日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

ハゲタカとビル・エバンスの出会い

2006-04-28 10:11:18 | 日々・音楽・BOOK

「出会い」という言い方がある。人や事象と遭遇する、或いは日常の中でふと思いもかけない発見があったりして人生が左右されたりすることがある。でもそんなに大げさなことではなくてもつい「出会い」といいたくなる出会い!があったりする。

真山仁という作家の「ハゲタカ」という小説を読んだ。図書館で何故か手に取ったのだ。何故かが『出会い』ということなのだ、きっと。

ゴールデンイーグルの異名を持つ鷲津政彦と、名門日光ミカドホテルを引き継ぐはめになった松平貴子が主人公になる企業再建を題材をテーマとした、シビアな経済小説である。
ノウハウものが全盛の今、そのノウハウ物の嫌いな僕の、まあいわば経済指南の唖然とするほど臨場感溢れる物語。
僕はこういう本で経済を学んだりするのだが、そこにJAZZピアニスト「ビル・エバンス」が登場する。といっても亡くなったエバンスが出てくるのではなく、エバンスのソロアルバム「アローン」が出てくるのだ。これが物語の重要な役割をなす。

『「ア・タイム・フォー・ラブ」ビル・エバンスの`アローン`の中にあるジョニー・マンデルの曲ですね」鷲津はその声のほうを見上げた。バーの入り口に一人の女性が立っていた』
伏線はあるのだがこれが二人の出会いだ。

ハゲタカとして恐れられる鷲津は20代の頃ニューヨークでピアニストとして一旗揚げようと思っていたが、『ビル・エバンスはマイルス・デイビスとの傑作「カインド・オブ・ブルー」での彼のピアニストとしての異才ぶりは知っていたものの、さほど重要なアーティストではなかった』

「カインド・オブ・ブルー」が出てきて、更にJAZZピアニストをアーティストだと書いている。こういうのに僕はドキッとする。

『長いブランクを経てピアノに向かうときに彼の指が選ぶのは、何故か常に静かな世界観を持つ作品ばかりだった。エバンスの世界を彷徨し、やがて現世に戻ってきた。そばにいた貴子は、涙を浮かべていた。鷲津は再び「アローン」の一曲を弾き始めた。「ネヴァー・レット・ミー・ゴー」偽らざる自分の気持ちでもあった』

さて、これを読んでぐっと来ないエバンスフアンがいるだろうか。
僕はこの一節で真山仁に出会い、更に政治と経済界の裏世界をも垣間見た。小説とはいえ!
というわけでこの日曜日は、布団の中でアローン(一人で聴くためにね)を聴き、エチオピアの豆を挽き、味の濃いモーニング・コーヒーを飲みながらカインド・ブルー「フラメンコ・スケッチ」のエバンスの天から響くソロパートに朝からしびれたのだ。

真山はこのシーンを書きたいという思いだけのために、鷲津をまっとうできなかったJAZZピアニストと設定し、しかもエバンスを心に留めていなかったが結局エバンスに戻ったと描く。そして狂気の廟の日光を舞台にし、タウトを曳き出しながら真山自身の思いを物語に託すのだ。

モダニズム全盛期に建築を志した僕は、学生時代、意匠論の講座で日光を否定し桂離宮賛美の建築教育を受けた。今にして思えば正しくタウトの世界、そういう時代だったのだ。でも親しい建築家Y・Sさんと日光を見たとき、彼はここは正しく廟だといった。意識してもしなくても人は其れが人の心に入り込み、どこかに震撼とした想いをとどめる。そうなのだ。それがこの物語の真髄でもある。

とあえて言うのはこの物語の舞台は結局日光だからだ。

鷲津はこういう言い方をする。「かつて世界中に日本ブームを与えたドイツの著名な建築家ブルーノ・タウトが、ここを見て「建築の堕落だ、しかもその極地である」と吐き捨てたそうだが、君もその口か?」
その答えを鷲津の私的なパートナーでもあるリンにこう言わせる。
「私は彼の『華麗だが退屈だ』を支持するわ。しかしヘル・タウトは大きな間違いをしている。この陽明門は美を追求した建築物じゃない。狂信的権威者が己を神化させるために創り上げた魔宮。だが家康は完成の瞬間からの崩壊を恐れ、未完成な彫刻や間違った逆柱をあえて組み込んだ」
なかなかな解釈ではないか。 さらに・・・

