日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

再開する六本木の国際文化会館・桜吹雪の中で

2006-03-29 12:45:43 | 建築・風景

改修工事を行っていた六本木の国際文化会館が、3月31日の夕刻と4月1日午後の観桜会・内覧会を経て再開する。大ホールの完工は6月になり正式のOPENは7月になるのでプレ再開ということになる。それでも全室に設置したユニットバスをバリアフリー化し、紙張り障子を継承した研究宿泊室は当面満室とのことだ。
桜が満開のこのときに再開できるのは感慨深い。

一時は取り壊して建て直すと理事会決定がなされ、危機感を持った僕は古参の会員、歴史学者や建築家とともに設立した「国際文化会館21世紀の会」(Iハウス21世紀の会)では事務局長を担い、建築学会の「国際文化会館保存再生計画検討特別調査委員会」にも関わりながらその存続に腐心した。

再開に先立ち25日に試泊させてもらったが、気になっていたガラス屋根によるエントランスロビーの増設部もしっくり収まりホッとした。
アドバイザーとして指導した建築家阪田誠造さんと、設計を担当した三菱地所設計の底力を感じる。厳しい予算と工期のなかでの提案、解決は大人の仕事だと思った。

国際文化会館の建つこの地は、旧岩崎邸の跡地で、今に残る魅力的な和風庭園は当主岩崎小弥太の指示によった小川治兵衞(植治)の作庭によるもので、この建築の設計をした3名の建築家の主眼は、この庭園との調和にあった。
戦後間もない1955年(昭和30年)、戦後日本の文化人の国際交流を推進するために外務省の思惑の中でロックフェラー財団の寄付などを得て建てられた。トウインビー、グロピュースや日本に一度しか来たことのないコルビュジエもその折ここを訪れている。

この建築の設計者の決定や設計、施工中の建築家の姿には、思わず笑みがこぼれてしまう様々なエピソードが伝えられている。
例えばコンペに当っては、俺たちを審査する建築家が日本に居るのかと言ったとか言わないとか。
結局前川國男・吉村順三・坂倉準三の共同設計となった。
今となっては僕たちの作った[Iハウス21世紀の会]が行ったシンポジウムが、この建築の存続の大切さと危機とを社会に広く伝えることになり存続のきっかけを作ったと思うが、そのシンポジウムで、まだ若き日前川事務所の所員として現場を担当した鬼頭梓さんが、3名の建築家の様子を語ってくれた。

たまたま3人がそろうとゴルフの話しかせず、しばらくすると「さあ帰ろう」と一緒に帰ってしまう。
前川さんが来ると鬼頭さんの耳元で「坂倉はディテールを知らないから坂倉に相談したら駄目だよ」とささやく。さらに「デザインは相談して良いが、吉村はディテールに詳しいから吉村となら相談しても良い」
僕はシンポジウムの司会をやりながら思わず笑ってしまった。

前川さんは座り込んで、折角描いた図面を赤鉛筆でぐちゃぐちゃにしてしまう。坂倉さんは後ろに立って「君、そこはもっとピシッと!」と厳しく、先生の立っている間に描き直さなくてはいけないから大変だった。吉村さんは穏やかに指導してくださった。
国際文化会館(Iハウス)は、そうやって建った建築なのだ。

コンクリート打ち放しと、木枠と木の建具との調和も素晴らしく、評論家浜口隆一は俊工時、この和風建築は今の時代に即しているかと疑問を呈した。しかしその批評からはこの典型的なモダニズム建築をそう観た当時の建築界の様相が伺えるが、どう観ても和風とは思えない。しかし和風庭園との融合性を見ると、確かにコンクリートでフラットルーフ建築と和との調和にトライした成果を僕たちは享受しているのだという思いに胸が熱くなる。

池に面したレストランでフルコースをご馳走になった。これも試食だ。ワインに陶然として観る庭越しのライトアップされて赤い光に輝く東京タワーは美しい。同席した建築構法の研究者や著名構造家と、ちらちらと東京タワーを見やりながら、この改修の成果を語り合った。

