日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

飯田鉄の撮った「庭」の距離感 

2011-07-17 21:03:30 | 写真

新宿御苑前から10分ほど歩く`TOTEM POLE PHOTO GALLERY`で、飯田鉄の写真展「二つに別れる小道のある庭」を視て、写真家大日向欣一の問いかけによるギャラリー・トークを聞いた。5月27日、トークのテーマは「写真の変容について」である。
飯田さんからの案内葉書には「こんなことやります。例のベッサです!」とあった。ベッサは蛇腹による6×6版、レンズはフォクター75ミリF3,5、コンパクトなクラシックカメラである。

会場で配布された資料には、バーネットの「秘密の花園」をモチーフにした極めて「誌的な」メッセージが記載されている。そのエッセンスが、日本カメラ7月号に写真と共に掲載されていて妙に僕の心に留まっているのだ。

『写真は「秘密の花園」のように、時間を止めたり、またこれまでとこのあとを入れ替えたり出来る魔法の装置なのではないかとも考えてみる』。

日本カメラ誌での`口絵ノート`ではここで終わっているが、資料ではこう続く。「写す対象の外在的な意味合いに沿って目配りすることなく、ロールシャッハテストのように、私が撮影した写真自体に向いあって、ひとつの問答を繰り返すという方法をとってみた」。この一言はなかなか興味深い。
テーマ「写真の変容」は、既に還暦を過ぎて今まで行ってきた個展や著作を振り返って会場の人々に投影をし、感性の趣くままに心にとどまっていた「庭」を撮ってみた結果を、自身への問いかけと共にどうなのだ?と、あの穏やかな笑顔でさり気なく会場に投げかけたともいえるからだ。

ベッサで撮ったのが飯田さんらしいが、おやっと思ったのは会場での展示と、写真誌に掲載された写真セレクトの違いだ。
(1)ベッサは不思議なことに近接して撮ると4隅が欠られる。そこが面白いのと思ったのだが、掲載された写真では、庭の草花をクローズアップ的に撮った写真が少なく、対象とのいつもの飯田距離感を感じた。そこにはそれで深い味わいがあるのだが、会場で見たふんわりとした草花の姿が思い起こされる。
つまり、(2)一ページに12点のベタ焼き的に2ページに渡って掲載した写真は?この発表の写真のセレクトと組み方は、飯田鉄一人で行ったのか、編集者との共同作業なのか、編集者に委ねたのかを聴いてみたい。それはともかくこのベタ焼き構成を意識して百数十本の中で数本を撮ったのだとも受け取れる。トライだ。と思うのだが・・・

(3)若き日に読んだ「秘密の花園」の引用は、「廃園」のイメージだと言う個人的な記憶の残り方だと述べていて心が打たれるが、『庭』に「二つに別れる小道のある」とつけたのはなぜなのか。深読みはできるのだがそっと聞いてみたい。飯田鉄の花園・廃園は行き止まりではなく、通り道なのかと。

写真は、撮ることも視ることも、僕たちが生きることに深く関わる。
でも語りあうのは旨い酒で一杯やりながらがいい。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