日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

南の国の建築たち  なくしていいのか 都城市民会館(3)

2007-08-29 16:05:17 | 建築・風景

都城へ行くために宮崎空港に降り立ったのは7月27日の朝。空港を出た途端、降り注ぐ日差しに南国に来たのだと思った。椰子並木が眼に飛び込んでくる。
車で迎えに来てくれた,都城の建築家ヒラカワさんがまず案内してくれたのは、坂倉建築研究所のつくった「青島少年自然の家」だ。
設計を担当されたのが、阪田誠造さんだと聞き、この建築の存在感ときちんとした収まりに、穏やかだが風格のある坂田さんの風貌を思い起こす。建築には厳しい人なのだ。

外壁が少し汚れているが、いい状態で使われているようだ。ヒラカワさんは小学生のとき泊まったことがあるという。階段室の大きなトップライトの下の格子のルーバーを見て、昔からこうだったかなあ?と首をひねっている。
開放的なピロティが風を運んでくれる。連なっている階段で出会う少年達が、元気よく挨拶をしてくれた。さわやかな彼らの笑顔が建築とよく似合う。これが阪田さんの南の国の解釈なのだ。

ちょっと寄ってみようと急な階段を上った。はねだした岩石の下に作った「鵜戸神宮」だ。明暗がきつい。表が明るいのだ。100円を納めて御神籤を手に取り、眼下に砕ける太平洋の波を見る。暑いのに子供をつれた参拝者が沢山いる。夏休みなのだ。御神籤は嬉しい「吉」。

思いがけない場所に「日南市文化センター」が建っていた。普通の街の交差点の一角になんでもない姿で。思いがけなく小さな規模で。僕が抱いていたコンクリート打ち放しの鋭利な三角形の組み合わせのイメージが崩れ去る。その形から海の近くにあると思っていたのも錯覚だった。

書きながら気になってきて、藤森照信さんの著した「丹下健三」を開いてみた。竣工直後の川澄明男さんの撮影したシャープなモノクロ写真が眼に飛び込んできた。凄い。これだ。僕のイメージを構築したのは!
街路も植栽もない建築に特化した写真だ。

平面図を改めて確認したが、この形を構成する外壁の組み合わせには直角がない。建築家のこだわりを感じる。丹下健三はただこの形を作りたかったのかもしれない。南国に建つ建築の、建築家丹下健三の回答として。
建ってから45年を経た。街のほうが変わったのだろうか。この建築が街を変えたとはいえるのだろうか。

眼を凝らしてみているうちに、イメージをつくり出す写真の恐さにふと震撼とした。
オーディトリアム内部の、篠田桃紅の、一気に描き上げた大胆な緞帳と、コンクリートの取り合わせも見事だ。
しかし照明を点灯して見せてもらったオーディトリアムとは別物のようだ。平面図にディレクター室と記載してある一角など、内外部ともほぼ全面打ち放しコンクリートのほんの一部を除いて、全て塗装されてしまったからだ。緞帳も降ろして見せてもらった。この傷んでいた緞帳も折角つくり変えたというのに、なんと変色した有様までそのまま復元してしまった。

僕たちを迎えてくれたここの責任者、教育委員会文化係のOさんは、建て替えるお金がないので、この建築を残して使い続けることにして改修したと苦笑いする。
打ち放しが傷んでやむを得ず吹き付けタイルで覆った。バリアフリーのためにスロープを増設した。
しかしそのデザインが良くない。指示は私がしたと胸を張るが、この建築の持っていたオーセンティシティは何処に行ってしまったのかと胸が痛む。同時に打ち放しコンクリートの持つ課題も頭をよぎる。
当初丹下事務所と改修の相談をしたが、言われた膨大な設計監理料に愕然としたという。仕方なく地元の建築家に改修の設計をしてもらった。仕方なくというのは辛い話だ。

残ってよかったとホッとしたが、何故地方の都市が疲弊してしまったのかと、ここでも大都市と地方都市の格差問題に突き当たる。でもそれだけではない。改修方針を決めた担当者と改修設計をした建築家の、見識と力量が問われることにもなるのだ。関係した人はどう答えるのだろうか。さすがに時間をやりくりして案内してくださり、オリジナルの設計図まで見せてもらったOさんには、感謝の気持ちを伝えることしか出来なかった。

