日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

「音楽の現在」 サントリーホール サマーフェスティバル2009にて

2009-09-30 10:52:15 | 日々・音楽・BOOK

ふとテレビのチャンネルを回したら、庄司沙矢香がジョルジ・リゲティのヴァイオリン協奏曲を演奏していた。スリリングな演奏で、深夜にもかかわらず眼が離せなくなり最後まで聴いてしまった。彼女の全身で演奏に打ち込む様も魅力的だったが、現代音楽特有の奏法とその新鮮な響きに好奇心が刺激されたのだ。
その後NHKの「トップランナー」で、そのときの練習風景が映し出された。指揮者と奏者で奏法の確認をしている様子を見ると、プロだから何度もそういう機会を得ているのだろうが、学んできた教科書にない音楽に挑む喜びが彼らにもあるような気がした。

8月25日のサントリー大ホールはほぼ満席、こんなに現代音楽に惹かれる人がいるのかと驚いた。
「音楽の現在」と題した演奏会は、4曲とも日本初演だ。管弦楽は東京交響楽団、指揮をしたのは沼尻竜典。サマーフェスティバル2009のワンセッションだが、プログラムによると、1990年のブザンソン指揮者コンクールで優勝した経歴もあり、現代作品を含む意欲的なプログラムと演奏で評価が高いとある。
この日演奏された4曲の作曲者を僕は誰一人知らないのだが、どの作品も意欲的で聞いていて現代音楽の面白さを堪能することになった。

サルバトーレ・シャリーノの「リコーダーとオーケストラのための4つのアダージョ」、オーガスタ・リード・トーマス「ヴァイオリン協奏曲<楽園の曲芸師>」、ルーク・ベッドフォード「オーケストラのための<花輪>」そしてペーター・エトベシュの「2台のピアノとオーケストラのための協奏曲」である。

それぞれに白石美雪氏の解説や作曲家からのメッセージが記載されているが、音楽の専門用語に関しては僕にはなかなか理解できないものの、作曲者のやろうとした意図はわかる。
しかし白石氏の`「かつて一度も聴いたことのない」音空間が立ち上がる体験は希少だ`と述べる一言に「確かに」と納得したが、続く「<音楽の現在>という窓からのぞく現代性は、逆説的にそういう状況の反映となっている」との一節にもうなずいてしまう。魅力的でもう一度聴きたいと思っても再演奏される機会も少ないだろうし、CD化もなかなかされないだろうから。

僕はルーク・ベッドフォードの<花輪>に魅かれた。プログラムに僕の走り書きがある。いつものことながら自分で書いたのにちゃんと読みとれないが、文字を追っていくとあのとき受けた刺激が蘇る。
「管がゆったりとリズムとメロディを流していくバックに、不協和音を交えながら弦が厚みのある音を重ねてゆき、2回の高揚した`わめき`で盛り上げる指揮者と東響の響きに打たれる」。

ルーク・ベッドフォードは4人の中で一番若い31歳。白石さんは、イギリスの若手に共通する早々に老成してしまいそうな危うさを感じると書いているが、それだけこの曲の完成度が高いといえるのではないだろうか。

「現代音楽」というコトバを聞くと「実験」というコトバか裏腹にあるような気がする。例えばジョン・ケージの弦にボルトをかませて響かなくなった音を「置いていく」ような試み、つまり実験が現代音楽だというイメージが僕にはこびりついているのだ。
1960年代初期の、刺激を受けたジョン・ケージ、オノ・ヨーコや武満徹等のパフォーマンスのイメージがまだ残っているのだ。

しかしこの日に聴いた4曲は全て完成度が高かった。<花輪>の不協和音も実験ではなかった。
僕を誘って招待券を用意してくれたSさんが、<花輪>の演奏が終わった後「これは再演にたえるなあ」と感じいったような一言を漏らした。
僕の感性もまんざら棄てたものではない。

建築家の僕は、建築の『現在性』を考える。「音楽の現在」は、正しく素直に音楽の現在なのだと思った。

四国建築旅(8) DOCOMOMO選定プレートと 土佐清水・林雅子の海のギャラリー

2009-09-26 10:52:29 | 建築・風景

日土小学校の見学・シンポの後、JAZZ BAR「ロン」でジョン・コルトレーンに酔いしれ、心を残しながら宇和島に車を走らせた。翌朝、今度の旅の目的の一つであるレーモンド事務所で地元出身の中川軌太郎が設計を担当した「旧広見町町役場(現鬼北町)」に立ち寄った後土佐清水に向う。「海のギャラリー」があるのだ。

