日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

DOCOMOMO世界会議(1) トルコへ

2006-09-25 12:54:54 | 建築・風景

今夜の夜行便でトルコへ旅立つ。ジェット・ストリームだ。あの城達也のナレーションにのって。
JALで羽田から関空に行き、トルコ航空でイスタンブール、26日の早朝の5時5分に着いてしまう。
その朝7時半にホテル べラパレスで食事をしようと参加する篠田夫妻や渡邉さんと相談した。
先行するメンバーも居るのだ。というより僕達が1日遅れてしまうのだ。

DOCOMOMOの世界会議は2年に一度各国持ち回りで開催されるが、今年はイスタンブールでウエルカム・パーティがあり、27日から様々な研究集会が3日間首都アンカラで行われる。
日本からは9名が参加する。山名さんがタウトの日向邸についての発表を行うし、渡邉さんはポスターセッションで展示を行う。困ったことに皆英語だ。
僕は建築家藤本さんと同行するが皆飛行機もホテルもバラバラだ。トルコ航空はJALとタイアップしているが、直行便が少なく、シンガポール経由しか取れなかった人もいるし、パリ経由にしようかと思ったがうまく連携が取れなかったという人もいる。

関空発はこの7月からの開航だそうだ。夜行便だが羽田から行けるのはありがたい。
さてDOCOMOMO Japanはこの大会で2008年度日本での開催誘致を行う。DOCOMOMOの発祥の地、オランダも立候補しているので果たしてどうなるか。27日に鈴木博之代表がプロポーザルを行うが、今回参加するメンバーが一堂に会するのは多分この日だ。
トルコ大会のテーマは「OTHER MODERN」。

さあそろそろ出かけなくては間に合わない。それでは一週間後に!

生きること(14) 8月15日・何だか涙が出る

2006-09-24 16:56:10 | 生きること

昭和20年の2月、僕は6才、満で5才になった。
「吾子の生立ち」には`二つの時の主な事`から`六つの時の主な事`そして最後は`七つの時の記事`とタイトルは変わったが主な出来事を書くページがある。
`六つの時の主な事`には、1月27日に柏に疎開したことが書かれている。伯父が創設した建築 会社の社宅があった。そこへ疎開させてもらったのだ。

父の手紙に良く出てきた「駒込」というのが早稲田で村野藤吾の同級生だった伯父、母の兄だ。
後に引越し、大崎の伯父になった。
伯父は長男で、母は末っ子。20才も年が違い妹とはいえ自分の娘のような気がしていたのではないだろうか。僕たち一家はこの伯父に世話になり、支えられて生きてきた。

村野さんは日本を代表する建築家になったが、伯父はささやかな建築会社を新橋に作った。
早稲田の出身でありながら交詢社の社員になり、毎日夕方になると必ず銀座の交詢社に立ち寄った。皆に愛された名物会員だったようだ。名門我孫子でも名物会員だったという。キャディーが伯父につきたがったそうだ。僕もお下がりのゴルフクラブを貰ったことがある。エスカイヤーという洋服屋からよく電話があった。おしゃれで懐の深い伯父だった。

何故こんなことを知っているかというと、昼間は伯父の会社で働いたからだ。夜は伯父の明大教授とのコネで、今でいう裏口入学で明大の建築学科の二部つまり夜学に通った。ジャーナリストになりたかった僕は、高校時代理系の勉強をまったくしていなかったので。寛容性のある時代だったのか。過去形は使いたくないがよき時代だったといって良いのかもしれない。
どこかに書いたことがあるのだが、僕が建築に関わることになったのは、というわけで何がしかの挫折感、夢見た将来に思いを残しながら、世話になった伯父の希望に添うところからスタートした。

終戦の日。

『昭和二十年八月十五日。時々の空襲で、防空壕に入ったり何かしたが、今日で終戦である。
何だか涙が出る。
でもこれからは、子供たちもびくびくせず、のびのびと遊べる。
柏はまはりが広いので、はだかで、はだしで、本当にのびのびと遊べる』
1月の疎開の次の母の記述だ。

『九月に敬ちゃん、悌ちゃんが(駒込の伯父の長女の子供たち、孫になる・敬ちゃんは僕と同い年)鬼怒川から引っ越してきて、又お友達がふえてよく皆で毎日遊びます。
紘一郎はよく敬子のめんどうをみます。本当に何でもよくわかる。
かわいそうなくらい良い子です。
お父ちゃまがいないから、おかあちゃまの云うことをよくきいてくれます』

僕には終戦の日の記憶がない。しかし千葉県柏は空襲を受けなかったが、遥かな東京の方の空が赤く染まったことを覚えている。B29の編隊の姿が微かな記憶として、そしてそのゴーという爆音が耳に残っている。何度も何度も家の上空を通ったような気がしている。

