日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

イチローが打ち、白鵬が勝って、多彩な秋が来た

2010-09-26 22:46:55 | 日々・音楽・BOOK

中秋の名月が来てやっと今年の秋を感じたものだ。
延々と夏日が続いてこれでは身体が持たないと困惑したが、季節は廻る。
でも急にこうひんやりするのもまた気になるものだが、昨日札幌から来たmoroさん、建築法規の師範mさんと共に快晴の空気を味わいながら、横浜を歩いて建築を見た。飛鳥Ⅱと日本丸が大桟橋に横付けになっていてその大きさに驚く。

大学の後輩長友がイタリア・チェゼーナで活躍している。イチローが200本うち、白鵬が連勝を重ねて賞杯を得た。いつまでもヒットを打ち、勝ち続けて欲しいと願う。歴史が築かれていく。その感慨を味わう僕もまた歴史の一員なのだと思う。
闘う二人のコメントに心を打たれる。喜んでいいのだとチームメートの拍手する姿を見て野球の選手は言う。力士は、力は強くはないのに運がいい。だが精進する姿を見て神さまがご褒美を下さるのだと淡々と、しかししみじみとインタビューで答える。
二人とも僕より遥かに若いのだ。感じるものがある。

尖閣諸島問題に危惧を覚え政治が目の前に立ちふさがる。温家宝首相の来日時の笑顔はナンだったのか。大阪地検特捜報道も嫌な問題だ。

先輩の訃報に深としてアルバムをめくったら、20年前に大学同窓の数家族と共に香港に行ったときの、若い我が妻君と小さかった娘の姿、そしてその大学の先輩ご夫妻の笑顔があった。

次の土曜日(10月2日)、新宿西口広場で「現代の建築創造の現場で そして 時を経て使い続けること」と題したシンポジウムのコーディネートを行い、4日はDOCOMOMOセミナーで石山修武さんの話を聞いて語り合う。タイトルは「幻庵をつくらせたもの」。
楽しみではある。

その2週間後に愛知に出掛け、幻庵を見学して明治村に向う。一泊して愛知芸大、豊田講堂、南山大学の見学。
月末から一週間「時代をリードした建築」というタイトルの「JIA建築家写真倶楽部」の建築写真展。部会長の僕は、 写真を組み、モダニズム建築の変遷を俯瞰した解説文を書かなくてはいけない。その開催期間中に札幌の大学で講義。翌週に四国の庁舎の再生委員会。
どれもこれも僕には正念場である。

秋は多彩だ。

<写真 送って下さった小林春規さんの版画>

ああ!足場のかかっていた百十四銀行本店

2010-09-23 16:53:52 | 建築・風景

この度の四国行きは、レーモンドの設計した鬼北町庁舎(旧広見町庁舎・担当地元出身の建築家中川軌太郎)の再生委員会に出席するためである。

スケジュールの都合で前日に松山に泊ることにしてレンタカーを借りて高松に向った。DOCOMOMOで選定した「百十四銀行本店」を撮っておこうと思ったのだ。
高速代が1000円というのはありがたい。でも遠かった。四国の距離感がまだピンと来ていない。そしてがっくり来たのは、なんと外壁のメンテナンス工事が行われていて一部に足場が架かっていた。
角度を工夫したが全容が取れない。写真にならないのだ。様子はわかった。

1966年に日建設計の設計によって建てられたこの銀行の大通りに面した外壁は、丹銅板といわれる銅と亜鉛の合金で覆われていて緑青が吹いており、類例のない重量感に満ちている。想像していたとおりなのだが、しかし僕が感じたのは時代だ。
44年前の時代を表現するコンクリート打ち放しによる柱と、PCコンクリートによる格子の構成である。思わず日建でも!と胸の中で叫んだが、丹銅板と打ち放しのコンクリートとのコラボレーとが刺激的だ。
ピロティによって大通りから背面に抜ける通路が低層棟を貫いていて、その空間が市民に開放されている。この都市の街区構成に一役かっているのだ。

足場を降りてきて何をしているのかと問う職人たちと、一言二言写真談義をした。
さてどうしようか!
よし、と気になっていて訪ねることが念願だった「瀬戸内海民俗資料館」に向うことにした。そして30分後、心が震えるほど感動することになる。


瀬戸内海の守護神

2010-09-19 15:15:35 | 建築・風景

9月はじめの日曜日の朝、ANA585便で松山に向う。
客室乗務員の笑顔は変わらないが、ふと飛行機に乗るワクワク感がなくなったと思った。新聞がなくなり、飲み物のサービスもない。チケットがバーコードになりマイレージ入力はするものの、チェックインもなし、搭乗口には出発の15分ほど前に行けばよい。
十数年前にワシントンに行き、シャトル便でNYへ移動したときに、何のサービスもなく、乗務員も男性だったりしてこれはバスと同じだと思ったものだ。