改修の目的は、浴室とトイレのない部屋があった研究宿泊室のユニットバス設置とそのバリアフリー化、部屋の増設、エントランスホールや大ホールの増設改修、耐震化、設備の更新などで、様々な課題が蓄積されていた。勿論資金調達が最大の問題で、会員制のこの組織を維持していくこと自体に関わる困難に直面していた。

この会館の存続は、この会館の建て直しを図った高垣理事長の決断と指導力によるところが大きかった。館内の委員会設置、有識者からのヒヤリングなどを経、取り壊し案に対する対案を1ハウスの会を経て建築学会に求め、当初はそれでもこの建築の持っていた庭との取り合いのイメージのみの保存から、残して改修する建築学会委員会からの提案を受け入れた決断は、後世に伝えて行きたい。この改修は大勢の会員や外国からの研究宿泊者にも受け入れられるに違いない。
会館の運営については楽観は出来ずこれからも困難があるだろうが、再生のスタートが切れた。

学会委員会での論議は、このモダニズム建築のオーセンティシティに関することが多かった。改修に当たって、この建築の何が、どこが歴史的価値があり、どのようにデザインし実施するか。エントランスホールの中庭側への増床のガラス屋根の問題もそのひとつだった。既存に対峙するか、既存と違和感のないデザインにしていくかという課題だ。

僕は概して違和感のない意匠のほうが良いと主張した。しかしどこをどう改修したかとわからなくてはいけない。単に記録集としてまとめるだけでなく、表示をして多くの人にわかってもらったほうが良い。
表示の仕方は様々で、この建築では写真や図面イラストを使ってポスター上のグラフィックデザインされたものを、ロビーの壁に展示するのが良いのではないかと、試泊と何よりこの建築の存続を決断した理事長宛へのお礼の手紙に書いた。

モダニズム建築のオーセンティシティはこれからの課題だ。この改修はその格好の事例になる。
桜吹雪の中で再開するこの建築は1955年度日本建築学会賞を受賞、DOCOMOMO100選に選定、つい最近国の有形文化財(登録文化財)に登録された。


雨宿り

2006-03-25 11:19:21 | 日々・音楽・BOOK

土曜日の夕方深川の弟の家に立ち寄った。ちゃぶ台の前のKちゃんは本に読みふけり、妹のYちゃんはテレビを見ている。眼をやった途端朝青龍が勝った。星取表が出てきて栃東の負けがわかる。横綱は無理だなあ。風格もねえ、と思う。
元気そうだね、とハイティーンの二人へ投げかける。まあね!とにやり。二コリでないところがねえ、可愛いんだ。

これからちょっと料理を作るからビールでも飲んでいかないかと弟がいう。うん、でも人と約束があるからほんの少し。頷いてごそごそやっていたと思ったら、こんがりと焼いた`鰆(さわら)`が出てきた。なんとも手際がよい。娘たちが箸をつけ「美味いジャン」という。さっぱりしていて本当に美味い。一緒に出してくれたサラミも格別だ。エビスのビンのビールをカップに入れてくれた。乾杯と言ってごくりと飲む。

チャンネルが変わり歌が流れ出した。「おや平原綾香ジャナイ!」と言ったら、エッ!叔父さん知ってるのとのたまう。CD持ってるもん。エーッと今度は二人の語尾が延びる。TVでは替わって歌い始めたグループが映っている。
`東京事変`て知ってる?なにそれ?娘たちが笑い出す。椎名林檎って知ってるでしょ、って弟が助け舟を。名前は聞いたことがあるけどねえ、とは言ったものの顔も思い浮かばない。
ところで「五輪真弓って好き?」と彼女たちに聞く。誰それ?エーツと今度は僕がのけぞる。
今の若い子は五輪真弓を知らないんだ。