このページにはなんだろう、家らしきものと、その上を飛ぶ8機の飛行機の落書きで一杯だ。字の上からの書き込みなので母が書いた後に描いたのだ。
飛行機は下から見上げた格好なので、その姿が眼に焼きついていたのかもしれない。まだ杉並にいたときに何冊かの軍艦や飛行機の戦闘場面の絵本があった覚えがある。時々出てくる色付の夢のような黒と赤の二色。あるいはそういう絵本を写したのだろうか。

『何だか涙が出る』
母は淡々と書いているが淡々としか書けなかったのだろう。
かわいそうなくらい良い子ですと書く母。家族って良いなあと思う。






モダニズムから70年代へ PD点描(2)

2006-09-21 12:47:33 | 建築・風景

趣旨説明をしながら実はどういう答えがなされるのか、興味津々だった。
ところがこのPDの結果や成果を伝えるのはなかなか難しい。深川さんでなくても戸惑う。討論する時間もなかったのだが、70年代はまだ余りにも身近なのかもしれない。
槇さんの代官山ヒルサイドテラス二期以降のように価値の定まったと感じるものも現れ始めたが、評価を繰り返し、価値が定まるにはやはり時間が必要なのだろう。

一つ、書いておきたいのは、70年代なって保存論議が始まったという指摘だ。確かに雑誌「都市住宅」でテーマとして取り上げ、鈴木博之さんが保存に触れているし著作でも書き始めた。30才代に。これは何はともあれ凄い。僕が保存に目覚めたのは50代になってからだというのに。

ところで「若き世代から」と言うテーマの倉片さんが(このタイトルは僕が決めたのだが)、「今日のパネリストは皆モダニズムと同世代だけど、私は70年代の生まれで・・・」と話し始めたら、壇の下で僕の隣にいた黒川さんが、「兼松さんは40年代でしょ、生まれたのは。僕は30年代、70年代だってさ!参るよね」とがばっと机に身を伏せた。それがなんとも・・・黒川さんの主題解説のタイトルは「70年代の現場から」だったのだ。

僕も実感しているのだが、僕が卒業したのが1962年で倉片さんの言う正しく戦後モダニズムと同世代、僕にもあった多感な青春時代にモダニズム建築理論教育を受け、建築にトライを始めた。モダニズムと聞くと黙っていられなくなるのはそういうことでもあるのだが、勿論それだけではない。何よりその時代の建築が面白いのだ。そしてそれを発見する。再発見といったほうが良いのかもしれないがそれが楽しい。
価値を自分たちで見出し、それが定着していく。僕たちが歴史の中に存在していることを感じる作業だ。僕が学生に言う「モダニズム建築への旅に出ようよ」というのはそういうことなのだ。

さてPD点描ということになると、黒川紀章さんに触れないわけにはいかない。
少し遅れ、僕が趣旨説明をしている時に会場に現れた。歩いてくる周辺にさざ波のようなざわめきが起きているのがわかる。僕も結構落ち着いてみているではないか。壇上から。と言いたいのだが集中力欠如?だから論旨がゆらゆらしてしまうのか!

PDに来てくれた僕の娘は「変な人が入ってきたなあと思ったら、周りの人が写真を撮り始めた。ああこの人が黒川さんかと思った」という。
「朝の9時は辛い。そうだとわかったら断ったのだけど、兼松さんと鈴木さんに頼まれちゃあね。断るわけに行かない」とさりげなく僕と鈴木博之さんを持ち上げる。明日中国へ旅立つ黒川さんは、横浜のホテルに泊まりこみ、原稿執筆でほぼ徹夜、ふらふらしているとは言いながらも論旨は明快だ。

丹下研究室に磯崎さんと共に無給研究生の道を選んだが、部屋の中には神谷宏治さんや大谷幸夫さんという綺羅星のごとき先輩が陣取っているが、僕たちは暖房もない廊下に勝手に机を持ってきて自分の居場所を決めた。酷い差別だよねと笑わせる。
そして丹下先生のところに来たコルビジュエジュエの手紙、「建築は終わった」というところから黒川さんの建築が始まったと述べる。学生はこのエピソードはメモしとかなくてはと鉛筆を走らせ始め、会場は盛り上がっていく。
若き日に描いたスケッチに路地を見出したと自分の建築話のスタートをし、最後は近作のナショナルギャラリーに触れ、つい最近コンペで獲ったロシアが狙っているワールドカップの会場になるサッカースタジアムで終わる。説得力のある話し方だ。

