が要求されていたことだろう。とんでもないがギーレン指揮の放送管弦楽団では叶わなかった精度であった。

チャイコフスキーにおけるニュアンスの豊かさとは、ある意味一昨年の「悲愴」におけるあのヴァルツァーよりも高度な音楽性が要求される。そしてそれを評価する聴衆がバーデンバーデンに集うというだけで幸せに感じる。要するに音楽通であったりする訳で、要するに玄人だ。なるほどベルリンなどの大都市に行けば沢山の玄人が居住していて、音楽会にも来るのだろうが、その分母が異なるこうしたところでの比率はとんでもなく高いと感じた。

玄人とはなにも同業者や業界関係者である必要はない、高度な芸術文化が分かる選ばれた聴衆とも言える。上の言葉でどんな高級紙でも大見出しに出来るのだ。なるほどヴィーナフィルハーモニカーが、「バーデンバーデンの高度な聴衆に、また呼んで貰えることを願っている」というのはなにもお上手で言っているのではない。本当に良い聴衆の前で演奏するのはとても怖いことであるとともに、やりがいのあることに違いない。

チャイコフスキーの第五番交響曲というややもするとこけおどしのような交響曲において、その交響曲の内容を問う演奏、そしてその内容をニュアンス豊かと表現する聴衆、まさしくカラヤンのチャイコフスキーなどで喜んでいたような聴衆ではない聴衆、それどころかムラヴィンスキー指揮の演奏ですら異なる視点で批判できる審美眼を持った聴衆、そのような聴衆はそんなにどこにでもいない。

なるほどオペラにおいてはミュンヘンの聴衆の域には及ばないが、まさしくシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲ほどの抽象的な音楽を聴きに来る聴衆である。スパーオパーが定着するようになればメッカたるだけの聴衆の基礎は既にあるということである。とても嬉しく思った。もう心配は要らない、ベルリナーフィルハーモニカーも音楽芸術を率先していける、そして音楽芸術における更に大きな可能性をバーデンバーデンも提供していけると思う。



参照:
華が咲くオペラ劇場 2019-04-14 | 文化一般
運命が拓かれるとき 2019-03-11 | 文化一般
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華が咲くオペラ劇場

2019-04-14 | 文化一般
バーデンバーデンから10時半過ぎに帰宅した。暫くしてから呟いた。本当に久しぶりの本格的オペラ体験だったと。キリル・ペトレンコ指揮の楽劇などはオペラではないのは当然だが、ザルツブルクで数々体験したものも劇場の本当のオペラではなかった。記憶にあるのはベーム指揮とかシュタイン指揮とか、もしかするとスイトナー指揮のオペラなどを彷彿とするものだった。なにが違うのか、詳しくはメモだけを整理しておいて、もう一度出かける火曜日に楽譜に目を通してからになるだろうか。

終演から一時間以内にネットに上げたジャーナリストがいる。彼によるとメータのあまりにも遅いテムポの指揮に管弦楽も儘ならなく、ブーを浴びる演出でと、批判が躍る。この辺りを扱うことで少し書いておきたい。明日月曜日の準備もあるのであまり余裕が無いからだ。

先ずロバート・ウィルソンの演出であるが、これは現支配人の理想とする目を瞑って音楽を聴くよりも邪魔をしないが更なる「チーズバーガーの多彩な妙味」を出す演出だった。ザルツブルクでの「青髭」などもとてもつまらなかったのだが、まさしくこの記者が合うとする印象主義的な象徴的なものこそがつまらなかったのだ。しかし「オテロ」には力強いドラマと同時にとてもクールさがある。ウィルソンが語る、「一方では静けさと冷たさが無ければいけない」という言葉に表れている。若しくはバーナード・ショーが語る「枯渇しながらもそれゆえに知的である作曲家の作品であり、自らの手法をとても倹約的に尚且つ簡素に経済的に対した」となる。

ウィルソンは北京歌劇や日本の演劇を思わすような所作に触れているが、ああした動きの演出は少なくともピーター・セラーズの表出的な動きよりも評判が悪い。恐らくそうした文化的な背景がこの不評にはあるだろう。前記の「青髭」との一番の差はその表出力にあるのだが、多くは指揮者のフォン・ドナーニとズビン・メータの劇場における表現力の相違と言えるかもしれない。

メータのそれはキリル・ペトレンコでは到底及ばない劇場におけるドラマの表出であり、ヴェルディの創作に内包するものであり、特にお気に入りの作品の細部まで熟知している劇場心である。とても重要な音楽的示唆やその全体の構成の中での起伏の付け方などまさに劇場的な感覚が満載なのだ。それは技術的には歌手や合唱との関係においてもそのようで、細かくキューを出さないで歌手のアインザッツを待っているようなところがある。そもそもペトレンコのように合わせていくと、そうした歌手が見栄を切る余裕を与えない ― 無理して入れたのはNHKホールのコンサートでのパンクラトーヴァだった。そのメータこそが三大テノールの指揮者だったのを思い出せばよい。オペラなんて所詮そうしたものなのである。だからベルリナーフィルハーモニカーの数人がフライングしてしまって、初めてフィルハーモニカーへのブ-イングを聞いた。またそうでなければ、劇場的な雰囲気の中で、その空気を吸った創作の華が開かない ― 夢は夜開くならず、華は劇場で開くである。

それがエンターティメントで留まらないところに劇場の音楽劇場の社会的な価値がある。しかし、バーデンバーデンのように通常の公立歌劇場でないとどうなるのか?これは来年以降も話題となるのであるが、そこにまた違う可能性を見出す。そして、ウィルソンのなによりも素晴らしかったのは、劇場空間を活かしていたことであり、それが劇場での実地の判断で為されたかどうかは分からないが、メータが係っているのは間違いない。少なくとも、二幕の独唱者陣を前後に動かしたり、デズデモナーを後ろでまたは前で歌わせて音響的にとんでもない効果を上げていた。これは正しく昨年まではあまり触れられなかったこのバーデンバーデンの祝祭劇場の稀有の音響を引き出していた。

つまり、そもそも昨年サイモン・ラトルが「パルシファル」を振るにあたって、その抜群の舞台との距離感と音響に触れ、またキリル・ペトレンコも満足したという言及があって急に注目された点で、我々聴衆側でも様々な席を試すうちに得られた結論と合致している。要するにそのピットからの響きの透明さと明白さ、同時に声とのバランスと混ざり合い、また前方で歌うときのその歌詞の明瞭性と後方からの響きの美しさは恐らく過去の劇場には無く、私の知る限りバーデンバーデンにしかない音響の素晴らしさで、まさしく世界のスーパーオパーを上演するにふさわしいメッカだ。

