日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

本に埋もれたくない

2005-12-31 14:26:22 | 建築・風景

早い。時の経つのが。大晦日なのだ。
それなのにTVでは `女王の教室`全話 なんてのをやっている。気になって困る。教室にH鋼の耐震補強が入っている。何故こういう設定をしたのだろうか。ドラマには何の関係ないのだが・・・

生徒が鬼女教師に「24人には24人の幸せがあるのでは」と問う。鬼の返事はいつまでもそうだと良いね、という含蓄に富んだ言い方だ。槇文彦さんの「1000人の人間には1000人のモダニズムがある」という言葉を何の脈略もなく思い起こしたりする。同時に鬼は、将来のことばかり気にしないで「今しか出来ないことをやる」のだという。なんとなく情けないが、本当にそうだといいたくなる。この僕がまたもや涙をこらえている!
鬼のこのクラスの最終講義なのだ。最終講義かあ。このドラマに出演した子供たちにとって、この体験は大きいだろう。ドラマだからこんなことを言うのも変だが、鬼も子供に学ぶのだ。時々考え込んだりしている僕を見て、おせちを作っている妻や娘はあきれている。しかし何処かで納得している。

紗のカーテンから柔らかい冬の光が射している。穏やかな大晦日だ。
奇跡的に年賀状の大半を昨日ポストに入れた。でもまだまだだ。部屋も片付けなくてはいけないのだ。本棚の整理もしておきたい・・・が!

本が山済みだ。本棚に置ききれなくて床にも横に積んであったりする。それも読んでいない本が沢山ある。どの本も読みたいのだ。読み返したいし全て読みたい。だから積読とは言いたくない。
半年ほど前ふと思いついて、というより妻に進言(?)されて、エクセルに本のリストを入力し始めた。今開いてみたら155冊リストアップしている。見ると自宅の本棚にある建築関係の書籍だけだ。それもまだ全てではない。事務所にはそれに倍する本があると思うし、僕の好きな写真や美術、JAZZの本もある。茶会記、漢民族の宗教とか`闇の中の黒い馬`なんていうのもあるが、なんと言ってもハードボイルド、スパイもの、考えてみると文庫本はダンボールに入れてトランクルームに預けてある。雑誌も沢山あって入力していない。でも本は捨てられない。

今日本は`建築本ブーム`のようだ。出版不況がうそのようだ。
僕の事務所は新宿にあり、西口地下道に入り口のある丸善によく立ち寄る。さほど人が入っているとも思えないが「建築」の書棚は減るどころか増えている。
次々と気になる本が並ぶ。僕の親しい建築家や建築歴史学者、評論家も堰を切ったように書き連ねるし、更に写真家も建築を撮って本にする。
若手の活躍もすごい。それがすぐ本になる。そしてどれもタイトルが上手い。売り上手だ。なんだか読まないと具合が悪いような気がしてしまう。

さてどうしたものか。本の誘惑は恐い。如何に逃れるか。
建築界が異様な社会不安を巻き起こし市民の信頼を損なっているのに、なんとしたことか。

本に埋もれたくない。

寒そうだしなんとなく泥縄っぽいが、これから車を洗いに表に出る。うちに戻ると部屋が片付いているだろう。手に入れたジョシア・レッドマンのtimeless talesをかけ、のんびりと一年の人との出会いを考えながら残りの年賀状を書く。良い年になることを願って。


沖縄文化紀行 8 旅を想う

2005-12-25 16:51:25 | 沖縄考

快晴が続き、きりっとした師走の空気を楽しんでいたが、全国は寒波で大荒れ、四国も関西も名古屋もそれに鹿児島まで雪になった。
沖縄も冬だそうだ。僕の事務所を訪ねて下さった韓国文化財庁近代建築課専門委員の崔炳夏博士によると、つい2,3日前沖縄を訪れたそうだがとても寒かったので驚いたという。話がはずんでオンドル論になったりしたが、東京の水道の水も手が切れそうに冷たい。一月半ほど前の30度を越す那覇や首里の猛暑が嘘のようだ。
崔さんとの出会いによってDOCOMOMO Koreaとの交流が深くなったのだが、その経緯は「DOCOMOMO Koreaの設立」と題してこのブログに併設しているHPのエッセイ欄に記載してあるので、読んでいただけるとありがたい。