四万十川に沿った441号線をひたすら走るが、なかなか辿りつかない。遠い。走りながら土佐清水の隣町中村市が四万十市に市名が変わったことに気がついた。ここから土佐に向う途中には四万十町があるのでややこしい。
道は四国の西南端足摺岬に向う321号になる。

「海のギャラリー」は地元の画家黒原和男が収集した土佐沖で採取された貴重な貝類を展示する博物館だ。設計は故林雅子、建築家林昌二さんの奥様である。
シャコ貝をイメージしたコンクリートの折版屋根を両サイドに向き合うように立ち上げた。トップライトから注がれる光が深いブルーに彩られた室内に降り注がれ、心地よい緊張感に僕たちは包まれる。深海にいるようなとつい言ってみたくなるが、光が明るくて海の中とは言い難いものの見事な空間構成だ。

ほの暗い一階の壁に設けられたショウウインドウに、この建築が建てられた経緯と耐震改修された様子が展示されている。僕もささやかな・考えてみると一瞬なのだけどこの建築の改修に縁がある。
林昌二さんから相談があって、日本ナショナルトラストに林さんに同行していただき、親しかった当時の事務局長を訪ねた。海に縁のある日本財団が日本ナショナルトラストを支援しており、日本財団への橋渡しをお願いしたのだ。貝と海、僕の単なる思い付きだが、林さんが現れたのに驚き恐縮した事務局長の顔を思い出す。

この建築の改修は、市長を招いて林昌二さんを中心としたシンポジウムを開催して価値の周知を図り、日本財団の資金援助を受けて2005年に土佐清水市が行った。耐震設計を担当した今川憲英さんの技術によって、雨漏りによってふさがれていたトップライトが復活され、林雅子の世界が蘇ったのだ。

入り口の前の案内板に、DOCOMOMO選定プレートがひっそりと、でも誇らしげに設置されている。
このステンレスによる15センチ角のプレートは、武蔵野美術大学の教授寺山祐策さんのデザインによって作った。エッチングで文字を刻み込んだが、刻むことによって素地の白色が現れて品のいい味わいがある。文字に黒い色を埋め込んだサンプルと比較しながら`これがいい`と判断したのが林昌二さんだ。
「海のギャラリー」の存続には、林さんの雅子夫人への想いが込められているが、この建築をみると、それは雅子建築への林さんの建築家としての憧憬なのだと言ってもいいのではないかと思った。

緑の中に浮かび上がる白い屋根を見ながら溜息が出た。
不思議な貝の姿とこの魅力的な建築を見に、大勢の人が訪れてほしいと藤本さんと語り合う。日曜日なのに人が来ないのだ。遠隔地とはいえ僕たちにできることはないものだろうか。

四国建築旅(7) 笑顔が返ってきた  香川県庁舎と坂出人工土地(Ⅱ)

2009-09-22 11:06:58 | 建築・風景

「坂出人口土地」は前川國男の弟子、大高正人によって1962年から68年にかけて4000坪の土地を再開発した人工都市である。香川県坂出市の駅から三分程度の市の中心地をコンクリートによって宙に浮いた人工土地をつくり住居や商店を構築したのだ。

坂出市は現在は人口約65000人、瀬戸内海に面し、瀬戸大橋の四国の玄関口になる地方都市である。この地域は、かつての塩業を基幹産業としていた頃に塩田従業者のだった。密集している木造住宅群が老朽化していて環境整備が望まれていた。再開発計画を委嘱された大高正人は、人工土地計画を提案して受け入れられたのだ。

60年安保の時代、丹下健三は東京湾に人口土地をつくる「東京計画・1960」を提案し、大高と同時期に東大に学んだ丹下の弟子大谷幸夫は1960年、大高と同様の人口土地コンセプトによる「麹町計画」を発表している。
その大谷は前述した「建築家の原点」で興味深いことを述べている。
「丹下先生の`東京計画`は・・人間が海上に移動するというテーマで・・ある意味で東京一極集中の肯定論でしたが、前川國男先生は、なかなか乗らなかったですね」。
前川は丹下と同じように戦後の日本の建築を率いた建築家だが、都市への視線、つまり人と建築を見る眼が違うのかもしれない。大高はその前川の弟子なのだ。

