日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

村野藤吾、菊竹清訓と早稲田(Ⅲ)スカイハウス、東光園と出雲大社庁の舎

2012-01-31 19:20:33 | 建築・風景
―二つ目のエピソード―

1年と少し経ったが、菊竹事務所のOB・来間直樹さんに招かれて村野藤吾の設計した「米子公会堂」(鳥取県米子市)のシンポジウムに参加した折、菊竹清訓の代表作、骨格の明快な「東光園」に泊まり、「出雲大社庁の舎」に案内してもらった。村野の建築を語りに行って菊竹の代表作を視る。ふと何かに導かれていたような気がしてくる。

改めて「WA100」を紐解くと中川武教授の、早稲田を飛び越えて日本の建築を築いてきた村野と菊竹という二人の建築家へのオマージュがひしひしと伝わってくるのである。中川は「スカイハウス」を例にとって「メタボリズム」の問題作という範疇にはとどまらないのだと書く。

「4本の壁柱によって空高く持ち上げられた大空間には、日本の上流住宅の中にあった『九間(ここの間)形式』の伝統を、注意深く継承する其の身振りの中に、過酷さを増していくだろう日本の現代社会の行く末に、雄々しく立ち向かう夫婦像の叫びがこめられている」。
そしてそれは「すべての菊竹作品の核心部分に込められる菊竹個人のオブセッシオンとしか言いようのない強度を持っているように思われる」。
更に村野のときと同じく丹下健三を持ち出して「この点が丹下にない菊竹のわかりにくさであり独創性」だろうとする。

米子の隣町島根県になる松江には魅力的で完成度の高い菊竹の図書館がある。しかし東光園と出雲大社庁の舎という二つの建築は住宅ではないとはいえ、中川の過剰とも思えるその思いに触れると、そのままスカイハウスの記述に置き換えてもよいかもしれない、ということになるのだ。

しかしスカイハウスを「雄々しく立ち向かう夫婦像の叫び」と記述をする中川武教授に、よくも格好よく言ったものだと驚くが、僕の視るスカイハウスは、松江の図書館のように品格とそれを支えるバランスの良さに満ちていて、とりわけ2階の居間空間に「艶」を見出す。子供が生まれたら子供室をぶら下げるというメタボリズム・新陳代謝思潮の表現も威張ってはいない。

さて初項(Ⅰ)で記述したように、編集者石堂はこういう菊竹を総括してアンビルド「国立京都国際会館競技設計優秀案」に置き換える。まさしく石堂ワールドである。

僕は2005年に行ったDOCOMOMO100選「文化遺産のモダニズム建築展」での自作を語ると題したシンポジウムを思い返している。

パネリストは林昌二、槇文彦それに菊竹清訓という夢のような3人の巨匠だった。菊竹さんは「出雲大社庁の舎」を語り、庁舎を覆うPC(プレキャストコンクリート)が傷んできたので今度は木造架溝でつくり直したいと述べた。
休憩を挟んで始まった後半の冒頭で司会を担った大森晃彦(当時は新建築誌の編集長)が会場に質問のある方と投げかけたが誰も手を挙げず、困って僕を名指した。楽屋落ちになるかもしれないがと断って僕は、控室で槇さんが、つい最近出雲に行ってきたがまだまだ大丈夫ですよ!と菊竹さんに述べた事を紹介して、この舎の存続について問うた。

菊竹さんはしばし瞑目して考え込んだが、僕の質問には答えず前半の続き、稲の波打つ自然の姿をとらえた写真を写しながらこの地の自然環境に触れ風土と建築の話を続けた。
6年を経てもその時の稲穂の姿と学生時代(明治大学)、堀口捨巳先生が一抱えもある資料を教壇に持ち込んで、そのほぼ1年間巨大だったという出雲大社の姿の福井訛りの堀口論を息をつめて聞いていた僕自身を即座に思い出す。