都城は、島津発祥の地、由緒ある歴史を内在した都市だ。近郊(とはいえ日南市だ)にわずかに残っている、その面影を見せてもらった。
木造3階建ての金物店`杉野本店`と、脇の路地を挟んで奥に建つ大正10年に建てられた倉庫`油津赤レンガ館だ。登録文化財になったこの二つの建築があるだけで、この街の奥深さと歴史が感じ取れる。

都城市民会館の存在を僕に植え付けたのは、菊竹さんの作品集にも収録されている写真家小山孝の写真だ。このポジションからこの市民会館を見ることは難しいが、小高い山を背景にした瓦屋根の連なる町並みの中に、扇型のオーディトリアムが、南国の空に向かって開いているのが印象的だ。
少し離れた左手に、瓦屋根のかつての市民会館の形のいい姿がある。見たいと思ってヒラカワさんに聞くと、菊竹さんの市民会館が出来た後、この建築はなくなってしまったという。建てては壊す。また同じことになるのだろうかと溜め息が出た。

<写真左から 青島少年自然の家、日南市化センター、油津赤レンガ館、杉野本店>


旧日向邸の案内板 俺もなかなかのもんだ!

2007-08-24 13:13:49 | 添景・点々

「いやいやなかなかいい感じですよ」と少々自慢げに鈴木博之さんに伝える。自画自賛!旧日向別邸の案内板のことだ。

ガラスを2枚重ね、内側にエッチング手法でガラスを白く刷り、文字を透明のまま残した。張り合わせた小口にシール剤を挟み込んで、ヘアラインをかけた3㎜のステンレス板で抑える。22ミリのフラットバーによるフレームとの間に、20㎜の隙間を取った。そのフレームの色は、三分艶の渋い黒褐色、下部の石カレドニアとも上手く取り合った。

気になっていた重要文化財のさりげない小ぶりの文字も、ちゃんと見える。立ち会った市の係長さんも満足気身味、つくってくれた白水社の担当者もホッとしている。
「俺もなかなかのもんだと思っているのでしょう」、と鈴木さんに冷やかされる。まあその通り!と僕も屈託なく言う。ものをつくるというのは、こういうことがあるから楽しいのだ。

メールで、この案内板を寄贈してくれたTさんと、文字のレイアウトをしてくれたデザイナーの寺山さんに写真を添付して報告した。
すぐに「素敵!」と返信をくれたのが、デザイン事務所で担当してくれたOさんだ。弾んだ可愛い顔が目の前に浮かぶ。

台風に耐えてくれますように!シールが切れて水が回りませんように!いやね。心配がないこともないのだ

生きること 補遺(1) 暑い8月15日が来て、去ってゆく。

2007-08-18 11:34:05 | 生きること

今年も8月15日が来て、去っていった。
『昭和二十年八月十五日。時々の空襲で、防空壕に入ったり何かしたが、今日で終戦である。
何だか涙が出る。でもこれからは、子供たちもびくびくせず、のびのびと遊べる。柏はまはりが広いので、はだかで、はだしで、本当にのびのびと遊べる』
母が62年前に疎開先の千葉県の柏で書いた、僕の育児日誌の記述だ。母はまだ父がフィリピンのモンタルバンで2ヶ月前に戦死したことを知らない。その母も今年の元旦に亡くなった。

今年の8月15日はいつもの年と少し違う。母が亡くなって、国からもらっていた遺族年金解除の手続きをした。
遺族年金は僕たち家族が生きていく支えになったが、後年では孫たちに渡すお年玉などになる母のお小遣いになった。母は急須が好きで沢山集めた。旅に行ったときには、お面やコケシや名物の玩具などを買った。でも皆小物ばかりで安いものにしか手を出さなかった。だから形見分けといってもろくな物はないね!と弟と苦笑いした。残った思いがけないお金を、僕たち子供達3人で分けた。

終戦記念日が月遅れとはいえお盆と重なるのが、今年は何か意味があるような気がする。僕は長崎の実家で、祖父と叔父の精霊流しを味わった。しかし父の精霊流しをやったのかどうか知らない。父の遺骨がないことをふと思う。僕は戦争を許せない。

