日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

東北巡りのその前に:女川と石巻

2015-04-19 14:31:55 | 東北考

東北へ向かう前日、伊勢原の東海大学病院で、前立腺癌摘出手術後の定期検査を受けてから新宿の事務所に行った。山梨県で工事をしている仕事の、現地で打ち合わせをしてきた宮川君から、翌週行う検査機関とクライアントによる竣工検査の日程、現場確認などをするためだ。

そしてまた、右手人差し指のばね指(指の腱鞘炎)の具合がよくなく、2月24日に腱鞘切開手術、3月11日に抜糸をしたが、その余波のような痛みを伴っての今年の東北巡りになった。2年前に写真家小岩勉さんの車で案内してもらい、女川、石巻、気仙沼の3・11、2年後の被災地の様相をただ受け留めてきた。

今年は、東京女子大を退任して東北大学に赴任された哲学者森一郎教授をお誘いして小岩さんに紹介、何が出来るということでもないが、気に掛かる被災から4年後の女川と石巻のまちの姿を、今年も小岩さんに車で案内戴き、確認したいと思ってのことだ。

小岩さんは「女川海ものがたり」という23年前になる女川の人々の生活を捉えた著作を著した写真家である。その著作の帯には、「人」のまち、「漁師」のまち、そして「原発」のあるまち、その「日常」、その「素顔」と記されている。もう一つの箱に入れたその装丁に魅せられる、小岩写真ノート「野守の鏡」(nomorinokagami)は三冊のハードカバー、モノクロによる写真集、その3冊には「茫漠な時間」「植物と人間」「寡黙な関係」と名打たれている。

森教授の、3・11以降の哲学の可能性と副題のある「死を越えるもの」(東京大学出版会)は、必ずしも読み取れ得ないことを自認するが、何かを感じ取るとページをめくる僕の座右の書。実は「あとがきー原子力時代の子どもたちー」に登場するピンク・フロイドの「原始心母」論考にも惹かれたのだ。車中で昨年末に発売されたピンク・フロイドの最終章と言われるアルバム(CD)「永遠」について話が弾んだ。森教授は無論、小岩さんも黙ってはいられなくなる。

そして小岩さんは、女川の仮設住宅に住む知人からの要請があって´女川海ものがたり´の新しくプリントした写真を届けた。知人は写真展示をするようだ。

女川の漁港、そして急遽作られた船の着く桟橋を見、トラックが行き交っていて小山になっていく土盛りの台地と、何故か温泉を併設した新設なった女川駅、その釈然としない形状に言葉が出なくなる。
土手構築作業は淡々と進んでいるようだが、草原になっている石巻の被災地を車を留めて歩く。そして仙台に戻って僕の泊まるホテルに近い飲み屋で酒を酌み交わしながらの話は尽きなかった。

そして、翌日から山形、郡山と巡ってその地を率いる建築家のつくった建築を拝見してその軌跡をお聞きした。

<写真 女川港を望む>

東北へ:山形と宮城、福島の郡山へ

2015-04-13 22:44:24 | 東北考

明日の朝から3泊4日で東北へ出かける。
山形の建築家「本間利雄」さんと、福島・郡山の「清水公夫」さんに、建ててきた建築を案内していただき、培ってきた建築家として、人としての軌跡を・・捉えたい。明日はその前に、森一郎東北大学教授(哲学)と共に、仙台の写真家小岩勉さんの車に同乗し、女川や石巻を巡る。そして夕刻には仙台で酒を酌み交わす。写真を撮るので天候が気になるが、それもまた一期一会。

<写真 2012年9月21日 女川にて>

2015年初春の沖縄を(7) 沖縄の!

2015-04-11 16:47:38 | 沖縄考

桜が散り始めた。「初春の沖縄」の項は季節が巡り本項で閉じることにする。
さて!と思ってPCを開く。今日は休日(土曜日)、僕の悪い癖だが同時にTVのスイッチを入れてしまう。
そしたら・・・

ヤンキースタジアムでのレッドソックスとヤンキースの試合が、延長16回に入った。伝統のライバル対決、意地もあり負けられないと 「眠っていた役者オルティズ」(アナウンサーの至言)がホームランを打った。通算467本、大打者である。
現地は午前一時も間近、ところがその裏ヤンキースのカシハラの一発がスタンドに飛び込んだ。こんなこと言うと不謹慎だと叱られそうですがお腹空きましたね!とアナウンサーが苦笑いし、解説者の与田氏が頷く様が伝わってくる。
観衆はパラパラになったとは言え、拍手も歓声も賑やかだ。延長17回に入った。現地時間真夜中の1時17分。
沖縄の稿、この項で〆たいと思っているが、何となく意地でもチャンネルを変えないことにする。敬意を表して!