歴史をその時代だけを取り出して考察するのは、基本的な歴史学者のスタンスで、僕はそれはとても大切だと思うが、建築家は歴史の考察をしても、常に今自分の創作の中でそれがどういう位置づけになるかを考える。だから歴史学者と建築家が連携をとって活動することの意味があるのだと僕は思う。
それはこのPDのどこかで僕は言ったはずだ。テープを聞きなおしてみたい。僕にとっては大切な論旨なのだ。

話がうまいんだよね、と翌週学会での委員会で会った時鈴木さんは、何でも自分のものにしてしまう黒川さんに困惑しながらも感心せざるを得ないようだ。建築の存在と其れを創り続ける建築家の軌跡を社会に伝えていくことは大切だからだ。

「カタコト語の専門用語が多かったけど、話はよくわかったし面白かった」と娘はいう。「凄い人なんだね。黒川さんって」娘はまあ一般市民なのだが黒川さんのオーラを浴びたのかもしれない。娘は鈴木博之フアンなのだが、さて黒川フアンになったのか。

討論は保存問題が軸になったが、時間がなくなり一渡りしか出来なかった。司会の松隈さんは黒川さんに嘗て論争のあった神奈川県立図書館・音楽堂にさりげなくふれたが、保存と創造を連続するするものとして捉えるものだと共生思想に組み込み論点が煮詰められなかった。最後に松隈さんは「保存に関わっている兼松さんへ・・・」と総括的に僕にふった。
僕は、DOCOMOMOが市民からも信頼され、保存について頼りにされるようになったのは、時を経た建築の存在が、人の生きていく上で大切な記憶を呼び覚まし、安心感を与え、奥深い豊かな都市が構成される、その価値への認識をDOCOMOMO Japanが持っているからだと述べた。
そして学術的な価値と共に「都市の記憶装置」といわれる人の記憶を内在する建築の価値を、クライテリアとして表現することが必要で、良い文言がないかと問いかけた。
答えは僕たち自身が見い出さなくてはいけないのだが。

DOCOMOMOで選定した東京女子大「東寮(棟梁)」と旧体育館の解体が取りざたされている。何とかできないかと東女OBを中心にした組織を作り模索を始める。
同じく坂倉準三の初期の代表的な住宅「旧飯箸邸」の存続問題が起こり、つい最近シンポジウムが行われ大勢の人々の関心を呼んだ。
信じられないことだが、前川國男の京都会館の存続も危ぶまれている。中央郵便局に関しては朝日新聞が今朝(19日)この問題を取り上げてくれた。

文京区にある震災復興公園ともいえる緑の濃い元町公園をつぶすプロジェクトを、区は強引に推し進めている。なんと写真の雑誌アサヒカメラの編集後記で編集者が「行政の愚挙に目をつぶるわけには行かない」と記す。文京区の一市民として。
行政のあり方がおかしい。どうしたのだろう。どこかが変な時代になった。

60年代から70年代という建築界を軸にした社会の様相が浮かび上がったPDだったが、課題が見えてきた。DOCOMOMOへ持ち帰ることにする。

<写真 ナショナルギャラリーと中銀カプセルタワー>






モダニズムから70年代へ PD点描(1)

2006-09-18 18:12:07 | 建築・風景

パネルディスカッション(PD)が終わった途端、東海大学院生の深川絵里子さんが「どうしよう」と泣きそうな顔をして僕のところに来た。僕は内心ニヤリとし「困ったね。でもね、テープを聴きなおしてごらん」と答えた。
DOCOMOMOの選定を60年代から70年代へ踏み込むときの課題を探るPD。課題は浮かび上がったがその答えが見えたとは言い難い。深川さんはこのPDの記録者として、建築学会の機関紙「雑誌」に報告を書くのだ。

この報告書は2006年度建築学会大会の記録として日本の近代建築史の一角に刻み込まれる。彼女にとっては貴重な体験、良い試練だしそして実績にもなるのだ。若き深川さんの考えたことにも興味が湧く。報告書とはいえ自分の建築感なしには書けないからだ。
9月9日に神奈川大学で行った、この建築歴史意匠委員会PDには、ビッグネームがそろった。

パネリスト(主題解説と建築学会ではいう)として鈴木博之東大教授、藤岡洋保東工大教授、それに若い倉片俊輔(明星大学非常勤講師)さんという組み合わせの歴史の研究者、建築家の黒川紀章さん、学会PDには`まとめ`を述べるという仕組みがあり、その任は初田亨工学院大教授、司会は松隈洋京都工繊大助教授、司会の相談役的な副司会には、理科大の山名善之助教授という贅沢さ。黒川さんを除いて皆DOCOMOMOのメンバーだ。