このシンポジウム時の菊竹の姿がエピソードのⅡなのだが、当時は僕もコンクリートでなくてはいけなかったと思ったし、一昨年訪れた時のPCの姿が木造の大社に呼応していて、コンクリートも味わいが深まるのだと感じ入った。が、この一文を書き進めていてじわじわと感じ始めているのは、菊竹はこの巨大な稲穂掛けを木造でやるべきではなかったのかと自問し、それにトライしたかったのではないだろうかということだ。

新陳代謝という理論を超えて「つくる建築家として」。その姿を僕は見たかったとも思うのである。

<写真、スカイハウスと出雲大社庁の舎>

天から粗目(ざらめ)がおこってきたのう

2012-01-28 15:22:46 | 添景・点々

今年は寒い。
とはいえ旭川がマイナスの19℃、釧路も15℃と聞き、また時にはそれが逆転したりする数値が報道されたりすると、ガラスで囲まれた「反住器」の毛綱さんはお元気かと気になった。でも入れ子になって二重に寒気が遮蔽され、冬でも燦々と陽が注ぐのでご息女と今年も寒いねえ!なんて、お会いしたときのようににこやかにやり取りしている様を思い浮かべる。

22日の日曜日の夜、僕の住む神奈川や東京は積雪2センチになるとTVで可愛い予報士が述べていた。でも一向に雪が落ちない。
さていつものように「7時よ!」と妻君が玄関から取ってきた新聞をぽいと寝ている足元に投げる。そうやって僕の一日が始まるのだが、この朝は「雪が積もってるよ!」と一言あった。晴天。だが地面は真っ白だ。深夜に降ったのだ。

下駄箱からYONEXのPOWER CUSHONを取り出した。
2006年の1月、札幌のMOROさんから招かれて専門学校の学生の卒業設計の講評をしたが、其のとき購入したのものだ。防水、スタッドレス、それに履いてみると暖かい。寒さに弱くなってきた僕にはそれが何よりありがたい。
妻君は「滑らないように気をつけてよ!」なんていう。最近少し優しくなってきたのだ。

ところで、白いが雪ではない。氷だ。これは厄介、怖い。踏むと`ぎゃリ、ぎゃリ`である。擬音を文字にするのは難しい。どう書けばいいのかと、今でも日の差さない地面にはっついている霜を踏んでみて音を探っているがさてね!

23日の朝は我が家から駅までの道も、新宿西口から事務所に行く道も一面の氷だった。
いつもとはルートを変えて、地下道を通り、三井ビルと対面している京王プラザホテルの前を歩いた。日本設計を率い、超高層のこのホテルを建てた池田武邦さんが自ら駈って出て石を使いこなして作庭したという僕の好きな側道ともいえる庭と、ルートにある西口公園の状態とを見たいと思ったのだ。
でもまあ好奇心を満たしてくれるものはない。樹木の葉が降りて枯れ枝三昧でしかない日常だった。前を歩く足の長い若い子(娘)の、へっぴり腰ににやりとしながらも、僕もおっかなびっくりだ。

ふと、「天から粗目(ざらめ)がおこってきたのう」というフレーズが浮かんだ。
おっこってきたではなく、おこってきたのう、日本語になっていないか!

<WA特集号についての記述の閑話休題ということで!>

村野藤吾、菊竹清訓と早稲田(Ⅱ)三つのエピソードのⅠ

2012-01-22 21:18:47 | 建築・風景

年末から新春にかけて、建築家にとって興味深い二つの番組が放映された。
一つは1月2日の「20世紀の革命児―ル・コルビュジエのメッセージ」(BS・TBS)で、もう一つが東大を卒業した後菊竹清訓の元で建築を学んだ伊藤豊雄を追った「希望のまちデザイン 建築家伊藤豊雄 釜石に臨む」(2011年12月31日、NHK総合1)である。

