日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

雛祭り

2007-02-26 20:37:17 | 日々・音楽・BOOK

今年のお雛様は,三春の張子人形にした。
新春を迎えたらあっという間に節分、立春が過ぎた。そして梅が満開になり今年は春が早いと思っていたら来週はもう雛祭りだ。

愛妻が箱から人形を取り出す。軽いけど思いがけず大きい。それでも愛妻はもっと大きいと思っていたと首を傾げる。何故だったのだろう。ひところ大きいのに凝ったことがあった。大振りのピノキオもいるし、旅に出かけるたびに買い込んだ「こけし」(小芥子)、遠刈田の久一や鳴子の高橋盛雄と書かれたものなど一尺五寸の大きさのが三体もある。置く場所に困って押入れに仕舞っていたのだ。それも取り出した。
切れ長の眼が優しく微笑んでいる。新婚旅行で鳴子のこけし工房を回ったことを思い出した。お金がなかったのでそのときは小さいこけししか買えなかったことなども。

福島県の岩城の国三春ではこの張子人形を「デコ」とか「デク」という。今から二百数十年前の元禄文化華やかな時代に生まれたのだ。正徳、享保の頃、時の藩主秋田家四代の債季候が歌舞伎を愛好し、江戸で見た歌舞伎の振事を江戸から人形師を招いて破格の優遇をして造らせたのが今に継承されているのだという。箱に入っていた由来書には、そんなことが誇らしげに記してある。我家のお雛様には郡山市西田町の高柴デコ屋敷、元祖制作者橋本広吉と署名があった。

お殿様の背が高いのは、立っているからだろうか。立っているとしたら背が低いが、足元に黒い沓のようなものが見えるので、何だか変だが愛妻とそうなんじゃないのなどと言葉を交わした。お姫様はそんなことはお構いなしに細い目で微笑みながら僕たちを見ている。お二人から声を掛けられるような気もしてくる。なんとも素朴で僕たち夫婦は思わず顔を見合せた。

娘が生まれたときに手に入れた内裏雛は、今年はお出ましにならない。出して飾っておくと来週顔を出す娘が懐かしがるような気もするのだけど。気に入っている内裏さまなのだ。でもこの三春の内裏様も娘好みだと思う。

旅トルコ(7) 奇岩「野外博物館」

2007-02-23 15:06:03 | 旅 トルコ

カッパドギアってナンだろう。
キノコのような奇岩がにょきにょき建ち、地下都市があることは知っていた。しかし何故?

5時間を掛けて大草原を走ってきた標高1000メートルになるこの地帯は、アナトリア高原といわれる。
数億年前に起きたエンジェルス山の噴火によって堆積された火山灰と溶岩が侵食されて、奇岩が林立する風景になったのだそうだ。これも帰ってきてからガイドブックを改めて読み返してなるほどと思った。
どうもギヨルメへ行くことだけが目的のようなおかしな旅になってしまった。良い旅のしかたではないかもしれない。でも先入観がないので発見だらけだ。言い方を替えれば僕の感性が試される。

ケレベッキ・ブディックホテルへチェックインして岩を掘って造った部屋を見せてもらい、さてどうしようかとガイドブックをめくる。
この村の見所は「野外博物館」だ。村の中心バス停辺りへ坂を下り地図を見ながらぶらぶらと歩き始める。絨毯屋が軒を連ねている。なるべくそちらへ目を向けないようにするが、声を掛けられると「やあ」とかなんとか言いながらニコニコと手をふる。

街外れに案内看板が立っていて矢印があり300メートルと書いてある。それが・・途中で間違ったのではないかと頭をひねりながら20分も歩いた頃ショッピングモールが現れた。1キロはゆうにある。
入場受付所でコインを買い、自動入場機にコインを入れる。博物館といっても幾つものとんがった奇岩を巡るのだ。

大勢の観光客がのんびりと見学しているが、この岩の中がくりぬかれていて天井や壁にフレスコ画が描かれている。4世紀前後からキリスト教の修道士が外的から身を守りつつ住み付き、キリストを描きながら信仰を守ったのだ。バカンスでトルコを回っているという一人旅の韓国の女性と、片言の英語を交わしながら幾つかの洞窟を巡った。

フレスコ画はブルーが基調だったり朱を多用したりして一つ一つの趣が違うがどれも魅力的だ。ギリシャ正教の大本山だったイスタンブールのアナソフィア博物館が、イスラム寺院に改宗されながらもその姿を大切に受け継いできたように、この洞窟もキリスト教修道士信仰の場の姿を見事に保存してきた。偶像崇拝を禁じてきたイスラムでありながら、この懐の深さは素晴らしい。

