日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

八丈・マダム風子の南国の草花

2011-12-31 13:21:13 | 日々・音楽・BOOK

八丈島のマダム風子から、南国の草花が送られてくると今年が終わり、数日たって新しい年を迎えることになる。
グリーンカラー(ミルキーウエイ)、サンダーリニア、アンスリュウム、葉としてと添え書きのあるドラセナ、コンシネ、コルデリーネとメモ書きにあるが、植物に疎い僕は、アンスリュウムはこれだろう?などとふと思うが、実はどれがどれだかわからない。でも新春、年賀状をとりにオフィスに行ったときに艶やかなこの草花を目にすると、よし!今年が始まるのだと浮き立つような思いが湧いてくるのだ。
送ってくれたのは終生の友、日本女子大住居学科のOGと其の建築の仲間たち。

大根、これでいいの、と鍋をへらでゆっくりとかき回している娘が聞く。いいんじゃない!味がしみればと妻君がいう。しみないかもね、なんていう娘の声が聞こえる。
大晦日、お正月の料理をしているうちに来た娘と妻君の変な会話が聞こえてくる。

昨日大雑把だけど部屋を片付けた僕は、J/WAVEを聴きながらこのブログを書いている。福島、福島と、福島が好きだよと、慈しむように連呼する女性の唄が流れてくる。
「明日から新しい日が始まる、君の日だよ!・・・」と・・・

年の瀬に聴く モントウル2001のキース・ジャレット・トリオ

2011-12-25 15:08:03 | 日々・音楽・BOOK

クリスマスソングに溢れる年の瀬になった。コーヒーを入れ、ライナーノートをめくりながら、繰り返し2枚組みのCDを聴いている。
「然るべきときが現れるまでと、手元に離さずに置いていたコンサートの録音だ」と書き起こしたのはキース・ジャレットである。
2001年のモントウル・ジャズ・フェスティバルのライブで、トリオ結成の25周年記念の作品でもある。キースは時折アルバムに、解説者のライナーノートと共にメッセージを書き残すが、このCDの一文はとりわけ興味深い。
「皆(ゲーリーもジャックもそして己も)、若くはないかもしれないが、皆人生で大きな物理的な躓きを経験した。その結果、`若さ`とは何かわかるのだ」。

まず僕は、此処に収録された3曲のスタンダードナンバーをラグタイムバージョンでおこなった演奏に意表を衝かれた。これがキースかと一瞬思った。キースはラグタイムを演奏するのは始めてだと書く。そして、これは25年間演奏してきた全幅を内に含むコンサートだったからこそで、今こそ聴くべきときと記す。自身のJAZZと、ラグタイムが源流にあるモダンJAZZを総括したのだ。
会場に詰め掛けた聴衆は、この3曲の演奏から一気に乗る。CDとして発表・発売されたのが6年を経た2007年、つまりこのモントウルでの演奏は、25年演奏してきた集大成であって、キースが其の成果を確認するのに6年かかったということになる。

2007年という年。なんと僕が東京文化会館で、キース・ジャレット・トリオのライブを聴いた年(2007年の5月8日、この日のライブについてのブログでの記述は、2007年9月17日付)である。
このときの演奏を思い起こすと、キースの唸りと叩き込むようなピアノのタッチは随所に感じ取れたものの、総じて品よく整った組み立て方で終始し、なんとなく物足りない思いを書き連ねたりしている。無論ラグタイムバージョンによる演奏はない。

彼はこう書く。
ジャック(ディジョネット:ドラムス)もゲーリー(ピーコック:ベース)も僕も「今はマスターたちの面影に近づいている」。キースは1945年生まれ、この一言が62歳のときのメッセ―ジだと考えると、人の成すものは何だろうと考え込まざるを得ない。
続けてこう記述する。
「この、まやかしと無心と模倣と自信のなさと無感動と無自覚と怠惰うわべの技と無知と自己欺瞞の世界で(なんと、凄い記述だ!)、この芸術生存の戦いに与してくれるゲイリーとジャックに感謝したい。僕はピーコック君とディジョネット君と音楽的個人的にやりとりする中で、陽はいまも知性で輝いているのだと知らされる。理解したいと、己の再生に与りたい、今尚、欲しているのは知性だ」。

