日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

札幌へ飛び、秋の・初冬の光景を味わい 建築を!

2017-11-09 13:12:19 | 小、中、高、大という時

明後日(11月11日)、北海道へ飛ぶ。秋の深くなった千歳・札幌・小樽の様相を味わってくる。(ところで、住まいのある海老名市、事務所のある東京新宿では、木々の葉っぱがやっと色付いてきたが、既に晩秋という言い方でいいのだろうか?) 

この北海道の旅の主題は、札幌市立大学の院生と学部生に、「味わい深い、建築の存在すること」、そこには「建築家」の居ることを、嘗て鎌倉の近美で収録した(故)鈴木博之教授と語り合った建築談議「日本のモダン建築100選・20世紀の文化遺産を訪ねて」と題した映像を放映し、建築の面白さを伝えることにある。そして、価値観を共有し今年も声をかけて下さった羽深市大教授と共に親しい友に1年ぶりに会えること、更に、その後の一杯が楽しみだ。 

もう一つ、この訪札中に、札幌在住の女性建築家に取材、下記「建築家模様」に登場頂くことにもした。そして小樽のプレスカフェへ!美味いコーヒを味わいながらにこやかなターマス(マスターのこと)とのやり取りが楽しみだ! 

さて市大では、映像を観てもらった後の講義の資料として上記「建築ジャーナル誌」に5年に渡って連載してきた「建築家模様」のセレクトした数編のコピーを配布して簡単に解説し、学生共々語り合いたい(建築談義をしたい)と思っている。学部生と院生への講義は、無論多少仕組みを変えようと思っているが、何はともあれ建築に志を抱いている若き学生とのやり取りが楽しみでもある。 

ところで上記「日本のモダン建築100選」。僕と対談した`鈴木博之`東大名誉教授をはじめ、登場いただいた日本の建築界を率いてきた `林昌二` `東孝光`各氏が逝去されて心寂しくなったが、このDVDを繰り返し見やりながら、その面影と共に人柄や人格を味わっている。

                                                    ー写真:昨2016年の札幌の一齣ー

 


竹とんぼと東葛高校同窓会

2016-08-21 12:22:59 | 小、中、高、大という時
母校、千葉県柏市に在る「県立東葛飾高校」は、2年前に`医歯薬コース`が設置され、今年度から2クラスの中学校を併設し、千葉県で二校目になるという`中高一環教育重点校`になった。 

58年前に卒業した僕達同級生は、卒業と同時に「葛の会」と称する組織をつくり、有志が集って読書会を行ったり、エッセイや近況報告を取りまとめながら、ガリ版刷りの会報を発行したりした。
そして、ある時(おそらく32年前)から5年毎に賑やかな同窓会を開催してきた。そしてこの6月、喜寿を迎えることに思いを寄せ、地元の柏や松戸、取手、野田近辺の同級生を中心としたメンバーから、柏から四十数年前に転居した神奈川県海老名市に居る僕にも相談があり、本来なら3年後に行う予定だった第7回の同窓会を開催する事になった。

葛の会は、その昔はともかく、柏市内の要所にビルを所有して柏市の様々な活動を担っている仲のいい小柳が、事務局長的な役割を果たしてくれている。
考えると不思議な感じがしないでもないが、この僕たちの`葛の会`には代表が居ない。同窓会をやる毎に誰かが言い出しっぺになってその同窓会の代表が決まる。さて!今回の`葛の会`僕は2度目の発起人(世話人)代表を担うことになった。そして会合の前に小柳を誘って母校を訪ね、教頭先生に母校の現状をお聞きした。

2年前に行った前回に続いて僕は、同窓生名簿の表紙のデザインをし、今回は代表として巻頭文を起稿した。その一部の抜書きを下記に転載する。

・・・『ところで母校のある柏のまちは、常磐線沿線の主要都市として変貌、とは言え遠くに住む私にとっては‘懐かしい故郷`とは到底言えないほど様代わりをしました。折りしも熊本で大震災が起って沢山の方々が亡くなられ、私事ですが小学生時代を過ごした熊本県の天草市下田(当時は天草郡下田村)の様相が気になって同級生に電話をして無事を確認、手術を繰り返している彼の体調を聞いたりしました。その下田は市になったものの過疎化が進んで同級生たちも離散し、母校も廃校になってしまったことをふと思い出しました。』・・・

実はこの日の前日、当日出席と回答していた取手駅の近くに住んでいた盟友が急逝した。
今回の代表として冒頭の挨拶をする僕は、彼の死去を伝えるかどうか心が定まらないまま壇上に上がり、しばらく瞑目して口から出た言葉は、盟友死去の報告だった。