さて紀行文だとはいえ沖縄文化を考えている間に、前川國男展が始まったし、都城市民会館の取り壊しが表明され、八王子の大学セミナーハウス宿泊棟の改築も進んでいる。どうすればいいのか。そして建築界は日本の社会を揺るがす事件に巻き込まれてしまった。言うまでもなく耐震偽装とアスベスト問題。だからこそ今、文化を考察するのは大切だと言えなくもないが、建築家として気になってどうもすわりが悪い。そこでこの項で沖縄の旅への思いを振り返り、一旦沖縄から脱しようと思う。

この旅で僕が楽しみにしていたのは、「寓話」「聖クララ教会」「墓」。墓というのも我ながら変なものだと思うが、それにもう一つ、渡邊教授が若き日、調査つまりフィールドワークに取り組み、社会人類学の世界に衝撃を与えた今では伝説になったといわれている論文を書くことになった「東村」。
東村(ひがしそん)は宮里藍ちゃんの生まれた場所として話題になっているが、東村を中心としたフィールドワークの成果が後の「民族知識論」に集約され、社会・文化人類学の世界を変えていくことになるのだ。この知識論には僕も刺激を受け、建築のフィールドワークのあり方にも示唆を受けることになる。

東村では「気」の道を見(写真参照)、ハーリーの保管庫を見、門中墓と村共同体墓の格好の事例を見た。そしてここでも基地の影とも言っていい防衛施設庁助成による様々な施設、例えば護岸と道路の整備や博物館の設置、そして渡邊教授が愕然とした巨大な村役場の新設。僕が驚いたのは名護から更に奥に入るこの地域をやはり観光地として位置づけしようとしていることだった。役場にも小さな博物館にも観光案内のリーフレットやチラシが置いてある。

渡邊教授の親しい村民を訪ねての交流に同行し「知識論」を覗き見したいと思っていたが、時間が足りなかった。
少々難しい知識論についてはいずれ記述してみたいが一つだけ。聞き取り調査時の聴かれ手の知識は、時の経過や立場や、聞き手の知識によっても変化していくことを認識しておかないと間違いを犯すということだ。文献をどう捉えるかという課題にもなる。
実はこの旅はこの知識論の確認の旅でもあったのだ。知識論の詳細に触れずにそう言ってもわかりにくいだろうが、それが文化は「施策によって創られていく」という文化人類学の考察に繋がっていく。

さて一つ書いておきたいのは、降るような星空を体験できたこと。何十年ぶりだろうか。沖縄のそれも閑村(というと叱られそうだが)に行かないと見ることができないのだろうか。2月に訪れる北海道ではどうだろうか!

ブログというメディアは興味深い。コメントのやり取りをしていく中で、思わぬ発見もあるし新しい課題が降って沸いたように現れたり、素晴らしい人との出会いさえ起こる。面白いのは僕のブログだけでなく、コメントをしてくれた人のブログでも沖縄文化論が論じられていく。沖縄の神からケルトの神マーグメルトに飛び、建築考になりモダニズム論にもなり延々とエンドレス、果てしなく想いが広がってゆくのだ。文化紀行はこの8で筆を止めるが、時折「沖縄私考」のようなかたちで書き続けてみたい。考えたいことが沢山あるので。

またもや0時を回った。何を聴いていると思う?
BSでブラームスのバイオリンコンチェルト、ストラデバリいやガルネリかな?響きが素晴らしい。弓を弾く庄司紗矢香さんがなんとも可愛くて魅力的。不謹慎にもTVを観ながらBallantines` ROYYAL BLUEをちびちびやり、ワードをたたいている。手元にあるニッカの`余市`はもったいなくてあけていない。冬の夜は長いのだ。 (12/23)

沖縄文化紀行 7 風水考2 屏風と流れる水

2005-12-22 10:40:05 | 沖縄考

前項で風水に触れたのでもう半歩くらい踏み込んでおきたい。
僕の知識、フィールドワークではまだまだ一歩とは言い難いので。
風水は迷信で人心を惑わしたとして文化大革命のとき羅盤は没収され、研究者は逮捕され処罰された。文化大革命は現在の中国でどのように受け留められているかわからないが、貴重な中国文化の一面が破壊されたことは言っておいてもいいのではないかと思う。