「コルビュジエのメッセージ」は冒頭に、ル・コルビュジエの設計を、弟子の前川國男、坂倉準三、吉阪隆正の三人がサポートして建てられた国立西洋美術館が映し出されて「この建築は戦後の復興期に建てられた美の殿堂、時代の最先端を行く建築だった」というナレーションの後に、日本を訪れたル・コルビュジエを囲んだ前川國男と坂倉準三のいる写真が現れる。
それだけで僕たち建築家の胸が騒ぎ出すのだが、この番組の中でも伊藤豊雄が登場してコルビュジエへのオマージュを語っている。(この番組は2009年に作成された)

気になるのは伊藤の釜石復興計画のほうだ。
被災を受けた岩手県釜石市の住民に請われた復興計画の策定・提案は、共同住宅でも良いという住民の意向を受けて、1階をピロティにして津波対策をし、住戸を上階に行くほど後退させた三角形で構成し、中央を住民の交流の場とする共同住宅である。
視点を変えてみると、60年代から70年代にかけて建築界から発表・提案された人工地盤構築ともいえ、「メタボリズムの未来都市展」(2011・9.17~2012・1.25森美術館)で紹介された菊竹清訓の「層構造モジュール」を思い出した。その数棟を例えば白川郷の民家群のように点在させる。

住民が納得して復興の可能性に期待する様子を見ると何もいえなくなるが、気になるのは層構造モジュールとの類似ではなくて、隣町と同じような「まち」になって良いのかと住民を誘導する伊藤の発言と(何故隣町と同じ景観ではいけないのか?理解ができない。)路地のない町並み提案だ。
とは言え考えることもある。
街(村落)には、生まれ出(いずる)ものとつくるものがある。僕のどこかに生まれ出ものを大切にしたいという想いがあるのだが、被災する前の釜石のまちはどうだったのだろうか!

僕はほぼ40年前菊竹さんの夢見た未来を想う。僕の親しい横浜の建築家は、伊藤さんの提案は丹下に並ぶといわれた菊竹さんへのオマージュなのだろうというのだが・・・メタボリ展の菊竹と菊竹事務所に在籍をしたことがあり、弟子ともいえる伊藤豊雄という今の時代を担う建築家の思索を導き出してくれたエピソード、これが1である。(この稿続く)

村野藤吾、菊竹清訓と早稲田

2012-01-15 22:54:29 | 建築・風景

編集者石堂威さんが送ってくださった「Waseda Architecture100(WA100)」を興味深く、言ってみればのめり込むように読んだ。
この冊子は、早稲田大学建築学科と建築関係学科の卒業生と学生による同窓会「稲門建築会」の機関紙「WA」の、建築学科創設100周年を記念する2011特別号である。
編纂を担った石堂威さん(以後敬称略)は、早稲田建築100年の歩みとして100年を五期に分け、各項冒頭のテキストを建築史の中川武教授に執筆依頼する。

そのⅠ・1910-1930の項`はじめに`で中川教授は「100年の歩みをあえて一言で述べれば、建築への夢や理想のロマン主義的な希求と地域住民の生活に根ざした環境への、幅広い建築的貢献の融合であろう」と切り取る。思いがけず歯切れのいい文体でのこの一連のテキスト記述は大変興味深く、僕の中川武感が一変した。

その骨子はⅡ1930-1950年の村野藤吾論である。この20年間の大半を村野藤吾で埋め、そこに1年後輩となる今井謙次という村野と並ぶ巨星が登場する。
「両巨匠の建築の美の神への傾倒は早稲田建築の一面に深い影響を及ぼすようになったと思われるが・・今井においては、無意識のうちに作家の主体が確信されているのに対して、村野の作品から窺えるのは確固としたものには収まりきれない虚空としての捉えがたさであると書き、其の前段で、村野が設計をした宇部市民会館(重要文化財)は、建築の合理的な追求から、後の絢爛たる村野調の萌芽まで、様式主義にもモダニズムにも収まらないが、多様な手法が融通無碍に息づき始めている」とするものの、ことはそれほど単純ではないと戸惑いも見せる。

