Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

若手女教授の老人へのマカーブル

2010-03-19 | 
君、今日のパフォーマンスには満足かね?

この初老の定年エリートサラリーマン風の親仁が休憩時に漏らす言葉に全てが表れているような気がした。

ユリア・フィッシャーのバッハ無伴奏ツィクルス初日でのことだ。正直、ヒラリー・ハーンとこのフランクフルトの若い教授と殆ど同じような程度にしか考えていなかった者には、片や現代の名人であるアメリカ人と同じようにこの若いスロヴェキア人とのハーフのこのドイツ女性のバッハ演奏は予想以上に面白かった。

第一夜ではソナタを順番にト短調、イ短調、休憩を挟んでハ長調と順番に弾いて行ったのであるが最初の一曲から他のこのクラスの楽器奏者では無いことが良く判った。会場の入りもあまり良くなかったので最上段の我が指定席は閉鎖されて二階の十列目の真ん中の席で聴けたのは、そうした若い弦楽奏者のそれではなくて今日の若いプロの音楽家が何をなせるかというものであった。

比較するのが悪いのだがリフェレンス録音としてヨゼフ・シゲティのそれやヘンリク・シェリングのそれを思い起こす者としては、いささかか細くあまりにも女性的でと感じる反面、チェロのマイスキーほどの精妙さをも求めるべくもなくと、どちらつかずのパフォーマンスと言えるものである。さらに、その楽器から明らかにギドン・グレメルのガダニーニから奏される調べを思い起こすが、その芸の高さを求められる筈も無い。

しかしである、彼女の奏でるバッハの調べは、そうした手本に比べても決して趣味も悪くなく、昨今の古楽器演奏の実践を良く研究しながらの弓運びなど、非常に良い中庸を勝ち得ていた。感情的な機微の表現にしても非常に音楽的であり、嘗て会に招聘された師匠のチュマチェンコ女史と四重奏団を組む名人コイレーン婦人のそれよりも良いのである。要するに並々ならぬ音楽性と呼んでも差し支え無いだろう。

そうした演奏形態から組み出されるフーガは、あっちへこっちへと大きな広がりを見せる音楽であり、ベートヴェンが成し遂げた形式としてのフーガ以前のそれである音響を示してくれたのは最大の喜びであった。

そうした演奏解釈が、有名なシチリアの章ではメロディーラインにアクセントを与える重音がやすやすと速やかに発声されるので、不満が漏らされるかと思いながらも、それは後に解決されることにもなったのであった。

少々不安定さも窺えた不満も抱えたままのパフォーマンスから、二曲目のグラーヴェにおいては彫塑に富んだアーティクレーションの妙味を示し、充実するフーガにおいても重音の音程とかキレの良さ以上に一種のドローン風に音楽のしなやかさと解放された音響を表現するが、同時にその楽器からのシェップスのマイクロフォンに乗るような引っかかりの抵抗感が適度に音響として乗せられて来る所に、なぜこの若い女性が世界の第一線に居るかを証明しはじめた。要するに、現代の弦楽器奏者として決して音の粒立ちを磨くことが音楽の表現とはならない事の自覚を、ギドン・クレメルが裏返しに強調するのとは違って、順当に音楽表現とする弦楽奏者となっているのである。

一度そうした音響表現を表明することで ― それは比較的要所を絞ったダイナミックのつけ方にも並々ならぬセンスが表れている、アンダンテの対位法にどれほどの深みを加えるかは想像に容易いだろう。

そこで休憩となるが、一人のご婦人と立食テーブルを共にしてお互い小用をしていたのだが、彼女とは何処かで会っていることもあとで思い出した。但し、同じ会員というのではなく、音楽関係の方のようであり、ちょっとした用事でお会いしたようだった。今でも特定できない先方は気がつかれていたようだった。

そうしたロビーで見かける会員を主体とした聴衆であるが、殆どが失礼ながら先の無い方々で、こうした若い地元の女性教授の演奏会としては驚くほど若い音楽学生もおらず、所謂西洋近代音楽などというものが今や末期にあることがここにも顕著に表れていた。救いようの無いこうした形式での集まりなのである。

まさにそうした状況を反映してか、休憩後のバッハには、オランダのコープマンなどが表現する茶かし白けたそれでもなく、かといってシゲティのそれに代表されるような強いアクセントをつけてそのメリハリの中の構築感に無理遣りにでも重音を発声させようとするでもない、折衷な弓使いと細かな指使いから生じる必要不可欠な発声法は見事な解決法であって、まさに現在のバッハの音楽芸術が置かれている状況を素直に体現したものであった。

上記した不満は表現術としてアダージョの長く弓をタップリと使った小節などに解決され、あくまでも拡がるゆったりとしたフーガを挟んで、色彩の妙から、そして決して運弓法を強調し無い音楽的なアレグロアッサイの終曲へと運び、抽象的音楽効果とはもう一つ別層の表現意思へと聴衆を覚醒させ、唸らせるのである。

言い換えると、大バッハの音楽に希求されるような人間性を越えるような偉大な摂理観などはあくまでもそうした意思として存在していたことを示唆するだけで、そうした高踏的な意思の表示は、それを受け止め実践することすらあまりに理に適ったことではないと言うことをその音楽実践で示しているに他ならないのである。

つまり、冒頭の教養も教育も決して欠けている訳ではなさそうな老紳士が、パフォーマンスと安物の英語の言葉を敢えて使って言わんとすることは、「そうしたバッハの音楽の意思を我々は教養として知っているが、そうした意思を直截的に表出することよりも、その意思への認識こそが教養でありライフスタイルだ」と言う冷笑の意味合いをそこに含ませていたということだろう。二十七歳の国立音楽学校の女教授が芸術家として表現し得るものはそうした「現代」でしかないのである。老人達に囲まれて死の舞踊のアンコールピースを以って自嘲的にお開きにするバッハツィクルスの第一夜であったのだ。


アンコール:Eugene Ysaye Sonate für Violine solo op. 27 Nr. 2 a-moll - 1. Obsession: Prélude Poco vivace



参照:
モーツァルト『フィガロの結婚』をつまみ聴き (日々雑録 または 魔法の竪琴)
好きな音楽が途中でとぎれる(中断する)ことを惜しむ気持ち (電網郊外散歩道)
激しい対照をなす侘びの数寄者 2010-02-21 | 文化一般
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2 コメント

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macabre (ohta)
2010-03-19 11:45:46
 表題が,特に macabre というところが,意味深いです.要するに,いまや聴衆もろくでなしになっているということですか.他人とは違う,自分で感じ,考えた演奏をする若い人がひとりでもいるのですから,まだ救われるのではないでしょうか.
高齢化そのもの (pfaelzerwein)
2010-03-19 13:28:19
少しだけ加筆しましたが、ご指摘のように状況は全くその通りであります。まさにディエスイレの骸骨踊りですね。

しかし、まだ復活祭前ですしもう少し同業者や学生が来ているかと思ってましたが、活気のあるフランクフルトでさえ、今やそうした音楽などを学ぶ若い人は殆ど居なくなっていることに愕然としました。この二十年ほどでも更に生き絶えて来たのは高齢化そのものです。

そもそもこうしたパフォーマンスは、極東や外国から来た学生さんには興味を引くものでもないと言う事かもしれませんね。

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