僕は泉州羅盤を持っている。渡邊教授から福建省調査のお土産として頂いたものだ。紅赤色の125㎜角の盤の金地の円の中にびっしりと墨の細い線や文字が書き込まれ、中央に磁石がついている。特段の風水研究資料ではなくまあ羅盤とはこんなものだという事がわかれば好い、と言う教授のコメントが印象深かったことを覚えている。

風水は迷信と思えば迷信、しかしこれを抜きにして中国、韓国、沖縄いや日本の文化の真髄を見誤るのではないかと僕は小さな声で言いたい。どうもこれはひっそり言ったほうがいいようだが、これ解らずして国交など出来得ないとも思うのだ。

沖縄には屏風(ヒンプン)が存在する。屋敷と正門の間に設けられた塀、すなわち「開かずの門」。とても好いなんとも想像力をかきたてる言い方ではないか。観光のガイドブックには目隠しとか、台風の風除けなどと記載されているし、住んでいる人もそういう言い方をする人が多いという。
だが中国に原点を持つこの屏風は、「制殺」殺気除けのためだという。
屏風は石組みだけでなく、竹垣、板垣だったり生垣つまり木々の植え込みだったりする。そしてコンクリート造の亀甲墓の前に設置される例もある。そこからもそれが推測される。

那覇の隣に屋部(やぶ)という村がある。研究者の間では格好の風水研究の対象のようだが、緑の濃い魅力的な村落だ。今回の旅で実証したのだが様々な屏風の様相を見た。
沖縄の観光施策では風水が封印されているというのは言いすぎだろうか。

重要文化財の中村家住宅は、建築大好き人間だけでなく、沖縄が大好きな人が訪れてその素晴らしさに魅せられるが、開かずの門、塀の前の滾々と水が湧き出る池、つまり水の流れのあることに気がついているだろうか。正しくこの住宅は風水原理に基づいて建てられているのだ。そこからも沖縄文化の底知れぬ魅力と震撼とする歴史の奥深さが見えてくる。
観光施策で風水に触れないのはわからないでもないが、僕たちはそれらの事象全てを含めて沖縄の存在を受け留めたい。


師走になった

2005-12-18 12:09:04 | 建築・風景

気がついたら師走だった。
ブルーノ・タウトと深いかかわりをお持ちになった、95歳になる水原(みはら)徳言さんにお話を伺うために、建築歴史の研究者たちと共に高崎に出向き、音楽センターのまわりを巡る街道の銀杏並木の見事な紅葉を見て、秋だなあと思ったのはつい先だってのこと。唯一今年の秋を感じた出来事だった。暑かった沖縄に想いを寄せているうちに、季節をなくしてしまった。
そこで沖縄文化紀行をちょっと中断して近況を書いてみる。

昨日「吉村順三展」を芸大美術館で観、その足で「ALWAYS三丁目の夕日」を懐かしい新宿文化で見た。
いずれも人の生き方を暖かく肯定した心温まる建築展、映画だった。

僕は、今はフィラデルフィアに在る吉村順三設計による松風荘をサポートする「松風荘友の会」に多少関わっているが、生前ついに吉村先生にお目にかかる機会がなかった。作品もDOCOMOMOでも選定した「森の中の家」(軽井沢の山荘)、「旧NCRビル」のほかは、表から見た「青山タワービル」京都の「俵屋」くらいしか見ていない。しかし展示を見ると、ほとんどの建築を知っている。建築雑誌、その特集号や事務所にあるYOSHIMURAという7冊の図面集を見ているからだ。そしてそれぞれに僕の思い入れがある。

例えば猪熊弦一郎邸は、新建築に発表された時外観の無骨さ(当時僕はそう思ったのだ)に驚き、しかし庭のオリーブの樹を囲んでくの字型に作られた居間と食堂の白いシンプルな空間に引き込まれた。オリーブの枝から床や壁に落ちた木漏れ日がゆらゆら揺れているような気がし、キッチンを囲う低い白い壁の上に、天井からしっかりと落りているフードの姿、壁にある猪熊画伯の作品が目に焼きついた。何年経っても忘れ得ないのだ。
多分特集号に記載された猪熊夫妻の対談によって、ご夫妻のこの建築や吉村順三への想いや猪熊画伯の生き方が僕にインプットされたからだと思う。

