日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

旅 トルコ(2) アジアとヨーロッパの架け橋

2006-10-30 21:13:15 | 旅 トルコ

イスタンブールは黒海とマルマラ海を結ぶボスポラス海峡によってアジアとヨーロッパに分かれる。この都市はアジアとヨーロッパの架け橋なのだ。
そしてヨーロッパ側には、オリエント急行の終着駅スイシエル駅やトプカピ宮殿、イエニ・ジャーミイ、ブルーモスク、ギリシャ正教の総本山からイスラム寺院に姿
を変えたアナソフィア、その周辺に生まれたバザールなどが密集した観光客で溢れる旧市街と、僕の泊まったペラパレスホテルのあるビジネスの中心地でおしゃれな今風のショップの並ぶ新市街とは、ボスポラス海峡の入り込んだ金角湾で二分され、アタテユルク橋とトラム(路面電車)に乗ったり歩いて何度も渡ったガラタ橋で結ばれている。

そしてそのいずれもが魅力的だ。
旧市街のガラタ橋の辺りを、フィッシャーマンズワーフといって良いかもしれない。フェリーの発着場が幾つもあり、屋台が出て人が溢れ、振り返ると大きなジャーミー(モスク)が幾つも見える。
金角湾の向かい側は小高い丘の中腹にガラタ塔が屹立して新市街のランドマークになっている。
この街イスタンブールは、西欧の優越感を現すオリエンタリズムを感じさせない。土地に根付いたイスラム文化に溢れているからだ。街が生きている。

トルコへ行こうと思い立ったのは、DOCOMOMOの世界会議がイスタンブールと首都アンカラで行われたからだ。
DOCOMOMO Japanが2008年度の大会誘致の立候補を決め、鈴木博之代表によってプロポーザルをすることになった時、この国際会議に僕の好奇心が張り付いた。英語が駄目なのに。会議は英語で行われるのだ。
でもふと大会に参加しようかと思った途端、なんとなく怪しげなイスタンブールに行きたくなってしまった。カッパドギアにも。
「好奇心」これなくして吾が人生なし。どこかで聞いたような文言だが僕の場合はそれに野次馬根性がくっついてくる。ちょっと軽薄な、刹那的ではあるのだけれど。

ペラパレスでバイキング式の朝食を食べ、ヨーグルトが美味いねえと言いながらコーヒーを飲んだら、ではと皆いなくなってしまった。
渡邊さんと山名さんは一足先に会議の行われるアンカラに行くと言う。篠田夫妻はホテルを替えるのでと、夕食を一緒に食べることにしたらあっという間に消えた。

<写真 金角湾から望む新市街 中央にガラタ塔>






生きること(18)  「吾が児の生立ち」最後の記述

2006-10-26 23:52:05 | 生きること
 
『六月十三日。お母ちゃま、紘一郎、庸介、敬子の四人は、阿佐ヶ谷のおばちゃま、アパートのおじちゃまに送っていただいて、長崎にきました。
これから長崎での生活が始まります。みんな元気に育ってくださいね。』

東京から長崎まで汽車で24時間では着かなかった。長崎の駅のホームは屋根がなく、ぐにゃりと曲がった鉄骨がむき出しのままだった。
祖父に引き取られた僕たち四人は、原爆の投下後まだ10ヶ月しか経ってない街に来たのだ。諏訪神社の近くの父の実家はその山にさえぎられて直接の被害は受けなかったが、ケロイドの刻印された瓦が屋根にあった。

食べるのにさえ困るときに長男とはいえ、戦死した息子の家族を引き取とる厳しさが祖父にはあったと思う。僕たちはそこで生活する辛さを味わうことになるのだが、60年を経た今でもまだその様子は書けない。
小学校一年生の僕がほんの少しだが大人の世界を垣間見た数ヶ月だった。

実家は中庭のある、間口がさほどなく奥の深い町屋風の作りだが,傷みはひどくなったものの今でもほとんどそのままの状態で建っている。中庭に面して大きな仏壇のある座敷や、そこに掛かっている額などが即在に頭に浮かぶ。家族と離れ、長崎中学に入学して約1年ここで生活したので懐かしさと共に,愛おしさも覚える家だ。しかしこの家の存続にも難しい問題がある。