叔父さんはね、五輪真弓を子守唄にして寝るんだよ。タイマーを一時間ぐらいに設定してね。でもね、いつも5分くらいで寝ちゃうんだよ。 ふーん!
「雨宿り」が好きでね、それを聴きたいのだけど、そこから始めると目がさえてしまって終わっても寝れなくなっちゃうの。
そうなの、私もね、寝ようと思っても好きな曲をかけちゃうと目がさえちゃうの、とKちゃんがいう。なんとなく意気投合、価値観の共有だ。

五輪真弓は「雨宿り」になると声のトーンを下げ、つぶやくように唄いだす。
「駅のホームで見かけたあなたは昔の恋人。見つめあう二人。思わず男はタバコを取り落とす。今は別々の夢を追う二人。ただ若すぎただけ」
聴く毎にいつもいつも胸が熱くなる。
「お茶でも飲もう!めぐり合いは素敵なこと、雨宿り。電車は通りすぎて行く」。

三島由紀夫は、高い壁の向こう側から青春のざわめきが聞こえてくるがその壁を越えられない、と慨嘆した。僕はと言えばこの胸の熱さをいつまでも共有したい。なにと?誰と?
さーて!時にと言ってもいいのだろうか。格好よく言えばわが人生と。
二人の娘たちはこのアルバムを聴いてみたいという。僕はね。ロックにうるさい僕の娘に今の音楽シーンを聞いてみよう。

ビールが利いてきてなにか切ない気持ちになって街にでた。これから人に会うのだ。ハワイの旅からかえって来る北国の青年と大阪の淑女に。

棟方志功の絵手紙

2006-03-19 12:51:40 | 日々・音楽・BOOK

Y子さんと居酒屋へ。それというのも伊丹由宇さんの「東京居酒屋はしご酒」を読んだからだ。
電話のときにY子さんに面白いよといったら数日して「読んだ、面白かった」と電話があった。感動した!とは言わなかったがKOIZUMI調だ。
`今夜の一軒が見つかる・源泉166軒`と副題にある光文社新書の伊丹由宇文体は飄逸で、今夜も「ああ今日はいい酒だった」と満月に微笑みかけるような店で飲みたいものだとある。
166軒のうちで僕の行ったことのある店は2軒しかない。居酒屋人間の僕としては何たることかと思ったが、同じ居酒屋女のY子さんにしても2軒だそうだ。
話がはずんで「居酒屋巡り」をやろうということになった。まずは僕の好きな神田の`みますや`から。

みますやの項、こう書いてある。
「創業明治38(1905)年という老舗中の老舗である。長い年月の間には、色んな人達が、この店で数え切れないほどの人生の憂さを、悲しみを、辛さを、悔しさを晴らしてきたのだろう」。由宇さんはこの日に「歯を食い縛らなければ耐えられないような出来事があった」そうで、いつになく神妙だ。でも「心の鬱屈を隠し、馬鹿話に興じると、酒なくて何の己が人生、とおもう」となり、「冬来たりなば春唐辛子、朝飯に鮭(サーモン)がついて、早起きは三文の得。どうだ、ジョーク(19歳)やハタチで言えるジョークじゃねぞってんだ」となる。「杯を重ねるに連れ、昼間の屈辱感などチッポケなものに思えてきた」

うーん!これぞ哲学と思うが、愛妻に言ったら多分`あんたに耐えられない出来事なんぞ起こるの?`と言われそうだ。まあね、僕はノー天気だからなあ!
「あすよりの 後の(のちの)よすがはいざ知らず
今日の一日(ひとひ)は 酔いにけらしも」(良寛)の一句も記されている。

さてね。Y子さんとは何を話したか。いやあ、名物どじょうの丸煮をつつきながらの話に、気がついたら終電間近だった。旅話から小三治師匠話へと飛び回り、志功話で盛り上がったことは覚えている。棟方志功の手紙があるというのだ。

「民藝」10月号(第634号)に、「今ヨリ ナキニ」柳宗悦直筆原稿による「心偈」新考察、を書き、`小池邦夫絵手紙美術館`発行の月報「おしのび通信」に、手紙から読む棟方志功、を彼女は書いた。そのY子さんがその小池邦夫先生と共編で「棟方志功の絵手紙」と言う本を出版した。

