日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

新年を迎える風物詩、心を打たれた言葉

2007-12-31 11:25:09 | 日々・音楽・BOOK

年末になると、今年おきた出来事を書き出して、こういう不祥事は忘れていい年を迎えようという人がいるが、そういうことはやめようと新聞に書いた学者がいた。とは言いながらその人も幾つかの事件を取り上げながら年末の真情を縷々と書く。都合の悪いことはすぐに忘れてしまう日本人を懸念してのことだろう。
其の一文が気になってちょっとためらうが、やはり僕も書いてみたい。
今年も出かけた「杉田キリスト教会」の、クリスマスの燭火礼拝とバイオリンコンサートでの、牧師とバイオリニストの言葉に心が打たれたからだ。

「船場吉兆」「赤福」と並べて一呼吸置いたのは、バイオリニストの丁讃宇(ジョン・チャヌ)氏だ。中国や韓国ならわからなくもないが「誠実で品格のある国として世界の人々の信頼を得ている日本の出来事なのがとても残念だ」と言葉を詰まらせた。氏は京都に生まれ、桐朋学園大学からパリ国立音楽院へ留学して首席で卒業、韓国国立交響楽団、東京交響楽団の首席コンサートマスターを歴任した音楽家だ。

でも音楽の世界でもこういうことがあるのですよと、ふと言葉を和らげた。マルティン・マルティーニの「愛の賛歌」。其の時代、イタリアが音楽のメッカでイタリア人でないと音楽を受け入れてくれなかった。イタリア人っぽいマルティーニというのは「偽装」。本当はシュバルツェンドルフというドイツ人、それで売り出したと笑いを誘って、綿々たる心を打つ美しい旋律を奏でた。
其の呼吸と話術に「いや見事だなあ」と溜息をつきたくなったが、丁氏の母国韓国への想いを込めながらも、何よりも日本が好きだという氏の心情が、笑顔と共に切々と伝わってくるのだ。
アンコールの最後の曲が「いい日旅立ち」。

「クリスマスだけではなくて、せめて5、6回は教会に来てくださいよ」と言われてしまった牧師の話にも心を打たれた。吾が子が小さかったときのサンタクロースへの想いだ。
何がほしい?と聞いたら、サンタさんはちゃんと判っているから言わない、といわれて困惑。(牧師さんでもそうなのだと思わず笑みが浮かんでしまう)翌朝「サンタさんが来たね」と娘に微笑みかけると、「いやサインをしてと書いておいたのにサインがない、どうもおかしい」。
しまったと思ったのか、会堂にいる子供たちを考えながら「サンタさんは絶対いる」と心を込めて述べた。其の言葉がズシンと僕の心に響いた。

サンタさんはいる。子供の素直な心に思いやり、子供を愛し、この子供の心を率直に受け留る大勢の人がいる。其の人々皆がサンタさんだ。僕はイラクや戦火時の沖縄の子供たちを思い浮かべていた。

新宿の駅から僕の事務所に行く途中に、新宿中央公園がある。その一角の熊野神社の鳥居の前を通るとき、僕はちょっと眼をつぶってよろしくと敬意を表する。境内で町鳶が沢山の門松をつくり始めると年末だ。

バイオリニスト丁氏はこういって僕たちを笑わせた。
クリスマスに来た外国人は、日本は大勢のクリスチャンがいる素晴らしい国だと感銘する。ところがクリスマスが終わるとイルミネーションがなくなり、デパートでもオフィスビルでもいっせいに門松が建つ。さて一体どんな国かと訳がわからなくなる。
町鳶のつくる門松が新宿の町を飾り、新しい年の来るのを祝うのだ。
其の新宿西口の前で工事中の「モード学園」が全容を見せ始めた。設計は丹下都市・建築研究所。超高層は足場を架けないので様子がわかるのだ。
新しい年を迎え、新宿西口の姿が刺激的に変わっていく。

「まちの呼吸」 飯田鉄と寺田侑の記憶

2007-12-26 15:10:29 | 写真

30年前の顔が写っている。
鋳物のまち川口。おかめ市の夜店に集う人々、恋する男女がいて子供がいる。運動会の一日があって、鋳物工場の男たちが漆黒のモノクロ6×6の誌面から僕を見ている。どこかで見た顔だ。

写真家飯田鉄さんの写真と、美術評論家寺田侑さんの文を組み合わせた「まちの呼吸」(冬青社刊)は、僕たちの心の奥に宿っていた懐かしい記憶を呼び起こす。そしてちょっとたじろぐのは、もしかしたらこれは過去の出来事なのだろうか、僕たちはこの時代を失ってしまったのだろうかと不安になるからだ。