僕は主催した学会DOCOMOMO対応WG主査として趣旨説明の後、討論にも参加したけど、僕だけがビッグではないなあ。
司会の松隈さんが、黒川さんを紹介するときに、唯一実作を社会に問い続けている建築家と紹介し、僕だってつくり続けているよと言いたくなったが、まあそうかとも思った。困るのだろうね。僕を紹介するのは。(苦笑)

DOCOMOMO対応WGと、DOCOMOMO Japanでは選定建築物を毎年10乃至20程度増やしていくことにした。2005年度はDOCOMOMO本部からの要請もあった5件の体育施設を含めて15件を選定して、現在115選になった。さらに選定範囲を60年代から70年代へ広げたときの課題を見出し討論したいというのがこのPDの目論見なのだが、事はそう簡単ではない。
選定基準、僕はクライテリアという言葉を使ったが、DOCOMOMO選定のためだけではなく,MOMOつまりモダニズム自体の定義を改めて考えることにもなるからだ。

僕が述べたかったのはこんなことだ。

モダニズム建築のクライテリア、社会改革を目指し、装飾を廃して抽象化し、工業化の波(大量生産)に乗り、機能を優先したという。それが世界に受け入れられグローバル化を促し、インターナショナルスタイルと言う言葉も普遍化されていく。社会が建築を生み出すが、建築も社会を変えていく。

しかし・・・建築はそもそも抽象ではないのだろうか。装飾。僕は装飾と抽象化については趣旨説明のとき述べなかった。明確に述べるほど僕の中で整理されていないので。
しかしモダニズムに身をゆだねた建築家は、抽象とはいえ装飾に取り組まなかっただろうかと、モダニズム建築を視るにつけ考え込んでしまう。例えば、武基雄さんの長崎市水族館のコンクリートによる格子は抽象装飾とはいえないか。

松隈さんがよく言うのだが、生活空間をデザインすることにトライしたのがモダニスト。結果として社会改革につながったかもしれないが、モダニズム(MOMO・モダンムーブメント)のクライテリアとしてそれを明文化しなくて良いのか。
インターナショナルスタイル(国際様式)もキイワードの一つだ。しかし選定した建築の探訪を行うと、魅力を感じるどの建築も、その環境を汲み取り、その場所にしかないものに建築家が取り組んだことがわかる。どこでも同じとは言い切れない。いやありえない。むしろ様式建築こそ場所性無視だ。
ところが困ったことに新幹線のように日本中に同じもの、つまり同じ駅舎を構築し時代の旗印とすることを善しとした事例があったりする。

70年代。
モダニズムへの懐疑とはナンだったのか。建築は自由であってよい。確かに。
しかし工業化に拍車がかかりモダニズム亜流の建築で都市が覆われていく。建築家がそれを促したと言っていいのか?
ではポストモダンとはなにだったのか。モダニズムの源流はどうなったのか?日本で生み出したメタボリズムという建築思潮もある。70年代に時代は変わったのだ。確かに。しかし・・・

山名さんに言わせると、ヨーロッパにはポストモダンはない。話題になったのはベンチュリーくらいかなあという。ポストモダンが建築のテーマになったのは、アメリカと日本だけではないだろうか。パリに留学しパリ大学で教え、フランス人のオクサンを娶った山名さんの言うことだから間違いない。だが、グローバル化の時代に果たしてそう割り切れるのか。
アメリカと日本。建築が社会動向と無縁でないことがここからもうかがえる。
改めてDOCOMOMOがヨーロッパから発信されたことを考える。

もう一つ言っておかなくてはいけない。黒川紀章さんの72年に創った中銀カプセルタワーの存続問題が起こり、DOCOMOMOのDOCO、コンサベーション(保存)の視点からも70年代を考えたくなったのだ。どういう答えがなされるのか。

いつものことだが、話していくうちに思考がどんどん先に行ってとりとめがなくなる。
どうしても藤岡さんのように明快にならない。さてさて僕の述べたことは伝わっているのだろうか。

<写真 旧長崎市水族館>


生きること(13)最後の便り

2006-09-16 13:14:01 | 生きること

最後のはがき。
「比島派遣マニラ野戦補充司」とゴム印が押してあり、「軍事郵便」と四角く囲った手書きのペンでの書き込みがある。「検印済み」もペン書きで、南という押印がある。2銭のはがきに1銭の切手が貼ってあり,消印はほんの一部だけで日付がわからない。意識してそういう押し方をしてあるようだ。