吉村順三は人と建築の自然環境との関わりに目をむけ、素材やそれを使う技術やそれを生かすプロポーションを探りながら、慈しむようにそして真摯に建築を創った。展示されている写真を観、科合板で作られた模型を見、近代を受け留めて語った言葉を読むと、何か僕自身に建築に関われる喜びと充実感が満ちてくるような気がする。建築の可能性を信じたくなる。

自分でもそうなるだろうとは思っていたが「ALWAYS三丁目の夕日」が始まったとたん、涙が止まらなくなった。シンボル的に画面に出てくる東京タワーが建ち上がったのは1958年(昭和33年)だから、この時代設定は57年頃なのだろう。東京にまだ都電が走っている。エッ!そうだっけ。集団就職で青森から上野についた子供たちの目が輝いている。そしてすぐに現実にぶち当たるのは目に見えているのだが、そんなことも自分の歩んだ道とラップしてきてそれだけで目が潤んでくる。ノスタルジー。良いではないか。たまには。

57年には村野藤吾が有楽町に「そごう」を創り、エアーカーテンが話題になったりした。清家清が「私の家」、吉阪隆正がVilla Cou Couを、芦原義信が中央公論ビルを創った。吉村順三も何処かにいるのだが。
58年になると丹下健三が都庁舎や草月会館、法政大学58年館が大江宏によって、吉田五十八の日本芸術院会館が、堀口捨巳は岩波邸を、池辺陽は石津邸を、白井晟一は善照寺本堂、そして内藤多仲(構造)と日建設計によって建てられたのが東京タワーだ。
無くなったものも多いがDOCOMOMOで選定した建築もある。まさしく戦後モダニズムの秀作が怒涛のように生まれてくる時代。伝統論争が繰り広げられた時代でもある。
建築が熱気に満ちた時代といっていいのか。
いや社会が動いたのだ。僕が高校を卒業する年、そして建築に一歩足を踏み込んだ年でもある。でもそれが気になり始めたのは一夜明けた今朝だった。

スクリーンに上野駅、服部時計店(まだ和光ではなかったかな?)が大写しになる。そのたびにドキッとする。電気冷蔵庫、洗濯機、テレビの三種の神器。いやはや力道山だ。思わず笑ってしまうあのおかしな味のコーラの誕生。そこで繰り広げられる日常の出来事は正しく僕のもので、僕がスクリーンの中で笑ったり怒ったり悩んだりしているようだった。

しかしどのシーンにも、モダニズム建築の姿がなかった。

いつものように、もう残りが少なくなったFINDLATER`Sを口に含みながらそんなことを考えている。流れるJAZZは1959年に録音したMILES DAVISのKind of Blue。
日建設計100周年を記念した図面展で、東京タワーの原図を見たことも思い起こしている。鉄骨の詳細図なのに名人芸といってもいい繊細でしっかりした線と密な書き込み、図面自体が作品だ。建築家のこの建築に懸ける想いを見た。そういう建築家がいたそういう時代でも在ったのだ。

映画は明日の象徴として夕日に浮かぶ東京タワーを映して終わる。ちょっと稚拙な組み方のような気がしないでもない。でもまあそんなことはいいのではないか。はて!そうは言うもののこのタワーは庶民の夢を具現化したものだったのだろうか。
そして60年安保が目の前に迫っていたのだが。余計なことを考えるな!

