日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

村野藤吾の「米子市公会堂」の保存・改修・活用が決まった。

2010-12-25 23:13:06 | 建築・風景
 
建築家村野藤吾が設計し、1958年(昭和33年)に鳥取県米子市の中心市街地角盤町に建った「米子市公会堂」が、昨12月24日の市議会で、44000人あまりの署名を添付した「米子市公会堂の存続と早期改修を求める陳情」を採択して存続が決まった。

今年の1月に行われた耐震診断の結果1s値(構造耐震判定指標)が異様に低く算定され、震度6程度の地震で倒壊すると報告され現在は使用が停止されている。しかし2000年10月6日に起こった鳥取県西部地震で米子市は震度5強が記録されたものの、この公会堂の被害がほとんどなかったことから、鳥取の建築関係者や市民から耐震診断の再検証を望む声も出ていた。

日本各地の地方都市はなぜか何処も財政難、米子市もこの公会堂を取り壊しても、1127席あるこの公会堂と同等の建設は難しく、存続をめぐって様々な論議がなされてきた。この公会堂はまちの活性化と文化活動の拠点として大きな役割を果たしてきたからだ。
米子市には文化ホール(672席)や淀江文化センター(558席)、それに2000人を収容できるコンベンションセンターが建てられているが、市民の望む音楽会や演劇の公演の過半に対応し難い。公会堂が使用停止になって、この公会堂での公演が中止されたり市外や県外への移動開催などで混乱している。
そして何よりこの建築は、市民にとっての原風景であると共に、ここで学んで育った市民のアイディンティティ、愛着がこもっている。それは市の行った市民へのアンケートの結果に如実に現れているのだ。

市長は市民の意向を汲み取って、逡巡しながらもこの公会堂は市民にとって欠かすことはできないと判断し、存続の方向で検討したいと12月の市議会の前に表明した。市議会は紛糾したという。改修にはかなりの工事費がかかるからだ。
でも結果として歴史に残る判断をした市長と市議会を高く評価したい。生きることには様々な試練があるが、それを越えた新しい創造行為が始まる喜び(少しは関われたと言えるだろうか?)もある。

僕は米子の建築家、JIA中国支部に所属している来間さんから相談を受けて、23日に文化ホールで行われた日本建築学会中国支部が主催する、保存のあり方を論議するシンポジウムにパネリストとして参加した。議会結審の前日という不思議な、微妙なタイミングになったが、沢山の市民と共に、多くの議員さんや市の職員が会場に来てくださった。

コーディネーターは、稲田祐二(国立米子高専教授)、基調講演、河東義之(小山高専名誉教授)、パネリスト、野田邦弘(鳥取大学教授)、小谷幸久(米子市文化協議会副会長)各氏に僕、総合司会は藤木竜也米子高専助教。

僕の話したテーマ(提言)は「米子市公会堂の存続・活用に向けてのシステムを考える」。
ほんの少しだが出会いのあった村野藤吾という建築家の一側面や、関わってきた幾つかの事例を紹介しながら、市は通常の仕組みに沿って耐震の検討を行ってきたものの、鳥取西部地震時の被害の再検証が必要だと述べた。この地震は公会堂に対して振動実験をやったようなものだからである。
そして、このホール(公会堂)のような特殊な建築は、現行耐震改修のマニュアルでは解けないこともあると考えるので、造詣が深く数多くの実績を持つ構造の研究者(設計者)と、村野藤吾という建築家のつくった建築の魅力の継承(オーセンティシティ・原初性)を検証できるメンバー(例えば建築家や近代建築歴史の研究者など)など、そして市民の意向を汲みとめる人々によって構成される市長(市)による「諮問委員会設置」の提言をした。再検証によって費用削減の可能性もある。

僕が特に伝えたかったのは、保存改修は、過去と現在と未来を見据える「新しい価値観による創造行為」、つまり先達の価値を継承して新しい価値観を生み出し、現在の技術や産業形態を組み込みながらつくり上げるものだということだ。単に安全であればいいというものではない。

