日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

宇江佐真理の訃報と 髪結い伊三次捕り物余話・竃河岸

2016-03-26 18:31:44 | 文化考

愛読してきた宇江佐真理(敬称略)の`「髪結い伊三次捕り物余話`シリーズの、「竃河岸(へっついがし)」(文藝春秋刊)を読み進めていたら、宇江佐さんの訃報(昨2015年11月7日)が蘇ってきた。

このシリーズのデビュー作「幻の声」はオール読み物1995年5月号に掲載されているとのことなので、20年を越えたことにもなる。
作者も読む僕たちも歳を取ったが、伊三次と恋い女房芸者お文や登場人物も少しずつ歳を取り、絵師を志す息子の伊与太がこの「竃河岸」では、なにがしかの(特段のと思われる)資質があり、葛飾北斎に見出されることが伝わってきて、どうなるのかとワクワクしてきたものだ。でも文中ではお文の心をこう書きとめる。
胸騒ぎと言うほど大袈裟なものではないが、依然として気分はすっきりしていなかったのだ・・・

さてこれは、母としての息子への期待を内在した心根なのか、などと思わず我が娘の姿をちらりと思い浮かべたりしたものだが、宇江佐はこんな風に書き添える。
おふさ、「親は幾つになっても子を案じるものですよ。お内儀さん、くよくよ考えるのはよしにしましょう」・・そうだねえ 「なんとかなりますって」。
こう書かれるとこの先どうなるのか!大成するだろうと想うものの、続きを読みたくなる。茜と伊与太がどうなるのかとも・・・

ところで朝日新聞では、宇江佐真理が亡くなったほぼ2ヶ月後に、遺作「うめ婆行状記」の連載を始めた。そして文庫化する。文庫化はともかく、どうも新聞でのこの4段組の掲載には得心できず(異論のある方が沢山いるだろうと思うものの)、僕は眼を通さない。

追記:文藝春秋から「髪結い伊三次捕り物余話」の「擬宝ジ珠のある橋」と題する新刊が発売されるとの報が入った。さても!と思いながら拝読するのが楽しみです。

<本書「竃河岸」の奥付に一切の複写は著作権法により認めないとあるので、表紙の写真の掲載が出来ない。さてと思い、宇江佐真理氏の冥福を願って天空の写真を掲載する>

明大の加治屋教授と大胡教授の最終講義ともう一つの!

2016-03-21 15:33:37 | 文化考
この(2016年)3月19日(土)は、僕にとって忘れ得ない不思議な一日となった。

午後1時からの、明治大学駿河台キャンパス・アカデミーコモンで、5歳ほど若いが、朋友ともいえる明大建築学科加治屋教授の定年退職記念最終講義の案内をもらった。
その直後に、同日3時からは、同じ駿河台キャンパス内のリバティタワーで、社会学研究室の大胡教授のこれまた最終講義が行われると、学生時代に大胡研究室に在籍した若き後輩からのメールが届いた。
 
嘗て僕は明大大学院での渡邊欣雄教授(当時は首都大学教授、現國學院大學)の講座に招かれて5年ほど通い、年度の講座が終わると、教授や大胡研に所属していた院生達と共に沖縄巡りをやったものだ。
大胡教授の調査地は主として「トカラ列島(鹿児島県側の薩南諸島に属する島々)と瀬戸内海の島々」)。好奇心が刺激され、配布された「島と人生」と題されたペーパに、びっしりとメモ書きすることになった。

ところで、渡邊教授の主としたターゲットは、沖縄諸島。更に風水に関しては中国の調査をも含めての論考、10年半ほど前になった2005年11月が、招かれて講座に参加した僕にとってのそのことの(このブログの「沖縄考」のスタートになったので参照願います)始まりになった。

この沖縄紀行は、墓地 や御獄(うたき)、風水、ニライカナイなどと共に、タコライス、沖縄そば、牧志の市場、僕が案内することになった陶器の里の壺屋や読谷等などなど。
そして改めて言うまでもないが、普天間、辺野古、そしてこれも僕の案内でのライブハウス寓話でのJAZZ、聖クララ教会、存続が気になる那覇市民会館、宮里愛や勇作を輩出した東村の様子(これは渡邊教授の研究対象)。沖縄の日常生活を構成している現在に続く文化自体を紐解いていく面白さに満ちていて、僕の人生の大きな部分を構成してきたとの感慨を、この一文を書きながら改めて想い起こすことになった。

さてもう一つの!