飯田鉄さんも寺田侑さんも、戦後すぐ、似たような時期にこの町で少年時代を過した。飯田さんの写真はその町を1970年代から80年代の半ばまでの7・8年間に撮ったもの、寺田さんの文は1985年に書かれた50年代の記憶。同様のものは2度と書けないと寺田さんは言う。
興味深いのは、写真と文が違うシチュエーションで構成されていることだ。
たとえば、射的場で男が景品を狙っているさまを子供たちが見詰めている写真と組み合わされた文のタイトルは「雪と決闘」。寺田さんの文は、雪の玉を申し訳程度に投げ合って、すぐに終わった雪合戦のさまだ。その組み合わせがしっくりと溶け合っている。

この本の寺田さんの文は、このような不思議な取りとめもない、何事もおきないおかしな雪合戦のようなものだが、人の生きるって事はそんなことかもしれないとふと思わせる。
その寺田さんは、川口は二人にとって懐かしい町だけど、二人だけのものにはしたくないという心意気がこの本の素になっていると書いた。

それは、この本にメッセージを送った作家関川夏央の「飯田鉄の写真には、さわやかな無常感が伴う」そして「うつろっていくものへの愛情とあきらめ、そういってもいい」という一文にふと考え込む僕たちへの,二人の問いかけでもあるのだ。

飯田さんを信じて微笑んでいる鋳物工場の男の顔を見て、いやそうではない、僕はこういう顔を知っているといいたくなった。
つい最近、僕が述べる建築保存論を食い入るように聞いていた、修士論文をまとめている女子学生の顔を僕は今思い出している。

<「まちの呼吸」冬青社2007年11月20日発行>

韓国建築便り(6) アンヤン アート・パーク

2007-12-23 00:05:48 | 韓国建築への旅

ソウルとスウォン(水原)のほぼ中間にある、アンヤン(安養)市の郊外ピュオングチョンの山裾に、アンヤン・アート・パークができた。
アンヤン市は人口約62万人、ソウルからおよそ25キロ、ソウルの衛星都市(ベッドタウン)として知られており、駅周辺には高層共同住宅が建ち並んでいる。中小規模の軽工業地域として位置づけられていたが、近年ハイテク都市として発展しているようだ。

市はアートによって町のイメージを一変させて、ハイテク都市にふさわしい「ハイグレードシティ」としての町づくりを目指すという。2004年8月に市はパブリック・アート プロジェクト(APAP)のタスクホース チームをつくり、2年前の2005年には1st APAPをオープンさせたのだ。
このプロジェクトは進行中で、アートによる公園づくりから次第に街(ダウンタウン)づくりに移行して行く。

案内されて一帯を歩いたが、既に川の対岸に新しい建築群が出来上がっている。アート・パークのパンフレットがあるが、この川沿いのガラスを多用したシャープなプロジェクトはまだ記載されておらず、誰の設計か僕たちにはわからなかった。(いや実はパンフレットはハングルで書かれていて今みてもチンプンカンプン、ハングルを勉強しなくてはいけない・・とづっと思っている)

訪ねたのは日曜日だった。
大勢の人がリュックサックを背負い、キャラバンシューズを履いて川沿いの並木の紅葉の中を連れ立って歩いている。山歩きをするのだそうだ。韓国の人は自然の中を歩くのが好きなのだと、ユン先生が解説した。この素朴な人々のスタイルと、アートプロジェクトが僕の中ではどうも一致しない。
アルド・ロッシの設計した小さな白い美術館が建っている。このプロジェクト(市)のアートセンターでもあり、この地域、ピュオングチョン・アートホールでもある。まあそれなりの建築だ。(と切り捨ててしまうのは失礼か!)

川を渡りアート・パークに入る。このプロジェクトは、様々なジャンル分けがされているようで、駐車場に建つ小さな展望台と、歩き始めるとまず出会う、上っていくと行き止まりになってしまう歩道は、HOSPITALITYつまり訪れた人を歓迎するシンボルとして表記されているし、道路標識のようなアートはALLURE(魅惑的な誘い込み?)とされている。

木々の茂る傾斜地に様々な作品が点在している。
隈研吾さんの作品があった。ARTに位置付けされている。折り紙のように、鉄板を折り曲げて構成した建築的な作品だ。タイトルは「PAPER SNEKE」。いやいや韓国のここまで隈さんが、となんとなく感慨を覚える。
木の箱や、竹の籠の中を通り抜けていくPILGRIMAGEというジャンル、PAUSEとされた腰掛けて休める作品もある。

