日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

初夏の白の家(House in White)

2007-06-29 15:29:27 | 建築・風景

建築家篠原一男の名作「白の家(House in White)を6月28日の朝見学した。
この住宅は、敷地が都市計画道路に引っかかっているのを承知して建てられたが、近じかこの近くに移築することになったという。小住宅なので、時間と人数を制限して一日だけ公開してくれたのだ。
DOCOMOMOに選定した事もあって僕はDOCOMOMO枠で見せてもらうことができた。1966年に建てられた木造2階建て、瓦屋根のシンプルな建築だ。当時建築雑誌に発表された写真が、僕の心の中に住み着いている。

真四角な平面を少しずらせて二分割し、白い壁と白い天井で構成された建物の中心に磨き丸太をシンボリックにたて、紙貼り障子と共に、そこに置かれたハンス・ウエグナーのつくった木の味わいの深い椅子までもがストイックな空間のための一員と感じさせてしまう写真だ。

以来40年、同時代に建てられた東孝光さんの「塔の家」や吉村順三の軽井沢の「森の家」などとともに、全く違う趣の住宅でありながら、若き僕たち(あえて、たちと書きたい)を捉えて建築のつくりかたに大きな影響を与えた建築だ。白い空間と和の障子の組み合わせの新鮮さと、それによってつくりだされた抽象的な空間に痺れたのだ。

朝の十時前に着いら「カネマツサン」と呼ばれておや?と横をみやると、神戸の大学の歴史研究者がいる。DOCOMOMOの仲間だ。何故この時間に?と問う僕に「いやね、朝4時に起きて始発の新幹線に飛び乗ってきたの」という。「今日見なくては一生後悔すると思って」。なんともはや!
篠原一男が教えていた東工大の学生たちが、スタッフとして見学の世話をしているが、彼らが戸惑うほど人が集まってくる。僕の知人も数多くいるが、高橋晶子さんは「今日は私たちの同窓会みたいなものなのよ」という。ここにある建築とのお別れの会でもあるし、恩師篠原先生を偲ぶ会でもあるのだろう。

この建築は、僕の描いていたイメージとは違って、意外にも、居間やベッドルームが、生活観をも感じさせる暖かくて居心地のいい部屋であることに驚いた。ストイックな空間という言い方ではこの魅力を伝えきれないと思う。

居間と明解に仕切られた壁の向こう側のベッドルームの一角に木でつくられた書棚が組み込まれている。書斎として使っていたのだろう。発表時の図面に棚はないので、後で作られたのかもしれない。低い天井とあいまってなんとも落ち着くこの部屋を、僕は雑誌では見ていない。発表当時、篠原一男はこの部屋の存在を見せたくなかったのだろうか、

でもいい住宅だ。住宅を作品といっていいのかと、つくりながらいつも僕は自問自答するのだが、名作、つまり作品といっていい、また作品としか言いようのない住宅があるのだ。

事務所に戻ってきたら、京都工業繊維大学の松隈洋さんから電話がかかってきた。「白の家」の話しに華が咲き、30分も話し込んでしまった。
彼は数年前ここを訪れ、オーナーと話し込んだことがあるという。このオーナーは京都の出身で、社寺をこよなく愛していて、家を創るときは「和と近代」を上手く融和させてくれる建築家に設計を依頼したいと考えていた。篠原一男展を見てこの人だと思ったという。建築家に出会ったのだ。どうでしたか、篠原先生は?と聞いたら「暴君だ」と一言。「何を言っても聞いてくれない」。

僕は松隈さんと話をしていて思わず笑ってしまった。物入れが少なくてこれでは住めないといったのかもしれない。それでもこの住宅はとても気に入って、一時は取り壊されなくてはいけないのではと悩んでいたが、DOCOMOMOに選定されたことも支えになったのか、後継者が移築を決めたようだ。松隈さんに、松隈邸よりよほど生活感があるよ、と言ってお互いに含み笑いをした。

篠原一男の弟子として、この建築と所有者を支え続けてきた、会場にいらした東京造形大学教授・学長の白澤宏則さんに挨拶をした。信頼されるこういう建築家のいることは素晴らしい。庭には白澤さんの設計した素敵な離れが建っている。

建築文化を考える国会議員・東京中郵「要望書」を提出

2007-06-24 15:13:29 | 東京中央郵便局など(保存)