『紘一郎たちも元気のことと思ふ。丈まで明るくそして強く育ててくれ。俺は士気極めて旺盛である。駒込、阿佐ヶ谷、逗子、アパート、別に便りしないから、よろしく伝えてくれ。元気で頼むぞ。近所にもよろしく』
そして色の違う文字で『返信不要』と付してある。

さらに右の余白に小さい文字で書き込みがある。
『会社へもその旨伝えてくれ。国家のため、早く現在の真空管の優秀なのを、しかも大量に作ってくれる様祈っていると伝えてくれ』

フィリピンはどういう状況だったのだろうか。どういう街だったのか。しかしこういう書き方しか許されなかったのだろう。でも本文は短いが書けることは書いたのだと思う。士気旺盛とは言いながら、世話になった人々への感謝と、何はさておき元気で居て欲しいという気持ちとがにじみ出ていて、深とした気持ちになる。
付記を何故書いたのか。会社が電球など作るメトロ電気で、父が通信兵だったからだろうか。すがる思い、生きて帰りたいという気持ちが書かせたのだろうか。いややはり会社への思いがあったのだろう。「返信不要」に軍隊の状況がわかる。

母は何度も読み返したと思うが、僕も父からの手紙を繰り返して読む。封緎はがきにあった、僕たち家族との生活を継続する為には、どうしてもここで米英を徹底的にやらねばいけないのだという一節を。そうでなくては生きて帰れないことを。いや父の気持ちのどこかで、奥底で、人が生きることは当たり前のことで敵を憎むことはなかったのだと僕は思う。

思えばこのマニラからのはがきが父の絶筆だ。

僕は父が祈るように書いた「杉のように」まっすぐな人間になっただろうか。強い人間になっただろうか。少なくとも背は杉のように伸びなかったなあ。父の子だから。そして(どうも苦労が身につかず)`楽観的`だ。
父の子だから。

<写真 弟の生まれる前日。母のお腹が大きい.左下の写真は祖父と父だ>





生きること(12) 毎日午後七時に 

2006-09-13 22:10:23 | 生きること

最後の封緎はがきは11日後、8月17日付で、消印は19日、久留米市の住所が書いてあり差出人は金子清子となっている。

『生命享けて実に三十有六年、畏くも天皇陛下の命令うけて遥かなる海外渡り、戦地に赴く男子の本懐之に過ぎたるはなし。
お前と結婚して六ヵ年、この間三子を授かり生活的には苦しい乍も楽しい生活だった。この生活を継続する為には、どうしてもここで米英を徹底的にやらねばいけないのだ。
俺は命をうけ戦地に赴く。そして必ず凱旋するぞ。現在の俺にはその自信がある。
その間子供の事を宜しく頼む。すくすくと杉が成長する様に育ててくれ。今度俺がお前たちに会う時は、俺もどこか違った人間になっていると思ふ。お前もこれから苦労が多いことと思ふが、しっかり頑張ってくれ。

この間北九州で空襲があったが、それにつけてもお前や子供たちがその被害を受けない様祈っている。疎開するなら疎開してもよろしい。長崎、駒込、阿佐ヶ谷に、お前で解決できないことはよく相談して決心すべし。

もう愈愈出発らしい。俺が戦地について正式に手紙が出せるようになってから便りをくれ。お前は隊宛に便りしたかもわからぬが、絶対に渡して貰えぬのだから、今手紙を出しても無駄だ。俺からはこうして便りを出せるときは出す。

それからここに一つ提案する。

毎日午後七時を期して、俺はお前と子供たちのことを考えるから、お前たちは俺のことを考えてくれ。午後七時より五分まで五分間。俺は敵と戦っている時でもお前たちのことを考えるだろうし、船に乗っている時も考えるだろう。思いは通じるだろうと思っている。

日々の生活は愉快だ。体はめきめき太って来た。
殊にお腹が長崎の父みたいに出っぱって来た。
体の調子は上乗だから安心して可なり。

この間行軍して、梨を思う存分食った。出来たらお前たちに送ってやりたかった。
俺が居なくってお前たちが食べ物に自由を欠いてないかと心配だ』

小悪魔

2006-09-10 15:57:52 | 日々・音楽・BOOK

エスカレータで下りながらふと気になり右を見ると、ガラスにどきりとする姿が映った。僕の真後ろに立つまっすぐ前を見据える女子校生で、下の階へ乗り換えるときに思わずちらりと盗み見した。ミニのスカートの制服姿。自分の、それも妖しげな魅力をしっかりと意識している。ちょっとこしゃくな。
これはまずいと思った。誰もが魅かれる小悪魔。
上手く大人になれば、若き五木寛之が雑誌「NOW」でオマージュを送った大地喜和子になる。
いやもっと、もしかしたら表には現れない底なし沼のような。何故まずいか、僕の人生にない女なのだ。