あまりの暑さに地球の異変を実感した「終戦記念日」。
韓国では「光復節」という。日本の植民地支配から開放されたことを祝う祝日だ。
日本人の建築家の設計したソウル市庁舎の存在は、嘗て大きな課題となった。後ろに高層の庁舎を増築することになって存続が決まり、道路を挟んだ前面に芝生を張った大きな広場ができた。
15日の夜、大勢の市民が集まったことだろう。新聞報道によると、今年のソウル市庁舎の外壁には、ペットボトルの素材で作った国花・ムクゲの花が飾られた。昨年は反日の被いに震撼としたが、今年の咲いたムクゲの花にホッとする。

洪(ホン)君に案内してもらった彼の故郷の大邱(デグ)では、国債報償記念公園に新しく作られた門に吊るされた鐘が、鎮魂と平和を願ってなり鳴り響いたに違いない。大勢の市民が日本統治(植民地)時代を心の奥深いところで見詰める中で。
洪君の博士論文は日本統治時代の大邱の変遷だ。大きな重い鐘の音が聞こえてくる。

Seoulで訪れた「宗廟」を思い起こす。建築家白井晟一は「李朝文化に流れている強靭な持続的な信仰の自信であり、それがまた民族の永遠性を祈る積極的な象徴」(無窓より)と述べた。歴史と今に触れ得た訪韓からまだ一週間しかたっていないのだ。

この5月に訪ねた、家族とともに小学生時代を過した天草市下田町(昔は下田村だった)と、長崎の旅の整理がまだできない。
叔母に案内してもらった数年前に建て替えられた原爆資料館で、爆心地から200メートルしか離れていない工場の写真を見て息を呑んだ。叔母は学徒動員で作業をしていたこの工場で、落ちてきた屋根の鉄骨の下敷きになったのだ。助け出された叔母が黙して語らないその8月6日。そして8月15日。
逝った阿久悠さん(作詞家)は、淡路島で終戦を迎え、「8月15日を常々第2の誕生日だと語っていた」(朝日新聞・池上彰の新聞ななめ読み)という。阿久悠さんの兄も戦死したのだ。
その8月15日が過ぎていった。

<育児日誌については連載した「生きること」をお読み下さい。写真・大邱の鐘>


なくしていいのか 都城市民会館(2) 市民の建築を!

2007-08-15 14:42:44 | 建築・風景

僕がコーディネーターを担ったシンポジウムのパネリストは、田島正陽(建築家・元JIA九州支部支部長)、磯達雄(建築ライター)、五十嵐太郎(東北大学准教授・建築評論家)、倉片俊輔(建築史家・明星大学非常勤講師)、彦坂尚嘉(美術家・美術評家)という思いもかけない多士済々のメンバーだ。それにこの企画をたて、開催の挨拶をした都城の建築家ヒラカワ ヤスミさんにも加わってもらった。

福岡に住む田島さんは、昨年の7月27日に行われた「近代建築と都城市民会館」と題するシンポジウムに招かれたが、暴風雨のためにたどり着けず、一年掛かってやっと残したいという思いを伝え得たのだ。ヴォーリズの設計した長崎の活水学院建て替えの設計をやることになったおり、OG(卒業生)からの猛烈な反対をうけて設計を断念して残すことに尽力した。そのときに学んだ、建築が本来持つ姿を話したいと思い続けていたのだ。

田島さんは、僕がJIA(日本建築家協会)の理事をやった同時期に、九州支部の支部長として理事会に出席され、親交を深めた建築家だ。この都城行きのやり取りを電話で重ねたときにも伝えたいと言っていた、自宅の隣に住む菊竹清訓さんの弟さんとの交流に触れながら、市民会館への思いを朴訥に述べる田島さんの話に引きずり込まれた。

磯さんは、東国原知事の似顔絵をppで映したり、「市民会館はウルトラセヴンと戦ったサイボーグ、キメラが舞い降りたようだ」と笑わせながら、設計した菊竹さんと、同じく日本の建築を世界に伝えた丹下健三を比較した。
「丹下さんは山梨文化会館でも柱の美しさを表現し古典性に目を向けていたが、菊竹さんの目は未来に向いている、この建築がなかったらその想いが世界へ伝えられなかっただろう」と力強く述べた。