歌手陣は、恐らくフィルハーモニカーの抑えたものであっても劇場のそれに比べるとピッチの問題もあって高域の二人とも厳しかったが、ヨンチェヴァは昨年のミュンヘンでのハルテロスなどとは完全に一ランク上の歌唱だった。フルートのパウに合わせて歌うだけで金を取れる上演だった。スケルトンは予想通り中域でのそれがトリスタンにおけるのとは異なって表情が豊かだったが、その音楽性はカウフマンのその領域には到底及ばない。それでもカウフマンの声質について文句をつけるのだろうか?イアーゴもフィンリーに比較するまでもなく、それほど悪くはないが存在感が十分でなく芝居を作れていなかった。その他の脇役などはミュンヘンには人材があり、選ぶ余裕があり、少年少女合唱も全く質が異なった。(続く



参照:
落ち着かない一日 2019-04-13 | 生活
やはりライヴに来て 2018-12-11 | 音
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落ち着かない一日

2019-04-13 | 生活
一日中仕事にならなかった。次から次へと最後の広報活動が繰り広げられて、そこに乗ってしまうと簡単にヴォランティア―の域を超えてしまった。更に13時30分からツアー中のクリーヴランドの管弦楽団生中継となると全く時間が無くなった。

広報の手伝いで何枚売れたかどうかは分からないが少なくとも来年以降の活動に影響を与えたと思う。それで本望である。前日のSWRによる総稽古報告内容を観ると、バーデンバーデンの復活祭が完全に今でとは異なる次元に入ったと確信した。なるほど昨年の「パルシファル」もある意味ミュンヘンそれよりも価値がある面もあったが所謂音楽劇場としての芸術的な意味は皆無だった。その責任は、決して演出にあるのではなく、素人劇場指揮者ラトルにあると確信した。

メータの指揮姿が一瞬映るだけで、これは違うと思った。何が違うかというと、ある意味散漫に見えても舞台の上から裏までに気が回っていると直ぐに感じた。恐らく経験というもので、それは無能なティーレマンのような指揮者にも備わっているもので、やはり埃だらけの劇場で長く勤めていないと身につかないものなのだろう。

故モルティエの遺書に書いてあるのは、指揮者が制作の最初から影響を受け、与えながらの過程が出来る人と出来ない人とが存在するということで、ツェッチマン支配人でさえその緊張関係に言及していたぐらいだから、まさしく劇場の舞台裏の人までを含んでの制作なのである。指揮者メータのどっしりと落ち着いた姿勢はそれだけでも存在感がある。ラトルが必死に練習して振っていても到底及ばない覇権である。総稽古ではアンサムブルが締まら無かったがどこまで初日に持ってくるか?タイトルロールを歌うスケルトンは少なくともトリスタンよりは声があっているようだ。よく出ている。

なによりも気が付いたのは、動かさない演技の中での身体の腰の入り方で、それによって緊張と緩和を表現する方法への言及で、正直今まで経験したジェシー・ノーマンの重量級のステップの左右への揺れでは殆どばかげて見えたものだった。しかしどうも予想通りドラマチュルクの指示がドラマを作っている。そもそもヴェルディの歌劇の本質は権力構造の表現であるから、嘗てヴェルニッケなどがトゲトゲの舞台で見せていたよりも、今回のウイルソンには拮抗する巨大な力があるように感じた。フィルハーモニカーが取り下げた写真には赤に血のように染まった幾何学的部分もあり、舞台も楽しみだ。

近場なので燃料もそれほど重視しないといけないことは無いが週明けにも二日続けていくので、少なくとも二往復分は給油しておいた。車ではプファルツからカールツルーヘへのラインの橋がこの二回の週末に閉鎖される。自分は通らなくとも南行の車が皆フランス経由で走るとなると渋滞も警戒しないといけない。買い物もあり、チィケットも取りに行かなければいけないので、14時前に出なければ間に合わない。

本来ならば北京からの二日目を録画するところだったが、コンサートマスターのドイツ人が、とってもMeTooで辞めた親仁の程度でないことを確認して、ここ暫くのこの楽団の低調ぶりを確認した。あれならばキュッヒルとそれほど変わらない。まさか世界の頂点があの程度では到底務まらない。来年の欧州公演までに新任が入らないと楽団の評価がガタ落ちになるだろう。メストもそろそろ辞めるつもりならば放っておくのかもしれないが、弦だけでなく全体が軋んできて仕舞っている。



参照:
ドライな方が上手く鳴る 2019-04-12 | 文化一般
ポートレートの色合い 2019-04-11 | マスメディア批評
声楽付き楽劇「トリスタン」 2016-03-22 | 音
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ドライな方が上手く鳴る

2019-04-12 | 文化一般
天気がよくなって、放射冷却並みになった。温度差が激しい。しかし乾いてくれると楽器もホールも良く鳴ってくれると思う。特に復活祭初日のズビン・メータの指揮はそれぐらいにドライな方が上手く行くと思う。その意味からはロバート・ウィルソンの演出も十分にドライである。昨年のミュンヘンでの細やかな演出と演奏も良かったが、冒頭のベルリナーフィルハーモニカーの鳴りとマス感にも期待したい。演出も彼のゼッフィレッリ演出のようには歌手もドミンゴではないのでいかないが、クールに進行して欲しいものだ。カルロス・クライバーの指揮はウェットで暑苦し過ぎた。今晩のGPの成果とその報告が楽しみだ。しかし週末には再び崩れて、週明けには強い日差しで摂氏20度へと上昇しそうである。月曜日のシェーンベルクとその翌日の第二回目公演へと続く。

バーデンバーデンのSWRのスタディオを訪れたベルリンのツェッチマン支配人が語っていたが、このシェーンベルクを出さずにチャイコフスキーの五番をハイライトとして挙げていた。恐らくベルリンでの二日目の演奏が上手く行っていたということであり、今回の二回のチャンスで少なくとも一回はそれらを完全に凌駕して欲しい。ここだけのものとして一年に一回の音楽劇場上演の演出と指揮者間の緊張関係やそうしたもろもろを超えての成功に大きな期待があることも語っていた。