<写真の`竹とんぼ`は同級生の小熊からのプレゼント。竹とんぼ名人の彼から何時ものようにホイと渡されたが、飛ばしてみると正しく名人、得も言われぬ見事な飛び方、今回は先端に赤印のあるのも一つ、左利き用の竹トンボだった>

初冬、ラグビー「明早戦」、時の流れに

2015-12-06 17:02:49 | 小、中、高、大という時

関東ラグビー対抗戦、母校明大対早大戦をTVで見ながら書き起こしている。
この試合に勝つと帝京大と共に今期の対抗戦同率優勝ということになるので、見ている僕も思わず「よし!」とか「オオ!」あるいは「フー」という溜息交じりの声が出て、我ながら可笑しく、苦笑する事になる。会場は、国立を壊してしまったので秩父宮。
早稲田を出た弟が健在だったときには、国立競技場へよく一緒に行ったものだ。そして終了間際に早稲田が優位になると母校の自慢を始めるのでカッとなり、喧嘩別れをしたことなどを今では懐かしく思い出す。

画面を見ながら思うのは、ラガーマン、後輩たちのたくましいがシャープな姿、言ってみれば垢抜けした風貌、時の流れ、時代の変遷を感じる。

5年毎に行ってきた建築学科の学生を含めた同窓会「明建会」の大会を、来春の5月に行うことになって、何度か打ち合わせのために御茶ノ水校舎に出かけた。そこで行き交う学生たちの姿がダブってくる。
建築学科は、堀口捨巳教授を学科長として、駿河台校舎を研究室として発足し、後に生田キャンパスに移行して今に至っているが、上記の会合は御茶ノ水校舎で行う。などと書いてきたらロスタイム2分、眼が釘点けになって見入った。

そしてノーサイド!我が母校明大が勝った。

<TV観戦なので写真が無い、秋のひと時を>

小さな旅でも天草を!

2013-09-15 15:01:11 | 小、中、高、大という時

2月に娘を連れて沖縄に行き、聖クララ教会でのコンサートを鑑賞、神父さんとともに簡単な挨拶をしたりした。沖縄の建築巡りをした後、建築家真喜志好一さんと国場幸房さんにヒヤリング。
5月の連休に房総半島・水郷の里に一泊、6月には3泊4日で北海道、倉本龍彦さんにニセコの「ばあちゃんち」を案内してもらって小樽に泊まった。翌朝札幌市大で院生に授業を、7月は名古屋の愛知芸大の委員会のあと大阪で一泊、竹原義二さんに会う。
その一週間後に、福岡―長崎―天草に出かけて、鮎川透さんと中村享一さんに面談、天草・下田では小学生時代の友人たちと一献傾けた。そして9月の3日の愛知芸大新音楽棟の落成式典に参加、名古屋に一泊して帰京と言った按配で、今年の9ヶ月間を過ごしてきた。

この旅のどれもが2013年の僕の痕跡として書き留め置きたくなるが、ことに天草市天草町下田北となった嘗て村だったときの「下田北小学校」がこの3月に閉校されたことにショックを受けた。過疎化である。

同級生山崎一視君の妹がやっている旅館で寝転んでぼんやりと嘗ての村のさまなど考えていたが、呼び出されて宴会席にゆく。
この前の下田行きは、5年前の5月だったので、久し振りとはいえなんだか馴染みの連中。でも中村健人は入院、吉田豊子も体調いまいちの様子で欠席、野口は法事で福岡に行っていてちょっと寂しいが、富岡港まで迎えに来てくれた吉田和正が釣ったという大きなイサキの刺身がでんと卓上にあり、ホウ!と思わず唸ってしまった。挨拶は一視。「皆様ようこそお集まり下さいまして」などと格式ばった言い方をするので思わずニヤリとしてしまう。

そして乾杯したビールを飲みながら、母国の廃校を聞いたのだ。<8月4日の記述と重なるが書いておきたい>

この地域の5校が閉鎖、隣村だった高浜に新校舎をつくりそこへ統合されたという。僕は昭和21年(1946年)の暮れにこの小学校に転校したが、過疎とはいえ200人を超える生徒がいたのだ。半農半漁という産業形態、唯一天草で温泉が出る下田北なのだが、ここでは生活ができないのかもしれない。

