アンカラとベルリンとの外交問題は内政問題となってきた。メルケル首相が「私はあなた方の首相よ」と言うように、連邦国内にいる十万人を越えるトルコ系ドイツ人に直接語りかける必要が出てきたのは、百七十万のドイツに暮らすトルコ人にエルドガン首相がアンカラの次期選挙を睨んで綱引きを始めたからと言っても良い。
SPDや緑の党では、長くトルコ人票は配慮されてきたが、キリスト教民主同盟ではこれに充分に対応して来なかったばかりか、同化への政治的圧力をかけ続けて来たことが、今回のルートヴィヒスハーフェンでの火災に端を発するトルコでの政治的なネガティヴキャンペーンとなっていて、それを利用するポピュリスト、エルドガン首相の政党AKPが背後に暗躍しているようなのである。
しかし、この問題は世界の各地で勃興するナショナリストの国際政治地図として片付けられる問題ではなく、イスラム文化ともしくは非西欧文化と西欧文化との確執になっているのが解決の困難性となっている。
エルドガン首相は、欧州民主トルコ会議(UETD)の、その五万人のトルコ人会員をオランダやフランス各国からケルンのアリーナに集め、推定三十万オイロをトルコ大使館などから集金して決起総大会を開催した。
「統合は推奨されるが、同化は人間性崩壊である」と厳しく非難し、「トルコは、君を誇りに思う」と西欧における小トルコの砦を高らかに宣言し、ドイツの統合政策を非難し、トルコ語によるドイツでの高等教育の実施をメルケル首相に対しても再三に渡って繰り返したその意味は途轍もなく大きい。トルコ語では統合を「UYUM」と呼び、これは調和することを意味して統合される事ではないようだ。
当然のことながら、それは「統合」という意味の「西欧のイスラム化」への試みである以上に、小トルコはドイツ社会でそのまま隔離・確執を招きゲットー化への流れを加速させる。トルコ人が気勢を挙げるように「昨日はユダヤ人、明日はイスラム」となるのが予想されるのである。
そして、我々はそこではたと気が付くのである。我々の立ち位置は、一体何処にあるのか?主義主張から解放されて、そう1968年の文化革命を経て我々は今何処にいるのか?
一体、我々は、最大公約数的に多文化主義の何を受け入れることが出来るのか?ここでも書いたように、もしくはカンタベリー主教が発言,したようにモスリムにはシャリアが必要ならば、それを受けいれろと言う反面教師なのである。
五百万人にのぼる西欧のトルコ人は、これに対して文化的に何を受け入れ、なにを提供するのだろう?
西欧型社会主義思想は、そのソフト面においても役に立たないことは自明である。ケルンにあるUEDT本部の開設式にはエルドガンとゲルハルト・シュレーダーが並んだ。そして、その日和見なビジネスマン外交の結果に対して前首相は何を言うのか。在独トルコ人出稼ぎ者(GURBETCI)を積極的にドイツ国籍化して一体何が得られたのだろう?最終的には、如何なる民族であろうとも少数民族保護をしなければいけなくなるのである。
CSU党首フーバーは、「エルドガンの考えは統合への害毒である」と、またSPDの国会議員ラレ・アクギューンは、「子供達の体はここで、気持ちはトルコにおいておきたいのだ」と批判する。550人のトルコからのトルコ語の教師にヴィザを与え、五十万人の生徒がトルコ語で授業を受けるドイツ連邦共和国は既に小トルコ化していると指摘される。
そうした事態を避けるために連邦共和国は存続を懸けなければいけない。そのためには、自己犠牲も避けられない。ありとあらゆる政教分離を貫くことこそドイツ連邦共和国の使命ではないだろうか。必要ならば教室から十字架を外さなければならない。
信仰の自由は、あくまでも個人の問題である。しかしその社会のなかでは、トルコ人の五万人の会員を持つ人種主義的宗教的団体ミリゲェーリュスは公安の監視下に置かれる。共産主義者と同じように監視されなければいけないのは当然なのである。エルドガンは、同じようにトルコでクルド民族を監視して尊重するのだろうか?