人の生き方を考える。人は今何故今の自分の道を歩むのだろう。選択比があるようでない。もしかしたらどこかで道を選んだのだろうが、深く惹かれながらも選び得なかったのだろうか。きっとそうなのだ。

そんなことを考えるのは、2冊の短編集を続けて読んだからだ。
一冊は山本周五郎の中短編秀作選集3「想う」である。NHKで始まった「ちいさこべ」が収録されている。もう一冊は大岡玲の「塩の味」。これは月間プレイボーイに連載されたものだ。二冊とも今の僕が手に取る本ではないと思うのだが、図書館でパラパラとページをめくってほんの少し斜め読みして借りてきた。

山本周五郎の長編「赤ひげ診療譚」は読みつくしたし、三船敏郎の赤ひげは即座に目の前に現れる。だから周五郎は知らないでもない。この中短編を読んでみようと思ったのは、収録されている作品の書かれたのが、僕の生まれた1940年から1955年の十年間で、特に終戦間近の45年婦人倶楽部8,9月号、それに終戦直後の11,12月合併号に記載されたものが収録されているからだ。読んでみると、周五郎はぶれていないとは思った。

併しやはり終戦の前は賢婦と言うか、ひたすらお家大事の武士の世界の翼賛につくした健気な女性が主人公だし、戦後の作品は少しフリーっぽくなる。当然のことかもしれないがどちらも教訓的なことが気になる。ところが本来僕の嫌いな教訓、言い方を変えればノウハウ的な組み立て方は受け付けないはずだし、文体も古臭いのに読まされてしまう。
なぜか。真摯なのだ。生きることに。登場人物もおそらく作者も。これには参る。
だからドラマ化は難しい。今日(9/7)見た第一作目は全く駄目だった。シナリオや役者も。作り物のセットが酷いということもある。

一方「塩の味」には小悪魔っぽい女に溢れている。僕の世界ではないし、この短編の一方のテーマである美味い料理も、いかにも美味そうだと思うが僕の世界ではない。僕はグルメではない。美味いものは好きだし、忘れられない鯖の刺身の味があるが、さし当っての僕のテーマではない。
ところが美味そうだと思わせる、多少軽薄だが読ませる筆力が大岡玲にはあるのだ。そしてそれが切っても切れない女との関係だと彼は言いたいのだ。
どの短編も主人公は概して40代の男性つまり大岡玲で、大体女(若かったり50に届きそうな)にしてやられる。と言って、してやる女が幸せかと言うとそうでもない!だがそういう女こそが小悪魔なのだ。

僕の心の隅に痛みが走る。読みながら、ちくりちくりと。
どこかに、微かに思い当たることがあるのだ。でも僕は選択しなかった。しなかったのでなく出来なかったのだ。そして一見当たり前の人生を送ることになった。「想う」人生を。まともな。
エー!と言う声が何処からともなく聞こえてくるが。うっそーとも。
さて今日ちらりと見た若き小悪魔はどんな人生を送るのだろうか。

「塩の味」人生が間違いなく彼女の目の前に開いている。

生きること(11)  生きようと決心した

2006-09-06 18:50:46 | 生きること

封緎はがきというのがあった。
普通のはがきより一回り小さい92ミリ×125ミリで、開くと92×272ミリになり、裏も使うと、はがき4枚分の文字が書ける。はがきは3銭で封緎はがきは4銭だが別に切手が貼ってある。ところが三通とも消印が残っているもののなぜか切手が剥がれているので何銭かわからない。
紙質はあまりいいとは言えず、わら半紙のような色をしている。母は繰り返し繰り返し読んだと思うが、しみが出たりしているが破けたところも無く、大事にしてきたのだと思う。

2通の消印は昭和19年8月8日、住所は久留米と書いてある。1通は差出人が父の名ではなく別名になっている。しかし内容はほとんど同じだ。届かないことが心配で名前を変えてもう一通書いたのだろう。僕は傷まないようにそっと開いて、万年筆で書かれた手紙を読む。

『お前たちと別れてから、丁度2週間になる。もっと早く南方に出発の筈だったが,都合に依り延期になったのだ。出発のときは余りにあわただしい別れで俺も随分つらかった。そして入隊した日なんか、即日にでも早く出発して欲しい気持ちだった。確かに平常心を失ってしまった様だった。
ここに来て始めて、しかも海外に出発する覚悟を決めて、つくづくお前に何もしてやれなかった事がくやまれる。お前は俺にとって確かに過ぎた妻だ。総てにいたらぬ俺にそんなに長い年月とは言えなかったにしても、よくも仕えてくれたものだと本当にありがたく深く感謝している。
3人の子供に恵まれて、不足勝ちの生活だったにしても、俺たちは確かに幸福だったことは否めない。