僕が気に入ったのは、ビール瓶を納めるような色の違うプラスチックの箱を積み上げて部屋にし、外から入る光によって非日常性を実感させられるバラック建築。ドイツのウオルフガング・ウインターとベドフォルド・ホバートの共同作「ANYANG CRAT OUSE」。この作品はパンフレットやこのプロジェクトのHPでもシンボリック的に掲載されている。面白いと感じるのは皆一緒なのだ。

このアーパークの手前に金寿根さんと並ぶ韓国の代表的な建築家、キム・ジョングアップさんの設計した会社のオフィスプロジェクトがある。残念なことに日曜日なので門が閉まっていて入れない。守衛所が見える。コンクリートでつくられた円形の建築で、只者ではない。
ユン先生はこの一連の建築を文化財として登録したいという。帰国して僕の持っている作品集を見たが載っていなかった。中に入れなかったのがとても残念だ。建築に出会うのは一期一会だと思うので。

<写真 左:隈研吾さんの「PAPER SNEKE」右「ANYANG CRAT OUSE」>


馬琴先生の次郎長と、さん八師匠の昭和天皇

2007-12-17 11:15:14 | 日々・音楽・BOOK
 
マイクを持って世話人を代表して立ち上がった。12月11日、鰻の老舗、上野不忍池の畔、池之端「伊豆栄本店」の大座敷だ。
「いつも同じことを申し上げますが、月日のたつのは早いもので、あっという間に師走になりました」。毎度申し上げることでござんすが、と僕は一度言ってみたいと思うのだが、気恥ずかしくて今回も言えない。

「この宝井馬琴師匠(先生)の会も、回を重ねて28回目、年に2回の開催、なんと14年たちました。僕たちも14歳年を取り、お互いにいい年になりましたが、今日は僕たちの母校明大空手部の、若き現役女子学生が3人もきてくれました」。
ホーというどよめきが起こり、座敷一杯の七十数名の眼が一斉に学生に向かう。可愛い学生も物怖せず、誇らしげだ。皆ニコニコしている。

「今日の馬琴師匠の演目は`鉄舟と次郎長`です。馬琴師匠の故郷、清水の次郎長は、晩年になって、地元の人々の為に意を尽くし、義侠とも言われるようになったのですが、この岡本綺堂原作による物語を読み揚げていただきます」
講談界を率いる一派宝井家の伝統は、戦記もの「修羅場」読みなので、馬琴師匠のヤクザものを味わうのは久しぶりだ。

「助っ人に、柳家さん八師匠をお迎えしました。先代小さん師匠のお弟子さんで、いまや落語協会の理事、重鎮です。剣道7段だった小さん師匠の指導で剣道3段、日本酒ハシゴダン、人妻大好きの超まじめ人間。・・と師匠のHPに書いてあります」と紹介する。ワッと会場が沸く。
「師匠には、昭和の面影を呼び起こしてくれるネタをお願いしました」。実はさん八師匠の昭和天皇の物まねは、隠し芸を超えて絶品なのだ。

さん八師匠は、馬琴先生の孫弟子「琴柑」さんに、釈台を置いといてよ、と頼む。
高座に上がった師匠は、扇で釈台をパンパンと叩いて一度これを叩いてみたかった、と皆を笑わせる。いい呼吸だ。いっぺんに会場が、和やかで笑いを待つ空気に包まれる。これも芸だ。
「兼松さんに昭和を思い起こさせて下さい、といわれてまして」とさりげなく世話人を持ち上げる。芸能界のよいしょ!とは云え、やはりなんとなく嬉しくなるものだ。僕も先輩馬琴師匠(講談界では先生というのだが、宝井家の講談家と親しい僕は、弟子たちに倣って師匠という)とのお付き合いはン十数年になり、芸人の世界のしきたりも多少は知っている。

さん八師匠は、師匠小さんの臨終の有様を面白おかしく語りだし、エーッ、こんな生々しいことを言っていいのかと僕を心配させたが、さりげなく宮中主催の園遊会に話をつなげ、がちがちの小さん師匠と昭和天皇のやり取りに話をつなぐ。昭和天皇の朴訥な姿の物まね、天皇の忘れられないイントネーションに、昭和時代の僕たちを笑わせ、そしてジーンとさせる。天皇が亡くなって(崩御されて)既に19年たった。この馬琴師匠の会の人たちに、一度は味わってもらいたいと思っていたノスタルジー。ノスタルジーっていいものなのだ。

来年は、講談協会の会長で、紫綬褒章ももらった馬琴先生が御呼ばれするだろう。御付の人が天皇に馬琴先生を紹介する、今上天皇は「講談界は女性が多くなったそうですが先生が会長になられて益々賑やかにご活躍だそうで・・」と天皇を介して馬琴師匠をよいしょした。なんと今上天皇の物まねだ。場内爆笑。「お蔭様でさようでございます」と今度は馬琴師匠の物まね。笑いに包まれて高座を下りた。

