Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

活字文化の東方見聞録

2006-05-12 | マスメディア批評
「ティファニーで朝食を」の作家トルーマン・カポーティを扱って、グローバリズム下の欧州のアイデンティテーを論じた記事を見つける。このリアルフィクションのエキセントリックな、米国での古代英雄の再来として、この作家を描いた映画が三月から公開されているようだ。グレタ・ガルボの出演や大画面での映画化によって、米国人の「英雄」への冗談は失せ、過小評価されるポップカルチャーのヒロイズムとして、アンディー・ウォーホールの近くにあると言う。

どうも古代への神秘主義が問題らしい。十年間以上を掛けて、世界の30件の出版社が推進する「古代小説プロジェクト」に於ける依頼作品の出来に、モリッツ・シューラーは疑問を呈して、「今日の古代にぶっ掛けられた市民教養の粥」と批判している。それは、古代の神秘は、その原形を留めるからこそ効果を内包すると言う存在であるかららしい。

さて本題である。ヘレニズムに於ける「東方見聞」がグローバリズムの始まりと、ヨアヒム・ラタッチュは、ブロンズ後期を説明する。つまり多文化主義のセンシビリティーへの視点から、他の民族が齎したものを吸収して完成したギリシャ文明の流れを指している。具体的には、音節や子音の文字、占星術、時の計算、礼拝上の実際などの導入を言う。

そもそもルネッサンスのモデルと言ったものが、「高貴な歴史」の継続を実証している訳だが、グローバリズムのなかで均質化されないために、欧州は其々に欧州の違う古代を、世界文化との比較のなかで、確立しなければならないと、ハルトムト・ベーメは語っているらしい。

そして、ここで登場するのがハンブルク在住の作家の多和田葉子の雑誌への投稿である。彼女には、アジアの均質化がどうしても気に触る様で、独TVに於けるそのような扱いが、対米文化への対抗上 西 洋 としての西欧のアイデンディテーへの追求と対応しているとする。だから、「植民地主義の申し子」としての等質化されたアジア像が西欧には必要なのだと。全てを「西洋モダーンへの発展途上」への引き出しに整理するか、「感動的な伝統」への引き出しへと整理するかの二つしかないと言う意見の様である。さもないと、ドイツ自らの文化を、いましがた扱った第三世界からのある国のニュースと同じようにしか扱えないからだと批判している。

こうした捉えかたは西欧の立場を上手く表してはいるが、この日本人女流作家はこれを「大日本国明治革命政府のプロシア主義の導入とそれに伴う国家神道の扱いの強調」と比較する事で結論付けている。そしてこの新聞記事は、嘗ての日本の混浴のゴッタニ状態を、米国のポップカルチャーの古代回顧主義と対応させて、明らかにポストモダーンのパッチワーク文化と出来るとして結んでいる。

この女流作家の発言要旨から「アジア人なぞ存在しない」と題したこの新聞記事は、三つの雑誌を読んで、米国文化と日本人の視点を以って欧州を見る事から、そのアイデンティティーへの追求を扱った。それら雑誌の一つは政治文化エッセイ月刊誌で、一つは文芸批評雑誌であって、一つは文学研究の専門誌のようである。

言えば、このような文芸雑誌で論じられている 物 語 は、思潮としては面白いのかもしれないが、現実の欧州の日常の動きからすると明らかに 静 的 な印象しか得られない。特に、TV文化やポップ文化などをこうして上から見下ろすだけでは、どうしても箱庭的にしか見れないようである。実際の問題や実状は大分離れた所にある様な気がするのは、私だけであろうか?文学と言う性質上、その素材やジャンルがどうしても抜けられない言語表現の枠組みが存在する訳で、こうしたものがBLOGでは無しに文芸雑誌として論じられる事に限界を示している。出版社は活字文化の上にしかその基礎を置けないと言う宿命なのである。



参照:
二元論の往きつく所 [ 文学・思想 ] / 2006-04-16
漫画少女の能動的プレイ [ 雑感 ] / 2006-04-10
原理主義のアンチテーゼ [ 文化一般 ] / 2005-09-25
グロバリズム下の欧州像 [ 歴史・時事 ] / 2006-05-13

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