6月20日、日本建築センターで行われたDAAS(建築・空間デジタルアーカイブ コンソーシアム)の委員会を途中で退席して、東京中央郵便局に向かった。
国交省肝煎りのDAASは、劣化の激しくなった新建築社の建築写真フィルムを修復してデジタル化し、それをインターネットでプレ公開して建築文化を広く社会に伝えることからスタートした。DAASについてはいずれ報告したいと思う。

地下鉄を乗り継いでたどり着いた東京中郵の職員通用口には、既に国会議員団が到着しており、大勢のプレス関係者が取り巻いている。
鈴木博之教授は森山真弓議員と話しこんでいる。6月6日に行われた勉強会のときの、丸の内に建つ建築の文化財指定状況などについて、森山氏の問題把握に対する熱意と、要点を突いた鋭い指摘に驚いたが、それを穏やかな口調で質問していく格調あるその姿に感銘を受けた。今日の見学会に、内閣官房長官や、法務大臣、文部大臣など4度も閣僚を担ってこられた森山氏がいらしていることにホッとする。
昼前に河村たかし事務所の秘書Mさんから、国会の審議が紛糾して時間調整が気になっていたが、何とか予定通りに行けそうだと電話をもらったばかりだからだ。参議員選挙を控えて政界の動きが微妙だ。

郵政株式会社の担当部長の案内で外部を見た後、客溜まりに入り、大きな窓から東京駅を見る。鈴木博之教授と僕は、この庁舎の設計を担当した吉田鉄郎は、多分意識して赤レンガの東京駅を見せようと、この空間を設計したのだろうと説明する。
屋上に上がった。国会議員の方もプレス関係者も、此処から見渡せる丸の内の風景が興味深そうだ。

勉強会のときも感じたのだが、国会議員はおしゃれで格好いい。河村議員の秘書は「内のだけがねえ!」というが、いやいやなかなか存在感が在って魅力的ですよと僕は言う。平沢勝栄氏と共に超党派の国会議員団の事務局を担う河村議員は、テレビに良く出てそのユニークな発言に微苦笑をもらったりしているが、建築文化を守る志は真摯で素朴だ。森山氏とは趣の違う迫力がある。

郵政の関係者に案内されて会議室に入ると、郵政公社総裁の西川善文氏や、郵政の執行役員Yさんが迎えてくださった。頂いた名刺を見ると、西川氏は郵政株式会社の社長となってる。郵政民営化を西川氏が託されているのだと感じる。
Yさんからも名詞を頂いたが、名前を拝見し、そういえば、学会,JIA、DOCOMOMOからの保存要望書を受け取っていただいたのがYさんだったと思い出した。

見学会と、西川総裁との会合に出席した国会議員は(順不同・敬称略)、森山眞弓、平沢勝栄、木村義雄、中山泰秀、やまぎわ大志郎、澤雄二、河村たかし、石関貴史、佐々木憲昭の各氏のほか、代理として秘書が出席した越智たかお、塩川鉄也各氏の11名である。

河村議員が進行役を担い、森山議員を中心とした議員各氏や鈴木教授が「歴史検討委員会」(鈴木教授も委員として選任されている)や「設計者選定のプロポーザル」状況に対する質疑応答をした後、森山氏から西川総裁に、(保存の)要望書を、重文指定検討を文化庁に申請する書類と共にお渡しした。
なんとも行動力のある議員団だ。

会合は笑い声も起こる穏やかな雰囲気の中で行われ、要望書提出の後、議員各氏からのメッセージが改めて述べられた.
河村議員から「容積率を売ることもできるそうですね」という質問があり、郵政関係者は戸惑いながらもうなずいた。それを受けて、僕も考えていることを述べた。
『この東京中央郵便局が、重文指定も可能な日本の都市を考える上で欠かせない大切な建築であることは既に周知されていること。つまり「建築を文化」として捉え、今回の問題を「残すには何ができるか」という視点で考えてほしい。
河村議員の述べたことは、残すために容積(空中権)移転という方法があるのではないかということで、区域外、例えば大手町地域などへの移転は現行法では難しいとしても、郵政関係者と国会議員(国政)、それに我々建築関係者がそれぞれの役割を担うことによって可能なのではないだろうか』というようなことだ。

河村たかし事務所の許可を得たので、下記に議員団が提出した「要望書」を記載します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2007.06.20