<天草 下田へ>
その年、昭和21年の11月、僕たち家族は長崎から熊本県天草郡の西海岸、下田村に移住した。
祖父が陶石採掘事業をやっており、母はその管理や事務処理を担うことになる。同時に採掘した陶石を船に積む管理をやりながら作業も手伝った。潮の満ち干にもよるのだろうが、僕の記憶では、早朝まだ薄暗いうちから川の河口に着けた船にゆらゆら揺れる足場板を渡して猫車で船に積み込むのだ。150センチにも満たない小さな母が、良くそういう作業に耐えたとおもう。母は若かったのだ。
明け方に作業をやるのは、皆昼間は農作業があるからだろう。下田の人にとっては貴重な現金収入の機会だったのかもしれない。

そうやって母は難しい天草弁の下田の人々に、少しづつ受け入れられるようになったのだと思う。

坑道の奥にある採掘場では、カンテラで明かりを取り、爆薬を仕掛けて石を掘り出す。その爆薬管理も母が行うことになる。家の目の前の頂上まで段々畑のある丸い山の人目につかない一角にその爆薬庫があった。僕たち子供には立ち寄り難い場所だった。

天草陶石は品質が良く、高級陶器の材料としての評価は今でも高い。
村の中心部に日本陶器の出先があった。ぼくの祖父とは違う形態で陶石事業に関わっていたのだとおもう。そこの子息井上君が僕の同級生だった。背が高く足も速く、成績は抜群だった。彼は理系で音楽や絵が苦手、僕とは正反対だったが仲良くなった。と言うより僕たちの学年(クラス)はとても仲が良かった。

僕の家にはクラスの男の子がよく遊びに来た。でも井上君は一度も来た事がない。そして彼の家には敷居が高くて立ち寄りがたかった。その彼は後年九州大学の教授になったと聞いたことがある。気になってインターネットで調べてみたが名前が出てこない。さてどうしているのだろう。
男性12名の小さなクラスだった。何十年経っても忘れがたい一人一人が個性豊かな子供集団だったのだ。12名のうち3名が床屋になった。
末吉君は今でも下田で開業しているし、大阪で店を開いている二人のうち、西条君は嘗て技術を競う全国のコンクールで優勝したことがある。

なにより先生に恵まれた。いわゆる代用教員だったかもしれないのだが教育に対する志があった。いやそういう言い方ではなく、子供が可愛くて一緒にいることの楽しさを自然に受け止めていたような気がする。

半農半漁の平地の少ない小さな村だが村の真ん中を下津深江川が流れ、温泉が出たし、温泉祭というお祭りもあった。夏には部落対抗のペーロン、沖縄で言うハーリーも行われた。信じられないくらい貧しかったが、やはり新しい時代を切り開く気概が先生にもあったし村にもあった。戦争には負けたが開放感に満ちていた。

この『十一月二十四日。船に乗って、おじいちゃまにつれられて、私たち四人、天草の下田に来ました。下田はお芋の多い所で、毎日毎日お芋をたべています。』

『十二月二日。下田国民学校に入学する。
一年生は三十五人。小さい学校だ。
けれど、高いところに建っていて、けしきはよい』

『吾が児の生立ち』の母の記述はこれが最後だ。
この小学校時代に今の僕の原点がある。天草で僕の「生きること」が始まった。


<写真 「吾が児の生立ち」の表紙>

旅 トルコ(1) イスタンブールへ

2006-10-21 18:54:18 | 旅 トルコ

飛行機が1時間ほど遅れ、朝の6時にイスタンブール・アタチュルク国際空港に着いた。
空港の両替所で一万円をトルコリラ(イエー・テー・レー)に換える。昨年の1月1日デノミが実施され、まだ1年と9ヶ月しかたっていないのにすっかり定着したようだ。デノミといわれても実感がないが、DOCOMOMO世界会議プロポーザルの後、一杯やった飲み屋で、鈴木博之教授が、この前トルコに来たときにあまった一万リラほどの札束を出して、これでホテルに一泊できるかもしれないと思ったら、なんと300円だと言われてがっくり来たと僕たちを笑わせたが、それがデノミなのだとなんとなく判ったような気がした。
ガイドブックにもデノミの記載があり、ユーロや米ドルが何処でも通用すると書かれているが、実は新リラ、イエー・テー・レーのほうがずっと使いやすい。