彼女がなぜ簡単にオペラと言わなかったか?それは楽劇を意味したのだけではないと思う。もしかするともう一つ先のプロジェクトが進んでいるのかもしれない。勿論ベルリンでのコンツェルタンテ上演との差異を含んだ言葉かもしれないが、期待したいところだ。またフェスティヴァル特有のインターナショナルなコンタクトというものにも期待しているというのも耳についた。

もう一つ、実際にポストについて意外だったのは楽団との関係が建設的に進んでいるということで、これは以前のインタヴューでは楽団の難しさに配慮していたことからすると、上手く行っているという証拠だろう。百パーセントのキリル・ペトレンコへの支持があって、何もかもが上手く推移しているというのが実際だろうか。

カーネギーホールの前でソルドアウトのプラカードの前にデュオのユジャワンとカプサンが一緒に写った写真が出ていた。来年バーデンバーデンで席を確保した同じプログラムの始まりでもあるのでそれを自身の呟きに張り付けておいた。カプサン弟からいいねが入っていた。初の兄弟揃ってのフォローであり、二人ともマメな人だと分かった。一度放送で出来具合を聴いてみたい。

郵便桶に分厚い250ページものチューッリッヒのオペラの年間プログラムが入っていた。ネットで見ていたので関心は無かったが、念のためにもう一度ざっとページを捲った。今年のように捨てたリゲティの作品などもなく音楽監督ルイージは下らないものしか振らない。そのキャスティングなどを見ても現シーズンよりも悪い。昔は金があってオールスターのような印象があったが、その価格を見れば分かるように、ミュンヘンの方が遥かの高価になって実際に比較できないほどのオールスターキャストになっている。次期の指揮者ノセダも先日ネット配信を見たがあまり信用できないタイプだった。

同時に待っていたトンハーレのプログラム発表もワインフェストの時に一晩ぐらいで、今期よりも大分悪い。何よりも監督ヤルヴィのチャイコフスキープログラムにはあきれる。本当に六曲を一気にやる価値などは無くて恐らく録音絡みだろう。それも売れるようなものではないだろうから、評価がよくなければ意外に早く退任になるかもしれない。「フィデリオ」演奏も迷惑だ。11月にフォン・ドナーニがシューベルトを振るが、嘗てジュリーニが振ったのをバーデンバーデンに聞きに行った時からすれば遥かに遠いので動機付けが必要になる。ヤルヴィが盛んに振るために今期のように刺激的で多彩なプログラムが一挙に萎んでしまった。



参照:
ポートレートの色合い 2019-04-11 | マスメディア批評
出来上がりを予見する 2019-04-10 | 料理
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ポートレートの色合い

2019-04-11 | マスメディア批評
2019年バーデンバーデン復活祭からの中継が発表された。今年は無いかと思ったが、直前に決まったようだ。ベルリンでは演奏されない二つのエクスクルシーヴなプログラムから一つはランランの協奏曲だが、もう一つのリカルド・ムーティ指揮ヴェルディのレクイエムの二回目の演奏が時差中継される。SWR2のラディオ放送である。所謂聖土曜日の演奏会である。私も最初のコンサートでなくこの日に行く。本当なら二回の演奏会を聞き比べるのも悪くはないが、マイクが入るとなると一般的に演奏水準が上がる。独唱歌手四人の歌も楽しみになった。

これだけでも意気があがる。そこにペトレンコが現れるか?そして翌日復活祭日曜日には、恐らくペトレンコ初のポートレート番組が15時から同じ放送局で流される。話しをするのは、フランクフルターアルゲマイネ新聞で書いていたユリア・スピノラ女史である。日本ではブロムシュテット自伝のインタヴューアーとして有名になった人である。嘗てから彼女の書いたものはとても評価していたので、今回の放送も楽しみである。当日は18時からのコンサートである。彼女はベルリン在住の筈だから今後も追跡が続くのだろう。何を語るのか楽しみだ。

同時に新制作「オテロ」のロバート・ウィルソンの演出の写真が出だした。青い色合いとか光の使い方とかいつも同じだ。記憶にあるのはバルトークの「青髭」で何処が違うのか分からない。その前にドラマテュルクのコンラート・クーンがインタヴューを受けていた。それによると、そもそも凝縮した色合いの音楽から解体されていく過程と色合いが合わせられているようで邪魔にならない舞台というが大丈夫だろうか。ベルリンでの稽古から聴いていて、メータの微に入り細に入り各セクションを浮かび上がらせるのと同時に全体を平均させて音色を作る手腕と、そのヴェルディの管弦楽の交響楽的な響きがフィルハーモニカーから聞かれるようだ。

そして嬉しいことに、このクーン氏は現在フランクフルトに常駐していて、クラウス・グートと一緒に仕事をしている。そのもの昨年評判がよく出かけた「メリーウィドー」と今年同じようにワイン祭りの時に出かける「リデリンデ」も手掛けている。これはとても期待したい。ウイルソンはそのコンセプトがどうであろうと、その劇性に感心したことが無い。この人がいい仕事をしてくれることに期待したいのだ。




参照:
管弦楽演奏のエッセンス 2016-09-14 | 音
少年少女合唱団を推薦 2018-12-25 | 暦
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出来上がりを予見する

2019-04-10 | 料理
卵茹で器を使う。実験段階で、半熟の次に普通の茹で方を試す。水の量が倍ほどになったの時間も掛かった。いつものように鈴虫のような音が鳴る。翌日は半熟と普通の半分ぐらいの水で試してみた。中々いい茹で上がりだ。どうも今度のは卵の新鮮さや茹で上がりの時間と燃料消費なども考えながらノウハウを積み重ねてといった使い方になるようだ。通常の料理の按配である。

まだソーセージ類も温めておらず、ポーチドエッグもやっていないので、また破裂することもなかったので汚れ具合などはまだ分からない。引き続き試行錯誤である。使い勝手は悪くはなさそうである。

復活祭が近づいて、土曜日からバーデンバーデンへと五日間出かける。最初の週末は買い物を途中のフランスで済ましたい。価格は高くとも新鮮な野菜やらまた地中海と北海からの海の幸やチーズ、そしてワインなどを買い込む。その計画もお勉強とともに進めて行きたいが、あまりにも時間に追われていて儘ならない。