大谷幸夫は1946年に東大建築学科を卒業して大学院に進みそのまま丹下研究室に在籍したが、大高正人は大学に残らず、大学院を終了した年に前川設計事務所に入所した。1949年だった。
坂出人口土地プロジェクトは、大高が独立した1961年から始まった。デビュー作といってもいいのだろうか。38歳の大高正人だ。若い。
住居を組み合わせる建築計画とはいえ、小都市を構築する人工土地計画からスタートできたのが、時代というものを考えさせられる。

僕がいま(現在)感慨を覚えるのは、今の時代と比して1960年代の社会が「建築家」に寄せる信頼と期待だ。モダニズムの時代、「私はモダニストです」そして「私は闘わない建築家なのです」と述べる槇文彦へのいまの社会からの信頼と重なるのではないかと僕はふと思ったりする。

人口土地は、約4000坪の土地に一階に駐車場や商店、倉庫などを入れることを前提として地上に6メートルから9メートル持ち上げたコンクリートによる人工地盤をつくった。そこに市民ホールをつくり、平屋から4階建ての二戸を一組とした100戸のアパートを組み合わせて建てた。
住居を持ち上げることによって光と空気を取り入れるという発想は大谷幸夫の麹町計画に通じるが、大高は人口土地の下一階に地元の建築家によって自由に商店などを構築して欲しいと考えた。

建てられてから50年近くになりその成果は?そして土のない人口土地での住まいとは?というのが僕の見学目的だった。
しかし当然のことだが1時間ほどの通りすがりの旅ではつかみきれない。でも感じ考えたことは伝えたい。

この人口土地は周辺のまち並に埋没している。言い方をかえるとまち並に馴染んでいるともいえる。発表当時の写真を見ると、木造2階建ての瓦葺きの周辺の家屋の様が写し撮られている。50年を経たが、道路に面する部分はコンクリートに建て換わっているが高層化されておらず、その情景があまり変わっていないからかもしれない。
一階の駐車場に車を入れたが暗い。光を入れる筒状の開口が人工地盤にあって樹木が植えられているが、駐車場にはほとんど光が届かない。

周辺の道から見ると人工地盤が構築されたとは一見思えない。ちょっと気になったのは人口土地の下部が周辺に開かれていないことだ。開かなくてはいけないとは言い切れないが何故開放感がないのだろうと思った。土地の建築家の問題か?プロジェクト自体に起因するのかは判断できない。

さて気になっていた住居群。
人工土地(地盤)自体に一層の高低差があり、変化に富んだ建築群構成がされているがさて・・朝から夕方までの光が動き、季節による太陽の高さによる変化を感じ取れるかもしれないとは思った。
大地ではなくコンクリート地盤に住まう生活はどうなのだろうなどと思いながら、藤本さんと二人でカメラを持って恐る恐る人の住む空間に踏み込んだ。
出会う人やバルコニーから僕たちを見下ろす人に挨拶した。そして挨拶を返してくれる人々の笑顔に僕たちはホッとしていた。

<写真 住居群の中にある小さなお宮と駅に向かうメイン道路から見る人口土地・道路の向かい側の1階店舗にもシャッターが下りていたのが気になった>

愛しきもの(11) 愛しき`はんこ` 篆刻・「長楽未央」

2009-09-17 22:35:53 | 愛しいもの

その昔、夜の大学に通いながら仕事をしていた建築会社に行商人(?)が出入りしていた。
仲良くなった本屋さんがいて、仕事が終わった後碁会所に行って時々碁を打ったりした。2級程度の僕と同じ棋力で勝ったり負けたり。雑誌「建築」が創刊され、結局廃刊まで購読することになった。乏しい給料だったのに、フランス語のアルテミス版「ル・コルビュジエ全作品集」全8巻を分割で買ったりした。
でも僕が楽しみにしていたのは山梨の`はんこ`やさんだ。○○堂という印章店の名前も忘れてしまったが、会社にくる人のいい中年男(おっさん)の風貌と笑顔がほんわりと思い浮かぶ。