キースの「知性」という、このメッセージの最後の一言に底知れない魅力を憶える。
「今尚、欲しているのは知性」。
若き日のインプロビゼーションによる「ケルン」のソロ、ジム・ホールとのデュオ`インターモデュレーション`を聴くと、彼が目指してきたものが解るような気がし、オボロゲナガラ再生という一言が意味を持ってくるのである。

ライブはコンサートホールではなく、例えばN.Yビレッジ・バンガードのような、或いは京都の寺に隠棲していたゲーリー・ピーコックを見つけ出してライブをおこなった、嘗て銀座に在ったジャンクのようなライブハウスがいい。息遣いが聞こえ、取り交わす眼の光が見える真剣勝負の場であり、真剣勝負の場であった!

愛しきもの  マレーシアのスプーンとフォークとバターナイフ

2011-12-18 15:33:54 | 愛しいもの

柄にマホガニーと思われる茶褐色の堅木を埋め込んだ真鍮のスプーンとフォーク、そしてバターナイフがある。いつの間にか数が少なくなってしまったが、気に入っている食器達だ。
大きさも重さも手に馴染み形もいいが、見ているだけでも体温を受け止めてくれるような暖かさを感じるのである。

このスプーンなどとともに、金の小ぶりな三角錐をぶら下げたネックレスを妻君にプレゼントしたことも思い出した。こういうアクセサリーを身につけない妻君は苦笑したが、時折取り出してこれもあんたのもになるよ、なんて娘に言っている。
クアラルンプールのお店の店員との談笑しながらのやり取りをうっすらと憶えている。談笑といっても値引き交渉だったのだろうけど。

ところでいつマレーシア(クアラルンプール)を訪れたのかよく憶えていない。保管してあるパスポートを取り出してめくってみたら、25NOV1990とある。21年前になるのだ。ところでこのスプーン達はともかく、この旅は奇妙なエピソードに満ちていた。

事務所の慰安旅行をかねて、大学の後輩や、親しい知人のグループを誘い十四、五人でツアーを組んだ。目的地はシンガポール。屋台で初めてのクロコダイル・ワニの肉を食った都市だ。丹下健三の設計した大学や超高層オフィスビル見学などを組み込んだ。ところが直行便が取れずマレーシア航空便になり、クアラルンプールでトランジットして美人ぞろいのスチュワーデス (無粋な客室乗務員という呼称ではなく、当時はまだそう言っていたのではないかと思う) 揃いだという楽しみなシンガポールエアラインに乗り換えることになっていた。

ところが乗り継ぎ手続きのもたつきにハッとなり、係員に強要して裏通路から (緊急無手続き出国ということになる) バッゲージルームに行ってみたら、止まっているベルトコンベーアーの脇に、僕たちの荷物が一塊になってひっそりと置かれていた。

さて帰国(クアラルンプールに立ち寄り夜行便で帰国)。飛行機が怖い嫌がる所員を無理やり連れ出した報い(?)のためか、彼女の体調がおかしくなり、ツアーメンバーをバスに残して待機させ、迎えに来た救急車で近くにあるという病院に向かった。
僕は異国の病院とその診療体制を見ることができると浮き浮きしたりしたが、患者はでこぼこ道で跳ね上がる猛スピードの車に、悪態をついた。僕たちは、モスクの見学や繁華街を案内してもらってスプーンを買ったりしたが、患者は空港のホテルの一室にて静養させる。

成田の入国は僕の押す車椅子。手続きが終わると彼女はけろりとして帰宅。あれはなんだったのかと思い起こすと、なんとも申し訳ないような気持ちになるが、其の所員は帰国後すぐに退所してしまった。
バブル期のお粗末な一幕である。

建築家浦辺鎮太郎の宝物 棟方志功の襖絵

2011-12-11 17:58:20 | 建築・風景

-西条市立郷土博物館・愛知民芸館-の前段

本や雑誌と共に、新聞や冊子を切り抜いたスクラップのファイルなどが山になっている自宅の部屋を片付け始めた。書棚にある数冊の「新建築」誌が気になって、そのうちの一冊を取り出す。表紙の写真は、山本理顕の窪田邸らしい。表紙亀倉雄策としか書いてないが、見ればデザインしたのだと解るだろうということか!
この表紙と、収録されている一階が階段状になっている理顕の石井邸には見覚えがある。このようなうち(家)に住めるのかと思ったことを思い出したりした。ぱらぱらとページをめくった後、この住宅特集の目次に見入った。理顕は4件の住宅を、吉村順三が中村外二の施工による鎌倉の茶室、渡辺豊和が京都に建てた伊藤邸の雨の降りそうな薄暗い天候の中のくすんだ写真が乗っている。1978年の8月号である。