髭男、加治屋教授の笑いに満ちた最終講義の後笑顔で挨拶を取り交わし、懇親会に出席できないお詫び述べて、大胡先生の最終講義を聴く。そしてふと気になった土曜日なのに廊下を挟んだ反対側で行われている何がしかのイベント、受付テーブルに残っていた資料を手にとってバッグに入れた。

そして気になって帰りの電車で開いてみたら、「現象学と日本哲学の<はじまり>」と題した「現象学の異境的展開」2015年度クロージング・シンポジウム、のチラシ。レジメを見ると、明大の哲学の教授連と共に、森一郎東北大学教授の名が在った。

森教授のテーマは「世代の問題―マンハイムと三木清」。
持ってきた一部が残っていた資料を紐解くと、僕にはなんとも難しい論考で到底読みこなしきれないが、実は4月に行う東北紀行(震災後写真家小岩勉さんと共に毎年行ってきた石巻、女川など各地を巡る旅、・・・昨年は森先生にも同行いただいた)を、来週早々その森先生とも打ち合わせをする事になっている。
聴講しても多分解らないまでも、途中からでも後部の席から先生方のやり取りを聴いてみたかったと思ったものだ。森先生からは、この週末出かけていて連絡が取れないとのメールを拝受していた。まさか我が母校明大で・・・・

雨の続いた中での好天になったなんとも不思議な一日だった。

沖縄へ(3) 知念按司の墓

2016-03-14 00:18:14 | 自然

沖縄本島南部の太平洋に面した南城市の知念城址から、通路も定かでない山中に分け入ると、崖地に寄り添ったささやかな知念按司の墓が現れる。訪れる人も少ないのか、通路らしき傾斜地の石や岩肌と、覆いかぶさってしまった樹木を掻き分け、根路銘さんの後をヨチヨチと上ってゆくと、琉球石灰岩断崖岸壁の裾に現れたのが「知念按司の墓」だった。

城址の一角に建っていた倒れ掛かった案内板には、地元では「按司墓」と呼ばれ、知念を収めた按司とその墓と伝えられていると記されていた。そして墓口には一枚の盾を乗せ、石積みで閉じているとある。
この史跡は知念村指定の史跡とのことだ。

墓の前庭部と墓の前の階段は石で組み立てられていて、他に類例のない(と言っても僕が見ていないからなのかもしれないが)形態で、断崖を見上げたあと、思わず眼を閉じて手を合わせ、ここに眠る人たちに思いを馳せる。振り返ると眼下に木々の間からの東南に太平洋が望める。
ここまで来る人も少ないようだが、神の宿る沖縄原風景の一端を見て取れたようで、足の痛いのもどこかへいってしまったような気がしてきた。

<広辞苑より 按司(あんじ:アンズ・アジともいい、古琉球の諸侯、領主、王家の近親などをいう)>


堀口捨己博士の「草 庭」と出雲大社本殿(2) 僕の明大での受講

2016-03-09 17:22:31 | 素描 建築の人

堀口先生の肩書は「建築家」だが、「草 庭」を紐解いていくと、ついついサテ!と考えてしまう。外廊下が印象的な堀口先生の設計された白亜の駿河台校舎の教室ではあったが、建築家堀口捨己ではなく、建築史の研究者としての講義だったとの思いが強い。
ことに出雲大社論考は印象深く、22年前になる1994年の4月、JIA(日本建築家協会)の機関誌Bulletin4月号に記載した「60年+1秒だよ」というタイトル。このタイトルはお仲人をしていただいた板画家棟方志功先生との出会いにも触れて付けたものだが、「一年間出雲大社の講義だけ」と14行目に副題を付けたエッセイには、読み返しているとその時の堀口先生の姿が蘇ってくる。

「2部にはゼミがなかったし、絶対休めない材料実験の講座を取らなかったので、ほとんどの授業を堀口捨己先生の設計した白色で端正な外廊下のある新築の校舎で受けた。この校舎が建築との出会いの始まりだったかもしれない。堀口先生には日本建築史を教わった。とはいっても先生は1年間を出雲大社の講義だけをなさったのである」と書いている。

しかしいま考えると果たして出雲大社だけ?と?マークをつけたくなるが、「一抱えもある資料を毎回お持ちになって〝学説はこうなっているけど私はそうは思わない〝と淡々とご自分の研究成果を話された。私は先生の話をそれほど面白いとも思わず影響を受けたとも思わないが、30年たった今,天にも届く壮大な社と、気の遠くなるような雄大な木造の階段の姿が、先生のお顔と共に思い浮かぶのは何故なのだろう」と書き記している。