要 望 書

日本郵政公社総裁
 西川 善文 殿

 私たちは、歴史を後世に伝え、都市の心象風景を守るために、歴史的建築保存を目指す超党派の衆・参両院議員の会です。
 貴公社の所有される建築物には、その後の近代建築の模範となった名建築が数多く、なかでも東京中央郵便局と大阪中央郵便局は、昭和初期を今に伝える歴史的名建築と言われています。また、東京中央郵便局は、丸の内の東京駅舎とあいまって、東京を訪れる人に、在りし日の東京の姿を語りかけてくるシンボルでもあります。
 文化庁によれば、東京中央郵便局庁舎は、必要な改修のみで保存・活用できれば、国の重要文化財指定を受けることができる建築であるとのことです。
 なにとぞ、歴史的名建築を後世に伝えるため、保存・活用へのご理解を賜り、文化財保護法第27条の規定による国の重要文化財の指定を受けるのに必要な、貴社の同意を賜りますよう、お願い申し上げます。

 「東京中央郵便局庁舎を国指定重要文化財とし、首都東京の顔として
将来世代のために、永く保存・活用を進める国会議員の会」

東京中央郵便局見学会参加者一同
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

なお上記の「東京中央郵便局庁舎を国指定重要文化財とし、首都東京の顔として将来世代のために、永く保存・活用を進める国会議員の会」の`国会議員に参加要請を求める呼びかけ人‘は、下記22名である。(順不同・敬称略)
(自民)森山真弓、河村建夫、佐藤剛男、平沢勝栄、渡辺具能、松島みどり、 関よしひろ、宮沢洋一,井上信治、宇野治、中山康秀、亀岡偉民、(公明)斉藤鉄夫、澤雄二、(民主)河村たかし、犬塚直史、石関たかし、松木謙公、笠浩史、白眞勲、(共産)佐々木憲昭、(社民)阿部知子

<写真 東京中郵屋上から丸の内周辺を観察する国会議員>


「東京中央郵便局庁舎を重要文化財として、保存活用を進める国会議員の会」の設立

2007-06-18 16:47:20 | 東京中央郵便局など(保存)

5月1日、新聞各紙に東京中央郵便局高層化という衝撃的な報道がなされた。
そして同時に郵政民営化委員会では、広くパブリックコメントを求める旨公表された。その結果が郵政民営化委員会のHPで公開されている。
法人(組織)からの14件は民営化に関する郵政事業体制に関する様々な意見が主で、中央郵便局庁舎に対してのコメントは、JIAとDOCOMOMO Japanからの2件である。

僕は数多くの人にパブリックコメントを送付してほしい旨お願いしたが、個人としてのコメントは14件とちょっと少ないとは思うものの、その全てが庁舎に関するもので、残すべきだ、残したいという思いに充ちていて胸を打つ。

ところで民主党の国会議員河村たかし氏から、超党派の国会議員で東京中央郵便局庁舎の存続問題を考えたいという相談を受けた。自民党は平沢勝栄氏が中心となって意見調整をしていくという。まず勉強会を開こうということになった。
鈴木博之東大教授にスケジュールなどの相談をし、6月6日議員会館の会議室で第一回の勉強会が行われた。

この建築の歴史的価値について鈴木先生から、僕は建築界が今まで行ってきた要望書提出や見学会、シンポジウム開催などの保存に関する活動報告を行った。
参加した議員は森山真弓氏、河村健夫氏などの大臣を経験された方など9名ほどだったが、出席出来なかった議院の秘書が大勢席を連ねた。郵政株式会社から、この問題に関する担当部長も同席され、意見交換を行った。文化庁からは、いい状態で保存されれば重要文化財としての指定検討が可能だとの意見が内々に寄せられている。

先週末、「東京中央郵便局庁舎見学と西川総裁への要望会のお知らせ」が「東京中央郵便局庁舎を国指定重要文化財とし、首都東京の顔として将来世代のために,永く保存・活用を進める国会議員の会」事務局から送られてきた。

事務局を担うのは、平沢勝栄氏の事務所と、河村たかし氏の事務所である。
国会議員の見学会は6月20日に行われる。この超党派の国会議員団の呼びかけ人は21名にのぼり、自民党から森山真弓氏、河村健夫氏、平沢勝栄氏など12名、公明党は斉藤鉄夫氏と澤雄二氏、民主党からは河村たかし氏、犬塚直史氏、郵政出身の石関たかし氏他6名、共産党の佐々木憲昭氏が名を連ねている。
本会議の最中、スケジュールをやりくりして動き始めた議員の方々の熱意は素晴らしい。