在隊中の二週間の生活は、確かに俺の生活意欲を旺盛にしたようだ。最初のうちは俺は国家の為に死のうと覚悟を決めた。お前たちと別れる時は、俺は実際死を覚悟していた。併し俺の覚悟は変わった。
俺は国家の為に生きようと決心した。国家のため、又お前たちの為に是非生きようと決心したのだ。一種の悲壮感というものは、心の中から消えて今の俺の心は勇気で一杯だ。
俺は必ず生きて帰るぞ。

俺はことさらにお前たちの写真を持ってこなかった。子供たちやお前のことは、何時又何処ででもあざやかに心や頭の中に描くことが出来る自信があるからだ。又戦地に行った時、成長したお前や子供たちの写真を撮って送ってくれ。戦地では実は便りは出せぬのだ。成長した姿は、或いは違った形で俺の脳裏にうつるおそれがあるからだ。

ずい分暑い日が続く。
身体には充分に気をつけよ。子供たちには俺とお前の二人分の愛情を注いでくれ。決していじけ者には育てるな。すくすくと成長さしてくれ。
俺は何処にいても、お前たちの幸福を祈っている。お前たちが幸福に暮らしている事を考えて、俺の心は和むのだ。空襲の被害にかからぬ様、費用にはかまわず疎開するなりして最善の策をお前がよく熟考し、駒込、阿佐ヶ谷と相談してたててくれ。

俺は昔から楽観主義者だった。俺は俺の力を信じるし、又日本国の実力を信じている。観念的な楽観でなしに帰納的に俺は日本の勝利を確信している。
戦友はみんないい人間だ。「兵営は私生苦楽を共にする人間(軍人)の家庭なり」本当にそんな気がする。
俺は常々どんな場所でも、又どんな場合でも俺なりの生き方をしていく。

神山が出征のとき、「戎衣きて夢は戦地をかけめぐる」という句を残して往ったが、俺は未だそんな夢はみないが実によく安眠する。痔もでず身体の調子は上々だ。
たくましくなって帰る俺に期待してよろし。』

<写真。父の学生時代・つるや旅館の前で。何処の`つるや`なのだろう>

キースのソロ インプロビゼーション

2006-09-03 14:11:35 | 日々・音楽・BOOK

父の日だからもう2ヶ月半になる。なにがいい?と娘に聞かれて考え込んだ。さて欲しいものといっても予算もある。あまり高いのもね、可哀想だしといってほんとに欲しいものがいい。できれば娘のプレゼントだとはっきりわかるものを。やはりCDか!
平河綾香のODYSSEYがそうだったか。僕のBIRTHDAYか父の日。数年前になる。娘の引越し荷物を車に積んで借りたアパートに行く途中でラジオから聞こえてきたjupiterにぞくっとした。AYAKAのデビューに遭遇したのだ。この曲を超えるのは彼女にとって至難だが、ともかくまだ学生で初々しかった。娘はjupiterをよく知っていて`ふ―ん`といって日をおいて持ってきてくれた。今度もまたCDかとも思ったが僕には思惑があったのだ。

僕のJAZZの師匠?TAROさんのブログで、「インプロビゼーション」という言葉に出会った。即興とかアドリブというと身も蓋もないような気がするが、インプロビゼーションの語感がいいのだ。ぼくの心の奥深くにインプロビゼーションという言葉が宿った。好奇心がうずきだす。

建築史家鈴木博之さんが28年前に書いた「マイナーなブルースよりも」というエッセイ風の論文がある。シビアな建築論でもあるのだが、こんな一節がある。
『私はひところジャズが好きでよく聴いた。勿論そうはならなかったが、一時は、なれるものならジャズ評論家になってもよかった』そしてジャズと建築とのかかわりかたとの間には、かすかに関係がある、と書く。
僕がジャズにのめりこむのも、何処かに建築との関わりがあると感じるからだ。時代考察とかなのだが・・・

『60年代ごろのジャズの典型的な演奏法はつぎのようなものであった。まずテーマが演奏される。それが終わると各奏者がソロをとりながらインプロビゼーションを行う。各奏者がそうしたソロを行って、最後にフォー・バースの掛け合いなどが行われてから再びテーマの演奏があって一曲終了する。したがって、ジャズでは即興演奏が大だとは言うものの、聴いているほうは常にテーマとの関連において各奏者の演奏を楽しむのである。テーマのフレーズがありコード進行があることによって、インプロビゼーションの楽しみが生ずるのである』
そして鈴木さん(現在東大大学院教授)は、`建築の細部の楽しみも、全体のテーマとの関連によっていっそう大きくなる`と、建築に触れていく。卓越した指摘だ。