そして後に出雲大社本殿の近くを掘削調査がされて、野太い丸太柱が出土されたことがあり、僕は密かに堀口先生に瞑目したことも思い出した。そしてちょっとつじつまが合わないが、先生にはどこかの五重塔の矩計図を描く授業を受け、綿密な修正指導を受けたことなども浮かび上がってきた。

後に関東甲信越支部の理事などを担うことになったJIAの機関誌でのこのエッセイ、狩野芳一先生が僕たちの入学と同時に東大から明大に来られた、とあり、昨年30年目の同窓会をやった時に、〝あの君たちがねえ″と一人前になった僕たちを見てつくづく感慨を覚えられたようである、と記す。

文学の道に行くはずだった僕が故あって建築への道を歩むことになったことを想いながら、学んだ先生方への想いも湧いてきた。
東大から理科大へ行かれた設備の斎藤平蔵先生が講師として僕たちを指導して下さったが、このエッセイには、「今でも熱交換原理がわからない僕たちなのに、授業の後銀座の樽平という飲み屋によく連れて行って下さり、ある時銀座の大通りで立小便をした」などと記載してある。無論先生が連れションをしたかどうかは全く記憶にないと結ぶ。

<写真・全て解体された堀口先生の駿河台校舎の写真が手元にないので、観てきた堀口先生の代表作常滑陶芸研究所・2006年2月4日撮影を掲載する。>


堀口捨己の「草 庭」と出雲大社本殿(1)

2016-03-06 20:51:14 | 素描 建築の人

何時の頃からか僕の部屋の本棚の真ん中に「草 庭」と題した本が鎮座している。
その両隣には`建築は兵士ではない(鈴木博之)、`建築の七燈`(ジョン・ラスキン)、周辺に建築の存在への示唆を与えてくれた`レンブラントでダーツ遊びとは(ジョセフ・L・サックス),少数派建築論(宮内嘉久)、そして本棚に収まりきれなくなって`民俗知識論の課題・沖縄の知識人類学`という僕の問題意識を培った渡邊欣雄(現国学院大学教授)の著作と、JAZZを放つと副題のある洋泉社の`JAZZー´などが「草 庭」の上に横たわっている。そのいずれもが、堀口先生の草庭とは直接のリンクはしてはいないものの、僕の問題意識を共有しているのだ。

さてこの「草 庭」。奥付を見ると、1974年9月30日初版第4刷とあって、堀口捨己・1895年岐阜県生まれ、1918年に東大を卒業、現在明治大学講師、と記載されている。

僕の学んだ明治大学建築学科は、堀口先生(教授)が建築学科長となって主として東大からの教授連によって設立された。僕はその10期生(故あって僕は二部…夜間部)。入学したのは1958年だからこの奥付はつじつまが合わない。冒頭の「はしがき」には昭和22年8月と日時が記載されていて、そうだとすると1947年、堀口先生が52歳のときの著作だ。
 
冒頭に「再版に当たって」と題した著者の`再版について筑摩書房から話があったときは私には驚きであった、と言う堀口先生の率直な想いが記載されている。編輯委員会が行われた折、太田博太郎博士が出てきて下さったので、新しい資料が出てきたので一部を取り込みたいと述べたら、再版ではなく改訂版になってしまうとの指摘があって、そのまま復刻することにしたと述べている。奥付もそうなのかとわかったが、不思議な本だ。
ページをめくると、彼方此方に鉛筆による傍線が引いてあり、ところどころに文字の書き込みがある。ことに、「茶室の思想的背景とその構成」に多く、二重線を引いてあるものもある。また「信長茶会記」と「石州の茶と慈光院の茶室」の所々にも傍線が引いてあり、私事ではあるものの、30代半ばという若き僕自身の好奇心!がうかがえて興味深い。

其れはさておき、太田博士は、その論考の中で堀口先生の桂離宮論に関連して、「干からびた機能主義の其れではなく、建築を芸術とみる建築家の精神から出ている」と述べる。そして建物と茶の湯の研究と副題のある「草 庭」。五編の論考。そして僕は、先生が茶室の、茶の湯の研究者として、建築家として、どの考察にも綿密で膨大な「註」があり、あらゆる文献を考察して論考していることに言葉も出ない。

この一文を書き起こしながら、堀口先生が設計をされた駿河台の白亜の校舎の教室の最前席で、先生の講義を受講した五十数年前を改めて想い起こしている。

<この論考は、5月22日に明大駿河台校舎で行われる明大建築学科の同窓会「明建会」の5年毎に行う大会で、学生時代、堀口先生に学んだことなどを題材にして講話することを視野に入れて書きはじめたものである>