日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

「てりむくり」  ブルーノ・タウトの呪縛を逃れて

2014-03-30 13:19:09 | 建築・風景
建築ジャーナル誌に写真とエッセイによる「建築家模様」を連載している。
3月4日、登場していただく建築家佐藤義信さんに、名古屋で工事中の社寺、京都では、設計をした`京都迎賓館`を日大建築学科の教授やOB、若手の研究者連とともに、そしてその後竣工間際の興味深い住宅を案内してもらった。
帰りの新幹線の中で佐藤さんからふと出た一言が「てりむくり」。
エッ,てりむくりって何?という野暮な問いかけをしてしまった。その佐藤義信さんから、「日本建築の曲線」と副題のある中公新書『てりむくり』(立岩次郎著2000年)を送ってもらった。

そりは反り、むくりはふくれ、「てり」と「むくり」が連続したなめらかな反転曲面を持つのが「てりむくり屋根」。神社仏閣の軒先に掛かる唐破風がその典型だと言う。
いつものように、本の`はじめに`と`むすび`にまず眼を通し、本文を読み始めて数ページ、思わずドキッとした。小見出しは「ブルーノ・タウトの偏見」である。
存続改修に向けて熱海市の設置した日向別邸の委員会の委員として関わり、重要文化財にした「日向別邸」を設計したのがタウト。

そのタウトには「日本美の再発見」と言う1939年に発刊された著作がある。そこでタウトは桂離宮を褒め称え、日光の東照宮を罵倒した。立岩次郎はこういう書き方をする。
東照宮等の「てりむくり」を『「いかもの」の象徴として槍玉に挙げた形が、日本民族に起源を持つ数少ないかたちの一つであることを知らずに、タウトは「シナ建築の模倣である」と言い放った。』
`日本民族`というのはない、というのが僕の考え方なのでちょっとどうかと思ったものの、見過ごせないのは次の一言である。

「タウトが日本を去った1963年以降の日本の文化人が、大和の古寺を巡ることはあっても、通俗的な建造物の代表とされた東照宮に足を向けようとしないのは、当然のことだった」。<確かにそういう一側面があり、未だにその思考は残存している>

僕の学生時代はモダニズム全盛、その後の文脈、建築家としてメタボリズムやポストモダンにも触れていくことになるが、上記の一言には得心するものがあるのだ。若き日の僕は、モダニズム、つまりモダンムーブネント漬けだった。
でもまあ歴史の研究者ではない僕はある意味融通無碍、言い方を変えると面白いものは面白いのだとこだわりながらも`いい加減`。でも想い起こすものがある。

故あって棟方志功の自邸を設計して工事の担当もしたが、そのときの吉原と言う棟梁は日光東照宮の陽明門の改修に関わったばかりで、改修工事中の陽明門を案内してもらった。
足場に上り、東京藝大の方々が、彫刻群の塗装をしている様を拝見して様子を聞き、日光と京都との職人技と継承に腐心している様を解き明かされたりした。伊勢神宮式年遷都に繋がる仕組みである。
そしてふと訪れたイスタンブールの大聖堂で、彫刻群の塗装の工事を見せてもらったことなど思い浮かべている。(この項続く)

<写真 旧日向別邸>


闘う・人!

2014-03-23 18:20:52 | 生きること
文化庁の文化財監査官大和智氏が急逝された。
氏から戴いた今年の年賀状には、ペンによる一言が書き添えられていて繰り返し眼を通すものの、ただ瞑目しご冥福を祈るしかない。
日大の大川三雄教授から相談を受けて始まったタウトの設計した「旧日向別邸」の保存問題で(現在僕は故鈴木博之委員長による市の委員を担っている)氏は、重要文化財にする事に尽力して下さった。

5月に母校千葉県立東葛飾高校の同窓会を行うことになり、まず電話で数名の同級生とやり取りし、準備会(発起人会)のために事務局を担っている小柳満男の事務所のある柏に二度ほど出向いた。
集ってまず語り合うのはお互いの体調と、同級生の訃報である。
話を聞きながら考えていたのは、親しかった同じクラスだった友人の奥様からの喪中の葉書を戴くことが多くなって、そこには「感謝を込めて・ありがとうございました」との添え書きが筆で書かれたりしていて、一瞬、五十数年に渡る彼との飲み食いしたときのエピソードがよみがえったりしたことだ。