年賀状に「ライフワークが見つかった」と書いてきたが、僕は若いのにライフワークとはね!と走り書きを送ったものだが、この絵手紙本を一読し、これはライフワークに値する、もしかしたら語りつくされてきた志功研究が一変するのではないかと思った。
Y子さんとは誰あろう、棟方板画館学芸員でもあり、館の展示作品解説を書いている志功のお孫さん石井頼子さんなのです。

小池先生は「志功さんについては書きたいことが一杯あって・・・」と書き出されているが、僕だって実は書きたいし、書いておかなくてはいけないことが結構あるのだ。若き日手を上げて、鎌倉山の棟方邸の工事をやったときに取り壊した、こじんまりした旧宅の`はばかり`の漆喰壁に書きなぐってあった勢いに満ちた壁絵を、今だったらなんとしても残したのにとか。`みますや`で、歯軋りが出そうなそんな繰言をつらつらと述べたんだっけ。あんまりいい酒ではないなあ。

「棟方志功は手紙魔である」と頼子さんは書き始める。
「どうしていますか、今こんな作品を作っています。会いたい思いで一杯です」と、背中を丸め、机へへばりつくようにして書く。しかし家のもの達は皆、悪化する一方の棟方の眼を気づかっていた。特に祖母チヤはこうと決めたらてこでも動かない性分で、「パパの眼は仕事をするためだけの眼なんだから、本を読んだり、ましてや手紙なんか書いたりしてはいけません!」と言うのが持論で、かくして、夫婦喧嘩は手紙から始まる。

僕は志功先生にも気に入られたが、何よりチヤ夫人に可愛がられた。だからこの経緯は手に取るようにわかり、チヤ夫人と先生、お二人のなんともいいようのないやりとりが、目の前に彷彿と浮かび上がってくるのだ。

さて頼子さんは、たやすいとおもった絵の入った手紙を見つけることは困難を極めた、という。
棟方にとって手紙はあくまで通信手段。専門であるところの絵画とは一線を画するものだった、と書き記している。

この本は志功の絵手紙を全てカラーで収録していて、そのどれもが志功作品なのだ。書き連ねられた文字も紐解いていくとこれは!と溜息が出るが、なにより絵と筆による取り合わせに絶句する。
手紙ではあっても志功の倭絵なのだ。
とはいえやはり文字にも眼がいく。文字も絵なのだ。シロタ・ベアテ・ゴードンさんへの英文字の手紙があり、英語かと思ったらローマ字による日本語で、僕でも読める。62KEIと書いて、文字の下に、漢字で六十二景と振り仮名のように書いてある。WAIFUの下にはCHIYAKOとある。チヤ夫人は自分ではチヤコと言っていたのだ。なんとも微笑ましい。

頼子さんは小論考をこう締めくくる。
棟方志功は「手紙魔」である。と、最初に書いた言葉は撤回しよう。棟方志功は「絵描き」であると同時に、見事な「手紙書き」だった。

次の「居酒屋巡り」は、Y子さんの気に入っている新宿のお店に行くことになっている。
話題は絵手紙だろうなあ。
由宇さんは言う。そろそろ腹がヘリコプター。今夜も小さなトキメキを胸に居酒屋へ出かけよう。
         <棟方志功の絵手紙 二玄社刊 2625円>

温かい雪の都 北海道

2006-03-13 17:30:00 | 建築・風景

数日前に春一番が吹き、図書館に行くために表に出たら梅が満開だった。柔らかい日差しというより空気が生暖かい。春場所が始まり朝青龍や横綱を狙う栃東が勝った。
天気予報では雪だといっているが,余市の雪はどうなっただろう。今年は多かったと上遠野さんもいう上遠野邸陸屋根の雪はまだ残っているのだろうか。木々はまだ芽吹いていないだろうか。撮ってきた北海道の写真をアルバムに貼りながら、いつまでも心に残る冬の旅を想い起こしている。それというのも僕と一緒に上遠野邸を訪れたときの学生の感想文が送られてきたからだ。