馬琴師匠の次郎長はさすがに聞かせた。義侠とはいえ裏ではね!とさり気なく僕たちを現実に引き戻す其の語り口は、伝統を大切にしながら今を語るという馬琴師匠の面目躍如。

鰻を肴に一杯やって、馬琴師匠の数葉の色紙を、琴柑さんと世話人の一人I君の司会で、じゃんけんで会場の人に競ってもらった後、「白雲なびく・・」と、手を振り上げ校歌をうたう。
今回は応援団OBが出て来れなかったので、駅伝部元監督に指揮をお願いする。でも情けなかったのは、箱根駅伝予選通過ができなかったので、なんとも意気が上がらない。ラグビーもね!あの早稲田にコテンパン。思い出したくもない(笑)

綺麗どころのお酌ですっかり満足した恒例のこの暮れの会は、無事閉幕。今回は村山元総理や、理事長は会議などで参加いただけなかったが、いつにも増して楽しかった。
モーイークツネルトオショウガツ。ちょっと気が早いか。

韓国建築便り(5) 建物が歴史になって近代を語る「仁川開港場近代建築博物館」

2007-12-08 23:06:18 | 韓国建築への旅

仁川(インチョン)という港町がある。ソウルからおおよそ西へ45キロ、漢江河口に開かれた町だ。釜山に次ぐ第二の港町だというが、かつての租界を思い起こさせ、そこはかとない風情を感じる。チャイナタウンがあり、日本人の住んだ街区が残っているからだ。

この町の中心に、「開港場近代建築博物館」が建っている。
尹先生を中心としたチームが町の近代建築調査を行い、朽ちかけていた「日本18銀行」を改修して近代建築博物館として蘇らせたのだ。
傷んでいた屋根の小屋組みに手を入れるとき、建設時の木組みを考察し、オーセンティシティ(原初性)を大切にして、どの部材を残しどれを取り替えるかを検証した。その有様を伝えることも大切なことではないかという、僕の問題意識と共通したところがあり、話しが弾む。
結局天井を張らずに修復した小屋組みを見せるようにした。

ゾーンは三つに別れている。第二ZONEには、オーセンティシティを検証した仁川に現存する8棟の近代建築が、写真や資料によって展示されており、韓国戦争で焼却された3棟が模型によって併せて紹介されている。
この館内第二ZONEのタイトルは、先生の想いがふつふつと湧き上がってくる「建物が歴史になって近代を語る」。

第一ゾーンは、鎖国のあった19世紀の開港時の時代状況と、ソウルー仁川間の鉄道開設など近代化が始まった様が、`ジェムルポが開ける`として紹介されている。(「ジェムルポ条約」と書かれているが、韓国の歴史に疎いので残念ながらうまく説明できない)
第三ZONEは開港期、清国、米国、日本、英国による租界の設置と、1910年の日本統治によって租界を一括廃止して、仁川府管轄行政区域に編入される経緯が、写真や資料によって展示されている。

尹先生が僕と意見交換したかったのは、韓国戦争で焼却した1905年にイギリスのジェームスジョントンが建てた夏の別荘だ。残されていた写真などを参照し、学生を指導して作った模型が展示されている。
この建築を、市長が観光政策の目玉として、丘の上に復元しようとしたことに猛反対して取りやめさせた。
図面がなく、正面を撮った写真を参照して模型は作ったが、建てるとなると想定復元になってオーセンティシテイが問題になる。建っていたところには既に他の建築が建っている。場所も替わる。つまり「歴史の捏造」になるという認識だ。

宇治平等院の前庭にある池に橋が掛かった。無論図面はなく資料もない。ただ文書にかつて橋があったとの記載だけでの想定復元(復元ともいえないと僕は思う)に抗議して鈴木博之教授は委員を退いたそうだが、僕の問題意識も一緒だ。嘘はつきたくない。尹先生と共通認識の確認がなされ、お互いの信頼感が深まってくるのを感じる。

日が落ちた。街に灯りがともる。かつての日本人街は街灯の光の中でひっそりと佇んでいるが、チャイナタウンはネオンやライトアップされた看板でにぎやかだ。尹先生の運転する車は、ゆるゆるとチャイナタウンを通り抜ける。
「建物が歴史になって近代を語る」。そうなのだ。よい町だ。
この町は、韓国の近代史を刻んでいる。

<写真 左チャイナタウン 右「開港場近代建築博物館」 この美術館展示には日本語表記があるし、パンフレットも日本語版があって、近代建築マップが記載されているのがうれしい>