一方の鷲津は「いやそれだけではない。都を興した賢帝の霊廟を都の真北に安置するとその都の鎮守となり都を護り、末永く繁栄する」と己の志を示唆しながら述べるのだ。そしてアメリカの女リンは日本に与した真山から離れる。
無論物語を組み立てるために彼はこの見事な風水論考を組み込んでいるのだが、エバンスにしろ風水思想にしろ作者真山がJAZZと日光を物語に託して一言薀蓄を傾けたかったのに違いない。その出来がよければ読者はニヤリとし、作者はしてやったりとにんまりするのだ。

タウトの旧日向邸が重文になる。
この建築に関わっている僕は,真山のタウトを引っ張り出した適切な解釈・論考にニヤリとして彼の想いに乗ってやる。それも真山とエバンスとの出会いへの僕のささやかな返礼なのだ。こういう楽しみ方があってもいいし、だから僕は真山に出会ったといいたくなるのだ。

真山仁は2004年にダイヤモンド社から発行されたこの「ハゲタカ」がソロデビュー。読売新聞記者を経た1962年生まれのまだ40代。息つく間もないほどのストーリー性に富み、登場人物は立場は違っても自身にプライドを持つまさにプロの世界、経済小説とはいえ良質の冒険小説を読むようだ。分厚い上下巻を一気に読んでしまったが、ほのかな余韻が心に留まる。楽しみな作家が現れた。



白井晟一の闇と光

2006-04-23 18:29:41 | 建築・風景

白井晟一を語るとき、深い闇と抉られる石を想わざるをえない。栗田勇は闇と石の空間を「聖なる空間」と言った。そして人は光を語るが、光は闇なくしてみることはできないともいう。
解体の始まった親和銀行銀座支店の室内を見せてもらいながら、僕はこの栗田の記述を思い起こしていた。
しかし一階、地階の闇で白井の光を感じたのではなく、二階役員室の有孔ブロックから差し込まれる銀座の光を視ながら、白井はこの丸い光になにを託したのだろう、そして銀行の役員はここでなにを得たのだろうかと考えた。

三越管財のゼネラルマネージャーは、訪ねた僕たちの想いを聞き、現場の状況を確認し、ここ一両日中ならまだ白井の空間を感じ取れるかもしれないと案内して下さった。
半階を降りる一階客溜まりのカウンターも既に除却されていて、半円の天井も半分は取り外されていたが、石壁の過半は残っていてほのかに光に浮かぶ中でその闇を想像できる。
電気が切られていた地階のビシャンで叩かれた石壁、ざらりとした触覚の左官による柔らかなカーブを持った格天井の様子が懐中電灯と投光器によって照らし出された。同行したJIA前保存問題委員会委員長はかつて見学したことがあり、この床に紫色の絨毯が敷かれていたという。応接室として使われていたようだ。本店客溜まりの紫紺ビロード壁を想う。

一階外壁の花崗岩による量塊と、三階から上の紫紺のタイルの函状マッスとの間の`くびれ`による対立はこの建築の存在を都市に叩きつけ、まさに屹立しているといわせる迫力を感じさせているが、その`くびれ`は神秘的な真鍮ボックスの中にコンクリートを埋め込んだ有孔ブロックスクリーンで覆われていて、内部が役員室になっている。そして円形有孔から入る光のために、室内から見るこのブロックは常にシルエットになるのだ。

白井はこの有孔ブロックを四同舎や松井田町役場(1955)のバルコニーの腰壁に使っている。1956年の東北労働会館計画のパースを見ると、正面壁全面に使われることになっていて、西日から守るブリーズ・リレイユ(日除け)と防音スクリーンの役割を果たすと書かれている。(三一書房刊 現代日本建築家全集参照)

しかしこの1963年に建った銀座支店2階のスクリーンは、単にブリーズ・リレイユと防音のためでなく、白井の持つ「闇つまり光」を具現化したものではないだろうか。ガラス窓に映りこむ円形光の重なりを視ていると、次第に白井の世界に引きずりこまれて行く。
ここにも白井の「闇と光」がある。
この白井の情念を受け留めなくてはいけなかった役員は日常生活の中でどう己をコントロールしたのか。白井の建築はコンバージョンしにくいと言われるが、それは物理的、機能的な視点からではなく、この光と闇のかかえる問題だ。だからこそトライしたいとも思うのだが。