教室でビデオを見せてDOCOMOMOの話をし、卒業設計発表にも立ち会った彼らが3月10日社会に巣立っていった。僕の教え子でもなく、たった二日間の出会いではあったが、素朴で暖かい眼差しの感想文を読んでいると、雪に埋もれた住宅やそれを楽しんでいる上遠野さんと奥様のことと同時に、いい建築に触れて感銘した若い彼らのいい顔が浮かんでくる。同時に卒業設計講評で,北海道で活躍している建築家からの厳しい指摘に憮然としていた姿も。

上遠野さんを囲んで記念に撮った集合写真に思わず見入るが、名前と顔がなかなか一致しない。若いときは名前なんてすぐ覚えたしいつまでも忘れなかったものだが。まあいいか。何でも覚えていたらすぐに記憶の容量オーバーになってしまうではないか!なんてね。

感想文による彼らの指摘は鋭く感性豊かだ。この住宅の持つ「ゆったりとした時の流れ」を感じとり「ここに住みたい」と思い、僕の投げかけた保存問題に戸惑いながらも、住宅は創る人と住まう人の、人の心と人によって生み出されるということを掴み取ったようだ。品性とかもね。

僕は住宅を創るとき、そこに住むことに常に刺激を受け明日への糧を生み出さないといけないと考えていた。若いときには。
日常性と非日常性の課題だ。今僕はその日常性にこそ明日への糧を見ようと思う。上遠野さんの言う実験とはその課題を見続けることなのだろうと思う。雪に対峙し、しかし雪を受け入れる上遠野邸を見、若者の感性に触れて密かに確信する。描いてしまうと密かでなくなってしまうのだけど。

北海道が忘れられない土地になりそうだ。
さらさらした雪にも魅せられたが、やはり人か。緊張してご馳走になった蜜柑がおいしく、またいらっしゃいねと奥様が声をかけてくださって嬉しかったと率直に学生は書く。

東京にいる僕が北海道の人を北海道の人に繋ぐ。僕を招いてくれたMOROさんに北大のK教授を。三人で飲みながら肝胆相照らす。そして上遠野さんを若者たちにも。
建築に熱い想いを持つ1年生の「建築野郎」という同好会も忘れ難い。建築野郎Ⅱが教室を出る僕を追いかけてきて、おずおずとしながらもアーカイブについての質問をする。なによりその問題意識に驚いた。話がはずむ。
僕でも出来ることがあるのだとおもう。
                         <写真 余市魚場>



心地よい珈琲店

2006-03-10 16:32:15 | 日々・音楽・BOOK

背の高い生垣に埋まれ込むように置かれた小ぶりな看板に書かれたメニューと、小さな珈琲店蔦の文字に眼をやる。ここでお昼を食べようと、左手の蔦の絡まっている煉瓦で積まれた側壁塀に手を触れ、この建築が「蔦ハウス」と呼ばれるのはこの蔦なのかと一瞬考える。3月の陽は柔らかいがまだ芽を吹いていない。
扉を押してはいると「いらっしゃい」と声が掛かる。中年マスターの笑顔が眼に入る。ああ良いなあ!と途端にうれしくなった。

右手の外に膨らんだ席の、天井まで一杯に取られたガラスからは、芝の張ってある築山のように盛り上がった庭が見え光が降り注いでいる。左手に木の幅広いカウンターがあり、赤黒いローズウッドが背後から奥の狭いコーナーの壁にまで貼られていて粋だ。
珈琲とね、何か食べたいのだけど。コーヒーではなく「珈琲」と書きたくなる雰囲気。ライスはハヤシライスだけ、それにトーストなど、じゃあハヤシライスを。

さてどこに腰掛けようか、右手の広がった明るい席には4人が座れるすわり心地のよさそうな椅子とテーブルが二組あり、中年の女性二人が話しこんでいる。カウンターの手前には常連さんっぽいこれも中年男、ちょっとニヒルな感じでなかなか良い。さてね、此処で良い?と奥の壁にへばりつくように設けられた小さな丸いテーブルと木の椅子席へ眼をやる。お店の全貌(といっても狭いのだが)が見渡せる場所。