ベットの横においてある電話機が故障した。こちらの声が先方に聞こえないようだ。どうしたのかと思って持ち上げると中でコロコロと音がしていた。トランスが基盤から剥がれて飛び回っているのだ。一度修理した記憶があるが思い出せなかった。開けてみて合点がいった。半田付けのための足が短くなっていて、難しい半田付けをしたので剥がれてしまったのである。その間に購入した評判のいい半田小手を使った。中々難しかったが、何とか直った。

アナログのクラシックな電話機ぐらい買えばよいのだが、人が要らないようなものを拾って来たようなものでも使っていて不自由が無ければ、簡単に直せるようなものならば捨てられない。購入しようと思えばディスプレー付きとかアナログで中途半端なものを探すことになる。デジタルのISDN電話ほど機能がよくないからである。あまり投資したいと思わせない。

いよいよバーデンバーデンの「オテロ」のGPが近づいてきている。それにしても指揮者三人が並ぶ写真は壮観で、偶然の賜物でしかない。まさかのズビン・メータ指揮であり、通常ならばそのスケデュールを取ってということにはならなかった筈だ。ムーティに断られてからでも押さえることも難しかったであろう。一つの目の偶然のガッティの事件に二つ目のメータの疾病と復帰という偶然が重なった。

指揮者のギャラでいえば現在のトップ二人で間違いなく、普通ならば呼べなかった。今後ともなかなかないと思う。番付けで言えば、理事長と副理事長に力士筆頭の揃い踏みである。来年それを見れば分かるように、今後両横綱というのはありえても、こういうのはもうないだろう。

ガッティのお蔭で急に今回の復活祭が活況ついた。ARTEなども来年からのことを考えていて、また地元のSWRはシュトッツガルトの意向でカラヤン二世の方に予算が回るので動けなくなる。メディア的には谷になるかもしれないが、放ってはおけないほどの活況を呈するかもしれない。初日は席移動が難しい入り具合になってきた。当日券でほぼ満席になるだろう。

あとはメータがいい指揮をするかどうかで週明けの雰囲気が変わってくると思う。月曜日の二日目の練習風景の写真を見るとインタヴューをしていたベネディクスベルグレーがコンサートマスターをしている。そしてペトレンコ指揮はスタブラーヴァだから、ムーティ指揮に樫本となるのだろう。これだけで大分想像がつくようになる。



参照:
茹で過ぎにならない実力 2019-04-07 | 料理
不整脈辞退を受けて 2018-12-08 | 文化一般
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ティーレマンも恐らく失う

2019-04-09 | 文化一般
先日東京の「春祭」から戻ってきたヘイト親仁が何かを書いている。ザルツブルクからで、どうも取り巻く環境が落ち着かないらしい。ティーレマン支持者としては直にインタヴューしていないでも先週の言動から自らも「コブラ返し状態」に取り付かれているようだ。

先ずはティーレマンの発言を引用して自らのクレドを忘れない。「時にはプロイセンらしく、堅持に教育されていて、理想を求め、硬直しない限りにおいての規律をよしとするものである」。結構、そしてこの親仁は未だに未練がましく呟く、ティーレマンが土曜日に初日を迎える「マイスタージンガー」をやるにはやはりプロイセンのフィルハーモニカーだったら、ハンスザックスの言うように「君らには楽だが、僕には厳しいのだよ」と、本当は些か生意気な連中の鼻先にあてていきたいところだったとしている。

私の真似をして楽劇から言葉を抜き出すしているのは良いのだが、「ハンスザックス」と皆から祝福を受けた後の歌いだしの言葉で一体何が言いたいか?どうもティーレマンの権威で奴らを捻じ伏せることで、素晴らしい「マイスタージンガー」が叶ったということらしい。それはそのように思っていても自由なのだが、この親仁の卑怯さはいたるところに表れる。

つまり私が既に纏めたような客観的状況を書き記して、要するにティーレマンは「糞まみれの糞」と罵っていても、情勢が変わることを信じているらしいがと、彼自体がザルツブルクの人たちが得意な陰謀の罠に落ちていて、清浄出来るのだろうかと、また同時に三者の言及として特に魅力の無いバーデンバーデンから高いフィルハーモニカーを取り戻す心算なのだろうかと如何にも客観的な立場にいるかのように書き綴るところである。少なくとも両音楽祭の関係者からするとあまりプレス席を提供したくないような御仁である。

なるほど、「仕舞いにザルツブルクは、高価なフィルハーモニカーも連れ戻せず、ティーレマンも恐らく失うことになる。」とまるでザルツブルクを脅すような書き方をしている。まさしく親仁が一派として書ける最大級の支援の心算だろう。まさしく、上のプロシアへの言及といい、この脅迫紛いの客観的指示といい、支持者がこれで支持されるのがあれだ。要するにバカの一派である。

ローマの第九に対してもう一つ踏み込んだ評が出ている。それによるとペトレンコが戻ってきたのは2013年の「ラインの黄金」以来らしいが、その特徴を「細部に拘りながらも全体像を失わない」と綺麗に纏めつつ、その繊細なペトレンコは、このEUの歌にもなる歴史的な価値のある作品を、決して腰掛にゆったりと座ったり寝そべるようなことを聴衆には許さず、また複雑で身を乗り出す聴衆にも場所を与えず、ふにゃふにゃすることもなく、受け身の態度をも許さず、明確な指示とその強靭なその推進力において、また早いテムポにおいて、ダイナミックスのアクセントに、現代的な譜読みによって一つ一つの音符へと惹きつけるその能力でと皆を駆り立てたとする ― イタリア語の自動独訳なので抄訳からの意訳は試みていない。

「喜びの歌」では、合唱と独唱者が歌う総合的な音の建造物の終わりには、魔法から解き放たれたように、イタリアでは珍しく十分に及ぶスタンディングオヴェーションがなされた大成功が伝えられている。同時にサンタツェチェチーリアのサイトにはその様子を伝えるヴィデオが提供されている。興味深いのは指揮者が一身にブラヴォーを受けていて、私たちが思うような声への反応はあまり独唱者に浴びせられていない。ドイツ語の歌は胸騒ぐものでもないと思われる。三日とも初日を除くと殆ど満席に近かったようで、価格も手頃だがローマでは大成功ではなかったのだろうか。