僕たちの学年は5年毎に同窓会を開いてきた。僕は第2回目を発起人代表として企画した。そのときは教わった先生方も健在だった。前回は僕が取りまとめ役になった他の会と重なってしまって参加できなかった。とすると今度集る数十人とは10年ぶりに会うことになる。
久し振りの準備会で、お互いに歳を取ったなあ!と髪が少なくなったその白髪を見て思うものの、一瞬にして皆高校生に戻ってしまうのが不思議といえば不思議である。
その高校時代、球技祭で僕がピッチャーをやった僕のクラスは準決勝で負けその悔しさも蘇ったが、相棒のキャッチャーをやった体操部のキャプテンだった柳沢が体調を壊していて、打ち合わせに出てこれないという。電話ではお互い苦笑しながらのやり取りに、これでいいとホッとする。

そして思った。
「生きるということは闘うことだ」。闘い方は人様々だが、闘わなくては生きていけない。付き合いの中で思うのは、明日本葬をおこなう鈴木博之教授も、大和さんも闘う人だった。そして東葛高校の同級生も、お互い貧しかった天草の小学校時代の同級生も・・・

僕のこのブログ(3月1日)に書いたピート・シーガーは、公民権運動や環境問題で多くの人々の共感を得影響を与えたが、声を振り上げるのではなく、しみじみとしかししっかりと歌い、闘う人としてのその役割を果たしてきた。鈴木博之さんにも大和さんにも、そして親しかった友人とも、人が生きることについて、どこかに通じるものがあると僕は思う。
同窓会の2次会でピート・シーガーの一曲『WE SHARU OVERCOME:勝利を我らに!』を聴いてもらいたくなった。

3・11 「女川海物語」の小岩勉と  大城立裕の「普天間よ」

2014-03-15 14:49:06 | 文化考
戯れ句をひとつ

白鷺の 立ちつくす先 なにがある

3・11。晴天、澄みきった青空の朝。いつもより30分早いロマンスカーEXEに乗って窓から見た相模川。仲間から離れて一羽の白鷺が、浅瀬に立ちつくしてる。何事もない朝だ。

売店で買った毎日新聞を開いてさっとめくる。東京本社に居た親しい記者が想いがあって入社時の赴任地「盛岡」支局へ転勤依頼をしていってしまった。3・11を自分の目でみて考えたいのだと、嘗て僕のことを書いてくれた記者Kさんが、しょうがない人ねえ!といった面持ちでつぶやいた。最近の大方の新聞記事には署名がなされているが、この朝の新聞には彼女の名前はない。
柔らかい文体だが鋭い論考による3・11に触れた「余禄」が眼に留まった。我が家の朝日の「天声人語」は時折お説教くさくて辟易することがないでもないが、さてこの余禄は!

持ち歩いているリュックサックから沖縄の作家大城立裕の短編集「普天間よ」(新潮社2011)を取り出した。僕は3・11と沖縄が重なるのだ。
そして、いきなり冒頭の「夏草」に引きずり込まれた。
晴天の沖縄戦、死体の群がる戦火の夏草の中を手榴弾を持って夫婦での逃避行、人の生きることはこのように生々しいのかとその筆致に打たれた。
「カクテル・パーティ」で芥川賞を得た大城立裕は1925年生まれで89歳。氏の瑞々しい描写に心を揺さぶられて初出を見たら1993年の中央公論の別冊、それでも68歳のときの作品である。
そして80代後半になった3年前に書き下ろした、やはり沖縄戦を見据えた「普天間よ」。あとがきで、戦闘体験がないが沖縄で作家になると『戦争は避けては通れないだろうなと思った』と記す。

事務所について仙台の小岩勉さんに電話をした。
3・11.僕が小岩勉と出合った、3・11に触れながら「女川海物語」をこのブログに書いたからだ。
いつもと変わらない朝、話はあの大雪でトンネルに閉じ込められて大学の講義に行けず、帰るのに苦労した話から始まり、それもまた沖縄行きで飛行機が欠航となって困った僕の困惑と重なった。小岩の住む
古屋は倒壊は免れたが雨漏りが直らないという。そして今の東北、東京オリンピック招致の余波で資材や工費が高騰、何故オリンピックなのかと、その話で持ちきりだという一言に感じるものがある。

pm、3:00.何事も起こらず新宿界隈は静かだ。

翌 3・12の毎日新聞。「悔しいでも前へ 東日本大震災3年」というトップ記事、連記だが彼女の名前があった。頑張っている。そしてもう一人の記者Kさんが、「ハッセルブラッド国際写真賞」を受賞した写真家石内都さんを紹介した。

建築家 阿部勤の「私の家」を撮る

2014-03-09 21:48:57 | 建築・風景

阿部勤の自邸の写真を撮ってく欲しいと建築ジャーナル誌から電話があり、僕でいいの!と思わず問い返した。でも阿部に会え、かつて(若き日)建築誌をみて眼に焼きついている家を見ることの出来るまたとないチャンス、時間のやりくりをした。