帰りはビザンツ美術の逸品といわれる、やはり岩を掘ったトカル・キリセ教会を覗いたり、道の右側の傾斜地に点在する奇岩を、これは一人で巡った。ギヨルメの岩はキノコ状ではないのがちょっと残念だ。
さてこれからホテルへ戻って一杯やりながらトルコ料理を食い、洞窟ホテルの夜を楽しむのだ。


二人の家(2) 襖の引き手と短冊金物

2007-02-16 10:37:56 | 二人の家

二人の家には四畳半の和室がある。
一間の中に小さな仏壇と押入れがあるだけのシンプルな部屋だ。天井は幅三尺に棹縁を組んだ薩摩葦張りで、建具は総て紙張り障子。障子をあけると仏壇と押入れが現れる仕掛けになっている。仏壇の下には物入れと地袋があり、いずれも鳥の子を太鼓張りにした襖が組み込まれる。物入れは観音開きで地袋は引き違いになっている。

先週の火曜日、襖の引き手と観音開きのための金物を求めて赤坂にある和風金物の老舗を訪れた。清水商店である。ところがシャッターが降りていて店を閉めてしまったのかとドキッとした。店の社長も番頭さんも年配だから。
事務所に戻り番号を調べて電話をした。しかし誰も出ない。思いついてインターネットを開いたら、店を開けているのは月、水、金の週の3日間、時間も10時から3時までと記載されている。ほっとした。

僕の清水商店とのお付き合いは30年以上になる。親しくなった金物製作工場の番頭さんがこの店を教えてくれたのだ。
翌日電話で開けていることを確認して出かけた。昔は木造の仕舞屋だったが鉄筋コンクリート造のビルヂングになっても一階の店の佇まいは変わらない。大きな看板も昔のままだし店の壁を埋め尽くしているついつい溜息の出るサンプル帖は今や文化財だ。

長いお付き合いといっても常に和室を作っているということではないので、細いけれども長くというという感じである。そして僕の使う金物はいつも同じだ。引き手はシンプルな丸型、開きのための金物は短冊金物、俗に言う`ぶらかん`である。漆の焼付けはいつも黄土色の宣徳(仙徳とも書く)になる。
僕は地袋或いは天袋の引き手や短冊金物の大きさを決めるのにためらい、相談に乗ってもらう。今回もまあこれくらいでしょうねと言われてそうねと答える。

留めるビスをつまむ社長の手付きがおぼつかなく、ついやりましょうかと声を掛けた。年を取るとねとうれしそう。そこから話が弾む。いやお店を開けてくれていてほっとしたとつい本音を言う。なにしろ後継者がね、お店の後継者だけではなくて金物を造る職人のことだ。先客の文化財研究所から来たご老人もうなずく。
そのお客さんが、「100個頂戴」という数字にエッと驚く僕に、これもね20年前に造ったものなんですよと社長がいう。仕事が切れたときに、それじゃあこれつくっといてといって、売れるかどうかわからないものを職人の生活を守り技術を伝えるためにやってもらったものだが、需要が減りさすがにそんな余裕もなくなったという。

例えばね、この仙台箪笥の金物、箪笥を買う人がいなくなり金物職人の生活が厳しくなり後継者がいなくなる。今ではこれを作る職人がいないのですよ。清水商店の職人は東京人だそうだ。江戸文化、粋の後継者だ。
在庫がなくなったら店を閉めなくてはいけなくなる。でもこの壁に掛けているサンプル帖はね、後世に残したい文化遺産です、と何だか涙がでそうな話しだ。
このお店は海外にも知られ、吉田五十八のお弟子さんたちも頼りにしているお店。なくなると僕も困る。

こういうエピソードをU夫人に話したらびっくりしたようだ。聞かないとわからない、確かにそうだ。二人の家のこの金物は普段は障子の陰に隠れて見えない。そこがおしゃれだと思う。

座談会「建築文化を語る:ジャーナリストの立場から」

2007-02-13 13:33:53 | 文化考

<第16回JIA保存問題東京大会 「建築家と保存問題の現在(いま)>

JIA保存問題東京大会を,東京大学本郷キャンパスで2月17日(土)18日(日)の両日、一泊して行うことになった。
僕は初日のセッション2で、第一線で活躍しているジャーナリストを招いて行う座談会で聞き手として参加する。また二日目のメインの「建築家と保存文化の明日」というテーマで行うシンポジウムでは、パネリストとして参加し、評論家の松葉一清さん、JIAの元会長で前川建築事務所出身の大宇根さん、それに保存問題委員会現委員長の川上さんと共に様々な視点から今の保存問題を論議する。進行役はこの大会の実行委員長久米設計の野中さんである
詳細はこのブログにリンクしている僕のHPのイベント案内をご覧ください。ご都合つくようでしたら是非お出かけください。