カウンターではマスターと格好の良い若い男性が役割分担をして、珈琲を入れたりトーストの準備をしている。時折カウンター席のお客さんと小声で会話をしている。微かに耳を澄まさないと聴き取れないような音量でショパンのプレリュードが流れている。まるで逢坂剛の書く探偵、現代調査研究所の岡坂紳策の行きつけの店のようだ。
ハヤシライスを持ってきたマスターに、此処は「山田守の自邸」だったんですよね、と聞かずもがなのことをいう。ええ、となぜかウインクされたような気がした。

建築家山田守は1894年(明治27年)に生まれ、1966年に没しているが、東大を出た後逓信省に入省し、郵政建築を率いていくことになる。吉田鉄郎とともに建築を通して日本社会に大きな貢献をした。1920年(大正9年)には堀口捨巳や石本喜久治らと分離派を結成、其れが日本のモダニズム建築のスタートとされる。
建築だけでなく御茶ノ水に掛かっている聖橋の設計でも知られ、賛否両論はあるものの京都タワーの設計者としても知られているのだ。
この住宅にも伺えるモダンなスタイルは、どこかに同年代の北欧の建築家アスプルンドを思い起こさせるものがあり、一昨年訪れた旧熊本逓信病院の半円によるファサードなど見ると、ついつい山田守は只者ではないという震撼たる想いにとらわれる。

この珈琲店は勿論住まいが店に改装されているし、庭に広げられた部分は増築されたものだろう。しかし!
珈琲を飲みながら置いてあるMOTOR MAGAZINEの2月号をひろげる。かっこいい車だと眼を奪われたのは、ブガッティ・ヴェイロン16,4.4WD、7993cc、なんと最高速407km。いや其れより驚いたのは価格が1億6300万円だそうだ。フジスピードウェイでのテストランの様子が書かれている。

此処は青山、骨董通りから一本渋谷よりの青山学院に面する通り。この優雅なモンスター情報を眺めるにはふさわしい場所だ。新しくはないが古くもない。なんとも心地良い空間。お客もなんとなくシックな中年が多い。マスターやカウンターのカッコいい若者のさりげないしぐさ。彼らを見て僕の好みを実感する。事務所に近かったら常連さんの一角に居座らせてもらうのに。
どうぞまたいらしてください、というマスターの笑顔がまた良い。

いやあ!となんとも良い気持ちで表に出て歩き出したら、室伏次郎さんと植田実さんにバッタリ。「おやkanematsuさん、青山まで?」と室伏さんも驚いている。「いやね、そこの山田守自邸のお店でね、飯を食ってね」「そうなの!植田さんとちょっと本の相談があってね」ではではと手をふって分かれる。
室伏さんの黒のハンチングと黒一色のスタイルはこのなんとなく晴れやかな街にマッチング。植田さんの茶のセーターと茶のオーバーオールとの好一対だ。

これから今井兼次の根津美術館、久しぶりに山下和正のフロム・ファーストビルを覗くつもり、おや、その先に例のプラダがあるなあ。何か華やかな気持ちになって足を踏み出した。


春の風 神宿った津山文化センター

2006-03-05 21:33:30 | 建築・風景

春の風に誘われて・・と書き出したくなった。
柔らかい日差しの中にまだ冷やりとする微かな風が吹いている。
3月の日曜の朝。
愛妻は横浜に出かけた。展覧会に関わった恩師からチケットをもらった娘から声が掛かったのだ。奥の院御本尊御開帳記念京都清水寺展。日本橋に来たときに観てるんだけどね、と言いながらおしゃれをして出かけるわが妻も結構かっこいい。阿闇梨餅と余市のニッカの工場で手に入れたTシャツを土産に持たせる。
さてっと、取り残された僕は春風の中に出た。梅はないし桜はまだか、咲いてるのは椿だけ、なんて自然を愛でながら。ちょっと思わせぶりか、床屋に行っただけなのだし。