ベルリンのフィルハーモニカーがメータ指揮で日曜日から「オテロ」の舞台練習を始めた。少なくとも復活祭シリーズとなってから初めての本格的なオペラ指揮者が登場することになる。上のティーレマンは、「ザルツブルクの大劇場ではアシスタントを欠かせないほど、バイロイトに次いで、奈落で演奏するのは難しい」としていたが、オペラ指揮者でもあるメータ氏の感想も聞きたいところだ。恐らくかなり興味を持って仕事をしていると想像する。聴衆側もラトル指揮では全くオペラ通には物足り無く、雰囲気が出なかったが、メータ指揮の楽劇ということで、今までとはまた違う会場の雰囲気が出ると来年へと弾みがつくと思う。先ずは初日だ。



参照:
不整脈辞退を受けて 2018-12-08 | 文化一般
還暦おめでとうの誘い 2019-04-02 | マスメディア批評
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睡眠が浅かった朝

2019-04-08 | 雑感
森の駐車場にも花が咲いた。緑も息吹いてきてもう直ぐ葉桜のようになるだろう。週末三日続けて走った。木曜日が降雨で、金曜日に延ばした。そして土曜日にパン屋に行くと日曜日も開くようになったと教えられた。夏季である。すると日曜日も軽く走ることになった。距離もスピードも何でもないが、三日続けて走るとなると体が締まってくる感じだ。

実は夜中に録音していて睡眠が浅かった。というかあまり眠れなかった。完全に寝不足だったので余計に無理して体を動かした。兎に角、パン屋に行き目を覚ました。花冷えでパンツは脱げてもフリースを着たままに走った。汗を掻いたが短い距離なのでそれでよかった。

夜中に録音していた二曲を流した。クリーヴランドの管弦楽団がジュピター交響曲とアルペン交響曲を並べて演奏するというものだ。ここ暫くのメスト指揮の演奏がどうも冴えないが、モーツァルトも弦楽合奏が物足りないないだけでなく、何か指揮がおかしい。モーツァルトを苦手にしているのかどうかは分からないが、とても難しそうである。アルペン交響曲になると更にこの楽団のユニークな特徴が徒となっていて、そもそもこの会場でこのような曲を演奏するのが無理なのだろうと感じた。

やはり限られた時間でプログラムを作っていくのがいかに難しいかであると思う。何度も繰り返せば到達できる域から大分遠い。その意味からするとベルリンのフィルハーモニカーの方が初日から結構纏めてきていると思う。やはり弦楽陣に関してはフィラデルフィアの方が上だなと改めて思う。勿論木管の合奏は到底及ばない。兎に角会場の音響が飽和してしまうから大変だ。テムポも明確でなく、メスト指揮のシュトラウス楽劇解釈が危惧される。



参照:
ずぶ濡れの野良犬の様 2018-09-03 | 音
「私のこと考えてくれて」 2019-02-25 | 女
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茹で過ぎにならない実力

2019-04-07 | 料理
新しい茹で卵器を早速試した。先ずは設置する台を掃除して、今まで使っていた器からの吹き零れなどの汚れを抜き去る。電源は同じところから取る。電気量は、五年近く前に購入したドイツブランドセヴェリンが400Wそして今回の英国のラッセル・ホッブスが365Wとなっている。購入価格は、其々39,99と34,99ユーロである。このインフレのご時世に嬉しい値下げである。

蒸気が充満するところの容積は後者の方が大きい。注文するにあたって気にしていながら分からなかったのはいつも使っているご飯を温めるための茶碗が入るかどうかだった。電子レンジを使わないので、卵茹で器でヴィーナーから野菜、マウルタッシェまでを蒸らす。だからスペースが欲しいのだが、蓋は球状ではないので容量があるとしても、写真からして卵を置く穴をの敷居だけを外すことが出来ないようだった。実際にその通りで使い難いかと思えばその枠の上に茶碗をおいて蓋を閉めることも出来た。何とか使えそうだ。重さでいつか折れるかもしれないが、様子を見よう。

さて茹で方は、前者は適当に水を張っておいて、蒸気を掛ける時間を大まかに決めて、出来上がりの半熟から固ゆでまでを調整した。後者は、一般的な方法で、水のはかりに個数に応じて三種類の茹で方に合わせて水の量を調整して沸き上がったところで終了のブザーが鳴る方式である。

先ずは最も難しい半熟を一個だけ試してみた。水の量が限られるので早くブザーが鳴った。そういえば暫くは長い時間茹で卵器を点けていたことに気が付いた。少なくともこれだけで電気代が節約出来そうだ。

さて出来上がりは、白味が綺麗に固まると同時に中が固まっておらず尚且つ火が通っている感じがした。要するに腹を壊さないでも半熟が楽しめそうである。前者のものは最初から半熟にすると何か火が十分に通っていない感じがあった。時間を短くすればそうなるのは当然だった。

しかし今度は蒸気が籠る時間が短縮されるだけで、お湯が沸く時間は関係しない。一長一短があると思うが、やはり卵茹で器としてはこのオーソドックな方法の方に合理性がありそうだ。実際商品テストでは優勝していて購入者1800人以上が批評で4.5点以上を与えている。今しばらく使い勝手を含めて試してみよう。

金曜日のミュンヘンからの中継はとても楽しめた。何よりも「火の鳥」全曲が秀逸だった。休憩時間に流されたインタヴューも内容があった。指揮者のロート氏はフライブルクに並んでバーデンバーデンの定期があるごとに作曲家で指揮者のピエール・ブレーズの家を訪ねたらしい。任期の数年間、つまりブーレーズの晩年の良い話し相手になったのだろう。カールスルーへの作曲家リーム氏も話していると思うが、そこは母国語通しの気楽さと比較的若い指揮者とあって話しが進んだと思う。

それでも自作についてはシャイであまり話さなかったというが、バルトークやストラヴィンスキーなどについてはとてもたくさんの話しをしたらしい。先月のインタヴューでもブーレーズ指揮のマーラーの交響曲のCDを購入して聴いていると語っていたロート氏であるが、色々と音楽的な刺激とその作曲家の視点を学んだことは間違いが無い。

その逸話が示すかのように、ロート氏の「火の鳥」はブーレーズ指揮BBC響の演奏を彷彿させる名演だと思った。録音も持っていて色々な人が指揮をしているがあのサウンドを久し振りに聞いて嬉しくなった。BBC響との演奏会こそ生で聞きそびれて最も後悔している日本公演だったからである。