僕は外国に行くと市場やコンビニと共に、必ず現代美術館に行く。今の新しいその国の状況や人々の生活がわかるからだ。その楽しみのために旅をするようなものだ。

その現代美術館では、ユーロもドルも使えなかった。まあそれだけでなく、街中の屋台や観光客のほとんど行かない場所の小さな店を覗いたり、食べたり買ったりするのが楽しみなのだが、そこでは地元の人の使う通貨しか使えないのは考えればあたり前のことだ。それだけでなくタクシーをはじめとしたほとんど総ての乗り物が、イエー・テー・レーでないと使えない。国際都市とはいえそれも当前のことだ。
何故こんなことにこだわって書くかというと、日本では円をイエー・テー・レーに両替できない。わざわざ換金して持っていったユーロは一向に減らないのに、イエー・テー・レーがすぐなくなってしまうからだ。旅の初日、まだ旅感が戻らない。

アガサ・クリステイは旧市街にある終着駅シルケジでオリエント急行を降りると、金角湾をフェリーで渡り(今はガラタ橋が架かっている)、ホテル「ペラパレス」に逗留したという。
僕はタクシーで水道橋をくぐり、次々と現れるジャーミイ(モスク)をきょろきょろ見ながら、その「ペラパレス」に向かう。
7時半に先行した建築家篠田夫妻や渡邊さん(東海大助教授)、山名さん(理科大助教授)と一緒に朝飯を食うのだ。そしてここに泊まる。

旅にはハプニングが付き物だが、今回はなんと同行するはずだった藤本さんがこられなくなったという。それも羽田空港で約束の時間の15分前についたので、いる場所を携帯で伝えたら「いやねえ!」とあせっていて、そして困惑した声が伝わってきて、結局はトルコへ行けなかった。

一人旅。
僕も何回も外国に行っているが考えてみると一人旅は初めて。スケジュールは総て英語のわかる彼が組んでくれ、僕はただ付いていくつもりだったののに。彼は多分何にもわからないだろう僕を心配してくれ、ホテルでのバウチャー(利用券、これを出さないとホテル代の二重払いをする羽目になりかねない)提出のことや、トルコ航空のリコンファームが出来るかと、携帯電話で何度も念を押してくれる。

彼に総てを委ねたのには訳があって、数年前JIA(日本建築家協会)の大会で沖縄に一緒に行ったときの彼の感性や、面白いところを見つけ出す天性にすっかり惚れこんでいたからだ。
DOCOMOMOに選定した「聖クララ教会」は、彼に良い教会があると連れて行かれた途端、これだ!とアドレナリンが沸き起こり、写真を撮って委員会でプレゼンして選んだ。彼がいなかったら選べなかったかも知れない。彼に任せておけば総てうまくいく、と横着をするつもりだったのだ。

さて困った。いやなんとも心細いが仕方がない。飛行機の中であわててスケジュールを確認し、ガイドブックをめくって何処に行こうかと考え始めた。
でも考えてみると、僕の外国の旅は実は何時も一人になってしまう。写真を撮るので歩くペースが合わない。興味の対象も違う。結局晩飯を一緒に食う場所を決めての一人旅になるのだ。ずいぶん前のことになるが、10名を引き連れて行ったNYとワシントンでは,1対10ということになってしまった。でもここはトルコだからなあ!