こういうことが気になるのは、たとえば栗田勇、草野心平との鼎談の中で、メタボリズムを「メタボリックな建築をつくるということは、外の時間や社会とかへの姿勢ではなく、自分の命を懸けてつくる、歴史の新陣代謝に自己を投入する」と白井は言う。僕たち凡人は、役員を凡人とはいえないかもしれないが、僕たちはこの白井の情念に応えられるか。

この建築は無くなるかもしれないが、白井晟一という存在は「建築とはなにか、人間とはなにか」と言う命題を常に僕たちに突きつけてくる。この建築を壊してつくる建築家は、この重さを受け留めているだろうか。

可能な限り例え部品であっても保管し、設計者に(言い方は悪いが)突きつけて欲しいと伝えた。なぜなら小さな部品一つにも白井の心がこもっているから。


ニッカボッカと「旧親和銀行銀座支店」

2006-04-19 10:59:04 | 建築・風景

気が滅入るので書くのを逡巡したのだが思い直してペンを取ることにした。
といってもPCのキイボードを叩くのだけど、ペンを取るとか筆を取るというと思いが伝わるような気がするが、キイボードというとなにか即物的なやけっぱちになってしまうような気もする。

「銀座三越アネックスⅡビル」を解体するというお知らせ看板が花崗岩に壁に貼り付けられている。どうせ壊すのだから汚れたってかまわないというベタ糊付けかと、憮然としている自分の顔が眼に見えるようだ。あああ!ついに、と溜息も出る。
今日銀座に出たので「解体工事期間4月10日から9月30日、施工鹿島建設」というその文面を確認し、改めて建築外部の写真を撮った。ニッカボッカを穿いた職人が出入りしていて、いよいよ内部から始まったのかとやはり気になる。

このビルは白井晟一の設計した『旧親和銀行銀座支店』。

昨年の6月、通りかかって眼に焼きついている石の外壁を視ると、白井晟一の象徴でもある石の浮き出し文字による文言が無残にも削り取られていて、たとえ事情があってこのビルを取得したとしても、これでは建築がかわいそうだと思った。

そこでJIAの委員会で状況報告をし、委員会の担当者を決めてもらい一緒にこのビルを訪れた。
応対してくれた事務の担当者は丁寧に、本店の管財を訪ねるよう地図を描いてくれた。アポなしで訪ねた僕たちを戸惑いながらも対応してくれた方は,このビルの価値をよく認識しているようだったが、上司に何かと誰何され、このビルはいわゆる有名建築だと説明してくれたものの、結局今後の状況は何も決まっていないとしか応えてくれず、見学許可も得られなかった。

このところ御茶ノ水文化学院の改築、前川さんの東京相互銀行の存続も難しいと伝えられたりしてぼやきの連続、だから気が滅入るのだが、結局その結果は今回の解体表明になってしまった。

銀座は水面下で猛烈な動きが起きている。
森ビルが関与して超高層化するという銀座松坂屋問題もある。歌舞伎座の解体or改修問題、勿論一帯の再開発との関連の中での計画である。いつも言うことだが再開発を必ずしも否定はしない、が・・・それでいいのかと考えてしまう。
銀座四丁目寄りの三原橋周辺も公表されてはいないものの再開発抜きにしてこのビルの解体はありえない。三越が取得したのも、このビルを使いこなそうという意図によるのものではないだろう。一階の扉も閉じたままだったし、暗に仮使用を認めた様子だし、将来の自社の発展を目指しての開発を含んでの取得だと思う。まあ間違ってはいないだろう。今の時代,建築への敬意なんていっていられないということになるか。

この銀座支店を頭取が気に入り、信頼を得て佐世保の『親和銀行本店』(DOCOMOMO100選)を委託されるきっかけにもなった「建築家白井晟一」を考える上で欠かすことができない建築であると共に、1963年に建てられて以来、その独特な風貌(と言いたくなる)によって、東京でも白井晟一の深い闇をはらんだエッセンスを味わえる存在として、建築を目指した僕たちの心を捉えつづけて来た。それも妙にむなしい。ついぼやき続けたくなってしまう。