その中川は、次のⅢ1950-1970では丹下健三を取り上げ、コルビュジエと日本の伝統との深い往還の中で構想力を研ぎ澄ませて、「広島平和記念館」代々木の「国立屋内競技場」「大阪万博お祭り広場」によって日本建築を世界に押し上げたが、わが稲門で丹下に並び立つのは、村野藤吾でなく、おそらく菊竹清訓だろうと総括する。
村野は別次元の建築家だと言うのだ。

本誌で石堂は、菊竹の代表作としてスカイハウスなどの実作ではなく、アンビルド「国立京都国際会館競技設計優秀案」を取り上げる。菊竹を支えた遠藤勝勧が担当して描いた実施図並みの詳細な矩計図(かなばかりず)はつとに有名で、見るたびに凄いと感じ入る。

1月15日の今日終了した「メタボリズムの未来都市展」(森美術館)での、丹下、磯崎新、黒川紀章、槇文彦等の作品プロジェクトとともに菊竹清訓を見ると、石堂や中川の言わんとすることが見えてくる。(この稿続く)
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菊竹さんが昨年の暮れに、林昌二さんを追うように亡くなられた。心よりお悔やみ申し上げます。単に時代は変わっていくのだとは言いたくない。其の志は未来を視ているからだ。
DOCOMOMO Japanの設立総会のときに、林昌二さんともご一緒に事務所の前に建つスカイハウスの見学をさせてもらった。菊竹さんは前日に、施工した白石建設に障子を張り替えさせた上、休日なのに所員を待機させ、事務所で僕たち20人ほどを出迎えて下さった。林昌二さんがいらっしゃることにちょっと驚かれたようで、林さんまで来てくださってとニコニコされたのがつい先日のように思い出される。


「ミッション・インポッシブル」→「深夜プラス1」へ

2012-01-09 12:49:59 | 日々・音楽・BOOK

正月の休みを終えた次の日曜日。
一向にこの一文が進まないのは、例えば暮れの30日に観に行った映画「ミッション・インポッシブル」を思い出したりしているからだ。

アクションは相変わらず凄くて、どうやって撮影をしたのだろうなどと思ったりしたが、時折後ろの席から笑声が聞こえてきたりするなど思わずにやりとさせられるユーモアもあって、大人のアクション映画になった。
最後に4人の仲間がお茶(オチャケか!)を飲みながら、得も言われぬ表情でさりげなく信頼を確認する様に思いがけずぐっと来たことなどを思い描いたりしている。
トムクルーズはいい男になったね、というと妻君と娘は老けたね!なんていう。女どもは相変わらず厳しいのである。でも彼女たちは、シリーズ三作の中で最高という評価を与えたのだ。

「深夜プラス1」を思い出している。
ギャビン・ライアル(イギリスの作家)が1965年に書いたハード・ボイルドの傑作、ジャック・ヒギンズの「鷲が舞い降りた」とともに僕がこの分野に繋がる探偵小説やスパイものにのめりこむ切っ掛けになった著作の一つである。

新宿ゴールデン街に開いた店の名を「深夜+1」にして日本冒険小説協会をつくった内藤陳の訃報が暮れの12月31日の朝刊にあった。あの長い顎の渋い風貌を偲ぶ。
ふと思うのは、`ミッション・インポッシブル`に`深夜プラス1`に通じる、もしかしたらジャンルも好みも違うが、チャンドラーの「長いお別れ」でつぶやくフィリップ・マーロウの「強くなくてはいけていけない、優しくなければ生きている資格がない」という一言に通じるものが見出せたからかもしれない。

評論家北上次郎は「冒険小説の時代」(集英社文庫)で、`男たちの原風景`と題した一文を書いたが、この系列の小説に「ハードボイルド」という`男としての原風景`が漂っていることに僕は惹かれているのだ。そしてチャンドラーに必ずしものめりこめない僕とは言え、どこかにマーロウの!この一言は僕の`生きていく指針`だと格好良く言ってみたくなる。僕は強くはないが、かなり本気ではある。