毎回作ってもらう余裕はなかったが、話しが面白くて来るのが楽しみだった。50年も経つのにそのときの黄楊(つげ)の小さいはんこを今でも4本持っている。
名前の松という字の下がすそ拡がりになっている僕が一番気に入っていた一本は、気がついたら妻君の愛用印になっていた。妻君は郵便局の通帳に使っている。
おっさんが工房で作らせて持ってくる印はどれも吉祥印だということだが、その字配りにとてもいい味わいがあり、どこかで僕の琴線・美意識に触れたのだ。そしてそのはんこ(印鑑)は僕のささやかな宝物になった。

`はんこ`に目覚めたのはそのおっさんと出会ったからだ。
中国に旅したときに西湖のはんこやさんで四角い石の社判を彫ってもらった。その後中国旅する友人にお土産に何がいいかと聞かれたので、即座に僕は石の`はんこ`といった。僕の今の愛用印だ。
そして気がついたら篆刻をやるための欅を使う印床(篆刻台)が僕の手元にある。何本も印刀があり石の印材もある。印泥もあるし「篆刻の芸術」というタイトルの本もある。
僕はまず道具が欲しくなるのだが「懲りないね」と妻君が呆れるように手作業でうまくいったことはほとんどない。そして邪魔ッけな道具類はいつの間にかどこかにしまわれてしまう。ああ、ぶきっちょだと自覚はしているのになんとも情けない。

「長楽未央」。この篆刻よる印章は、`幽霞`という篆刻作家の作品だ。つくってもらった。
活版を主体とした印刷と印章の店をやっていた御園さんから手紙が来て「店を閉める」と書いてある。防空壕も生かしておけず、もう自分の時代が終わったと聞き捨てならない一言もある。驚いて電話をしたら僕より元気ではないか。めげてない。
数年年輩の御園さんは、小岩の商店街のなかに戦時の記憶をとどめる防空壕を守っていて新聞にも取り上げられたのだが、今は見向く人もいなくなった。活版の時代でもなくなり、人生に一区切りを付けるのだと言う。前向きな一区切りってあるのだと電話で話し込みながら感慨を持った。ふと「篆刻」と言う文字が思い浮かんだ。`幽霞`さんは御園さんの姪なのだ。

中国から来た篆刻には、長寿とか富を願う文字が多い。「あなたに長生きしたいとか金持ちになりたいとかって無いのでこんなのかなあ」と言う妻君のコトバに、さすがに長い連れ合い、よく解っていると感じ入った。「長楽未央」なのだ。「人生楽しかるべし」。
こんな感じでって、図書館から借りてきた本から僕の好きな角張った書体の作例を数点コピーして御園さんにお願いした。

うれしくて仕方がない。今年は出さないことにしていた暑中見舞いと残暑見舞いをたくさん書き、「長楽未央」と押した。


四国建築旅(6) 師と弟子と建築・香川県庁舎と坂出人工土地(Ⅰ)

2009-09-13 12:09:27 | 建築・風景

丹下健三の設計した旧東京都庁舎が気になっていた。この建築が建てられたのは1957年。僕が明大の建築学科に入学したのは58年だから前年に完成していたことになる。
日本の都市に勢い良くモダニズム建築が建てられるようになった時代、学校で学ぶ建築の教材(実例)として胸を躍らせた。
卒業後、大学時代の仲の好かった同級生が都庁にいたので良く出かけた。執務室の天井が低く、室内は書類が山済みになって窮屈だったし、外壁を構成したスチール製の格子壁が傷んで修復費が大変だと報道されたが、コンクリート打ち放しのシャープな造形や、岡本太郎の壁画とのコラボレートは新鮮で魅せられた。

しかし、解体されるとき建築界では誰も保存についての発言をしなかったし、設計した丹下健三自身が壊してもいいのだと言ったなどと取りざたされたりした。
新宿に都庁移転が決まり、コンペだが新庁舎を設計するチャンスがあるとは言うものの、何故だ?