さて、とは言え何とかならないものか!
ほんの少しであっても望みを捨てず、と気を取り直して再度管財を訪ねることにした。

 残したい 間島記念館 

2006-04-12 18:31:38 | 建築・風景

青山学院構内にある間島記念館を訪れた。
5連アーチのエントランスポーチの上のバルコニーに、儀石洗い出しによるエンタシス円柱が並ぶ。ポーティコというのだろうか、そこから見る正面に丹下健三による国連大学が望める。正門からの軸線上にこの建築は建っているのだ。この記念館の青山学院での位置づけが感じ取れる。
構内にはスーツ姿の女子大生や父兄が集っていて記念館をバックに写真の撮りっこをしている。春の日差しが暖かい。今日は(4/4)短期大学部の入学式だ。新入生を祝うように桜が咲き乱れ晴れやかな雰囲気に満ちている。記念館にふさわしい光景だ。

この建築は1907年、米国聖公会から派遣されたミッショナリー・アーキテクトのJ・M・ガードナーによって設計された弘道館がベースになっている。
弘道館は関東大震災で破壊されたが、6年後の1929年青山大学の交友間島弟彦野よって再建され間島記念館となった。清水建設設計部による復元とはいえ既に77年を経ている。

早稲田には大隈講堂が、一ツ橋には伊藤忠太による兼松講堂が、東大本郷には安田講堂があるように、青山を象徴する建築として、間島記念館は多くの校友の心に深く刻みこまれ愛されてきた。いや多分それだけでなくこのキャンパス近隣住民の心象風景を形成する上でも大きな役割を担ってきたといえるのではないだろうか。青山学院はこの青山地域文化の象徴なのだから。

この建築を取り壊して建て替える計画が検討されている。
主とした論拠はまたしても耐震問題だそうだ。壊してレプリカで再現し背後には高層棟を建てるという。
時を経た建築の魅力は変えがたい。エントランスから一歩入るだけで心が震える。アーチ状の漆喰による天井、人研で造った微妙なカーブを持つ階段。時間が刻んだ艶やかで品格のある空間だ。

保存を望む声が学内やOBからも起きている。建築歴史研究者から保存要望書も出された。学校から詳しい情報は開示されていないが、既に引越しがされていることを考えると、この魅力的な建築の存続が危ない。学校のトップ、理事会はこの建築の存在する意義やこのキャンパスにとって大切なことを一番感じているはずだが、レプリカを造って保存するだと取りざたされている。学院のHPに保存方法の検討としてその検討事項が記載されているが、「建て替えも保存」とされている。
「錯覚」が起こっている。

「レプリカ」を造ることを保存とは言わない。レプリカは所詮レプリカ、本物ではない。だからレプリカをつくって保存したと言ってはいけないのだ。

話題になり、論議もされる同潤会青山や慶応義塾の萬万舎。レプリカを容認する、無くなるよりはレプリカでもあったほうがいいという言い方の弊害が起こり始めているのではないかと危惧する。僕自身が状況によっては言い出しかねない、実はとても難しい課題なのだが。

兼松講堂と安田講堂は改修、耐震補強がされた。
残そうと思えば残せるのだ。
間島記念館だけでなく大隈講堂は大丈夫だろうか。気になり始めた。僕の母校明大の記念館が解体されてリバティータワーになり、使いやすくなってキャンパスの活性化がなされた。しかし母校の伝統に胸がときめいた僕の若き日がなくなってしまった。明大は何にものにも代え難い大切なものを失ったのではないかと思う。間島の77年間はどうなるのか。

もう一度間島記念館のあの艶やかな空間を味わってみたい。
そしてそこから再スタートしたい。して欲しいのだ。

わが街 海老名

2006-04-09 14:26:58 | 日々・音楽・BOOK

ちょっと前になるが、12チャンネル「出没アド街ック天国」に海老名が登場した。僕の住んでいる街だ。
さて取り上げられた海老名に何が見えてきただろうか。
結局駅前を再開発してつくった大ショッピングモール、ヴィナウオークくらいになってしまった。単なる新興の街という姿だ。やっぱりね。
ちょっと面白かったのは、僕の乗降口、小田急線とJR相模線の交差する駅は海老名市なのに「厚木」という駅名。したがって相模川の川向、隣の厚木市の駅は本厚木ということになったのだが、出てきた映像はホームの厚木という電飾看板のみ。どうしようかと困ったディレクターの顔が眼に見えるようだ。こう言うのをたくまざるユーモアというのだろうか。娘から笑っちゃった!というメールが来た。