乗務員は日に数回のフライトをする。バスというよりいまの国内便は小田急線のロマンスカーや新幹線、そんな感じ。でも僕は飛行機に乗るのが好きだ。国内便は高度が低く、窓から下を見ると雲の合間から町並みや走っている車が見える。そこには人の気配がある。

このフライトでは、瀬戸内海の上空を飛ぶ。
四国を訪れる度に感じ入るのだが、山が面白い。砥部の建築家は四つの国は人の気質も違うが山の姿も違うという。愛媛は高い山脈が連なっていると。
そうとも思えるが、それでも樹は茂っているとはいえ、伊豆の大室山のように形のいい小山がその山脈を背景にしてぽこぽこと立っている。本州にはない光景だ。

瀬戸内海の小島はその小山だ。
おやっと思った。
その小さな島の上に、小さな雲が留まっている。
光背いや頭光、島を見守る守護神のように見えた。その下にこじんまりとした集落がある。フーッと大きな息をつきながら見入った。

左手に海に向っているエヤポートが見えてきた。こんなに短くて飛行機が止まれるのか?と思ったら松山空港だった。まさか!
上空から見ると距離感がわからない。
ぐるっと旋回して街をかすめて陸地側から海に向って降下した。ショックがないグッドランディング。
四国の二日間が始まる。


「海市」-上海紀聞-と「温泉芸者」

2010-09-11 15:02:38 | 写真

中川道夫さんの「海市」と平地勲さんの「温泉芸者」に惹かれる。

アサヒカメラ9月号には、`日本と韓国の負の遺産の歴史の中で、韓国各地に生み落とされた日本家屋たち`と撮影者徐英一さんのいう写真や、山内道雄さんの`息苦しくなる密度のモノクロ写真、旧日本軍の軍港都市`と解説された`基隆`などが掲載されており、その組み合わせに編集者の思惑が読みとれ興味が尽きない。
だが、「海市」と「温泉芸者」は出色だと思った。
急がないと次号が出てしまうので、急いで書き留めておきたい。

「温泉芸者」を見て、一瞬、現在(いま)でも?と思ったが、やはり三十数年前になる1970年代、昭和といったほうが味わいが蘇る昭和40年代後半の写真だった。このところ昔を思い起こすことがよくあってよろしくないと思うのだが、大学を出て2年目、箱根の強羅で建てたホテルの現場が眼に浮かんでしまう。

野帳場といわれた工事現場の仮説の宿舎の出来る前、近くの温泉旅館を仮宿とした。そこに芸者ではないが3人の若い仲居さんがいて、仲良くなった。今考えると彼女たちへの思いは素朴なものだったが、渋谷の街路で肩を組んで歩いている可愛い仲居と宿の調理人に出会って、お互いばつの悪い思いをしたなんてことも在った。
其の時代、建築会社では一年に一度、熱海や袋田の温泉などに社員旅行をし、宴会では芸者を上げたものだ。胸をときめかせた其のときの若き僕のこころの揺らぎが平地さんの「温泉芸者」に込められている。
ホテルはコンクリート打ち放しの柱と梁でできているモダニズム建築だったが、その背景には平地さんの撮った温泉芸者の世界があったことを思うと、なんとなく感慨深いものがある。

さて旧知である中川さんの「海市」の副題は「上海紀聞」。今号(9月号)の撮影ノートには大きく中川さんのメッセージが掲載されているが「海市」というタイトルについては一言も述べていない。しかし上海を海市と名付ける「言葉」の感性にはいつもながら魅せられる。
上海紀聞は、1988年に美術出版社から発行された出色の写文集のタイトル、装丁も見事だが、「人はいま <闇>や<異界>に憧れ始めた。上海、シャンハイ、Shanghai・・このことばが人を魅了する」と書く其の文章の切れ味にも心奪われたものだ。

この「海市」は、岩波書店からこの2月に出版された「上海双世紀」に繋がる写真だが、最近撮った現在の上海の様だけで構成されている。
撮影ノートではこう記す。撮影をしながら「万博を待たずして上海人が既に<宴のあと>を予感しているような気分が伝わってもくる」。
<宴のあと>という一言に僕は共感する。

何の変哲もない街に変わった一角の写真があるが、旧フランス租界の高級な洋館も洗濯物だらけになっていて、中国は懐が深いと感じると中川さんは書く。中国人は、自分たちの時間軸を「したたかに」認識しているというが、それが実は僕には中川さんの感性そのものでもあると思うのだ。

中川さんは上海を撮り続けるだろう。




建築家の展覧会場、青山通り界隈を歩いて考えた

2010-09-04 18:19:46 | 建築・風景

8月の日曜日、猛暑を避けて青山一丁目のホンダのショールームに集合した。午後3時、JIA建築家写真倶楽部の面々10人である。
青山通り界隈を写真を撮りながら歩いて、11月初めのJIAアーキテクツガーデンで行う写真展(会場は京橋のINAX)のコンセプト確認をし、現在の都市の様を感じ取るのだ。写真展のタイトルは「時代をリードした建築」。
このイベントは、来年行われる建築界のオリンピックともいえるUIA大会のプレイベント、僕たちの建築への想いがこもっていて気にいっているタイトルだ。提示したのは三菱地所設計の大澤さんである。丹下健三だと一瞬誰しも思う。展示写真は、桐原さんは素直に代々木の体育館、僕は内心坂倉準三の鎌倉近美だと考えている。