僕が一人で来たので、待っていた4人がびっくりした。
タクシーは23イエー・テー・レー、約2100円。一人で飛行機に載り、タクシーにもちゃんと乗りしかも23リラとは(トルコ人はリラといっているようだ)。俺たちが乗ったタクシーより安いじゃあないか、しかしまあ、良くたどり着けたと見直された。格好の話題提供、でも何だか情けない。

<写真 オテル「ペラパレス」>




生きること(17) 一年生になる

2006-10-17 15:57:24 | 生きること

『昭和21年4月13日 千葉県柏国民学校へ入学。出山先生(女)
庸介と敬子も一緒につれて入学式に行く。
紘一郎は新しい金ボタンにお母ちゃまの作った靴をはいてうれしそうだ。お父様がいらしたらね。
始め組み分けがあって(紘一郎は三組に入いる)次に先生につれられ講堂に入り、校長先生のお話があり、お教室に入って先生のお話がある。明日から八時はじまりである。
紘一郎は講堂からお教室に入る時に、お母ちゃまいないと泣いたのよ』

読み返すとちょっと恥ずかしい。弟や妹が一緒なのに情けない。
僕は今は涙もろくなったが、泣き虫だとは思わない。しかし思い起こすことがあるのは僕はシャイだということだ。そう言うと冗談を言うな、という顔をされるが、言い換えれば心細がりやだ。父が早世したからだろうか。

僕はこの入学のことを覚えていない。学校が記憶に残り始めるのは天草の下田小学校に転入してからだ。その間の生活は生々しく記憶に新しいこともあるのだが。
僕は柏小から長崎の勝山小学校に転校し、すぐに天草の下田小学校へ、中学は兼松家の総領息子なので家族と離れて都会の長崎中に入学、祖父が亡くなって下田に戻り、中学2年のときに柏中学に転校した。
この時代僕のように転校する子供も多かったのではないだろうか。

母は父が戦死するなんて思ってもみなかったに違いない。父が生きて帰るぞ、と宣言していたからだ。戦死の報を聞いてもどこかできっと生きているとは思っただろう。同時に心の奥底では死んだことも受け入れただろう。そして子供たちをしっかり育てなくてはいけないと無意識にも考えたと思う。

母はラジオの「訪ね人」を何年も何年も聞いていた。ラジオに聞き入る母の姿が僕のまぶたに焼き付いている。しかし僕は口には出さないが父はもう死んだのにと気になりながらも母の姿を見ながら思っていたような気がする。
子供は残酷だ。すぐに記憶は薄れ今何をするかに眼を奪われる。

父がいなくても小学生になる。母の作った靴をはいて。






愛すべき建築 都城市民会館

2006-10-14 11:21:09 | 建築・風景

『建築家「菊竹清訓」の代表作と言うだけでなく、1960年代の日本を象徴する建築として「都城市民会館」は僕の頭にこびりついている。

僕の手元に「菊竹清訓 作品と手法」という、なんと30数年前の当時6800円もした分厚い作品集が在るが、建築の世界に飛び込んだ若き日、この本を何度めくって建築への夢を馳せたか。
ことに、写真家小山孝の撮影した、見事な山脈を背景にして豊かな街並みの中に突然舞い降りたガメラのようなこの建築の写真は、建築家と言われるようになった今でも僕の脳裏を刺激する。

都城の人々はこの異景にさぞ驚いたと思う。しかし多分今ではこの建築を異景と思う人はいなくなり、都城のランドマーク、愛すべき建築として心のどこかに留まっているに違いない。

都城に行けば、この建築にあえる、この建築を愛する人々ともその想いを分かち合える。
都城を訪れたことのない僕にとっても、青春を呼び起こすこの建築が、いつまでもそこにあってほしい。』

<都城の建築家、市民の声>
宮崎県都城市の建築家ヒラカワさんから,「都城市民会館40周年記念展(mch40)」(10/6-9)に展示する都城市民会館についてのメッセージがほしいと連絡をもらった。上記文章は僕のメッセージだが、トルコ行き直前の要請だったので、このブログを読んでくださっている方々へのお願いが出来なくて残念だった。それでもDOCOMOMOから僕のほか建築家鰺坂さん、東海大学助教授の渡邉さん、其れに工学院大学の初田教授がこの建築へのメッセージを寄稿してくれたようだ。