参照:
„Ich bin auch die Kanzlerin der Türken“,
„Die türkische Frage“, Berthold Kohler,
Integration ja, Assimilation nein, Reiner Hermann, FAZ vom 12.2.08
Assimilierung „Verbrechen gegen die Menschlichkeit“, FAZ vom 11.2.08
中野宅にて―日本のイスラム化 (伊斯蘭文化のホームページ)
熱い猜疑心の過熱と着火 [ マスメディア批評 ] / 2008-02-09
安全保障に反する支援 [ マスメディア批評 ] / 2008-02-10
出稼ぎ文化コメディー映画 [ アウトドーア・環境 ] / 2008-02-14
SPDや緑の党では、長くトルコ人票は配慮されてきたが、キリスト教民主同盟ではこれに充分に対応して来なかったばかりか、同化への政治的圧力をかけ続けて来たことが、今回のルートヴィヒスハーフェンでの火災に端を発するトルコでの政治的なネガティヴキャンペーンとなっていて、それを利用するポピュリスト、エルドガン首相の政党AKPが背後に暗躍しているようなのである。
しかし、この問題は世界の各地で勃興するナショナリストの国際政治地図として片付けられる問題ではなく、イスラム文化ともしくは非西欧文化と西欧文化との確執になっているのが解決の困難性となっている。
エルドガン首相は、欧州民主トルコ会議(UETD)の、その五万人のトルコ人会員をオランダやフランス各国からケルンのアリーナに集め、推定三十万オイロをトルコ大使館などから集金して決起総大会を開催した。
「統合は推奨されるが、同化は人間性崩壊である」と厳しく非難し、「トルコは、君を誇りに思う」と西欧における小トルコの砦を高らかに宣言し、ドイツの統合政策を非難し、トルコ語によるドイツでの高等教育の実施をメルケル首相に対しても再三に渡って繰り返したその意味は途轍もなく大きい。トルコ語では統合を「UYUM」と呼び、これは調和することを意味して統合される事ではないようだ。
当然のことながら、それは「統合」という意味の「西欧のイスラム化」への試みである以上に、小トルコはドイツ社会でそのまま隔離・確執を招きゲットー化への流れを加速させる。トルコ人が気勢を挙げるように「昨日はユダヤ人、明日はイスラム」となるのが予想されるのである。
そして、我々はそこではたと気が付くのである。我々の立ち位置は、一体何処にあるのか?主義主張から解放されて、そう1968年の文化革命を経て我々は今何処にいるのか?
一体、我々は、最大公約数的に多文化主義の何を受け入れることが出来るのか?ここでも書いたように、もしくはカンタベリー主教が発言,したようにモスリムにはシャリアが必要ならば、それを受けいれろと言う反面教師なのである。
五百万人にのぼる西欧のトルコ人は、これに対して文化的に何を受け入れ、なにを提供するのだろう?
西欧型社会主義思想は、そのソフト面においても役に立たないことは自明である。ケルンにあるUEDT本部の開設式にはエルドガンとゲルハルト・シュレーダーが並んだ。そして、その日和見なビジネスマン外交の結果に対して前首相は何を言うのか。在独トルコ人出稼ぎ者(GURBETCI)を積極的にドイツ国籍化して一体何が得られたのだろう?最終的には、如何なる民族であろうとも少数民族保護をしなければいけなくなるのである。
CSU党首フーバーは、「エルドガンの考えは統合への害毒である」と、またSPDの国会議員ラレ・アクギューンは、「子供達の体はここで、気持ちはトルコにおいておきたいのだ」と批判する。550人のトルコからのトルコ語の教師にヴィザを与え、五十万人の生徒がトルコ語で授業を受けるドイツ連邦共和国は既に小トルコ化していると指摘される。
そうした事態を避けるために連邦共和国は存続を懸けなければいけない。そのためには、自己犠牲も避けられない。ありとあらゆる政教分離を貫くことこそドイツ連邦共和国の使命ではないだろうか。必要ならば教室から十字架を外さなければならない。
信仰の自由は、あくまでも個人の問題である。しかしその社会のなかでは、トルコ人の五万人の会員を持つ人種主義的宗教的団体ミリゲェーリュスは公安の監視下に置かれる。共産主義者と同じように監視されなければいけないのは当然なのである。エルドガンは、同じようにトルコでクルド民族を監視して尊重するのだろうか?
参照:
„Ich bin auch die Kanzlerin der Türken“,
„Die türkische Frage“, Berthold Kohler,
Integration ja, Assimilation nein, Reiner Hermann, FAZ vom 12.2.08
Assimilierung „Verbrechen gegen die Menschlichkeit“, FAZ vom 11.2.08
中野宅にて―日本のイスラム化 (伊斯蘭文化のホームページ)
熱い猜疑心の過熱と着火 [ マスメディア批評 ] / 2008-02-09
安全保障に反する支援 [ マスメディア批評 ] / 2008-02-10
出稼ぎ文化コメディー映画 [ アウトドーア・環境 ] / 2008-02-14
日本では一度棄民扱いにしたブラジル移民を(「事件」報道の度)再び国内で棄民扱いする危険な雰囲気を感じますので。