鈴木教授と相談し、お互いにスケジュール調整をして僕たちも見学会に参加することにした。
一つの考え方だが、保存して容積移転などによって許容容積を満たそうと思うと現行法では難しいが、この庁舎の価値観を共有し、いずれ法整備をするなど様々な視点による検討と、お互いのその立場を担うことによって残す可能性がでてきたのではないかと期待したい。

<これらの経緯を公表してもよいと許可を得たので、経過報告をすることにした>
<写真 清水襄>


点描(1) 旧日向別邸へ行く Ⅲ 佇まいにそっと寄り添う

2007-06-11 15:54:05 | 建築・風景

サンプルをかざして、事務所で書棚の前で見たときは、文字がバックの本の背文字にまぎれて溶け込んでしまったのだが、透明ガラスの白文字も、ガラスを白く摺って透明に抜いた文字も垣根の前で読み取れた。文字を抜いたほうがおしゃれだ。よしこれにしようと決めた。
摺ったガラスは濡れると文字が見えなくなるので、摺った側に透明ガラスを合わせることにした。透明とはいえガラスの色がかぶさるが、それがまたなかなかいいのだ。

自然にそっと手を差し伸べる。つまりこの仕舞屋の「佇まいにそっと寄り添う」。ちょっと面映い言い方だが、十年ほど前に心に残った若林奮さんのセゾン美術館の小川の造形の、自然とのかかわり方に触れたことが、こういうところに生きてくる。
「点描」というシリーズを書いてみようと思ったのは、ちょっと出会った光景を数行で顕してみたいと思ったのだが、日向邸と書いた途端薀蓄を傾けたくなってしまった。多少説明をしなくてはわからないだろうと思ってしまったのだ。ということで本意ではないがこの際ついでに一つ二つ・・・

気にして街を歩くと、ガラスに白文字のシールを貼った案内標識が目に付く。安藤忠雄さんの21-21の透明ガラスの手すりに白文字のシールを貼った→などの案内標識もそうだ。
隈研吾さんの歴史探訪館(栃木県那須町:ブログ2006年5月28日参照ください)ではエントランスと庭の間の透明ガラスの塀の白文字による解説版もそうだった。しかし強化ガラスだとエッチングができないので、シルクで印刷した白文字を貼る。或いはシルク印刷をする。
今の時代のガラス多用、透ける建築志向に対応しているとも言えるかもしれない。自然に手を差し伸べる、という感覚はこのお二人にとってはどうだろう。

白水社のTさんや熱海市文化交流課の担当者に、タウトについてのエピソードや、市が取得した経緯など述べているうちにお昼になった。さて飯でも食うか、ということになって僕がTさんを案内したのは、駅の向かい側のビルの地階にある「まるに」だ。

昼時なので混んでいる。店を覗き込んだらここに座りなさいと、客席の常連さんと思える叔父さんが、同席のお客さんをうごかして2人分の席を作ってくれた。
初めてかと聞かれたので、昼飯は初めてだというと、喜んでこの店の親父のことを教えてくれた。
定置網を持っている魚師で、朝の4時に海に出て魚を捕り、その捕れ具合によって刺身を組み合わせるという。僕は夕方、委員会の後など何回も来ているがなるほどと納得、7時頃になるとご飯がなくなったと店を閉めてしまうからだ。明朝のためだ。
いやいや道理で魚が美味いわけだ。ためらわずに刺身定食を頼む。常連の叔父さんがニコニコした。

そもそも「メンチカツは熱海が発祥の地」というと、エーッそれは初耳とその常連さんがのたまう。本当かといわれると僕もぐらつくが、この店をはじめて案内してくれた、日本カーバイト工業の優れもの、僕と飲み友達になった小野口さんの受け売りなので。僕はだからいつもここでは酒を飲みながらメンチカツを喰う。それがまた美味いのだ。
美味いコーヒーのおしゃれなお店も駅の近くにあるが、それはいずれ機会を見て・・・・



点描(1) 旧日向別邸へ行く Ⅱ 赤紫の絹の色

2007-06-04 11:07:44 | 建築・風景

旧日向別邸の存続に関わった僕は、様々な機会を得て小文を書いてきたが、「タウト寺子屋」という高崎のグループから依頼があって、その機関紙に「胸騒ぐ日向別邸」というエッセイを書いた。2004年3月のことだった。
読み返してみると、今でも日向邸と出会ったときの驚きと戸惑いがありありと思い起こされる。イメージは赤紫の絹の色だ。
記述が前項と重なるところもあるが、少し手をいれたこのエッセイをお読みいただきたい。