昨年の9月24日、僕のこのブログでも『取り壊されるかもしれない都城市民会館』と題してこの建築を紹介しながら、保存を望む市民からの声を伝えて僕の想いを書いたが、一年後の今でも地元の建築家や市民はこの建築を何とか残したいものと腐心している。

都城市では、10月の末から12月にかけて各公民館単位で『市民会館に対する住民の意見を聞く会』を行い、年明けに住民からのアンケートをとって最終的な方針を決定することになったとのことだ。

JIA九州支部や地元の建築家、市民が主催した存続を願うシンポジウムがこの夏(7/22)行われたが、DOCOMOMOに要請があって鈴木博之会長が赴き、基調講演を行い、地元の主婦白水さん、宮原さん、菊竹事務所のOB遠藤さん、建築学会四国支部長の多田さんと共に討論に参加した。
ヒラカワさんからはこれから「秋の陣」が始る、とメールが来た。
一時は解体の方針だと報じられたが、この建築を愛する大勢の市民の努力と声が届き始めたのかもしれない。









DOCOMOMO世界会議(2) 次回開催はオランダで

2006-10-11 20:10:29 | 建築・風景

DOCOMOMO2008年世界大会(会議・CONFERENCE)は、DOCOMOMOの発祥の地、オランダで行われることになった。

勢い込んで羽田を出立したものの、様々な出来事のあった、それが又僕にとっては考えることの多い、世界大会(会議)だった。トルコの旅については追々書き記していこうと思うが、僕たちの多少の誤算は、次回大会を日本で開催できなくなったことだ。

INTERNATIONAL DOCOMOMO  CONFERENCEは、2年毎に各国持ち回りで行われることになっており、今年はDOCOMOMO TURKEY(トルコ)が主催しトルコで行われた。
9月25日夕方のイスタンブール現代美術館でのWelcome Partyでスタートし、27日から3日間首都アンカラの工科大学(METU Campus)に会場が移り、主行事が行われた。
市の外れにある緑豊かな広大な敷地を持つMETUは、建築学科のある工学部や人文化学系の学部を持つ国立の大学だ。ホテルで場所を調べてもらい、篠田夫妻(お二人とも建築家)とタクシーで構内に入ったがどこへいって良いのかわからない。
歩き始めたらひょいと渡邊さんに出会った。AAスクールに留学したことのある彼は、イスタンブールの会合にも参加し、ポスターセッションでJapanの活動を報告し、関わった村野藤吾作品のパネル展示でも参加している貴重な国際人だ。

東大の鈴木研で学び、今回鈴木さんが頼りにしたこの大学に留学したことのある若い川本さんが合流してトルコの様子を教えてくれ、会場を案内してくれる。
思いがけず建築雑誌「Ahaus」(アーハウス)の編集にも関わっている森内さんにも会った。青森に居るので日本でもめったに会えないのに。彼もDOCOMOMO Japanの会員なのだ。
倉片さんは素敵なフィアンセと一緒で楽しそうだ。山名さんは発表を控え柄にもなく緊張感でぴりぴりしている。ともかくメンバーがそろった。

27日の夕刻、2時間も遅れてキャンパス内のCCCHall Aで2008年度開催の立候補をした日本とオランダのプロポーザル(プレゼンテーンション)が始まった。その後質疑・意見交換(Debate)が活発に行われた。
鈴木博之Japan代表のPPによるプロポーザルは好評だった。JAPANの提示するテーマは「The Place Of MOMO」

Japan活動紹介で林昌二さんによるパレスサイドビルの見学会の写真を映しながら、ここに集まった人々は、建築家や歴史学者という専門家だけではなく「建築を愛する人たちだ」と述べたら、会場から共感のさざめきと拍手が沸き起こった。「ああDOCOMOMOは建築の好きな人たちの集まりなんだ」と胸が熱くなった。会場が暖かい空気に包まれる。トルコまで来た意味があったと思った。