海老名に住み着いてから30年あまり。
わが人生の半分を海老名の風を味わいながら、毎朝ハンで押したようにほぼ同じ時間に厚木駅から小田急に乗り、ハンで押したように夜になると厚木で降りる。自分ではフリーっぽい建築家だと思っているのだが、取り立てて自慢することもないごく当たり前の普通の人生だ。とはいえ、僕は小田急線乗りのプロだ。

電車の中で半分は本を読み、それはかけがえのないない知力習得の時間なのだが、半分は寝ている。この30分はしっかり睡眠時間に組み入れている。だからディック・フランシスなど読み始めたらあっという間に新宿についてしまい、一日中睡眠不足で悩まされるのだ。

昨夜遅かったというときには、ヴェンチュリーの「建築の多様性と対立性」なんてのを読む。すると狙い通りすぐ眠くなる。でもだからポストモダンを考えるときのこの貴重な本は、いつまでも読み終わらないということにもなるのだ。
「モダニズム」に読むな!と言われてるみたいだ、とまあそんなわけでちゃんと乗り方を心得、雨が降るとすぐ遅れる小田急の有様さえとてもよく分かっている。
プロとはそういうものだ(笑)。
馬鹿馬鹿しいと思いながらTVを終わりまで見てしまったが、考えることもあった。

海老名市は人口約12万4000人、市のキャッチフレーズは「歴史と文化の息づくまち」。市のHPにそう書いてある。
国分寺という地名もあるし、国分寺跡という史跡もある。「エビナ」という地名、ネーミングは平安中期からいわれているという。とこれもHPになにやら恥ずかしげに書かれている。それがTVになると、ALC(軽量気泡コンクリート)版に原色っぽい色を吹き付けたいわば安普請大建築群商業施設がエビナになってしまうのだ。
それも解る。

僕は娘の小学生時代、PTAの副会長をやったときに初めて海老名にもスナックがあり、カラオケ人生というのがあり、喫茶店まであることに気がついた。更に子供の安全対策でお祭りの巡回をやることになって、諏訪神社のあることを知った。お祭りでは、土地の子どもたちは数名でチームを組んで地域にある家を回ってお菓子など貰う風習もあるんだって。でもうちの娘は土地っ子ではないので同級生がそんな楽しいことをやっていることさえ知らなかったのだ。

それからかなあ、近くに有鹿神社という氏神神社の在ることに気がつき、初詣に行くようになったのは。厚木駅に隣接している分譲団地に住んでいるので、そんなの無くたって生活はできるのだ。
それでも30年住んでいて、なくてはならない場所も生まれてくる。

図書館、生協、JA新鮮野菜販売所、OXとロウソン、SATY(映画館もある)、郵便局、クロネコヤマト、医院と病院、それにアイレイウイスキイの手に入る巨大な酒屋。足を痛める前は海老名のテニスの仲間とよく試合をやったものだ。体育の日に海老名市市長からその年の最優秀選手賞など貰ったりしたこともある。市のコートも僕のターゲット、コートの些細な勾配も頭に入っていた。
おやおやこうやってリストアップしてみると結構あるではないか。僕の「エビナ」のテリトリイに「歴史」はないけど「文化」はあるか。愛妻はもっと幅広く海老名を使いこなしている。公民館とかね。

でもなんだか貧しい地域生活をやっているような気がしてきた。

僕のような都市生活者つまりよそ者は、こんな地域社会人生を送っているのではないだろうか。
でもPTA会長をやった友人だって(僕はすぐ友人ができる、おばちゃんでも)、住んで40年になるのに町内会会合に出ると、まだ地元民として認めてくれないのだとぼやいていた。やはりね。
この街にも歴史とそのプライドがあるのだ。平安からの。
団地生活者では、いつまでたっても地域住民になりきれないか!
ぼやきじゃあないよ。断じて(苦笑)