今日の東京は快晴。米子は雪だろうか?
一泊二日で訪問した米子、さらに松江で本物の出雲蕎麦をご馳走になり(僕の蕎麦感が変わった)、菊竹清訓の設計した「出雲大社庁の舎」や同じ菊竹さんの松江の「図書館」、槇文彦の「島根県立歴史博物館」、伊東豊雄の図書館を見学し、泊った「東光園」(菊竹清訓)という心が打たれた建築群、そして何よりも、人に優しく柔らかいながらも凛とした村野藤吾の「米子市公会堂」を見せてもらったこと。前庭(広場)があり、市街地の中にホッとする場所のあることが人々の生活を豊かにしているのではないかとも思った。
さらに建築を愛する多くの人たちとの出会いは、いつものことながら掛け替えのない旅(と言っていいのかなあ!シンポジウムのために行ったのだった)になった。
そして最近考えることの多い「場所と建築」。学ぶものも多かった。

イザイホーを撮った比嘉康雄(NHK日曜美術館)

2010-12-19 12:00:16 | 沖縄考

先週のNHK日曜美術館「沖縄 母たちの神~写真家比嘉康雄」を見ていて、あっと思った。動きを撮っても静謐なと言いたくなる比嘉康雄のモノクロ写真の合間に、祭祀イザイホーの映像が映し出されたからだ。祭祀をつかさどる神女となる久高島の女たちの動きは思いがけず軽やかで、僕がずっと描いていたイメージが覆された。

斎場御嶽(セイファーウタキ)から見る久高島は神の島。島の女性はニライカナイからもたらされた火をつかさどる役を担い、首里王朝とのむすびつきも深かった。でも12年に一度行われてきたこのイザイホーは1978年に行われた後、過疎化と指導する神役の不在などの理由で中止されている。

沖縄読谷に住み込んで調査と研究に没頭している明大後期博士課程に在籍しているN君に、このテレビ番組を見たかと電話した。見てないと一瞬口ごもった彼は、来年の1月10日まで沖縄県立博物館・美術館で行われている比嘉康雄展「母たちの神」展のシンポジウム(12月5日)で、放映された映像(映画)を見ていて、話が弾んだ。聞くに、多分同じ時に撮られた映像だ。

N君の研究テーマは、米軍基地で分断されている読谷(よみたん)の、それでも琉球時代から築かれているコミュニティ(たとえば御嶽に滞留する神霊を中心としたシステムという言い方も出来るかもしれないが、それだけでは多分捉えきれないのだろうと僕は思う)の検証である。
ウチナンチュー(沖縄生まれ・沖縄人)に同胞として認められなくては得られない、又ウチナーグチ(沖縄語)でなくては理解し得ない伝承を聴き取るためには時間が必要だ。かれは写真家比嘉豊光さんとの縁ができて、読谷のアメリカハウスに住み込んで既に3年にもなる。 
研究者って凄いと彼と話していていつも溜息が出、生活できるの?なんてついつい聞いてしまうが、まあ何とかなっているようだ。

さてこのTV番組を見ながらふと思ったのは、何故僕が「イザイホー」に魅かれるのかという自問である。イザイホーだけでなく宮古の「ウヤガン」にも惹かれ、この祭祀の行われる狩俣の名を聞くと、明大文化人類学の院生や渡邊欣雄先生と訪ねたこの地の様が浮かんできて胸が騒ぐし、沢山ある聖地・御嶽を望む度に結界を感じて身を正すことになるのは何故だろう。自問はおこるがなかなか自答が出来ない。

ところでこの「沖縄 母たちの神~写真家比嘉康雄」は今夜(12月19日)8時からの日曜美術館で再放送される。比嘉康雄さんは2000年62歳で亡くなった。一度お会いしたかった。

<写真(比嘉康雄撮影) 琉球弧 女たちの祭り(朝日新聞社) 神々の古層3(ニライ社)より>      

野風増(やふうぞう)  ―小学生という時(1)―

2010-12-12 11:30:37 | 小、中、高、大という時

「野風増~お前が20才になったら~」という河島英五が慈しむように、そして心の中で叫ぶように唄うフォークソングがある。
お前が20才になったら酒場で二人で飲みたいものだ。2番は、お前が20才になったら女の話で飲みたいものだ。3番は、お前が20才になったら旅に出るのもいいじゃないか、とはじまってそれぞれに「いいか男は 生意気ぐらいが丁度いい いいか男は 大きな夢を持て 野風増 野風増 夢を持て~」と続けて想いを込める。