床屋をやっている末吉君から、雪江さん(雪江と数十年思っていたら、幸枝だった)きた葉書を見せてもらった。8月の半ばに皆に会いたいので下田に行く、と言うものだ。なんと千葉県(房総方面)に住んでいる。幸枝さんは3年生か4年生になった頃に転校していった丸顔の可愛い頭のいい子だった。どうだった?と和正君に電話をしたら、普通のオバチャン。思わず笑ってしまったが、わが身を思いまあそうだろうと和正と合意。だが、様々な地域活動をしているようだ。それもそうだろうと記憶にある数十年前を想い起こしている。

TVでは、海外の村やまちを巡り、地に根付いて生活する人たちを紹介するドキュメントが大流行だが、下田での僕の友人たちの生活を考えると、ささやかな年金を貰いながら欲張りもせずに生活を楽しんでいることに気がついた。和正君と一視君は、苓北町にある苓洋高等学校(水産学校)に入学し、卒業後、世界を股にして活躍したこともあるのだ。シドニーに行き、ウヲッツンのオペラハウスも見てきたと言われると唸るしかない。さて俺は!と考えるのである。



<写真下段 和正君と一視君の母校の舟>

野風増(やふうぞう)  ―小学生という時(1)―

2010-12-12 11:30:37 | 小、中、高、大という時

「野風増~お前が20才になったら~」という河島英五が慈しむように、そして心の中で叫ぶように唄うフォークソングがある。
お前が20才になったら酒場で二人で飲みたいものだ。2番は、お前が20才になったら女の話で飲みたいものだ。3番は、お前が20才になったら旅に出るのもいいじゃないか、とはじまってそれぞれに「いいか男は 生意気ぐらいが丁度いい いいか男は 大きな夢を持て 野風増 野風増 夢を持て~」と続けて想いを込める。

繰り返し聞きながら、僕という長男が生まれて喜んだ父にも、どこかに同じ思いがあったのだろうと思った。20才になった息子と酒を酌み交わしたい! しかし既にその当時不穏な空気が日本を被っていた。
終戦の2ヶ月前にフィリピンで戦死して父の想いは叶えられなかったがそれから幾年、僕は女の子を授かって父親になったが、現在(いま)娘(妻君も一緒に)と酒場で飲むのが何よりの楽しみだ。そして`生意気ぐらいがいい`といわれるとちょっと困るが、幾つになっても`大きな夢を持て`と娘に言いたい(そんなに気張らなくもいいよともいってやりたいのだけど)のである。

ところで吉行淳之介に「やややのはなし」という大人っぽい粋なエッセイを集めた文庫本がある。(1995年、単行本は1992年文藝春秋刊)
僕は今、改めて氏の様々なエッセイ読み始めていて吉行淳之介にぞっこんなのだが、このなかに「子供の時間」という幼稚園や小学生の頃(吉行は1924年生まれ)、つまり昭和の一桁の頃の町の様子や大人と子供のやり取りなどのとりとめもないエピソードを作品にしてしまった含蓄に富んだ数編が掲載されている。統一したテーマがあるわけでもないのに、その時代や人とはナンだ!とチクチクと僕の心が突っつかれるのだ。

さてと思った。僕には「生きること」という、父と母が、僕が生まれた時からのことを書いた育児日誌を題材にしたエッセイがあってこのブログに記載したが、`子供の時間` 的に、時折僕も子供のときのことを書いてみたいと思う。少し欲張って、―小学生という時―、―中学生という時―、―大学生という時―、そして卒業したころ、ということになるのだろうか。

吉行の「子供の時間」の冒頭エッセイのタイトルは `時間をさかのぼる` である。
過去に思いを寄せてもノスタルジックにならず、現在(いま)を見据えているのは流石だ。
過去があって現在があるのだが、現在を見据えてなどと意気込まず、取り留めなく過去を書いてみるのも面白いかもしれないと僕は「やややのはなし」を読んで感じ入った。
そして、父がフィリピン、ルソン島のモンタルバンで、亡くなる前に、僕たちに想いを馳せて一度は僕や弟という息子と一杯やりたかったと、ふっと東方の日本に目を向けたに違いないと、どこかに書いてみたかったのである。
人に聞く父の姿からは、出征して生まれた姿を見たことがなかった妹や母がニコニコと笑っている中で酒を、ということになりそうだが、父は明治生まれで僕は長男だから相手はやはり僕、だが先に没した弟と既にどこかで一杯やっているかもしれない、人には現在しかないが、ふっとそんな気がすることもあるのである。

<写真、父が生きていたら102歳になるのでそれは到底無理だが、まあそれでも一緒に飲むと楽しそうな極上の酒、出来立ての佐渡の加藤酒造店「金鶴」活性にごり酒。酵母が生きたままなので口をあけると早く飲みきらないといけないが、一升もある。一人ではねえ!と思って口をあけるのをためらっている>