Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

華が咲くオペラ劇場

2019-04-14 | 文化一般
バーデンバーデンから10時半過ぎに帰宅した。暫くしてから呟いた。本当に久しぶりの本格的オペラ体験だったと。キリル・ペトレンコ指揮の楽劇などはオペラではないのは当然だが、ザルツブルクで数々体験したものも劇場の本当のオペラではなかった。記憶にあるのはベーム指揮とかシュタイン指揮とか、もしかするとスイトナー指揮のオペラなどを彷彿とするものだった。なにが違うのか、詳しくはメモだけを整理しておいて、もう一度出かける火曜日に楽譜に目を通してからになるだろうか。

終演から一時間以内にネットに上げたジャーナリストがいる。彼によるとメータのあまりにも遅いテムポの指揮に管弦楽も儘ならなく、ブーを浴びる演出でと、批判が躍る。この辺りを扱うことで少し書いておきたい。明日月曜日の準備もあるのであまり余裕が無いからだ。

先ずロバート・ウィルソンの演出であるが、これは現支配人の理想とする目を瞑って音楽を聴くよりも邪魔をしないが更なる「チーズバーガーの多彩な妙味」を出す演出だった。ザルツブルクでの「青髭」などもとてもつまらなかったのだが、まさしくこの記者が合うとする印象主義的な象徴的なものこそがつまらなかったのだ。しかし「オテロ」には力強いドラマと同時にとてもクールさがある。ウィルソンが語る、「一方では静けさと冷たさが無ければいけない」という言葉に表れている。若しくはバーナード・ショーが語る「枯渇しながらもそれゆえに知的である作曲家の作品であり、自らの手法をとても倹約的に尚且つ簡素に経済的に対した」となる。

ウィルソンは北京歌劇や日本の演劇を思わすような所作に触れているが、ああした動きの演出は少なくともピーター・セラーズの表出的な動きよりも評判が悪い。恐らくそうした文化的な背景がこの不評にはあるだろう。前記の「青髭」との一番の差はその表出力にあるのだが、多くは指揮者のフォン・ドナーニとズビン・メータの劇場における表現力の相違と言えるかもしれない。

メータのそれはキリル・ペトレンコでは到底及ばない劇場におけるドラマの表出であり、ヴェルディの創作に内包するものであり、特にお気に入りの作品の細部まで熟知している劇場心である。とても重要な音楽的示唆やその全体の構成の中での起伏の付け方などまさに劇場的な感覚が満載なのだ。それは技術的には歌手や合唱との関係においてもそのようで、細かくキューを出さないで歌手のアインザッツを待っているようなところがある。そもそもペトレンコのように合わせていくと、そうした歌手が見栄を切る余裕を与えない ― 無理して入れたのはNHKホールのコンサートでのパンクラトーヴァだった。そのメータこそが三大テノールの指揮者だったのを思い出せばよい。オペラなんて所詮そうしたものなのである。だからベルリナーフィルハーモニカーの数人がフライングしてしまって、初めてフィルハーモニカーへのブ-イングを聞いた。またそうでなければ、劇場的な雰囲気の中で、その空気を吸った創作の華が開かない ― 夢は夜開くならず、華は劇場で開くである。

それがエンターティメントで留まらないところに劇場の音楽劇場の社会的な価値がある。しかし、バーデンバーデンのように通常の公立歌劇場でないとどうなるのか?これは来年以降も話題となるのであるが、そこにまた違う可能性を見出す。そして、ウィルソンのなによりも素晴らしかったのは、劇場空間を活かしていたことであり、それが劇場での実地の判断で為されたかどうかは分からないが、メータが係っているのは間違いない。少なくとも、二幕の独唱者陣を前後に動かしたり、デズデモナーを後ろでまたは前で歌わせて音響的にとんでもない効果を上げていた。これは正しく昨年まではあまり触れられなかったこのバーデンバーデンの祝祭劇場の稀有の音響を引き出していた。

つまり、そもそも昨年サイモン・ラトルが「パルシファル」を振るにあたって、その抜群の舞台との距離感と音響に触れ、またキリル・ペトレンコも満足したという言及があって急に注目された点で、我々聴衆側でも様々な席を試すうちに得られた結論と合致している。要するにそのピットからの響きの透明さと明白さ、同時に声とのバランスと混ざり合い、また前方で歌うときのその歌詞の明瞭性と後方からの響きの美しさは恐らく過去の劇場には無く、私の知る限りバーデンバーデンにしかない音響の素晴らしさで、まさしく世界のスーパーオパーを上演するにふさわしいメッカだ。

歌手陣は、恐らくフィルハーモニカーの抑えたものであっても劇場のそれに比べるとピッチの問題もあって高域の二人とも厳しかったが、ヨンチェヴァは昨年のミュンヘンでのハルテロスなどとは完全に一ランク上の歌唱だった。フルートのパウに合わせて歌うだけで金を取れる上演だった。スケルトンは予想通り中域でのそれがトリスタンにおけるのとは異なって表情が豊かだったが、その音楽性はカウフマンのその領域には到底及ばない。それでもカウフマンの声質について文句をつけるのだろうか?イアーゴもフィンリーに比較するまでもなく、それほど悪くはないが存在感が十分でなく芝居を作れていなかった。その他の脇役などはミュンヘンには人材があり、選ぶ余裕があり、少年少女合唱も全く質が異なった。(続く



参照:
落ち着かない一日 2019-04-13 | 生活
やはりライヴに来て 2018-12-11 | 音
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