さて彼らが「ユダヤ人の次は自分たち」というのは、クルド問題をユダヤ人にとってのパレスチナ問題同様に扱うのか、と訝りたくなります。
しかし、だからと言ってそれらの移民が社会基盤の弱いトルコに再移民するのは、サッカー選手など一部しかいません。明らかに移民問題は新たな次元へと進みそうです。
イスラム問題は、フランクフルトなどにも一神教研究所があり研究はされているのですが、EUがこれを巧く取り込めるのかどうか、なんともいえませんね。現在のドイツのトルコ人への対応ではとても難しそうです。
ビンラーデンの革命は、もしかすると文化的にもホメイニ革命よりも大きな意味を持つかもしれませんね。
エルドガン政府は、トルコ国民の支持も強いようで、その動向が注目されます。
ビンラーデインの事件以降、付け焼刃でイスラーム史を調べたのですけど、元々イスラム世俗主義は妥協的な側面が強いようですね。
ホメイニーはナチ左派と空想的社会主義に近いものを感じてます。従来からの世俗主義とは、同じ土俵で法学の論争になってしまう。
それでいながら勝利しているのは革命防衛隊という「突撃隊」を掌握したからだと思います。
おっしゃる通りビンラーデインは違うと思います。彼はゲバラになりたいのかも知れない。
指摘されることが多いように、高い教育を受けた人の方がより「原理主義(復古主義)」のテロに走りやすいということを考えると、実はボルシェヴィズムの変種なのではないか訝るところもあります。
すごく偏見に満ちたうえに脱線申し訳ありません。
私個人はトルコについては国民が他のムスリーム国家に対する文化的優越が保てる限りはEUに留まるのは間違いなく、楽観はしていますが。
下らない話で申し訳ありません。
トルコをEUが抱え込む形での拡大構想はあまり現実的ではないと思うのですが、どうでしょう。
合衆国のイラクはもとよりイラン政策などは、悉く反動化を進めましたが、イスラム革命化された地域は再び政教分離した世俗化が出来るのかどうか、大変疑問ですね。
現在のイランの体制もかなり激しいものがありますから、合衆国の戦略とは真っ向から対立しますが、継続性はあるように感じます。
バルカン半島などへの地理的連続性を考えると、トルコのあり方は重要でしょう。
何れにせよイスラムの文明批判は、西洋にいよいよ影響力を拡大してくると見るのです。それも、文化思想面で、如何に取り込まれていくか?歴史上での衝突は嘗て何度もあったのでしょうが、二十一世紀の場合はどうなるかですね。
それに比べると中華思想の影響力は限定されるように思いますがどうでしょう。世界は大きく動いているのは事実です。
文革とイスラム革命はまったく違うものなのですが、ナチズムが大衆運動化した過程とイランのイスラム革命の過程は極めてよく似ています。
それでも文化大革命を持ち出したのはそこにある一種の反知性主義(西欧的知識人の排撃)が背景心理が近いような気がするのです。
実態はさておき、かつてのカンボジアや今のブータンのような緩衝国や中南米で未だに毛思想を標榜する連中が存在してます。
長期的にはイスラムのファンドの経済的影響はまったく限定的であり、華人の金融ネットワークの方がユダヤ系金融機関に代わり悪玉としてスケープゴートとされることは間違いない。
黒人大統領よりアジア系大統領の実現の方が遥かに困難でしょう。ペルーの大統領選挙にアメリカが干渉したことでも明白です。
合衆国はキリスト教保守とリベラルの戦いがこれからも中心でしょう。
アメリカ大陸全体が、先の二つの潮流から見ればまたしてもモンロー主義的孤立を選んでも不思議ではありません。
ですから、アメリカの中東でのプレゼンスは相対的に低下の傾向を辿ると思われます。
おっしゃる通りその分、ロシアとEUの対立はバルカン半島からトルコを経てペルシアまで延伸しますね。
そこで中国の影響力ですがここで決着出来ないのは間違いない。
EUやイスラム資本との戦場はASEANとアフリカになりますね。事実どちらも虎視眈々ですから。
文化的影響はイスラムの学制制度が変わらない限り、中国に破れるでしょう。
中国には、東大・京大クラス、アイビーリーガーレベルの学力を持つ学生がアメリカの10数倍以上いると聞きます。今の日本のアニメの制作発注先は80%中国。そして中国映画の市場規模はすでに日本10数倍と言われています。
人口に比例して発揮しはじめた、この潜在力はもの凄いです。
このプレゼンスが増大し続けたとしたら、イスラムの文明批判と言うものも正直どう矛先が変わるか分りかねますね。
冷戦時代はこれらで文化的に完全に勝っていると思われていましたが、今はバイオ食品などへの傾倒で毛嫌いされる傾向はあっても、また経済的にはかなり厳しいとしても文化としてはまだまだ健在の様子。
これと、反近代・反知性の毛思想やタリバンの大衆運動がどのように関連するのかは別として、大衆動員力には、必ずそうした一面があるのではないでしょうか。
文革世代は今でも直接インタヴューすることが出来ますが、みっちり教えられているだけに毛思想を完全否定することは無く、影に追いやられているものの文明批評としての一面は活きているような気がします。
中華資本の存在は今後重要性を増してくる一方、既に各分野で豊富なマンパワーを示す人材とその影響力を測るのは興味深いです。数が多いだけに玉石混合なのでしょうが、その熱心な教育自体の質はかなり歪な印象は未だにあります。皆ランランのピアノのようです。
確かに中共の政策は、第三世界の盟主としてイスラムと衝突しないと信じられてますが、同様な政策を中東を中心に日本も採用して来たので今後どのようになるかは分かりませんね。