理顕さんはこのときから大活躍だったのか!だとか,宮脇檀さんがディテールのページを持っていたことにハッとする。12月9日のDOCOMOMOセミナーで山崎健一さんと中山繁信さんを招いて「宮脇檀」さんを語るからだ。(本文の起稿は12月1日。今日は11日。セミナーは予備席が出る盛況だった)「人間のための住宅のディテール」というタイトルの、`人間のための`というころがいかにも檀さんらしくてグッとくる。檀さんが亡くなって13年経つが、今でも僕たちの中に生きている。

なんてことやっているから、いつまでたっても片付かないのだが、この33年前にもなる一冊はとても興味深い。

「宮城県沖地震」のレポートが記載されている。マグニチュード7,5震度5と記載されていて倒壊した建築の写真もある。この地震を検証して、柱のフープや梁のスタラップのピッチを狭くするなど建築基準法の一部が改正された記憶がぼんやりとだがある。

随想が4篇掲載されている。書いた全ての建築家が亡くなってしまった。33年という時間と、先達がいるからいまの僕がいるのだということを思う。一時代を築いた芦原義信、岩本博行、武基雄、増沢洵、そして浦辺鎮太郎という方々である。
東京オリンピックのポスター制作で世界に瞠目された亀倉さんも、其のポスターの写真を撮ったのが宮脇さんの設計したブルーボックスのオーナー写真家の早崎治さん。お二人とも亡くなってブルーボックスのオーナーも代わった。
理顕さんはますます元気だが、ここに記したたくさんの建築家がいなくなった。

浦辺鎮太郎さん(うらちんさん)の随想のタイトルは「只の家に住んで」というユニークなものだ。つい読み始めてしまった。
「只の家」というのは文字通りタダ、小林先生に阪急の西宮から宝塚線に駅をつくってくれたら周りの土地をタダで差し上げますといわれて中間駅ができた。小林先生は幹部に300坪を分けたが半分に家を建てて値上がりするから半分の土地を売れば家はただでできるよといわれた。だからこの家も「只の家」なのですと書く。小林先生とは小林一三だろう。新建築誌にこんなこと書いていいのかと思うが、もしかしたらそういうことの許される時代だったと言っていいのかもしれない。

その浦辺がこう書く。
「この只の家には、家宝が一つだけある。棟方志功画伯のフスマ絵(6枚)である。かねて旧知の画伯にいよいよ絵筆を取っていただいたのは入居後1年たった昭和26年の夏・・・一瞬のたじろぎも見せず一気呵成に全身をぶっつけるような画伯の仕事ぶりを目前にして、この人は大成すると思った。まだ知る人ぞ知るという存在だった」。

「コレガボクダヨ、コレハニイチャンダヨと子供たちが指で押さえているうちに穴を開けたところもあるが、今はみんな巣立ちして・・」と慈しむように述べ、大正期の郊外住宅からの変遷に触れて小林一三先生現存ならば「只の家」ができる算段を凝らしているのではないだろうか?と思いを寄せて一文を結んでいる。
そして、棟方志功は柳宗悦をはじめとする大勢の人に支えられて世界に認められることになったが、浦辺もまた棟方をサポートしたのだとこの随筆をから読み取れるのだ。

西条栄光教会に関連して、西条市立郷土博物館・愛知民芸館に触れておこうと思ったらこんなことになってしまった。建築に関わる人の物語には汲めども尽きぬ面白さがあると改めて思ったものだ。さてこの新建築誌はやはり取っておかなくてはいけないだろう。
部屋が片付かない!