<胸騒ぐ日向別邸>
熱海駅からそう遠くない坂道を登っていくと、目の前に相模湾が広がり真正面に初島が浮かんでいる。これはすごい!とため息をつき石段を数段下りると、右手の梅の樹の背後に瀟洒な木造2階建て(地階1階)の住宅が見える。
この旧日向別邸は、実業家日向利兵衛が清水組(現清水建設)に建てさせた別邸で、資料によると設計は渡辺仁、竣工は昭和10年(1935年)2月となっている。天井に桐の底板を使った合天井が組まれているなどなかなか魅力的だ。お目当てのブルーノ・タウトが設計した部屋は離れとも言える地階に昭和11年にできた。

ドイツ人の建築家タウトは、ナチを逃れて世界各地を逃避行し、1933年来日した。そして来日2日目に桂離宮を見学し衝撃を受ける。濱嵜良実さんが著作の中で、このことを「タウトと桂離宮の運命的な出会い」と書いているのも頷ける出来事だった。「ニッポン(桂離宮掲載)」など2年半の日本滞在で多数の著作や講演によって日本の建築界に刺激を与え多大な貢献をした。

例えば郵政の建築を率いた建築家吉田鉄郎の設計した丸の内の「東京中央郵便局」は実はその存続が気になっているのだが、日本的な建築として絶賛し建築界に目を開かせたといわれており、見学会の折、一見何の変哲もないと思われるこの庁舎を、タウトが絶賛したと説明すると「なるほど素晴らしい!」と皆納得する。タウトの神通力は今に生きているのだ。

しかし日本での建築家としてのタウトはいささか不遇で実作は2件、現存しているのはこの旧日向別邸だけである。タウトが設計することになった経緯には、外務省の柳沢健と間接的に高崎の井上房一郎が関わっている。

急傾斜地のため人工地盤の庭を作ったその下に連続する3室の意匠の異なる不思議な空間が出来上がった。
真ん中の洋間の気になっていた赤い壁は、渋い赤紫の絹で出来ており、壇状になっている床ととともに濃密な!と言ってもいいような空気を漂わせている。
そこに在る椅子もタウトの設計したもので、当たり前のように置かれていてそれなくしてこの空間を語れないような気もする。奥の和室も山側は同じく傾斜地を利用した階段状になっており、脇息を置くと様になる「殿の座」のようなスペースがある。

それにしても手前のホールといわれる部屋にぶら下げられた鎖を連ねた夜店や漁船の灯りのような照明装置をどう考えればよいのだろうか。ここを訪れた建築家や歴史の研究者は、かなり戸惑ったのか誰もこれについて語っていない。
若き日タウトの作業に従った水原(みはら)徳言さんを群馬県の高崎に尋ねてお聞きしたら、夜店ですよとこともなげに述べた。ちなみに僕が「殿の座」と思った細工は、大阪の商店の帳場だという。

タウトは克明な日記を書いていてこの別邸の設計経緯にも触れているがこの照明や帳場についての記述はなく、「全体として、特に際立たせた箇所はひとつもなく、すべて優雅な趣味の人に向くような建築である」と満足し、なにやら自慢げだ。
うううーん!それはともかくタウトが日本の文化に触れ其の集大成として創ったのか、触発され自分の空間を作ったのか、郵政の若手を連れて設計を手伝った吉田鉄郎とのコラボレーションと考えてもいいのか、などなど興味は尽きない。

見学に同行した建築家や歴史研究者の中で、ぞっこんになって「良いなあ!良いなあ!」を連発した人と、「変だ」という人に評価が分かれた。こんな建築ってそうあるものではない。
長い間この建築を所有者していた日本カーバイト工業は、この空間を極めて大切なものとして扱い、余程の人でないとここへ通さなかったという。だからあの華奢な竹の手すりも傷一つなく残っていて感激する。

ドコモモ100選(現在は115選)にも選定されたこの建築は(吉田鉄郎設計の東京と大阪の二つの中央郵便局も選定された)、様々な経緯を経て東京在住の女性の寄付を得て熱海市が取得し、2006年7月、重要文化財の指定を受けることができた。その経緯については機会をつくって別項で伝えたい。

この別邸は人の心を惑わせるナウで(こういう言い方はナウでないか!)ホットな建築という気がして何度訪れても胸が騒ぐ。