魅せられる螺旋階段

2006-04-06 11:04:10 | 建築・風景

「階段と便所の図面が描けるようになると一人前だと言われたんだよね」と、円形校舎の階段を見ながら案内してくれた建築家の松嶋さんが言う。
そうなんだ。僕も先輩に散々いわれたし若き所員にもそう言ってきた。そうか、坂本鹿名夫もそう言ったのか。
でも階段が描けたからといって建築家として一人前だと言うことではない。図面描き、つまりドラフトマンとしてまあ何とかなるなあ、というくらいかとも思う。しかし一方、図面が描けると言うことは、建築がわかってきたということでもある、といまさら言うまでもないことだがこれは結構大切なことだ。

昔は、といってもCADになるほんの数年前までのことなのだが、鉛筆?いや製図用シャープで四苦八苦して描いた図面を、赤鉛筆でぐちゃぐちゃにされてしまう。これはなにも前川國男に限ったことではなかった。こうやって建築の大切さを、建築に関わることの厳しさを叩き込まれたのだが、階段だと言ってもこの螺旋階段を描くのは大変だったと思う。これを描ければ正しく一人前だといいたくなる。

階段を下から見上げることはあまりないことかもしれない。建築基準法で竪穴区画が制度化されてから、三層以上の螺旋階段を見る機会がほとんどなくなった。と言うことはやはり螺旋階段は建築の見せ所だったのかもしれない。ぶきっちょな僕ではスケッチはできてもこの複雑な図面描きに四苦八苦するに違いない。老眼のせいだけではないなあ!と情けないことを思う。

円形校舎の見上げる階段は美しい。円形でなくても微妙なカーブを持った佐世保に建つ白井晟一の親和銀行の階段は、見上げても覗き込んでも建築家の情念が伝わってきて魅せられる。建築家は階段で遊ぶとも言えるが、階段に己を託すのだ。

ある若き建築家(?)はまず模型を作り、それを施工業者に示して図面をかかせ、デザインにこだわって(果たしてそれをデザインと言っていいのか)シャープな建築を作ったそうだ。それが評価されたりしてデビューする。何処かおかしい。図面の描けない設計者も、サポートするほうも、評価して賞を与えるほうも。
いずれは技術を自分のものにして著名建築家になっていくのだろうが、階段一つかけなくたって建築家だとさ!
だから雑誌に取り上げられ、もてはやされても数年しか経たないのに廃墟になるようなことが起こるのだ。勿論多くの建築家は今でも呻吟しながら創っているのだが。
真剣に建築を考えたいものだと螺旋階段を見上げながらこんなことを考えている。


円形校舎 窓よ光れ

2006-04-03 14:58:56 | 建築・風景

息を切らしながら急な坂を上っていく。
一息ついて左手を見上げると石段のはるか上に福聚寺の山門が見える。お墓参りも大変だと独り言をつぶやき、ふと右手を見ると、一刀彫りのような素朴な石仏がある。地蔵を浮き彫りにした下部に、見ざる、聞かざる、言わざるの三猿を刻み込んでいる。。思わずカメラを取り出した。
三猿とは!何か謂われがあるに違いない。僕は石仏が好きで、気に入ったものに出会うとほって置けないのだ。

坂の正面に背の高い石の擁壁が見えてきた。その上に陽を背にしてオフホワイトの円形校舎が浮かび上がる。これかと心が騒ぎ出し、見上げながら校門に向かう。
この道は切り通しのように両側が高台になっており、学校の敷地の右手は崖になっていて建てるのに苦労したことが納得できる。
横浜市保土ヶ谷の旧明倫高校、仏教系の現清風高校を,建築家松嶋晢奘さんに案内してもらって訪れたのだ。

見たい建築は無数にある。建築雑誌に次々に紹介される建ったばかりの建築も気になるし、時を刻んできた洋館、町屋や民家、それに社寺にも出会うとつい覗きたくなる。まして著名なモダニズム建築は、ほんのちょっとした機会さえあれば飛んでゆきたいのだ。

坂本鹿名夫が設計した円形校舎の存在は、学生時代から知っており、考えてみると40年以上前から気になってはいたのだ。
仲の良い松嶋さんは坂本事務所のOBで、散逸している坂本鹿名夫の記録をまとめたいと思っている。時折資料など見せてもらうが、バックミンスター・フラーが来日した折、丹下健三と共に坂本事務所を訪れた有様が写真と共に記載された雑誌のコピーも貰ったし、幾つかの校舎の写真も見せてもらった。

北海道から鹿児島まで、病院や市庁舎のほか全国に100棟以上の円形校舎が建てられたが、それもその時代に受け入れらたからだといえるだろう。坂本は円形の仕組みを真似されてその真意が誤解され、クオーリティが落ちることを恐れて特許をとったという。