今確かめてみるとこの日の二曲目のバルトークの三番協奏曲と「火の鳥」こそ夏のルツェルンでネルソンズ指揮ゲヴァントハウス交響楽団で演奏されるそのものプログラムである ― よく見るとただの組曲だった、やはり分かっていない、つまらない録音プロジェクトになど現を抜かしていると万年前頭止まりである。しかしこのロート氏の演奏を聞いてしまうと、なるほど交響楽団と指揮の技術はルツェルンの方が上に違いないが、このようなサウンドは聞けない。なにか誤魔化しの音響が鳴り響くようで不安になってきた ― 不安と言えばロート氏がフランス訛りで「デビューで不安だ」と語っていたのがとても赤裸々で好印象を得た。

最早こうなれば望むべきところは、頂点のコンセルトヘボーなどの指揮者になって、面白いプログラムやコンサートを提供して欲しいと思う。現時点で対抗馬のハーディングのプログラミングなどを見ると態々行こうとはちっとも思わない。ルツェルンでの「トリスタン」の二幕など誰も興味を持たないので売れていない。ハーディングにはプログラミングのセンスが悪い。



参照:
壊れてしまった卵茹で器 2014-06-19 | 料理
付加価値期待の卵茹で器 2014-06-30 | 料理
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カテゴリー7ケーブル導入

2019-04-06 | テクニック
ゆで卵器とエンジンオイルに付けて、発注したケーブルが届いた。実質的に発注の翌日配送である。週明けと書いてあったが想定以上の早さだった。プライム指定にさせようと躍起になっているので通常の配達は遅く表示するようになっている。しかしそれも顧客を考えれば早く届けている限りサーヴィスになると考えているのだろう。実際に早くつくことに誰も文句は言わない。

ルーターとNASを繋ぐケーブルで所定のカテゴリー6を使っていたが、しばしば反応が悪いことがあったので、10ユーロならとカテゴリー7である。現在普通に流通しているLANケーブルとしては最高速域の600MHz高周波数通信ケーブルである。実際にオーディオPCからのアップロードが秒900KBから2400KBへと高速化している。それだけならば時間短縮でしかないのだが、PCからアップしながらダウンするときにつまり両方向への通信がどのようになるかを試してみたい。今までは両方向で動かすとAudacityの転送が不安定になりNAS再生に支障が生じた。それが解決されることを望んでいる。もう一つはVideo再生がスムーズに動くかどうかである。前者が7ユーロでNASの使用前提条件が5e以上だったのを超えていたので無駄なケーブルかなと思ったら、必需だと分かった。そして更に高速化に関心を持っていた。ケーブルも太くなっているがやはり明らかに速度が異なる。PCのハードディスクにはドキュメント類を一切入れていないので、少しでも遅滞が進むとストレスで使えない。やはりこれは助かる。

木曜日の新聞にザルツブルクでのティーレマンのインタヴューが載っていた。流石に鋭く問い質していて、本人の手の内が見えてきた。先ずは、バーデンバーデンとのスワッピングに関して、一笑している一方、「我々はザルツブルクで上手くやっているのだからと、関係者の見識に期待したい」としていて、2023年以降のバーデンバーデンでの計画については本当に知らないのかもしれない。

しかし全くバーデンバーデンへの色気を示していないのが予想と大きく外れて、彼の主張は今年の「マイスタージンガー」からかどうかは知らないが今までの実績に更に揺るぎない観客の支持を得れば、政治的にも再考察されてバッハラー支配人は撤回されるであろうとどうも本気で思っているらしい。これはアドヴァイスを受けた形跡があって、最初から自らは動かないと決心していて、ある意味自信もあるのかもしれない。しかし実際には「ドンカルロ」のあとの予算が座礁に上がるまでに強い支持を得るためには今回の「マイスタージンガー」と「ドンカルロ」でそれを示すしかない。なるほど前回のインタヴューで運命の幸運な作品とした筈だ。

取り分けザックスを歌うツァッペンフェルトなどに重荷が乗りかかりそうだ。なぜならば、「オテロ上演の時に代わりの歌手が見つからなかった」と言われ、若干声の調子を変えて、それは「突然オファーが来て暇で歌える人なんて使えるとは限らない」と答えている。まさしくモンテカルロで、ユダヤ女性の下手な指揮で転がされたトドのような演技でフランス語でタンホイザーを歌った歌手が槍玉に挙がっている ― この歌手のキャリアにまだ自分を重ねるところまでに至っていないようだ。要するに責任をそこに転嫁しているが、当時の批評は「高額券を売りながらそもそも練習したかの様には聞こえないシュターツカペレ」まで散々に批判されていた。成功するときもあれば失敗するときもある。しかしそのヴェテランオペラ指揮者の打率が素人オペラ指揮者のサイモン・ラトルと同じぐらいでは困る。

更に興味深いのは、正しく聴いて練習することの危険さを訴えて、自身にそのようなレッテルを張って、まるで自分がそこまで出来るかのように、「やろうとすれば不機嫌極まりないことになると、フルトヴァングラーやクナッパーツブッシュ、そしてヴァルターなどはその享受の原則に導かれたからこそ人気があって、一期一会の演奏があってこそだ」と嘯く。あれれ、ベルリン時代のみっともないことはもう誰も語らないと高を括っているようだ。こういうところがこのはったり人物のお粗末さである。もっと正直に謙虚に語れば池に落ちた負け犬にも手を差し伸べる人も出るのだが。一方ではソニーなどの商売の顧客になるB層の市場も存在するということだろう。

もう一点、バッハラーとの関係でのフェスティヴァルの職権の分担について、「皆が思っているような単純なものではない」としていて、「支配人と二人で総練習までも全てを決めれるのがフェスティヴァルで、こうしてバイロイト以外での全てを取り戻したと、自分だけの監督の部屋があって、サウンドチェックさせるアシスタントが居てね」とまるで職人上がりの中小企業のおやっさんみたいな威張り方をしている。未だにバイロイトの初代音楽監督の足元が揺らいでいないからの態度に違いない。

週末初日は先ずは「出来る係長」ことロート氏のバイエルン放送交響楽団デビュー公演生中継である。いつものようにマメに紹介をリツイートして貰った。実際はこちらが宣伝をして上げているのだが、恐らくご本人もここあたりが勝負ところとみているようで、一流指揮者として定着するかどうかの瀬戸際だと思う。コンセルトヘボーの後任にもカサドとハーディングと並んで予想されているぐらいだから、そのプログラミングや馴染みから一票入れたい。確かに良くなってきているところがあるので、バルトークの三番の協奏曲も楽しみだ。夏にゲヴァントハウスでネルソンズの指揮で聴く予定の曲である。