60年代だ。僕がJAZZに出会ったのも。
入り浸った銀座のライブハウス`ジャンク`。菊池雅史や日野皓正もそうだったが、ジャズ演奏の組み立て方は正しくその通りだったし、今でも基本はそうだろう。そのインプロビゼーション、クラシックだとカデンツアか。しかしカデンツアは作曲して譜面に残すのだ。クラシックには純なインプロビゼーションがない。

僕がキース・ジャレットのソロに捉われるのは、2002年に大阪と東京で行われたソロのライブ録音「レディアンス」を聴いて震撼とし、そのライナーノートを読んだからだ。このライブ録音は、僕が喜びそうだと思って娘が買ってきてくれたのだが、もしかしたら僕の音楽観が変わる出来事だったかもしれない。

キースは書く。多くの人は、『(この)演奏の始めの部分にメロディの要素が一それどころかモチーフとなる要素さえもが一欠落していることに一瞬戸惑うかもしれない。出てくる音に、動機となるコンセプトの存在がまったく感じられないからだ』『私は自分の両手(特に左手)に、何をすべきかを指示してもらおうと思っていた』これはスタート時のフリー演奏と、和声進行という調性による究極の叙情性をも含めての論述なので驚かざるを得ない。
更にそれに続くキースの言葉に眼を見開かされる思いがした。それは試そうとした方法論の一つで、何かが新しいものに変換される瞬間というのはめったに訪れない、というのだ。
そういうものだ。創造というのは。
つまりインプロビゼーションによって`音楽・ジャズ`にトライし、しかし、そして・・・コンサート自身が音楽的な構成を持つような形で進んでいったことに気がついたときキース自身がショックを受けたという。キースは自分のソロ演奏をそう捉えている。

キースのソロを考えたいと思った。
そして図書館でSWING Journal2006年6月号に出会う。「ジャズ超名盤研究29」は、ジャズと即興を一般音楽フアンまで広めた永遠のベストセラー「ザ・ケルンコンサート」。
これは聴かなくてはいけない。娘に探してもらう。そしてあまりな美しさ、純な音に眼がかすんでくる。
それが全てインプロビゼーションだというのだ。言い方は好ましくないかもしれないが、ピアノに向い創造の神に委ねて音を紡ぎ出す。

このケルンのコンサートは1975年、そして「レディアンス」が生み出されるまで27年を経た。時を経て『(インプロビゼーションによる)コンサート自身が音楽的な構成を持つような形で進んだ』ことにキースはふと気がつく。
ジャズを超えてしまったかもしれないし、それがジャズの真髄なのかも知れないのだ。そして27年間の数多くのソロコンサート、この長い年月による模索、『新しいものに変換される瞬間というのはめったに訪れない』とは言うものの、そのいずれもが僕たちを魅せる。これは凄い。そして思う。この音楽を生みだす人間ってなんて素晴らしいのだ。

キースはこのインプロビゼーションによって生み出したオリジナルを、他で演奏したことがない。トリオではどのような響きになるのだろうと好奇心が湧いてくるが、僕たちにはCDがある。繰り返し聴きながら、一回性のインプロビゼーション(ライブ)と録音の整合性をどう捉えれば好いのかと考え込んでしまう。

そして、
キースのソロのインプロビゼーションは、60年代の形式、ジャズの基本形の「テーマとの関連において生まれるインプロビゼーション」とは一線を画すのではないかと思いはじめる。創造の原点自体を考えさせられてもしまうのだ。提示されたテーマのインプロビゼーション展開ではなく、インプロビゼーション自体が創造・音楽なのだから。

では建築世界は?

録音されているキースのソロを全部聴きたいと思った。
そして僕の今年の父の日の娘からのプレゼントはCD「FACINGYOU」にした。この演奏は、1971年マイルスのグループでのヨーロッパツアー中に、オスロのスタジオで始めてソロに挑んだ記念碑だ。全てが即興ではないが、当時のマイルスはエレキにトライしており、キースにとってアコーステック・ピアノの演奏は渇きを癒すものだったに違いないという。ここからスタートしたのだ。
このあと、日本版は絶版だというclavichordによる「BOOK OF WAY」や、オルガンを弾いた「SPHERES]という妙な録音版も手に入れた。

まあそれはともかく父の日の娘からの「FACINGYOU」には、「お母さんといつまでも仲良くね!!」そして「ジャズも良いけど、たまにはROCKも聴いてみてちょ。」と言うメッセージが、娘のシンボル、笑っている大好きな蛙と共に描いてある。