オランダのプロポーザルのテーマは「THE CHALLENGE OF CHANGE」。
日本でその趣旨を考えたときはピンとこなかったが今はよくわかる。

そのNETHERLANDS(オランダ)の代表は30代の女性で、プレゼンをサポートした男性は26才の大学院生、その後のopening cocktail(パーティ)で名詞を交換し仲良くなった。皆その若さに驚いた。
あなたは何才かと聞かれて、66才だと応えたら彼は思わず頭を振り、お互いにニヤリと笑った。英語であっても年を聞いたり聞かれたりするくらいなら解るのだ。

鈴木教授の落ち着いた見事なプレゼンに対して、オランダのプレゼンは硬かったが、わたしたちはSecond Generation(第2世代)だ、と述べて暖かい拍手を貰う。

アンカラMETUでの初日の会合の終わった後、市の中心地に送ってくれるという主催者の用意してくれたバスで、渡邊さんと山名さんの泊まっているホテルの前で降り、軽く食べながら飲める店を探した。イスラムの国トルコはラマダンに入っており、酒の飲める店を探すのはなかなか難しい。山名さんの言う「心で話すのだ」という身振り手振りによって探し当てたバンドの入っている店で乾杯をした。コーラン風ドラムのリズムに載って立ち上がった山名さんが珍妙に腰を振る。何だか日本に決まったような気がしていたのだ、が。

翌28日の夕方の「General Council Meeting」(各支部の代表による会議)で時期開催国が決まるが、僕は失敬して朝9時のバスでカッパドギア・ギオルメへ向かった。
一泊して帰ってきたら、ホテルに渡邊さんと山名さんが訪ねてくれ、投票の結果次回は僅差でオランダに決まったと告げられた。

国際関係は難しいものだ、とは思ったが考えることは多い。
好評だったプロポーザルの概要をまとめ英訳してくれた大西さんと、PPを鈴木教授と相談しながら構成した桐原さん、これも好評を得たチラシをつくってくれた穂積さんの努力もあったのだが。詳細については大会を整理し時機を見て報告したいが、何より言葉のハンデは大きい。
英語が苦手な僕は、様々な研究集会での英語による発表や、プロポーザルでの意見交換も良く理解できず、それはわかっていたとはいうもののもどかしかった。
若者よ英語を磨け、と言いたい。
とはいえ国際会議に参加すると見えてくるものも多い。様々な研究集会に機会ある毎に参加し、意見を述べ交流していかなくては国際社会で認知されない。コトバだけでなく距離のハンデもあるがそれをつくづくと実感した。
しかし新しい課題にトライする楽しみも得た。DOCOMOMO Japanは、建築家や建築歴史学者が学生や多くの一般市民とともに活動している。それを生かしながら国際社会中での役割を考えていくのだ。

年齢(とし)にめげず次回のオランダでの研究発表に僕もトライしてみるか!誰かに翻訳してもらい、読み上げれば良いのだから。
日向邸に関してタウトと吉田鉄郎について発表したフランス語訛り英語の山名さんより、100選展に関連して作ったDVD(テレビの番組)の英語バージョンの,僕の日本語訛り英語のほうが、ローカリティがあってよいと渡邊さんが冷やかしながらもあおるので。でも質問があると困るなあ。
とはいっても発表するには厳しい審査があり少数しか採択されない。発表は大様に開かれており、DOCOMOMOメンバーでなくても応募できる。実は日本からの一人の発表者が現れず、採択されなかった外国の研究者から指弾された。DOCOMOMO Japanのメンバーではないのだが、これも出来事の一つだ。

韓国からの参加者は3名で、金正新代表や、始めてお会いするソウル大学教授宋先生と握手をする。僕がDOCOMOMO Koreaの設立総会に招かれて行ったときに親しくなったユン先生とはお互いに肩を叩き合う。ユン先生は韓国の近現代建築をレイアウトし、ポスターセッションに出展された。Koreaとの交流も深くなる。
DOCOMOMOの創設者Henket教授とも、にこやかに名刺を交換した。
教授はトルコでの開催とはいえ、今回の影の主役だったのかもしれない。
オランダのテーマ設定を考えるに、そしてClosing Partyは設定されていたThe Netherlands Residence(オランダ大使公館)で行われたのだから。