さて、翁長知事と菅官房長官との4月5日の会談で、普天間基地の危険状態を述べた菅氏の「・・粛々と工事を進める」の一言が民意を顧みない上からの目線だと猛反発を受け、即取り消す。しかし翌日、阿部総理は意にも介さず「粛々・・・」と述べる。この発言も翌日取り消すとしたが沖縄の人の心根など意にも返さないと宣言したということなのだろう。

名護市長選で、立候補した自民党議員が当選すれば基地を受け入れて再編交付金260億円を受け取る(と内諾!を得ている)と力説、敗退するとそんな話しはなかったことになる。
さてさて、ウチナンチューに普天間の危機を説く官房長官の姿は笑止。デモをし、座り込むのは内地の人間だという論調をする人のいることも心に留め置く。そして、それがなんだっていうのだ!と言っておく。

ところで延長19回。紆余曲折があってレッドソックスが一点を要れ午前2時13分(NY時間)試合終了。試合時間は7時間4分の長丁場だった。

<写真 ANAの窓から>


伊勢原の「豆穂」でハードリカーを味わい喜ぶ

2015-04-04 21:12:17 | 愛しいもの

きっかけは一週間ほど前にこのブログで書いた「ニッカの樽」、そのコメントでのやり取りだった。
ニッカの「竹鶴」は高価で手が出ないので、安価になった嘗ての高嶺の花「ジョニ黒」を味わっているとの一文への返信。若き(と言ってもそれなりの歳・笑)朋友南野さんから、久し振りに「豆穂」で一杯やりましょうと言うメッセージである。

ドアを開けてアッと思った。
1年か1年半ほど前に、南野さんに連れられて来たことのある店。そしてハードリカー(洋酒)に真摯なマスターを懐かしく思い出した。そして、ハードリカーというマスターのコレクション・こだわりが、ISLAY(アイレイ)だということに気がついた。
ボウモアでもラフロイグでもボトルを見ると、時折手に入れて僕が味わうものとちょっと違う。ラベルが違う。普通のルートでは手に入らない希少なボトル。常連の南野さんがため息をついている。

僕がはじめて見るIchiro`sMalt、「秩父」という国産ブランドがある。
製品が少ないので普通では手に入らない。呑んでみようということになった。それがまたなんとも味わい深いのだ。バックグランドミュージックをJAZZにしてもらった。アイレイとJAZZ、マスターの微笑み、僕たちが喜ぶことを喜ぶそういうマスターを見て僕たち二人もまた喜ぶ。

<写真豆穂にて・マスターから写真掲載のOKをもらいました>

2015年初春の沖縄を(6) 大嶺實清氏の造形と聖クララ教会を考える

2015-04-02 14:02:43 | 自然
今年の訪沖も昨年と同じく、2月11日(建国記念日)の夕刻に行われた「聖クララ教会」でのコンサートを聴くために日程を組んだ。そして前日の早朝沖縄に向かった。コンサートでは例年と同じく一言挨拶を頼まれたが、僕自身この建築の見方が少し変わったことに気が付き、そのことを簡単に挨拶に盛り込んだ。
見方が変わったのは地に根付いて建築に取り組んでいる建築家赤嶺和雄さんに会い、自宅を拝見し、沖縄料理をご馳走になって一杯やりながら国場幸房さんや根路銘さん共々沖縄を語り合ったからなのかもしれない。

ところで2日目の午前中に読谷に向かい、大嶺實清さんのアトリエ(工房)に立ち寄って、念願の茶碗をきめていただいた。2014年10月、ほぼ1月に渡る大嶺實清「無垢の造形展」(於OISTメインキャンパス)に出展されたもの、その時頂いた陶芸展のチラシ自体が作品になっていて見惚れる。
そして根路銘さんと共に大嶺さんご自身の陶芸論(ご自身のスタンス)に聞き惚れた。「僕は利休ではなく織部だ」という論旨。
一つの理念を深く深く追求していくのではなく、次々に新しいことへのトライ(変幻自在・でもそれもまた理念追及には違いないと思うが)なのだ。だから僕の持っている大嶺さんの作品群とも一期一会、次に訪れた時には大嶺さんのギャラリーでも、読谷の販売所でも見ることができない。
僕の沖縄を訪れる喜びと楽しみ・そしてそれは僕自身のこういう感性を、自らが知らず知らずのうちに感じ取ることになるのだと、改めて実感 。

コンサートの前に、2つの取材を受けた。琉球TVと新聞社だった。
新聞社からは、「この教会の中で一番好きな場所!」というもので、TV局のは「この教会の建築としての魅力」。ところがそのどちらも取材者側の期待に添えるものにならなかった。
名刺の交換もなしにいきなりカメラが回り始めた、というのは初めての事。
一月半が経って振り返ると、新聞社の女性記者からの質問には、「会堂に向かう入口(教会の中での位置付けは裏口)の右手にある中庭との間の花ブロックを見ながらの少し上り坂になっている通路」(写真参照)と答えればよかったと思う。

ところがその前のTVの女性取材者のスタンスが、「新しい時代を築いたこの建築魅力を沖縄の人に伝えたい」と考えた設計者の理念を述べさせたがっていて、今思うとそれは当然なのだけど、今年の沖縄での僕の建築家としてこの建築に対する素朴な思いに冷や水を浴びられたようなことになってしまった。
前日に、沖縄のこの地に根付いて仕事をしている赤嶺さんに会い、午前中に大嶺實清さんとやり取りした。それが僕の中にこびりついていたのかもしれない。

聖クララ教会を設計した建築家片岡献は、米軍キャンプでの通訳をしながらこの沖縄の風土を実体験し、猛烈な台風や乾季での水不足が気になって、この形がごく自然に生み出されたものだという考えが僕の中に張り付いた。
質問者が引き出したいコトバ、時代を先取りした建築とは言い難くなってしまった。中庭をつくったのも台風対処。つくったのではなく生み出された建築!
僕はそんなことを述べたが、放映されたのはこの辺りの僕の論旨は全てカット、その前に、既に修道女にも取材がなされていたことも知らず(とてもいいメッセージだったが)その夕刻放映された番組を、親しい建築家と一杯やりながら見ていて苦笑したものだ。これは単に僕のぼやきだ。お粗末!

<写真 会堂への通路>