鏡を見ながら白髪が増えてきたなあと思う。自分で見えるところから白くなるんですよ、と今日の担当のお上さんが言う。ふーんそうなのか、不思議なもんだね。髯はごま塩だし、もみ上げも白くなった。僕はね、白いのがね、格好いいと思ってんだけどねえ。白髪はね、腰が弱くなるんですよ、すぐ刎ねちゃってね、乱れちゃうの。そうだなあ、それで困るんだよね。

土、日曜日は休むんですか?うーん、出かけることも多いんだよね。仕事ではないけど建築でね。この一ヶ月ってね、札幌、筑波、名古屋、みな泊りがけでね。先週の木曜から金沢、昨日は京都から岡山県の津山市に神戸大の先生と一緒に行ってね、市の職員に文化センターを見せてもらって写真を撮ったんだよ。
他愛もない会話は津山からアネハ事件へ、そしてTVのリフォーム番組に。あれは変だよ、番組を作るためにやってんだから。友人の建築家からどう、出てくれないなんて誘われたこともあったんだけどねえ。

マッサージ器にもなっている椅子が振動を始め、お上さんが肩を揉んで叩いてくれる。ああなんと言う心地よさ。次第に昨日撮影した津山文化センターがぼんやりと瞼に浮かび上がってくる。
鶴山城といわれる津山城址の壮大な石垣を前にして建つ川島甲士の設計(1964)によるこの建築は、建築家川島甲士の代表作と言うだけでなく、1950年代に起こった伝統論争を思い起こさせ、12年後の1966年、歴史家伊藤ていじが第二期伝統論争の胎動が始まると予言した建築でもある。

同行した歴史研究者梅宮さんは、モダニズムのフラットルーフが気になると言う。何故フラットルーフにこだわるのか、コルビュジエも建築は上から見るものではないとも述べた。輝く都市、高層ビル群に未来を見たコルビュジエが、パースでは鳥瞰図を描かない。
車の中でもこんな建築談義をこれまた取りとめもなく交わしながらの至福の建築旅。
防水修復をした屋上に案内してもらって、梅宮さんは改めてフラットルーフが気になりだしたようだ。僕は彼のこの問題意識を帰りの新幹線の中で考え始めた。

朝眼が覚めふと思いついてマイルス・デイヴィスの「カインド・オブ・ブルー」をかけた。布団の中で眼を閉じながら聴く。リイシュー版のバックカバーにこのアルバムでドラムスを叩いたジミー・コッブの、これは「天国で作られたに違いない」というコメントがある。
「このカインド・オブ・ブルー評に多くの人は同意する。人というのは、時折、天国を味わいたいとおもうものだから」というライナーノーツを読む。5曲目、フラメンコ・スケッチのビル・エバンスの澄んだソロになると、一音一音にいつもいつもこみ上げてくるものがあるのだ。天国か、そうだ、神だと思う。今朝は神に包まれて始まった。

川島甲士は明治の廃藩置県・廃城令によって取り除かれた悠久の城に想いを馳せ、鶴山城址石垣のフラットな天端に神を見、二層に組み上げた斗拱の上を石垣に合わせてフラットルーフにしたのだ。丹下さんの代々木、東京オリンピックの金メダリストが、あの高飛び込み台に立って天を仰いで神を見たといった。モダニズムにも神宿るのだ。何の理論的根拠はないのだけど。
でも考えるにこの建築のフラットルーフは石垣の天端に応えたのは違いないと確信する。

学生時代僕は川島甲士先生に学んだ。だから先生と言わせていただく。面と向かった先生は太い鉛筆を右手や左手に持ち替えながら反対側から僕のスケッチに手を入れる。逆さまの字が味わい深かった。とはいえちょっと格好よすぎると思ったものだが。
その川島甲士に突然神宿った.

ぼんやりしていたら「はい、ありがとう」とお上さんから声がかかった。これは早春の夢か。春の風が心地よい。