<写真 プロポーザルの後の質疑応答 意見を述べるヘンケット教授。壇上は右からカッシアート会長、鈴木博之Japan代表、オランダの代表、そのサポーター>



生きること(16) ごうの寅

2006-10-09 12:36:05 | 生きること

母は大正3年(1914)6月4日、`小寺松次郎`と`すみ`の末っ子として三重県四日市で生まれた。ごうの寅の生まれなのよねと時折口に出した。強くないのにね、と言いたいようだ。
長男は後に品川区の明電舎の近くに家を借り、`大崎の`と言われた伯父で、男3人女4人の7人兄弟、次男と三女は早くして亡くなったようだ。
長女はここに書いてきた父の手紙やこの「吾が児の生立」に良く出てくる`阿佐谷`の伯母で、僕の父や母が頼りにした伯母だった。僕はこの母方の祖父の記憶がないが、阿佐ヶ谷の伯母のふっくらした笑顔やゆったりした物腰は良く覚えている。

父(僕にとっては祖父になるのだが)松次郎は、四日市の水道局長など務め、市の水道敷設に貢献したと母の自慢の父だった。太っていてお酒が好きだったと母が言うが、四日市の自宅の庭で撮ったらしい着物を着た松次郎おじいさん夫婦のセピア色になった写真がある。いかにもお酒が好きそうだが、どっしりと貫禄がある。やはり父方の祖父と同じ明治の男だ。
写真を見ていると、改めて僕はこの祖父や祖母の血を引いているのだという不思議な感じがしてくる。僕の娘が「おじいちゃんってかっこいいよね」と仏壇の上に掛けてある長崎に生まれた父の写真をみながら言うのを聞いて、そうだ、僕の父は娘の祖父でもあるのだと不思議な気がしたことを思い出した。

さてもう一つの母の自慢は、自分の母校四日市高女が、全国バレーボール大会で優勝し街中が大騒ぎをして凱旋行列をしたことだ。更に卒業式のとき「右総代兼松千代子」と卒業生を代表して卒業証書を貰ったようで、お酒を飲むとよく「右総代・・・」と嬉しそうに繰り返した。級長もやったようだ。

母は甘いものも好きだが、何時の頃からか晩酌で日本酒を飲むのがなによりの楽しみになった。自分では味はわからないとは言いながら、おじいさんもお酒が好きだったと、嬉しそうに飲んでいるのを見ていると、酒は母の生きがいのひとつだと言いたくなる。飲めなくなった今でもお酒を送ってくださる方がいる。おいしいお酒なのでたいてい僕が飲んじゃうのだけど。

さて母と父がどこで出会い、或いはお見合いをして一緒になったのかよくわからない。聞きそこなった。
一緒に晩酌をやりながら四方山話をするときに出てくるのは、中野に住んでいたとか、千駄ヶ谷にいてよく神宮球場に東京六大学野球を一人で見に行ったことだ。背が小さいので前のほうで観たいのに案内人が上へ上へと指差すので、いつも上のほうから見ることになってしまったと文句を言っていた。お酒を飲むときの定番話だ。

何故末っ子の母が父母の元を離れて一人で東京に出てきたのか本人は口にしない。末子のお嬢さん育ちだった母をよく一人で東京に行かせたものだと思うが、僕たちが`アヤコババア`とよぶ泰伯父の娘、母と仲の良い僕の従姉妹(といっても母の妹と言っても良いくらいの年で僕よりづっと年配)に聞くと、四日市にいたのでは良い人に巡り会えないので東京に出したんじゃないのという。
そして父と出会い僕が生まれた。

「吾が児の生立」十一ヶ月目の記事にこう書いてある。
『十二月二十二日。私たちの結婚記念日。紘一郎をつれて、高円寺へ写真をうつしにゆく』
昭和13年のことだ。式場は目黒雅叙園だったと聞いた。集合写真はないが、二人の立派な記念写真が残っている。二人とも緊張感に満ちている。父と母の生活はこの日からの6年間だった。