写真:フランクフルターアルゲマイネ新聞は、敢えてヒジャブ女性の権利の記事の足元に、本人も見るであろう、ティーレマンのインタヴューを置いている。



参照:
還暦おめでとうの誘い 2019-04-02 | マスメディア批評
NAS回転音の審査 2018-11-30 | 生活
パーティの王のケーキ 2018-12-23 | 料理
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雨脚が強く朝寝

2019-04-05 | 雑感
就寝中にニューヨークからの放送を録音した。いつものように生放送の時は後ろを10分ほど余分に取ってのタイマー録音である。放送局の中継ではなくてメトロポリタン歌劇場のものなので宣伝は無いか開演五分前にインする。つまり19時55分始まりだ。こちらでは翌日木曜日の1時55分となる。休憩を入れて三時間が予定されていた。

階下で音を出力するためのDACとPCだけが稼働している。だから音も出ない、PCの機械音も屋根裏の寝室には聞こえない。それでもなぜか終わった頃に目が覚めた。早めに床に就いたので、5時過ぎ間で充分に寝たのだが、目が覚めた時に小用に立ってざっとPCを覗いて完了していることを確認。先ずは他の電源を落とすと、いつもの通りのエンドレスのアナウンスが流れている。ベットに戻ってリモコンで終了した。今度は雨脚が比較的強く降っていて、走るところで無かった。結局朝寝をしてしまった。

演目は「ティトスの寛容」でお目当ては二人の歌手だ。一人はネゼセガンで先日もフィラデルフィアで歌っていたディドナート、もう一人は来年フロレスタンをバーデンバーデンのフィデリオで歌うポレンザーニである。そもそもそれほど歌手に関しては興味が無いのだが、これでもかというキャスティングの上演を毎週のように繰り返していて、こうして無料で生放送されると、もうお手上げである。そもそも演出に関しては保守的でそれほど映像が要らない劇場であるから、一体これに有料でヴィーンあたりの程度で何が対抗できるというのだろう。

完璧に録音されていた。勿論平素のライヴであるから永久保存版とはならないが少なくともお目当ての歌手の歌唱やその程度を知るには充分すぎる。無名の指揮者も決して悪くない。本当に音楽的にはオペラの殿堂の名に恥じない。ネゼセガンの力で更に程度が上がるだろう。参考に一昨年のザルツブルクの録画やペトレンコ最初の制作録画などがあるが、音楽的には適わない。

棚の奥から何か生えていた。恐る恐る引き出すとジャガイモの苗だった。目が出るというのはお馴染であるが、まさか一個奥に入り込んでいてここまで育っているとは思わなかった。ここまで育つと惜しいことをしたと思わない。そもそもいつ頃買ったジャガイモなのかも全く分からない。



参照:
僕と鉢植えバシルの木 2010-07-27 | 女
クルムベーアという菓子 2019-03-07 | 料理
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避難第三弾を計画

2019-04-04 | 生活
他所に二泊では足りない。宿泊時のお目当てとなる公演を探す。気が付かなかったが、お隣どころか同じところに公演が見つかった。シマノフスキー作曲「ローゴ王」である。指揮は日本で有名なカムブレランで、初めての曲で名前しか知らなかった。歌手陣はルーカス・ゴリンスキというポーランド人がタイトルロールを歌う。ポーランド以外では殆ど活躍していない本場ものだ。

正直シマノフスキーの音楽への見識はあまりない。先日放送されたリサ・バティシュヴィリの演奏もあまり良く頭に入っていない。手元の音源も少ない。楽譜もネットに転がっていないようなので、感覚的に掴んでいかないといけない。そもそもカムブレランの指揮でストラヴィンスキーなどの作品は聞いているがあまり感心したことが無い。しかしシマノフスキーは比較的相性がよさそうなので期待したい。そもそも私の位置からすると南にバーデンバーデン、東にシュトッツガルト、北にフランクフルトと包囲されるように振られると行きたくなくても行かざる負えなくなる。しかしそれに応えるだけの管弦楽団や合唱なのかが少し気になる。編成も大きそうで、市立歌劇場の手に負えるか?

しかしこれで全六夜の三夜を他所で寝れる。最後の終了日は早いので、実質的には二夜と四日間を我慢すればよい。そのうちに一日ぐらいは降雨があるか涼しくて、ノイズキャンセリングイヤフォーンでなんとか安念に過ごせるか。

しかしこれでまた二曲も新曲を加えてしまった。ヘンデルの方が楽譜もあるので目を通さないといけない。四月の復活祭が終わると、五月の「千人の交響曲」、そしてこの二曲にアイヴス交響曲4番、そして「サロメ」である。復活祭の「オテロ」は昨秋に続いてなので容量が分かっているが、シェーンベルクがやはりまだまだだ。「レクイエム」とここは質量とも山場になるだろう。

兎に角、昨年も市立歌劇場に入ったので馴染みの劇場になりつつある。今回も前回の価格と同様に33ユーロとなった。ヘンデルの方は後ろの方だが、正面であるから比較的良く見えるのではないかとも思っている。あまり指揮は見ようとは思わないが天井桟敷は大抵問題が無い。フランクフルトの劇場は新しい作りの割には座席の配分がもう一つである。経験が足りないので分からないが一番安い席はどうも視角だけでなく音響的にももう一つではないかと思う。小さい劇場でどうしてあれほど凸凹になるのだろう。所謂お得な席がまだ分からない。

駐車場も夜中料金は17時から8時で4ユーロ、休日は昼間一時間ごとに1ユーロとなっている。公共料金はティケット料金に一部含まれているので、上手く車も出し入れすれば安くつく。



参照:
そのものと見かけの緊張 2018-06-19 | 女
祭り会場から一時避難 2018-06-17 | 暦
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ワイン祭り避難、第二弾