新宿文化はレディース・デイだそうで混んでいた。電気がつき明るくなる。なんとなく和やかな雰囲気だ。皆んなの目元が赤い。抱き合っているカップルがいるがいやな感じがしない。なんとも微笑ましい。いい映画だった。師走のいい一日だった。(12/15)







沖縄文化紀行 6 護佐丸の墓・風水考1

2005-12-11 13:43:57 | 沖縄考

県道146号から一歩足を踏み入れると、きゅっと身の絞まるような気がした。
この感触は斎場御獄(セイファーウタキ)の石段を登ろうとしたときに受けたものと似ているが、ちょっと違うような気もする。
3年前のその時、昇り口の石がほんの少し盛り上がっているのを見て、同行した建築家藤本幸充さんがこれは結界ではないかと言い、僕もそうだと感じた。踏み込んでいいのかと一瞬ためらったが進むにつれ此処はまさしく神宿る場所、心を無にしようとしたりした。此処には嘗て男は立ち入ることができなかったのだ。

中城按司として座喜味城や中城城をつくった護佐丸の墓は、樹々を分け入るように造られた狭い急な階段を上っていく。ふと上を見ると大きな樹木の中に空間が開け、草木と一体となって南傾斜の山の懐に包まれるような形で現れる。正しく自然の気を受け止める風水原理を具現化したものだ。
この墓は1686年久米村の蔡応瑞に風水を見立てられて移築、石を組み合わせて改修された沖縄最初の亀甲墓(平敷令治「沖縄の祖先祀」)で、護佐丸の骨は519年間という長い時間此処にまつられてきたのだ。

按司は領主を指すのだが、世界遺産になった、それも弓矢などを避けるために地形を生かして見事な石組による二つもの城(グスク)をつくった護佐丸は、どういう人間だったのだろうか。
首里城を訪れたとき出会った`三ヶ寺参詣行幸`古式行列の、髯を生やし胸を張った筑佐事のきりっとした風貌を思い起こす。そしてなんとも琉球の潮風を感じさせるネーミングではないか。墓を前にして目を閉じ、王朝の悠久の古に想いをはせる。
写真を撮ろうと墓の左手から上り始めたら薮蚊に刺されてたちまち手や首が膨れ上がった。護佐丸の霊に叱られたような気がし思わず襟を正した。といってもTシャツだけど。

沖縄の墓は、原初的な自然洞窟墓や横堀墓のほか、破風墓、家型墓、それに中国に発祥した風水陰宅としての亀甲墓(かめこうはか)など、今は火葬制となって認められなくなったが、いずれも内部に洗骨された骨を入れた厨子を納める大きな空間が取られている。
座喜味城跡に隣接している読谷村民族資料館に亀甲墓の模型が作られていて、内部の様子がわかるし、陶製の厨子のコレクションも展示されている。魅力的な厨子が洗骨された骨を納めるものだったとは!ショックだ。
墓は近年ではコンクリートで作られることが多く、`コンクリート流し込み墓`と墓地販売業者の宣伝看板に書いてあったりする。何かしら沖縄は墓ブームといいたくなる有様だ。ちなみに沖縄の建売住宅は、鉄筋コンクリート造と言わずにコンクリート流し込み住宅だ。

首里城の近くにある「玉陵」(たまうどぅん)は、1501年に築かれた破風型の琉球王室の墓で、まだこの時代には風水が移入されていないことがわかる。墓の形式からも風水伝来の経緯が現れる。
「玉陵」は三つの部屋に分かれていて、中央は洗骨の場になっている。ということは、洗骨と風水は近しいにしても直接の関係にないといえるのだろうか。(中国史研究者の三浦國男氏によると沖縄への風水初伝は1629年、八重山の川平に漂着した浙江省台州府の人、楊明州によるとされる)

沖縄の人は多くを語らないが、僕たちが異様に思うのは、亀甲墓や破風型墓が市中の住まいに隣接して点在している風景だ。
僕たちが泊まったホテルに接して小さな森があり、よく見ると3基の破風型墓だった。東京では銀座の一角とも言える場所なのに。
嘗ては山林だったところが住宅地や商業都市として開発されていくことによって墓と都市が共存していくことになったのだろう。時代も変わり、都市の様相も変化して行くが、この現象に沖縄の人の祖先を敬う風水(無意識の)地理説、時を敬う気持ちが見え隠れするとはいえないだろうか。

墓を通して文化が見えてくる。

僕が護佐丸の墓の域に入りかけたとき受けた感触は、風水の「気」だったのだ。

沖縄文化紀行 5 JAZZ「屋良文雄」の場合

2005-12-07 18:04:22 | 沖縄考

那覇に屋良文雄というJAZZピアニストがいる。
僕が沖縄のJAZZシーンを語ろうとすると、屋良文雄と彼のライブハウス「寓話」になってしまう。仕方がないのだ。沖縄はJAZZの宝庫だということは解っているのだが、「寓話」以外のライブハウスに行ったことがないのだから!でも屋良文雄のライブを楽しむことで、沖縄のJAZZを味わったと言っていいような気がしている。