今年(2009)の5月に建築家会館の企画によって発刊された大谷幸夫さんの`建築は誰のために`と副題がつけられた「建築家の原点」(建築ジャーナル刊)で、丹下の弟子大谷幸夫は旧東京都庁について興味深い報告をしている。
「僕は失敗から多くのことを学びました」という一言から、建築技術が貧困で、丹下さんの意図は理解していたが、課題に対応できず都庁は全部成功したわけではないと述べる。建築はいろんな部分の支えでできているが「部分の真実」が獲得できなかった。

僕は都庁の1年後に竣工した香川県庁舎(1958)の中を歩きながら、この大谷さんのこの一節を考えていた。丹下健三は1912年生まれだからこのときは47歳。大谷さんは世代交代、つまり優れた人材に場を与えることを意識して1960年に丹下さんの元を離れるが香川県庁舎には関わらなかった。

この建築は地元の画家猪熊弦一郎が丹下を金子知事に推薦することによって生まれた。都庁の経験を踏まえて設計がスタートしたが、1階ホールの猪熊弦一郎の大胆な壁画とコンクリート打ち放しの架構による空間構成の完成度は高く、中を歩く人の動きにもゆとりが生まれている。建築界ではこの時代の丹下の作品(香川県庁舎を含めた)を中心として伝統論争が起きたが、その回答がここにあると言いたくなった。

ふとこんなことを思った。
イチローが時代を築いて名を残したいといった。不遜とは思わない。僕はイチローをTVで見ていると、人がつくる「歴史」の現場を見ているのだと感慨を覚える。人の可能性に胸が躍る。
ジャック・ニクラウスを見ているときも、スライスの名手ローズウォール(僕が好きだったテニスプレイヤー)、亡くなったF1のアイルトン・セナの走りを見ているときにも感じたことだ。

時代を築いた丹下健三に`時代を築いて名を残そう`という意図はなかったのだろうか。完成度の低い都庁舎を壊してもいいといったのは、過去をみるのではなく新庁舎に目を向けたいという意だろうか。香川県庁舎を味わいながら釈然としない西新宿に建つ都庁舎が瞼に浮かぶ。
藤森照信さんの著した「丹下健三」に、過去のことを繰り返すのはやめよう、これからのことを話そうと、インタビューの時いつも言われたという一文がある・・・丹下健三晩年の話だ。


愛しきもの(10) もうすぐキングセイコーが蘇る

2009-09-06 15:06:38 | 愛しいもの

松山のtakahiroさんから、僕のキングセイコーを修繕する部品が「時計工房・勇進堂」の7段ほどのパーツBOXに整然と並んでいたとコメントが寄せられた。自分の時計の修繕を頼みにお店に行った時に見てくれたそうだ。
後は組み立てるだけ、もう少しですね!という心温まるコトバが添えられている。
ブログに40年前に買ったキングセイコーが動かなくなってメーカーに修繕を頼んだら、部品がないので直せないと送り返されたと書いたのが丁度2年前の9月。突然松山市の勇進堂で直せますよとtakahiroさんというかたからコメントが来た。

えっ!と思って紹介されたHPのアドレスをクリックして電話した。HPは5代目の息子さんがつくったようだが、出たのは声のトーンの高い4代目川口宏さん。話が弾んだ。シリアルナンバーを聞かれて時計を引っ張り出した。400から始まる数字だ。初期らしい。直ると言う。宅急便で送った。日土小学校のことなどを書いたブログと名刺を同封した。

FAXがきた。それがなんとも味わいが深い。傷んだガラスや部品などについてのこまごまとした様子と、セイコーに聞いたら当時販売された金額は15,000円から17,000円くらいだったようですと書かれている。
妻君がいう。そんなに高くなかったのね。あの頃の給料は7,8万円くらいだったんじゃあないの。
そうか、買えない金額でもなかったのか。ためらいながらもエイっと、でも買ったんだからね、今と変わらないなあと顔を見合わせて苦笑した。

2度目のFAXが来た。
一生けん命、おれってねじぬきと分解掃除をやってみます。`おれってねじ`というのがあるのだ。もしねじ抜きがうまくできなくてもきちんと動くようになりますからご安心下さい。ねじが折れて食い込んでしまったのだ。
「今日の愛媛新聞に日土小学校出ていたのでFAXおくります。しらなかったのですがすごい小学校なのですね」とある。新聞に書いたのは神戸芸工大の花田教授だ。
FAXには、昨日の深夜NHKで棟方志功さんの「あの人に聞く」を見たとある。そして棟方板画を使った時計を修繕したときのエピソードが綴られている。僕の名刺に棟方板画館評議員と書いてあるのを見たからだろう。

まだこの時計ならうちでなくても修理できるところはいくらでもあります。そのなかで勇進堂をえらんでいただいてうれしいです、とある。松山に飛んで行きたくなった。
見も知らぬtakahiroさんにも会って川口さんとの時計談義、職人世界談義だ!