さて舞台はイギリスではなくアメリカなのだが、スイス生まれの写真家ロバート・フランクの撮った「アメリカンズ」が浮かんでくる。
1950年代のアメリカのニューヨークという都市と人を撮りアメリカ人に大きな衝撃を与えるが、暴くといいたくもなる其の写真群に僕が震えるのは、人の生きていくことへの、そして人の生活がつくった都市を慈しむように撮る其の視線だ。
思い立って新春のひと時もやもやと書き連ねてきたことが、全て重ね合わさって見えてきた。

<写真 なぜか「深夜プラス1」が見つからないが、一頃のめり込み再読したい本が沢山ある。ロス・マクドナルドのリュー・アーチャー。ジョン,D、マクドナルドのトラビス・マッギー・シリーズ。ハモンド・イネスにデズモンド・バグリー、無論ギャビン・ライアルもジャック・ヒギンズも。考えていると堪らなくなってくる!>

巡り来た新春に想う

2012-01-02 18:24:56 | 日々・音楽・BOOK

お屠蘇は暮れに妻君の兄貴からもらった大月市笹一酒造の「しぼりたて生原酒」になった。
毎年お蕎麦とともに従兄弟の`ひろっちゃん`が送ってくれる亡くなった母の名にちなんだ「千代の光」と思っていたのだが、ついつい暮れの内に飲んでしまった。でもこれがないと年が越せない年越しそばは、京都松葉やの「にしんそば」をちゃんといただいたのでお許しあれ!
お正月になると出てくる京都の店で手に入れた朱色の漆を塗った大きな片口で、それぞれの好きなお猪口に注ぐ。娘はいつものごとく、沖縄の小橋川つる子さんが絵付けをした小ぶりのぐい呑みだ。僕は金城次郎の魚が浮かぶお猪口、妻君のは?さてね!
乾杯をしたあと、わが夫婦と娘の間でお年玉のやりっこをして今年が始まる。

今年は僕の年「龍」だ。僕の人生の`区切りの年`だとの実感がある。
録画してあったヨーヨーマの弾くバッハの無伴奏組曲6番のサラバンドを聞きながらこの一文を書き始めたが、渾身の思いをこめて弾くその表情を見ているとなぜか涙が止まらなくなる。生きていくことを考えたいと思う。

大晦日に書き、元旦に届いた写真家木戸征治さんからの葉書の中の一文を書いておきたい。彼は僕の写真の師である。
「天変地異、世相の変調や波乱はあっても季節は巡る。3mもの深雪下、もうフキノトウが眠りから萌芽へと動き出すかすかな兆しと予感、また春は来る・・・毎回のノートのプレゼント恐縮です。取材メモや記録に熱が入ります」。ありがたい心根に感謝、とある。
年末に今年1年のスケジュール表のあるノートを送った返礼である。

もう25年になるのかと思うが、木戸さんは積雪が3メートルを越し、時には4メートルにもなる豪雪地、過疎になっていく長野県小谷村戸土に一家6人だけで暮らしている赤野さん一家を9年にわたって撮り続けて「家族原点」というヒューマン・ドキュメント(写文集:晶文社刊1986年)を出版した。
娘がまだ幼稚園児だったころから僕たち一家は、木戸さんと一緒に小谷温泉や戸土に行き、塩の道を歩いたりして写真を撮ったが、赤野さんを招いた「雨飾り山麓冬たより」(山と渓谷社刊1987)の出版パーティの其の日、会場の準備をしているときに赤野さんの訃報が入り、赤野さんを偲ぶ会になったことを忘れない。

こうやって年は巡るが、3mもの深雪下に春の鼓動があることも確かなことだ。

<画像 娘からのお年玉>