繰り返し聞きながら、僕という長男が生まれて喜んだ父にも、どこかに同じ思いがあったのだろうと思った。20才になった息子と酒を酌み交わしたい! しかし既にその当時不穏な空気が日本を被っていた。
終戦の2ヶ月前にフィリピンで戦死して父の想いは叶えられなかったがそれから幾年、僕は女の子を授かって父親になったが、現在(いま)娘(妻君も一緒に)と酒場で飲むのが何よりの楽しみだ。そして`生意気ぐらいがいい`といわれるとちょっと困るが、幾つになっても`大きな夢を持て`と娘に言いたい(そんなに気張らなくもいいよともいってやりたいのだけど)のである。

ところで吉行淳之介に「やややのはなし」という大人っぽい粋なエッセイを集めた文庫本がある。(1995年、単行本は1992年文藝春秋刊)
僕は今、改めて氏の様々なエッセイ読み始めていて吉行淳之介にぞっこんなのだが、このなかに「子供の時間」という幼稚園や小学生の頃(吉行は1924年生まれ)、つまり昭和の一桁の頃の町の様子や大人と子供のやり取りなどのとりとめもないエピソードを作品にしてしまった含蓄に富んだ数編が掲載されている。統一したテーマがあるわけでもないのに、その時代や人とはナンだ!とチクチクと僕の心が突っつかれるのだ。

さてと思った。僕には「生きること」という、父と母が、僕が生まれた時からのことを書いた育児日誌を題材にしたエッセイがあってこのブログに記載したが、`子供の時間` 的に、時折僕も子供のときのことを書いてみたいと思う。少し欲張って、―小学生という時―、―中学生という時―、―大学生という時―、そして卒業したころ、ということになるのだろうか。

吉行の「子供の時間」の冒頭エッセイのタイトルは `時間をさかのぼる` である。
過去に思いを寄せてもノスタルジックにならず、現在(いま)を見据えているのは流石だ。
過去があって現在があるのだが、現在を見据えてなどと意気込まず、取り留めなく過去を書いてみるのも面白いかもしれないと僕は「やややのはなし」を読んで感じ入った。
そして、父がフィリピン、ルソン島のモンタルバンで、亡くなる前に、僕たちに想いを馳せて一度は僕や弟という息子と一杯やりたかったと、ふっと東方の日本に目を向けたに違いないと、どこかに書いてみたかったのである。
人に聞く父の姿からは、出征して生まれた姿を見たことがなかった妹や母がニコニコと笑っている中で酒を、ということになりそうだが、父は明治生まれで僕は長男だから相手はやはり僕、だが先に没した弟と既にどこかで一杯やっているかもしれない、人には現在しかないが、ふっとそんな気がすることもあるのである。

<写真、父が生きていたら102歳になるのでそれは到底無理だが、まあそれでも一緒に飲むと楽しそうな極上の酒、出来立ての佐渡の加藤酒造店「金鶴」活性にごり酒。酵母が生きたままなので口をあけると早く飲みきらないといけないが、一升もある。一人ではねえ!と思って口をあけるのをためらっている>

やんちゃな神様

2010-12-05 12:00:49 | 愛しいもの

益子の骨董屋さんから、神様がお越しなされた。煤まみれで一見表情が読み取れないが、地の微かな朱色とともに、眼を吊り上げながらも大きく結んだ口元に、覗き込んでいる僕が思わずにやりとしてしまうやんちゃな笑みが浮かんでいる。どうだい!元気か?といわれいているようだ。
台座に座しておわすが、真ん中に突起があって組んだ足指が出ているようでもあり、おちんちんにも見えてしまう。さてこの御方は神様なのだろうか。骨董屋のおやじに問うたら、さーて!、さらにいつからこの店にいたのかと首を捻っている。
でも僕はこの像が好きだ。僕と相身互い、神様の友達が出来た。