1967年生まれの五十嵐さんは、67年生まれの都城市民会館と同世代だと話を始めた。「その60年代は、日本のモダニズム建築の黄金時代、世界を追い越した。今再開発によって建てられる建築はお金を掛けているが、さてどうだろうか?」60年代には到底及ばないといいたいようだ。
そして『折角もっている貴重な遺産を壊してしまうのは、「オウンゴール」のようなものだ。映画「三丁目の夕日」が話題になったが、昔はよかったなどと言っている場合か!』と柔らかい話し振りながらとても厳しい。

僕は、いやでもね、三丁目に涙し、東京タワーをDOCOMOMOに選定したんです!と述べ、五十嵐さんは兄弟をなくす思いだろうが、41歳のこの会館を失うことは僕には子供をなくすようなものです、と続けた。そして倉方さんに振った。

倉方さんは若手の論客だ。「東京建築ガイドブック」を編纂したが、戦後のものに関心が向いてきた。「こんなに凄いものがあるのか!」と。
残したいというとき、古いから残す、風土ならではのものだから、有名建築家の作品だから・・いやそうではない、いいものだから。いいものとは、『乱暴な建築』。
自信と勇気を持ってオリジナルをつくろうとすると乱暴になる。この時代にしか建てられなかった建築、高度成長期にこれから時代を創っていこうとする建築は、優しい建築にはなりえない。それが風景となって人の記憶になっていく。

この論旨は、次に話す彦坂さんの論考と、その熱い思いにも通じるし、僕の生きていくために必要な「記憶」という概念にも重なるものだ。
そして彦坂さんの熱のこもった[市民会館は超一流]という論旨に、いてもたってもいられなくなったのだ。

ヒラカワさんに話を振ると、自費で駆けつけたパネリストに感謝の意を表しながら、どこか歯切れが悪い。
ちょっと気になりながら会場にいる、九州大学人間環境学研究員助教授の末広香織さんを指名し、DOCOMOMOに選定した建築を壊していいのかと、熱いメッセージをもらった。その後ためらいながら述べた宮崎の建築家Sさんの複雑な思いに触れたとき、ヒラカワさんの戸惑いもわかってきた。

「東京から今になって来るのはどうも釈然としない。なくなる前に見ておきたい、その思いできたのだろう、何故こうなる前に来てくれないのか」というのだ。その裏には、そんなに凄い建築なのだと本当に思っているのかという、ささやかな戸惑いもあるようだ。

思いがけない発言に驚いた。僕の建築に志したときからの思いは届かなかったのかと愕然とした。思わず、僕たちは素朴にこの建築に魅かれ残したいのだと反論したが、ヒラカワさんから来てほしいと要請があったことをDOCOMOMOの会議に諮った時のことを思い出した。なんでも東京からというのはよくない、九州のDOCOMOMOの主要メンバーの田島さんがいるではないかというのだ。その旨伝えるとヒラカワさんは、田島さんにも来てもらうが、うれしいことにどうしても僕に来てほしいという。そして安いツアーを見つけて正しく飛んだのだ。でもSさんの言葉がずしんと心に響いてくる。

僕がシンポジウムのコーディネーター(司会)をすることになったのは、前日(7月27日)ヒラカワさんの案内で、田島さんとともに市役所に副市長を訪ね、「議会決定をしたことは承知しているが、都城市民会館の保存を何とか再考してほしい」と伝え、DOCOMOMO125選に選定した書類と、選定プレートを手渡した後記者会見をし、その後『南九州の文化と建築を考える会』の方々が僕たちを招いてくれた「つる」という`とりや`さんで、田島さんがヒラカワさんに強く要請したからだ。
都城で行うシンポジウムの進行役は、企画した地元都城の『考える会』でやったほうが自然だし有効だとためらったが、初対面の彦坂さんはともかく、他の方々とは面識もあり信頼も得ていると判断して引き受けた。

都城市民会館に惹きつけられて僕たちが都城を訪ねたと格好よく言いたいが、やはりヒラカワさんや宮崎の建築家河野さん、白水さんなど都城の市民の思い、つまり活動があったからだ。しかしその成果はわからない。副市長は新聞記者に、DOCOMOMOの要請はありがたく受け取るが、決定は変えないと明言したようだし。
でも僕もヒラカワさん同様まだめげない。この世界に繋がる市民会館は、市民の建築だ。市民会館を愛するヒラカワさんが最後の挨拶で、力を得たと言ってくれたからだ。

