Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

イタリアにおける成熟

2019-04-21 | 文化一般
朝一番で銀行に寄って現金を下ろした。土曜日は休憩も無い演奏会だったので殆ど現金は要らなかった。支払ったのは駐車料金とプログラムで8ユーロ、エスプレッソ2.5ユーロ、水4ユーロだけだ。エスプレッソは本日にでも再びダブルで貰うよと話しておいた。屹度眠くなると思う。

朝一番で峠まで走って下りてきた。目覚めると少し寝汗を掻いていて、気温と日射の影響があると思う。だから走らずにはおけなかった。レクイエムでの90分以上の集中は結構疲れた。まだ七十中盤とはいえ、丁度バレンボイムとは一つ違いのムーティは二年前より元気そうで、身体の動きがよかった。あのころは体調も悪かったのかもしれない。それでもバイロイトなどに出るなんて馬鹿なことはして欲しくない。もっとヴェルディの後期の作品を振って欲しいと思った。

公演前のガイダンスでもイタリア音楽における円熟とは簡素化に尽きて、その代表がヴェルディで、フランス料理や香料の洗練に対照させて簡単なアンティパスタなどとの比較としていた。なるほど楽譜で勉強していて感じていたように、限られた素材で如何にがとても明晰且つ精妙な形で表現されていて、楽譜面は簡単そうなのだが一体どうなるのかと思えば、これまた恐らくドイツ風のとても凝ったものだった。あのような演奏はスカラ座では出来ない。なぜならばいつも簡素な表現が身についているからだ。

とても音楽的に充実した聖土曜日の公演だったが、待ち構えているのは復活しないランランである。ベートーヴェンの第二協奏曲が彼にとって弾ける曲であるのは分かったが、左手のパッセージをどのように弾くか見てやろうと思う。全く技術的な関心ではなく、彼自身が一体どのような姿勢で演奏しているかを見届けてやろうと思う。

そもそも即興ピアニストであった自身のための作曲のようだが、やはりモーツァルトとはその独奏も異なる。中々動機の扱い方なども重要で「誰でも弾ける」調子で演奏されたらとても迷惑だ。一体キリル・ペトレンコがどのような顔をして合わせる練習や打ち合わせをするのかととても気になる。怪我の前ならばおかしな言い訳などが無かったかもしれないが、何かそれを繕う様子を想像するだけでこちらまでが腹立たしく思う。

本日の放送が予告されていたキリル・ペトレンコのラディオ初ポートレートが既にオンデマンドになっている。内容を確認しながら、録音準備も進める。車中ではランランのお蔭でベートーヴェンを予習しなければいけない。



参照:
ポートレートの色合い 2019-04-11 | マスメディア批評
貧相なエンタメを嘆く 2019-01-03 | マスメディア批評

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