2019-04-03 | ワイン
ワイン祭り避難第二弾、フランクフルト市立歌劇場でヘンデル作曲「ロデリンダ」の席を確保した。昨年リヨンで新制作上演されたクラウス・グートの演出の共同制作作品である。フランクフルト初日から気になっていたのだが、評判も悪くなさそうだ。指揮は我々のフランクフルトの会にも招聘したアンドレア・マルコンでそれほど悪くは無い筈だ。お互いに仕事で紹介されたこともあるアンドレアス・ショルも出る。バッハの会でも招聘したことがあると思うが大分昔の話でよく覚えていない。兎に角、オペラで聴くのは初めてだ。ユリアスシーザーなどは長尺なのを知っていたが、これも四時間も掛かるらしい。

それにしても完売が続いていて、昨年の同じように評判の良かった「メリウィドー」とは売れ方が大分異なる。演奏回数も多いが、また割に評判の良いシュレッカー作曲「遠くの響き」とはまた全然出方が異なる。「メリウィドー」の売りはやはり主役のマルリス・ペーターセンだたっと思うが、相手役も指揮者も悪くはなかった。しかし先日のシュトッツガルトからのマイスター指揮のヘンツェを聞くとフランクフルトの方がいいとは決して言えない。「遠くの響き」のヴァイゲルは、読響の指揮者になるようだが、これまた評判は悪くはなかった。「メリーウィドー」をマルヴィッツが振っていたのを聞くと若干荒くなっている感じがしたのだが、新聞評は「遠くの響き」でのヴァイゲル指揮に好意的だ。そして今回はマルコン指揮でバロックとなる。そこまで古楽奏法を駆使できるような器用さがあるのかどうか?但し演奏回数が多いので、ある程度ものになってきている可能性はある。

昨年買っておいたサンロマネーというのを開けてみた。ボーヌの背後にあるらしいが、あれほど凝縮していない。それでも一時的にかなり押しの強い香味を出していた。2015年産であるから熟成させなければいけないのだろうが、それほどのポテンシャルを持っていると思えなかった。それでも酸味が結構強かったので、やはりもう少し置いとかないといけないのだろう。確か20ユーロを超えていたので、復活祭にバーデンバーデンに出かけるときに途上で見つけたらもう一度買うかどうかは疑問だ。



参照:
回線違いの速度違い 2019-03-31 | テクニック
影を慕ってハムブルク 2018-12-16 | 文化一般
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還暦おめでとうの誘い

2019-04-02 | マスメディア批評
ミュンヘンのオペラでお馴染のティール氏が還暦祝いの指揮者ティーレマンにインタヴューをしている。4月2日からのザルツブルクでのマイスタージンガーの稽古を前に、お休みするという。その楽劇について面白いことを話している。ニュルンベルクへの試験でも二回これを振って、バレンボイムに代わってバイロイトにもデビューしたのがこの曲だという。そして経験を付けたことを自負していて、自分の古い録音もところどころ聴くと吐露している。これも指揮者としてそれを認めるのもとても珍しい例である。そして今の方が早く流れるようになったと漏らす。昔は詰め込み過ぎて意気込んでいたという。

そして滑稽なのが、指揮が小さくなってきたことを指摘されて、それは一流の証拠で、それをバイロイトで習ったと話し始める。なぜならば、あそこの過酷な条件では体力を温存することが大事で、客に向かっては指揮しないぞという衒いも無くなったという。これを読んで思わず吹いてしまった。目に浮かぶのは猿股にピンクのポロシャツを着てガサガサやっている姿だけだ。その通り、一流の指揮である。

その他、十年前の五十歳の誕生日の時はミュンヘンで騒動に巻き込まれていたが、今は習って何にも怒らないようになったという。もうその歳になると、自分にバカバカと苛立つだけらしい。そして最後にジャーナリストとしては欠かせないザルツブルクの復活祭について触れる。

一言「それについては、何も知らないから、何も言えないよ」と答える。そして付け加えて「急場に、シュターツカペレドレスデンがとんでもなく上手く入った」ことを強調する。ティール氏はこれはまるでミカドゲームで先に動いたものが負けだなと今更の如く書き添える。そして再びインサイダー情報として、「バッハラーをそこに据えたのはバーデンバーデンとのスワッピングが目的だ」と同じことを繰り返す。

この説が繰り返し紙上を飾る意味をようやく考えるようになった。つまりティール氏も流石にバーデンバーデンでの状況は私の呟きを読んでいるぐらいだけで分かることなので知らない訳はない。2023年までと敢えて2022年を超える計画にまで言及しているのも知っている一方、「バーデンバーデンからはベルリンのフィルハーモニカーへの投資が血を流す結果になりかねないとの懸念が聞こえて、契約を延長しないでもそれほど悲しむことは無い」としている。

この記事を再三読んで、彼の文章の読者層は少し喜ぶかもしれない、しかしそれだけだ。一番影響を受けそうなのはやはりティーレマンではないか?鷹揚になったと自身は語るが、誰よりも裏工作には余念がないであろう。そして本気になればバーデンバーデンへと自らとシュターツカペレを組でと積極的に運動するのではなかろうか?保身も含めると最も安全な道と判断してもおかしくはない。そもそもバッハラーとペトレンコが口合せして動き始めることは無い。すると来年の「ドンカルロ」の予算をバッハラーが握っていると、疑心暗鬼が醸成されて、2021年の「テュ―ランドット」どころではなくなる。

この記事には二か所注目する表現が隠されている。一つはティーレマンの立場に関して、バイロイトでは企業家としていることと、もう一つはシュターツカペレの方が先に動いて然るべきとしていることで、そもそもシュターツカペレは動く必要が無いので、まさしく動くのはミカドゲームでティーレマンとなる。恐らくこれが全体の構図であり、外堀が完全に埋められている限り動くのはティーレマンでしかない。

実際にはバーデンバーデンの方も懇意の興業師の支配人が引退を表明していて、当初の予定のような勘定方をすることが無いとなると、やはりカラヤン未亡人を通じて、奥へと手を伸ばして打診してくるということだろう。今年になってからも代表の連邦共和国元副首相、現連邦議会議長のショイブレ博士がバーデンバーデンに顔を出していたが、流石にそこは取り合わないでもその周辺の有力者へと手を伸ばしてくるということになるのだろう。
Sir John Eliot Gardiner & LSO im Festspielhaus Baden-Baden




参照:
Christian Thielemann über seinen 60. Geburtstag: „Ein tolles Alter“, Markus Thiel, Merkur vom 1.4.2019
真剣に音楽を分かち合う 2019-03-17 | 文化一般
利益背反のドレスナー 2018-11-17 | 文化一般
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