学生を連れて寓話のドアを押すと、カウンターに座って談笑していた屋良さんが振り向いて、オヤッという顔をした。元気そうな顔を見てふっと安心した。やあ3年振りでと言うと、見たことあるなあ!と両腕で僕を抱えるようにして背中をぽんぽんと打ってくれた。こんなライブハウスってある?

パーソネルはこうだ。Drums津嘉山善栄、E・Bass武島正吉、Alto・Sax石崎文紀、そしてPiano屋良文雄。スタンダードナンバーを次々とほとばしるように演り、ワンステージ目の最後は「A列車で行こう」
一段高いカウンター席から女性客のかけ声!がかかる。中年のなにやら怪しげなカップルが、ベリーダンスを始める。思い出したのだが3年前魅せられて三日三晩通ったときも彼らが踊りだした。常連さんだ。ごくごく当たり前のことなのだろう。皆知らん顔をしている。同行したB君は手や脚でリズムを取りながら踊りには目も向けず‘かっこいいなあ!‘を連発している。

まあ此処はミュージッシャンの戦いの場だからなあ!屋良さんがプレイヤーを見る目つきは鋭く、しかし優しい。男が真剣勝負をしているのだ。僕たちを楽しませながら。
僕たちはゴーヤチャンプルをつまみながら、ちびちびと泡盛をストレートで口に含む。なんという夜だ。体が踊りだすのだ。
米軍キャンプやアメリカで鍛えられた沖縄JAZZ協会の会長でもある屋良さんの、リズミカルで何処かナイーブなピアノのタッチは誰に似ているといえばよいか。いやいややはり屋良文雄のピアノだ。

ちょっと気取って格好よく書き終わり、いつものようにFINDLATER`Sを口に含みながらぼんやりと考えていたら、「寓話」が気になってきた。コンサートを収録したアルバムに‘ミッドナイトイン寓話`という屋良さんのつくった曲が収録されている。ミッドナイトというタイトルの割には勢いのあるプレイなのだ。
寓話。イソップ物語のように動物を擬人化した風刺が含まれたたとえ話。
屋良さんのJAZZに託した「寓話」とはなんなのだろうか。  

沖縄文化紀行 4 今バナキュラー(建築のもう一つの課題)

2005-12-02 12:07:41 | 沖縄考

米軍キャンプ宿舎の影響を受けて、同じような形態で建てられたコンクリート造の住宅をアメリカ住宅という。基地周辺に建っているこのアメリカ住宅は、日本復帰後の沖縄の人々の憧れの住宅で、今でも若者に人気があるという。
悲惨な戦禍とアメリカ文化への憧憬との二重構造についての視点からもこの住宅群を考えなくてはいけないと思うが、台風に悩まされる沖縄(本島)の風土と無縁ではないことは確かだ。
僕の記述を読んで、Mさんは在住している札幌の住宅との共通点を見出し、「今バナキュラー」と述べた。興味深い指摘だ。

その土地に特有である建築の様式や生活などを「バナキュラー」と言うが、バナキュラーという言葉には、つくられたものではなく、「生まれてきたもの」というイメージが僕にはあるからだ。
建築家の連健夫さんも何処かにこの問題が引っかかっているようで、何度もバナキュラーについてのシンポジウムをコーディネートしてきた。その原点に「生まれてくるもの」と「創るもの」との関係を突き留めたいという思いがあるのではないかと思う。
「今バナキュラー」という言葉を聴いて、冒頭にパネリスト建築家のNさんから厳しい発言のあった、ブラジル建築を題材にした連(Muraji)さんの企画したシンポジウムを思い出した。
ブラジルに在住したことのあるNさんは、丘陵地に張り付いている有り合わせの木材や合板を組み立て、様々な色を塗った仮設的な(バラックというと言い過ぎになるだろうか)ある意味では僕たちを刺激する住宅群を、バナキュラーと言うべきでなないという。貧困からやむなく生まれた住まいで、生活者にとっては屈辱の証であり、風土を受け留めて生まれてきたものではないということなのだろう。つまり風土との関係を抜きにしてバナキュラーは語れないということだ。