この建築は、坂倉建築研究所に在籍時代、タイでの5年に渡る職業学校建築に共に携わった室伏次郎とアルテック建築研究所を設立した阿部の、その前年に建てた打ち放し鉄筋コンクリートと木造による昆構造による埼玉県所沢市のニュータウンに建てた自邸である。

鎌倉の近代美術館の設計を担当した坂倉(坂倉建築研究所)の室伏次郎とは、「近美100年の会」やJIAの活動でも共にしたことがあって親しいが、阿部とは面識がなかった。
その阿部は料理人としても知られていて、訪れる若い建築家達にその腕を振るい、駄洒落を連発しながら楽しんでいる様子がテレビで放映されたりしていてその風貌には男の魅力が溢れている。

駅に迎えに来てくれた阿部の車は左ハンドルのランドローバー、ジープである。アフリカで猛獣狩りをするときの車だというその阿部は、雪の残る道を慎重に丁寧に運転をする。

植田実の編纂した都市住宅では「私の家」というネーミングで発表されているが、トイレや浴室以外は間仕切りもドアもないが、各所に開けられた開口部から見え隠れする場所の姿が、庭や街路に植えられた樹木と一体となってそこ居る面白さ(喜び)を喚起することになる。

「男の家」と呼ばれることもあるこの家は、息子を育て、20年ほど前に奥様をなくした阿部を育てた家。自分の設計した家に自分が育てられる、その楽しさに満ち満ちていた。

一言添えたいのは、十字路に面した敷居の一角に樹木を植え、住宅との間の通路を町の人たちが通れるように開放したことだ。その樹木が時を経て大木となり、画一的な町並みのランドマークとなっている。
その写真を!室内の公開は遠慮して、左手にランドローバーのある一枚を!


ピート・シーガーの時代

2014-03-01 21:51:45 | 日々・音楽・BOOK
ほぼ一月前になる1月29日、アメリカのフォークソングの育ての親といわれる「ピート・シーガー」がニューヨークの病院で亡くなった。94歳だった。

ピート・シーガーの歌った「花はどこへいった」と「WE SHARU OVERCOME」(勝利は我らに)は口ずさむことが出来るくらい聴き込んだが、ピート・シーガーの歌を意識して聴いたという記憶はない。しかし訃報を聞いて瞬時に浮んだのは、公民権運動や環境問題に尽力した社会活動家としての氏の名前だ。同時に、JAZZに魅かれながらもジョーン・バエズやジュディ・コリンズそしてP・P・Mを聴きこんだ60年代の後半の我が青春を思う。そしてピート・シーガーのつくった歌を唄った多くのミュージシャンも、その歌とともに、ピート・シーガーのミュージシャンとしての志に魅せられていたということだ。

「花はどこへいった」はおそらくP・P・Mの歌を聴いて僕の中に留まっているのだと思う。そして大阪万博の広場で、アメリカから来た(P・P・M的な)フォークグループのコンサートをのんびりと聴いたことを、44年も前のことになるのに、つい最近のことのように思い出す。

改めてピート・シーガーの歌をしっかりと聴いてみたくなって図書館に行った。図書館ではCDの貸し出しもしているからだ。そして借りてきたのはジム・マッセルマン(アップルレコードの社長)がプロデユースした2枚組みの「The Songs of Pete Seeger」(アメリカのアップルシードの原版)である。

このCDは、ピート・シーガーが歌ってきた歌を、ピートの示唆を受けてジム・マッセルマンが選曲し、様々な歌手やグループによって歌い演奏したもので、1枚目の冒頭は「花はどこへいった」だ。トミー・サンズとドロレス・ケーンがオヤ!と思うほどゆったりとつぶやくようにうたい、それを支えるバックも少女たちによるコーラスものんびりと心を込めて二人に同化している。聴く僕は「天使のハンマー」と一枚目の最後の「ウイモウウエ」のウインドウエックと繰り返すそのバックコーラスに何故か会場(スタジオのはずなのに)から拍手が起こる様に、思わず身を躍らせてしまうのだ。

2枚目は、「WE SHARU OVERCOME」を、ブルース・スプリングステイーンがしっとりと歌って始まり、3曲目にジュディ・コリンズが「金の糸」を明るいキレイな声で切々と歌い上げていて惹き込まれた。どの歌手も、ブルース・スプリングステイーンも声を張り上げずに自分の思いを内に秘めて歌い、聴く僕の心に浸み込んで来る。

ピート・シーガーは、非暴力活動を表明して唄ってきたが、非暴力とはこういうことなのだ。だから大勢の歌手をひきつけて世界に伝わっていったのだろう。
アルバムの最後は、ピート・シーガーがここでが歌うただ一つの曲「私は未だ模索中」である。