この近辺に来ると、僕はいつもちょっと裏に回って、大学を出たばかりだった48年前にここに建てた劇団民藝の稽古場の跡を見たくなる。其の痕跡は何処にもないのだが、竣工間際になって現場でよく見かけた宇野重吉や滝沢修、それにまだ研究生で可愛かった日色ともゑ、樫山文枝の姿や、今でも僕の建築の師と慕う設計をした山本勝巳先生の穏やかな笑顔を思い起こすのだ。
同時にすぐ近くにあったシトロエンの車置き場も浮かんでくる。建築現場には浅草に自宅のある車好きなダンディな先輩がいて、シトロエンとは何ものぞ!と叩き込まれた。
車に目覚めた僕は、夜の青山墓地で高校の同級生が乗ってきた車で運転の練習をして捕まった。僕は無免許運転、友人は無免許運転幇助。迷惑をかけたものだ。

歩き始めてすぐ皆の足が止まった。青山通りの向いある日建設計のつくった小さなオフィスビルがある。これが好きだと声をあげたのは大澤さんと久米設計の野中さん、白く塗られた細い鉄骨円柱がカーテンウオールの内側に並んでいて、内部は無柱空間。ディテールがしっかりしていてバランスもいい。

ガイドマップは秋山さんが「ギャラ間」からもらってきた色刷り地図。こう書いてある。「ギャラリー間で建築を考える。Bookshop TOTOで建築を読む。街を歩いて建築を見る」。まさしく!
そうなのだ。この青山通り界隈は建築の宝庫、建築家の展覧会場と言ってもいいのである。

其の芸大出の秋山さんは吉村順三の青山タワービルを撮って展示するという。この高層ビルを撮るのは難しい。大丈夫かと余計な心配をする。
其の隣に谷口吉生のシャープな小ビルがある。なんてことないと評価しない人もいるし、吉生氏らしくていいいと力説するメンバーもいる。このやりとりも楽しくて僕たちは歩くのだ。

やはり隈さんの梅窓院を覘いていこうとなった。傍に「ときの忘れもの」という時折建築家のスケッチや撮った写真の展覧会も行うギャラリーがあるので寄ってみたが生憎展示替えで休館。建築写真家の吉村行雄さんが近くに見せたい建築があるといって僕たちを引っ張った。
ここから路地巡りになる。そして愕然とする青山の裏面を見ることになっていく。
「ない!」。吉村さんは唖然としている。
さて、アルド・ロッシのアンビエンテ。このおもちゃのようなポストモダンは何だったのかと皆考え込む。

伊東豊雄の南青山Fビルが廃墟になりかかっている。カーテンウオールのガラスをとめるモールが垂れ下がっている。「おさまりが甘い」。朽ちないかと懸念する声も出た。バブルの後遺症だ。
ヨック・モック本社を取り上げたいと藤本さんが言うので、竹中が技術支援をしたというプラダなど見ながら青紫のヨック・モックの前を通る。そして気になっているすぐ先のフロムファーストビルに向った。

考え込んでしまったのは、DOCOMOMOでも選定したこの山下和正の名建築に、あまりにも数多い空室のあったことだ。
暗い、と思った。これを使い続けていくためにはどうすればいいと思う?と問われた。吹き抜けから落ちる光を拡散するためにこの濃い茶色のタイルの例えば階段壁を白くペイントするのはどうだろう、この魅力的な空間構成が新たな視点で味わえる。
いやねえ、このスキップがねえと道路からこの空間への入り方が駄目なのだと、幾つもこの手の建築を手がけている建築家が溜息をつく。時代が変わったのだ。
槇さんの代官山ヒルサイドテラスにも通じる建築構成、それでもこの挑戦的なフロムファーストビルの建築の持つ力が僕は好きなのだが、槇文彦の時代を超えた力に改めて瞠目したものだ。

僕たちが課題ありと思ったこの建築を、プロの吉村さんが取り上げる。どう組むのか、興味深々だ。
ちなみに松嶋さんは師と仰いだ坂本鹿名夫の円形校舎、立石さんからは後日、重文になった日本橋の高島屋をやりたいと電話をもらった。モダニズムではないが、確かに時代をリードした建築だ。
さて金本さんはなんだったけ!とは失礼。芦原義の設計した駒沢のオリンピックの一連の施設、丹下さんの代々木とともに確かに「時代をリードした建築」である。

もういいや、早く一杯やろうということになった。それぞれが問題意識を抱え込みながらのビール。それがこたえられない。そのために一緒に歩いたのだ。

<写真 アンビエンテ アルド・ロッシ>