Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ブレーキの効く両輪に身を任せよう

2010-03-16 | 雑感
カトリック教会のペドフィリアへの圧力は一向に衰えない。緑の党キューナス女史は、教会が事件解決に協力的でないとするならばお仕置きの可能性を示唆した。もちろん、ズボンを下ろさせてお尻を叩くと言うものではなく、教会税などの経済的制裁を加えようとするものである。

世俗が深く関わることはあまり良しとしないが、世俗に経済的に多く依存している限りは仕方ないのである。特にヴァチカンは、天皇家とは異なり世俗の強力な権力を保持しているから、世俗の掟に抵触するようなことがあれば厳しく断罪されるべきなのである。

新聞の文化欄は、音楽文化的な影響に見るドームシュパッツェのペドフィリアを扱っている。当然のことながら、その天使の歌声が性的な清澄と呼ばれるそれに背反するものの反映であるのは、この宗教の本質的なものであることを間接的ながらも説明している。

そしてそこで挙がる作家の名前がゲーテからトーマス・マン、バッハからロベルト・シューマンを通ってベンジャミン・ブリテンまでであり、その天使の歌声の本質を捉えている。芸術音楽分野で直ぐに気がつくのが、ルネッサンス・バロック期における除外であり、そこでのカストラートの活躍であろう。

そのカストラートが啓蒙思想から活躍が制限されるようになると、少年合唱という不安定で裏返しに非常に性的な音楽が生じてくるのである。なにもブリテンを挙げなくとも、カトリックに劣らないほどその効果を活かした英国国教会のそれを思い出せば十分だろうか。

音楽教師におけるペドフェリアの率は平均よりも遥かに高いと断言する。それは、身体を心を使った指導であるのは、フィギュアスケートや新体操などの場合と事情が良く似ている。

「性の存在なくして愛が芽生えることはなく、愛の存在なくして性が満たされることもない。愛と性とは車の両輪。」 医学博士 奈良林 祥

それでは問題はどこにあるのか?それは、そうした価値感が商業化されることにある。その点で、児童ポルノ漫画などは、表現の自由とは関係無い所で商売をしているだけなのである。

ドイツでは、ラッチンガー兄弟が認めていたような平手打ちは、最近の判例から十万ユーロの罰金が科せられている。要するに、性の商業化とそこからの逸脱こそが罪悪であり、経済犯罪としてそれ相当に贖罪して貰う必要があるのだ。性の逸脱者を抑制する法律などは存在し得ない。これは致し方ない。



参照:
Im Gesang der Engel lauert die Versuchung, Eleonore Büning,
Vatikan weist Vorwürfe gegen Papst zurück, FAZ vom 15.3.2010
エチケットの守護聖人 (新・緑家のリースリング日記)
新たな社会規範とは処罰の規範 2010-03-12 | 歴史・時事

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