<写真 昭和23年僕が3年生、弟が1年生のときの写真だ。母は生活の苦しい中でも、毎年4月1日から3日まで行われた天草下田村の温泉祭のときに家族の写真を撮った。僕は靴をはいているが、弟と妹は藁草履だ。この草履も母が作ったのだろう>

生きること(15) 昭和21年元日

2006-10-05 23:25:12 | 生きること
『元気でおみかんやお餅を沢山食べて、お正月を迎へました。
昭和二十一年一月一日。悲しい悲しい日。長崎からお父ちゃま戦死の電報が来た日。
どうかどうかまちがいであります様に。
紘一郎、かあいそうに、かあいそうにお父様のない子になってしまった。』

母はいつまでも、なにもお正月に電報を打たなくてもいいのにといっていた。

<死亡告知書は6月22日の日付で、祖父のところに来ている。宛名も日付けもない封筒に入っているので、長崎に転居したときに祖父から渡されたのだろう。その半年前の大晦日に祖父のところに戦死の知らせが来たのだと思う。祖父は動転して母のところに電報を打ったのに違いない。祖父にとっても長男に死なれたのだ>

二人の家(1) 地鎮祭

2006-10-03 16:59:19 | 二人の家

「二人の家」と名づけた。二人の家、二人が若くは無く中年なのが良いと思う。中年ご夫妻二人だけの家なのだ。

神主さんが神を呼ぶとさっと陽がさした。頭を垂れていた僕は思わず陽の射した空を仰ぎ見た。雲がほんの微かに薄くなっている。ああ神が宿ったのだと思った。
土地の神を鎮め、土地を使うことの許しを得る。そして工事の安全といい家になることを祈る。神主さんは細かいあらゆることを神にお願いする。祝詞(のりと)を聞きながら、日ごろ不信心の僕達が、この時だけなんでもお願いしていいものかと、いつも申し訳ないような気がするのだが、今朝はなぜか心の中でお願いしますといった。
設計者の僕は,最初に刈り初めとしてエイ、エイ、エイと声を出し鎌で盛った砂にたてた笹を刈る。

神主さんの音頭で土器(かわらけ)でお神酒を頂く。お二人に皆でおめでとうございますと杯を掲げる。ホッとするような、晴れがましいようなひと時だ。
二人の一人、Uさんが私もそう感じたと言った。神宿る。思わず顔を見合わせてにこりとする。

台風13号の余波で秋雨前線が刺激をされる中での地鎮祭で、天気が気になっていた。天気予報では午後からは降るかもしれないという。
昨日運動会だったけど、薄日が射してね、日に焼けちゃったとUさんが笑う、Uさんは小学校の校長先生なのだ。昨日も雨かもしれなかった。雨が降ると地が固まり、なんていって其れも良しとするのだが、陽が差すとは。なんだかいい家になりそうな気がしてきた。良い地鎮祭だ。

朝9時からなのに後でやろうと思っていた地縄が貼られている。建物の位置がわかる。良く張れたねと、工事をやる葛西建設の鈴木さんにいう。早く出てきて張ったが、間に合ってよかったとほっとした様子だ。
図面を見ながら位置を測り、Uさんご夫妻と相談して建築の位置を西に20センチ動かす。レベルをセットして隣地や玄関位置と道路の高さ、それに確認申請時の斜線の確認もして、高さの基準、ベンチマークを決めた。

ここにはU夫人の父親の建てた家が建っていた。何とか改修できないかとも考え相談したが、結局建て替えることになった。
周辺の家が密集しているし、道路が狭くて車が入れられず、手壊しと小運搬で手間取った。時折解体現場を覗いてみたが、猛暑の中で電気鋸で柱を切る職人の噴出す汗を見、解体されていくまださほど傷んでいない木材を見ると、つくることの重さを感じる。

やはり狭いですね、とUさんが、なんだか感心したような口調で言う。
そうなのだ。21.7坪の土地に、2階建て延べ25坪の家を建てる。でも杉板を張った塀を高くし、抱え込むような中庭を作ってウッドデッキを貼り、庭も部屋のようなに見え、そういう使い方のできる楽しい家にするのだ。

<写真撮影 山田さん>