Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

芸術ゲマインシャフト

2019-04-22 | 文化一般
ここになんでも書くつもりだ。しかしやはり書けないことも無いことは無い。満州のピアニストのランランとキリル・ペトレンコの初共演で最終公演を観てきた。二人の共演は、バーデンバ-デンの辞める支配人が画策したものに違いない。そもそもペトレンコはこの満州人のピアニストを手厳しく糾弾していた。それをインタヴューで語ったものだからそれ以降インタヴューをしなくなった。そのことは初ポートレートの番組でも間接的にしか取り上げられなかった。要するにそれを語るとランランだけでなくてランランを売る市場やその購買者をも愚弄することにつながるからだろう。

しかし、当日の会場の雰囲気や訪れた客の顔つきを見るとピアニスト同様の知的水準の人が少なくなかった。勿論シナ料理屋のおやっさんのような、厨房で下に着ているような服装で来ている人には、それはそれでとその市場の大きさに驚くだけであるが、更に大きな問題は金もあってそれこそピアノでも習っていましたよというような客層である。高学歴で、ある程度社会的にも成功している、丁度新聞の購買層で南ドイツ新聞の読者層などである。彼らの知性と教養と審美眼の欠如がとても痛い。

それゆえにバーデンバーデンに祝祭劇場が建設されて、少しでも芸術や文化の分かる人たちを育成しようとした社会的な構想があったのだ。しかし、シェーンベルクの売れないプログラムの代わりにランランと共演させられ、そして元の木阿弥のような客層に席を売っても仕方がない。

それを考えてかどうかは知らないが、少なくとも後半のチャイコフスキーでそのような人たちをも興奮の渦に巻き込んでくれたその強い動機付けが感じられたことだけは特記しておきたい。偶々隣に座った「ランランとの出会いからプローベ」を観ていた人を、ベルリンの初日でも聴いていて、月曜日の演奏も聴いていたので、「ボンの名演奏ではあんなものではないよ」と初めから牽制しておいた。

そして一楽章が終わったところで指を立てて「これだよ」と教えておいてあげた。つまり一楽章は名演奏だった。二楽章は残念ながらドールが若干音を制御できなかったようで、月曜日には至らなかった。三楽章はある意味弦楽陣の課題が見えてきた ― つまり夏までに直せる。四楽章はまだボンのアゴーギクへとはならなかったが、もう一息で、会場は月曜日とは異なって興奮の渦に巻き込まれた。隣のお兄さんも盛んにブラボーを叫んでいた。彼は、ギリシャ人二世の名前を挙げるぐらいだから、これで少しはその違いが分かっただろうが、ペトレンコの指揮の成果はまだまだこれからで、フィルハーモニカーのやることは沢山ある。

ペトレンコが、ドールを立たせた後、クラリネットを立たせたりは当然で、この日のオッテンザムマーは初めて一流の演奏を聴かせた。最後に弦楽陣の部毎に握手に行ったのはよく分かる。その各弦の第二ヴァイオリンからヴィオラ、チェロ、コントラバスまで見事だった、それほどゲヴァントハウスを恐れることは無いと思う。あれはコンセルトヘボーでもビックファイヴでもどこでもおいそれとは出来ない。間違いなく夏のツアーには一皮剥けると思う。

さて前半に戻るとそれでも流石に、あの左腕を故障してからの演奏で歓声を上げる人はいないと思ったが、まさかと思わせた。少々ピアノを触るぐらいの人ならば、あれはアマチュア―程度であることは直ぐ分る筈だが、それ以前の指がサーカスのように回る程度で熱狂した連中はその僅か一部でしかなかったということになるのだろうか?正直分からないが、素人とか玄人の問題ではなくただの物見高い客なのだろう。

勿論私の周りでは、既に述べたように、休憩前に私が「アマチュア―」と叫ぶぐらいだから、凍ってしまっていたが、逆隣にいた婆さんが終演後に「一回だけ来るなんておバカさんだよ」と言っていたぐらいだから、なんとなく祝祭劇場の常連さんというかゲマインシャフトが出来つつあると感じた。勿論私は「来年は殆ど毎日来るからね」と叫んでおいたので、これまた幾らか影響するだろう。

それでお分かりのようにオペラ劇場だけでなくて通こそは天井桟敷若しくは安くていい席に陣取って毎日のように来るという原則は変わらない。個人的にザルツブルクのパトロンになっていた時も好んで優先的に安い席を獲得したのは、そこに座ることの意味を知っていたからである。ミュンヘンでも、何もこちらから影響を与えるだけでなく、お互いに影響しあって習いあってこそ、初めて聴衆が出来上り、劇場なりの場が完成する。祝祭劇場がいいとか、劇場がいいとかは、音響以外では、その聴衆が作るものが殆どなのである。パトロンで金を出すのも悪くはないが、それだけではいい祝祭劇場とはならないこと、これが肝心なのである。

連日のカウンターで顔見知りになったので、50セント余分に払った。これもそこの従業員を教育して雰囲気作りに必ずなると思っている。何事も一つ一つ教育的配慮を忘れてはいけない。(続く)



参照:
インタヴュー、時間の無駄四 2016-08-03 | 音
時の管理の響き方 2016-09-16 | 音
ジャンル:
有名人
コメント   この記事についてブログを書く
« イタリアにおける成熟 | トップ | 空騒ぎの二重の意味 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

文化一般」カテゴリの最新記事