<写真撮影 ヒラカワ ヤスミ>

なくしていいのか 都城市民会館(1)都城のダビンチ

2007-08-06 14:45:52 | 建築・風景

美術家で美術史評家でもある彦坂尚嘉さんのコメントを聞いていて、心が騒ぎ出した。騒ぐというよりむしろもっと切迫した、都城市民会館を絶対に壊してはいけないと、居ても起ってもいられない気持ちになったのだ。

宮崎県都城市の、都城総合福祉会館の大会議室で行ったシンポジウムでのことだ。
このシンポジウムは、7月24日より29日まで、市立美術館で行われた「DOCOMOMO選記念展」の企画のなかで「DOCOMOMOフォーラム都城」として27日(土)の午後開催された。
主催は「南九州の文化と建築を考える会」。
都城の建築家ヒラカワヤスミさんと市民でつくった`都城市民会館を残したい`と願う会である。僕はこのフォーラムで「風景となる建築」と題した基調講話を行い、引き続いて行ったシンポジウムで、コーディネータを担った。

彦坂さんの論旨はこうだ。
欧米では、美術と建築は欠かせないものとして認識して論考するが、日本では建築を、美術との関連で検証することがほとんどない。しかしこの菊竹清訓さんの設計した『都城市民会館』を視て、黙ってはいられなくなった。
これは「ダビンチ」だ.

一流という作品がある。例えば丹下健三の「香川県庁舎」。
この庁舎は日本では珍しい建築と美術を融合させた素晴らしい建築である。でもこの建築はいわば「ラファエロ」。
ラファエロは優しくて居心地がよく大勢の人に愛された。だがレオナルド・ダビンチの作品は、何処か不穏で人の心を悩ませる。あのダビンチの描いた「モナリザ」の笑みとはいえない笑み。覗き込んでいると居心地が悪くなり、心がもぞもぞと騒ぎ出す。

しかし時を経ると、レオナルド・ダビンチは別格となった。一流を突き抜けた「超一流」。つまりモナリザは天才の作品なのだ。

菊竹さんの都城市民会館は、異形の建築とよく言われる。シンポジウムで、磯達雄さんは「キメラ」だといった。言い得て妙だが、ハリネズミという人もいるしヤマアラシという人もいる。
僕の講話の論考は、ppで映した2枚の写真、母校千葉県立東葛飾高校校舎の主玄関前で卒業するときに撮った、文学部の連中と顧問の先生との集合写真と、1973年に美術出版社から発行された「菊竹清訓作品と方法」の中の、写真家小山孝の撮った都城の瓦屋根の街中に、扇型のオーデトリアムの建つ魅力的な写真からスタートした。その2枚が、僕の原風景として何時までも心に留まっているからだ。

卒業写真を見ると、天井の高かった教室の空間ととともに、友人や先生の忘れえ得ない一言一言が浮かび上がる。人研でつくられた階段手すりの肌触りもぼんやりと思い出す。母校が解体されて僕のアイデンティティがなくなった。あるはずのものがない、というのは恐いのだ。

新建築に発表されたときにその姿が心に焼きつき、34年前に作品集を手に入れたときに建築家としての志が確立した。この建築の存在が僕の建築家としてのアイデンティティといってもいいのかもしれない。何故この建築が僕の心に触れたのだろうか。その答えが都城に行けばある。
そして今回の企画について、都城のヒラカワさんと、何度も電話やメールでやり取りしているうちに、都城の人々の気持ちがだんだん気になってきた。それも確認したかったのだ。

しかし彦坂尚嘉さんの論考を聞いていて、そういう想いや思索がふっとんでしまうほど心が動かされた。
もしかしたら人類の遺産「都城」にあるダビンチを、失ってしまうのではないかという焦燥感に襲われたのだ。
彦坂さんは言う。
都城市民会館は異形という言葉では言い顕せない「超一流」。
そして若くしてなくなったロッククイーンといわれた、類型の無い、不世出のジャニス・ジョプリンに触れながら述べる彦坂さんの、涙している心をも垣間見てしまったからだ。
天才のつくった超一流を、多数決で壊していいのだろうか!