<写真 西条市郷土資料館・愛知民芸館>

林昌二さんを偲んで

2011-12-04 11:24:00 | 素描 建築の人

11月30日、林昌二さんが亡くなられた。一報をもらいあわててJIAの事務局に電話した。第三代の会長をなさったのだ。(1990~1991)
この2月、DOCOMOMO Japan150選展の実行委員になっていただくお願いとご相談に静養先をお訪ねしたときのあの笑顔が蘇ってきて言葉が出ない。心よりご冥福をお祈りします。

林さんを慕う大勢の人の想いが寄せられていると思う。
歴史に残る数多くの建築作品もさることながら、多彩な建築活動をリードするとともに、陰でさまざまな方々をサポートされて来たお人柄があるからだ。JIAでもDOCOMOMOでも、あるいは神奈川県立近代美術館100年の会(近美100年の会)でも、僕の関わる数多くの活動をさりげなく支えてくださったのが林さんだった。

DOCOMOMO Japanは、2000年の春、鎌倉の近代美術館での20選展でスタートした。大手五社と準大手に声をかけて協賛のお願いをしてくださって事務局長の僕を支援してくださったのが林さんだった。

近美の会にもよくお出かけくださった。林さんがいるのといないのでは格式が違ってくる。
近美100年の会の会合を、見学会も兼ねてご自宅で開催させていただいたこともある。20人にもなってしまってご心配をおかけしたが,亡くなられた雅子夫人のお写真に一人一人がお花をささげることができた。夫人が亡くなった後自宅に招いたのは、あなたたちが初めてだったのだけどと、とても喜んでくださった。
僕たちは会合が終わってから、持参したお菓子や果物、飲み物を片付けて大掃除をし、ごみを全て袋に入れて持ち帰ったりした。若い参加者は、林さんの案内でご自宅を拝見できたことに大喜びだった。

あるとき、ご自宅に数名でお訪ねした時に、ふと今日は誕生日だとおっしゃったので、お祝いをしようと出かけた市谷の料理店では、僕たちがご馳走になってしまったことがある。翌年それではと思ってお祝いの会の相談をしたら、自宅でやってほしいということになって大変になった。
何しろ知る人ぞ知るグルメ、うなぎはこの店のものしか食べないということも解っていてメニューに四苦八苦、でも喜んでくださったこういう機会も得がたい。
林さんはココアにこだわっていてコーヒーはあまりおのみにならないということだったが、それではとコーヒーメーカーを持参して之だという豆をひいて入れてみた。一口お飲みになってうーん!とにこりとされた。さて?こういう機会をいただくのもたまにはいいものだと思ったものだ。

僕の関わったシンポジウムにはよく登場してくださった。
三信ビルの保存のためのシンポでは会場に来た下さったものの、お話いただく機会を作れなかったら、翌日お手紙を下さった。林さんらしい、ちょっと皮肉っぽい口調でこの建築の魅力と位置づけを見事に捉えている得がたいメッセージだった。林さんが「三信ビル」(残念ながら解体されてしまった)にシンパシーをお持ちなのが新鮮な驚きだった。

JIAの[建築家写真倶楽部]の設立は、Kさんと一緒に林さんに声をかけてスタートした。林さんと村井修さんを招いて鼎談を行ったこともある。林さんと親しくなった僕は、村井さんの信頼も得た。

書き出すときりがなくなってしまうが、一編だけ読んでいただきたいエッセイがある。

既に14年も前になったが、JIA設立10周年記念大会で、林昌二さんに`りんぼう先生`こと林望さんを招き、僕の司会によってお話をお聞きしたことがある。其の報告的なエッセイをJIAのブルティン(1998年1月15日号)の冒頭に記載してあるのでここに再収録してもいいのだが、このブログにリンクしている僕の(事務所の)ホームページWORKSⅡのNO.15 [建物には生きる権利がある―プロフェッショナルワークショップ「建築と文化の継承」]―に記載してあるので、是非クリックしていただきたい。
再読してみると、14年たったが林さんに対する想いが変わっていないことに納得した。

もうお会いできないが、一昨年のDOCOMOMOセミナーでお話いただいたときに、対談風になった録音が事務局にあるはずだ。それをもらってあの独特の滋味溢れた口調を味わいたいと思う。
処女作掛川市役所からスタートして、最後の作品、故ある掛川の新庁舎で終わる話である。

<写真、JIA10周年大会での鼎談>