文化人類学の視点から沖縄の住宅を考えてみる。
柱を土に埋め込み、軒高を人の背高ぐらいに押さえ、茅で屋根や壁を葺いた庶民の住宅「アナヤー」、元々は士族や旧家・豪農の住宅形式で、茅葺だけでなく瓦屋根(カーラヤーともいう)もあった「ヌキヤー」。そしてコンクリートの「スラブヤー」への変遷経緯を検証し、それらが沖縄の原風景として語られる場合の課題だ。
僕たちが沖縄の住宅をイメージするとき、シーサーの乗った赤瓦を漆喰で固めた屋根、つまりカーラヤーを思い浮かべるのではないだろうか。しかし渋谷研(社会人類学者)氏の指摘によると、カーラヤーが増えてくるのは戦後で、それもすぐにスラブヤーに替わっていく。茅葺のアナヤーが原風景である沖縄住宅の姿、つまり沖縄の生活や時代を顕していた真の姿が、文化創造行為の中で消えていく。

しかし今の僕の課題は「スラブヤー」だ。

基地の中の宿舎も、アメリカ住宅も、白い四角いコンクリートの箱にスラブ(コンクリートの床版)の屋根を乗せた極めてシンプルなモダニズム的形態。たとえば雨樋もなく入り口(玄関)部分の屋根には、木の桟が打ちつけてあって、出入りする人に雨だれが落ちないようになっている。素朴な考え方だ。建築はこれで良いのではないかと一瞬思ってしまう。

3年前のJIA大会の折基地内の建築を見学し,SOMの設計した教会などを観たが、何より惹かれたのはシンプルな宿舎だった。同行した沖縄の建築家から、スラブヤーという言い方を聞き、前項沖縄そばで記した沖縄のYさんに、アメリカ住宅群を案内してもらった。
この文化紀行1で聖クララ教会に触れながらアメリカ住宅とスラブヤーの関係について記述したものの、この旅で沖縄の街を歩き、沖縄の建築の多くは、必ずしもこのモダニズム的な建築手法でつくられていないことに気がつき気になってきた。
穴あきブロックやむしろ骨太スタイルが多いのだ。
そこへ「今バナキュラー」だ。アメリカ住宅を「今バナキュラー」といっていいのか。

渋谷氏は「スラブヤー」の語源には触れていない。氏の記述に記載されている坂本磐雄氏の1989年の資料を見ると、スラブヤーが沖縄に根付いていくのが1975年以降、つまり本土復帰後の米軍キャンプ施設事業も含む復興事業に協調しているのがわかる。今まで述べてきたように、スラブヤーという言い方は、キャンプ宿舎スタイルと関連があると僕は考える。
台湾も台風銀座だ。同じように神話的なコンクリート志向がある。台湾から沖縄まで飛行機で30分。関係はないだろうか。

アメリカ住宅はさっぱりしていて、この旅でも改めて面白いと思った。しかし必ずしも根付かなかったのは、台風には対応したが、強い日差しと影、風を必要とする自然環境、そして生活者の感性をも秘める風土を受け留め得なかったからかもしれない。
とすると沖縄の「今バナキュラー」をどう考えるべきか。世界を飲み込んだモダニズム(モダニズム的?という別の問題もありそうだ)は、バナキュラーとして根付けないのか。
しかし建てられてから47年を経た聖クララ教会が、すっかり地域に溶け込み、愛されているのはなぜか。単純に僕は思う。時代や時間を超えた建築だからだ。そしてこれは建築家の存在を抜きにしては考えられない。

「今バナキュラー」などとMさんが言うものだから、これから僕は、建築を創ることと建築が生まれることを、社会構造や文化創造のなかで考えて行かなくてはいけなくなったような気がしている。そして改めて言うまでもないのだが、モダニズム建築とは何か、だ。
Mさんはとても大切な、しかしとんでもない課題を僕に与えてくれたものだ。
でもこれは言いだしっぺのMさんの課題でもあるんじゃないの!