<写真 送られたFAX、使っているRiki時計とシチズンのLAMER>

四国建築旅(6)金刀比羅宮と、魚と地酒の店「小染」

2009-09-02 21:49:48 | 添景・点々

四国を旅するときには金刀比羅宮(こんぴらさん・ことひらぐう)に参拝したいと思っていた。
最近テレビに登場する田窪恭治の描いた椿の壁画や(フランスの田舎の教会の壁に書いた林檎に匹敵する)陶板のあるレストランがあるし、歌舞伎をやる金丸座もあるが、1960年代法政大学教授だった建築家宮脇檀さんが、あの石段の両脇に建つ建築を学生達と実測したデザインサーベイの図面も見ていて好奇心を刺激されてもいたからだ。よくトライしたなあという感慨も込めて・・なんせ石段は785段もあるのだ。

それに高校時代の同級生から半年ほど前、念願の四国四十八箇所巡礼を踏破したと下田君からは綿々たるメールがきたし、英語とスペイン語の得意な征四郎君からは、スペインのサンチャゴ巡礼を今年もやっていると、街道沿いの宿坊からローマ字メールを送ってきたりして感じるものもある。俺達もそういう歳になったとか、とはいえ二人とも信仰心からとは思えないなあ!ということもあったりして、ともあれ「四国建築旅」初日の宿は「琴平」の`つるや`にした。

それが鳴門で時間を食い、丹下健三の香川県庁舎、大高正人の坂出人工都市を見て周り、目指していた瀬戸内海歴史民俗資料館にはついに立ち寄れず、宿に着いたのは雨の降り始めた8時を回っていた。金刀比羅まいりは明日の早朝にした。

なんたってまずうまい物を食いたい。ビールをぐっとやって、味わいのある地酒をちびちびと飲みたい。そして金倉川沿いに「小染」をみつけた。

旅には出会いがある。僕達の旅は建築三昧で心をうたれた建築にも出会ったけれど、今ほのぼのと思い出されるのは「小染」の親爺とひっそりと親爺さんを支える奥さんの笑顔だ。
もらった名刺にも「魚と地酒の店」と書いてあるが、魚がうまい。
カワハギの刺身と肝、思わず藤本さんと目をあわせて溜め息をついてしまった。関鯵もいい。親爺も奥さんも寡黙だが、僕達の様子を見て嬉しそうだ。
「司牡丹・船中八策」や「芳水」というお酒もいい。まずかろうはずがない。
話のやり取りが始まった。

金丸座に歌舞伎は知られているが1年に一度しか行われず、その間は閉じているという。内子座のことを思い出した。

僕が四国へ来たのはたったの3回だがそのどれも印象が深い。
1995年、高知へ幕末の絵師「絵金」の屏風を見に来て撮影をした。土佐出身の大学の先輩が芸術祭参加の「土佐草子血染薫的」という講談家宝井琴調さんを起用して行う「絵金」を題材とした芝居のための写真を撮ったのだ。僕の写真はポスターやパンフレットに使われた。

2度目は2000年のJIA内子の大会。内子座で行われた大会でゲストとして招いた作家「早坂暁」さんの基調講演を思い出す。
歳をとり夫婦で四十八箇所巡礼した知人の逸話だ。厳しい階段を上る時、手をとっても振り返ってもくれない夫になんて薄情な人だと恨みつらみ一段ずつ石段を登ってやっと本堂にたどり着いた時、夫の息も絶え絶えの様を見て、この人も妻にかまう余裕もなく必死に登ってきたのだと愕然とし、それが一緒に生きていくことなのだと悟ったという話だ。
酒の肴にはいい話だとおもわない!

僕は刺身をつくってくれた親爺とそっと見守っている奥さんを見て早坂さんの話を思い出したのだ。
でもこのエピソードを語りながら「わが身を思う」とは我が妻君には言い難い。言い難いことには藤本さんも同感、それが男の酒だ(苦笑)。

早坂さんの話は「生かされている」ということになっていくのだが、それには違和感がある。「生かされてされている」、それは不遜だ。バイク事故で若くして亡くなった友人や、戦火で亡くなった人を思うとき、僕はいってはいけない言葉だと思うのだ。それは別の機会に書くことにしよう。

翌朝の雨の中の785段の石段。息も絶え絶え、大変だった。

<写真・了解を得たので「小染」のご夫婦を掲載する>