円形校舎の最大の魅力は、中央に階段と廊下を採ることによって共用面積を減らし、動線が短くなることにより経済性、機能性に優れていることによる。つまりモダニズムの一側面、機能性、合理性に長けていたともいえる。
しかしその反面、敷地が小さく予算のない学校に採用されていったこともあり、まあいわば安普請建築と言えなくもなく、また地域性に配慮したとも言い難い。
また採光が背面光となり、教室を覗くと廊下側のほか、両サイドに黒板が設定されており、使い方に苦労していることが感じ取れるが、そこがこの校舎群の評価の分かれるところでもあり、むしろだからこそ僕の好奇心が刺激されるのだ。

しかしなかなか見る機会がなかった。
この日は昭和8年に建てられた木造平屋の無塗装ドイツ下見張り「後藤分院」の実測調査が行われたが、その建築を観ておいて欲しいとの関わっている建築家からの要請もあって藤沢に出かけ、当主ご夫妻の話を聞き、撮影もさせてもらい、その足で保土ヶ谷を訪れることができた。

春休みで教室内の整理ができてないのでと、にこやかで素敵な(ふくよかな女性なのだ)事務長に恐縮され、僕のほうこそいやいやと恐縮してしまうが、練習している吹奏楽がどこからともなく聞こえてくるなど、やはり桜吹雪の中の学校の華やかさが感じられる。

円形外部の各階にコンクリートの帯があり、その帯と梁いっぱいにカーテンウオール的にアルミサッシが組み込まれ(竣工時には白色に塗装されていたスチールサッシュだった)、帯の上に低い当初のスチールによるシンプルな手すりが周っている。
確かに安普請かもしれないが、北校舎では最上階はさりげなく下階の帯(庇)の先端まで張り出されて変化をつけ、南校舎の帯はサッシュ上端に配するなど工夫されている。またシンプルではあっても何処かに清貧に通じる品格を感じるのだ。

さて何より魅力的なのはコアの円形階段だ。
一期として建てられた最上階に鉄骨で組み上げられた円形講堂(体育館)があってドーム形の天井、屋根の鉄骨組みのバランスが良く刺激を受けるが、その北校舎では、まだコンクリートの螺旋階段を受ける壁があった。だが二期工事の南校舎ではその壁が無くなってシンプルになりデザインが一歩前進している。

下から上を見ても上から覗いても、螺旋階段は面白い。
これは武基雄さんの長崎市水族館でも、丹下さんの山梨文化会館でも同じで、設計者はこういうところでさりげなく遊んでいる。
この学校での鉄のパイプに熱砂を入れて暖め、微妙なカーブを造り出したと松嶋さんの言う曲線を多用したこの階段もとても魅力的だ。手すりが2段目から始まるのも空間を広く見せると共に、使いやすさを追求したのだろう。
装飾を排除したとはいえモダニズム建築の、実は大変な奥深さがこういうところにもうかがえる。

さらに松嶋さんが言う、坂本カラーと言われたオフホワイトが、外部にも内部の壁や木によって組み込まれたスクリーンにも使われていて心地よい。
おや、北校舎最上階のスクリーンが淡いピンクだ。
あれ!と松嶋さんが言う。いや内部はやはり坂本カラーだと安心した模様。なんとなく微笑ましくなる。

この校舎は両端の円形校舎第一期は1957年(昭和37年)、第二期が翌1958年に建てられ、さらに翌年に増築された中央部は長方形のまあ普通(さてね、普通ってどういう建築なのと言われそうだが)の建築で、これは残念ながら坂本鹿名夫ではなく、かつては元気だった創和設計によるものだ。
明倫校は土地がなく,まずやっと狭い北側に円形校舎を作ってスタートしたが、現在は道路の向かい側に広い校庭、運動場があり、学校経営はうまくいっているのだろうと二人で安心する。学生が礼儀正しく僕たちに挨拶してくれるから、すぐに清風フアンになってしまうのだ。

前庭に明倫高時代と現在の清風高校歌が石に刻まれている。
作詞は「岩崎巌」知らないなあ。作曲「黛敏郎」エーツ!
校歌の二番の歌詞「円形校舎 窓よ光れ・・・」