セッション2 座談会「建築文化を語る:ジャーナリストの立場から」

日 時  2月17日(土)pm3:15―5:45
場 所  東京大学本郷キャンパス工学部2号館 213号大教室

 都市は建築で充たされており、建築は人の手でつくられる。つくられる経緯の中で様々な物語が生まれる。その物語は時代や社会を包括しており、建築の姿と共に人々の心の中に留まる。さらに時を経ることによって、生活する人々或いは通りすぎる人々つまり人間と、建築と環境との関係の中で「記憶」という概念が生じる。建築と市民が結びつくのだ。それが「建築文化」なのだといいたい。

セッション2では、第一線で活躍しているジャーナリストをお招きし、様々な視点からこの「建築文化」について語り合うことにしました。

<話し手> 順不同
西田健作(朝日新聞)
高野清見(読売新聞)
津川  学(日刊建設通信新聞)
宮沢  洋(日経アーキテクチュア)
田中紀子(東京人)
白井良邦(カーサブルータス)

<聞き手>
兼松紘一郎(兼松設計)

建築家にとって、「他者」の視線がどこに向いているのかを窺い知る機会は少ないものです。
ジャーナリストが建築をどう捉えているのか、市民の視線をどのように受け止めているのか興味が尽きません。また新聞や雑誌はどのような仕組みでつくられているのか、テーマ構成や取材のなかでの記者や編集者とトップやデスクとの関係、或いは報道と署名記事(例えば文化欄に記載されるもの)の関係、各紙(誌)の建築に対するスタンスなどについても好奇心が刺激されます。
建築家として聞きたいことは山ほどあるのですが、ジャーナリストサイドからも、建築家や建築界に聞きたいこと、問いかけが沢山あると思います。
楽しく建築文化を語る中で、今大会のテーマ「保存文化・保存問題の今を問う」の答えが聞こえてくるのではないかと期待します。




二度目のノーサイド 眼を離せない堂場瞬一の世界

2007-02-11 18:38:48 | 日々・音楽・BOOK

読み始めた途端「これはまずい」と思った。堂場瞬一の「二度目のノーサイド」。
ほぼストーリーも想定でき、だからキット泣くと思ったのだ。案の定土曜日の空いた小田急線の車両の中で、のめりこんで読んでいてこみ上げてくる涙にふと眼を上げると、座席の向かい側に座っている中年の男性が怪訝な顔をしてじっと僕のほうを見ている。どうしたのだといった感じだ。

話は単純だ。武蔵野電産という企業のラグビー部は、全日本でライバルのフジビールと引き分けて抽選に負けた試合を最後として解散した。その「決着をつける」試合を巡る話である。
そのときのメンバーだった主人公桐生威は、引退して武蔵野電産に残留した。他のレギュラーメンバーは他企業のラグビー部に移籍して現役を続けていたり、村瀬は著名なスポーツキャスターとしてテレビの世界で活躍、キャプテンだった島は、ラグビーのメッカ菅平で教師をしている。吉田はオーストラリアへ移住して現役、この物語で一方の主役木塚の存在も心を打つ。皆あの試合に何かを抱えている。
桐生威は、上司の係長、由布子に「あなた、仕事のことをまじめに考えているの?いつまでも昔の想い出にしがみつきたい気持ちはわからないじゃないけど、あなたはあの時、会社に残る道を選んだんだからね」としょっちゅう言われている。同期入社でいまやキャリアウーマンとなった由布子は、嘗て武蔵野電産のソフトボールの選手で全日本の四番バッター、アトランタオリンピックで活躍したのだ。

「決着が付いていない」。

普通でなかったあの試合での10分間なのだ。
桐生威にはラグビーをやらないことを約束して一緒になった愛妻杏子がいる。杏子の兄がラグビーで半身不随になったのだ。伏線にその杏子と同僚だった由布子の交流がさりげなく書き込まれている。
そして5年を経た今、ラグビー部を継続している全日本の強豪、まだ現役のいるフジビールとあの対戦時のメンバーによって戦うのだ。

「勝ったとか負けたとか、そもそもラグビーではどうでもよいことではないか。大切なことは尊敬できる相手と試合をすることだろう。正々堂々と行こうぜ」とオーストラリアから来た松田が言う。そううそぶいた松田も試合前のロッカー室で涙ぐみ始めた。
「叩き潰せ」声が小さいと思ったのかキャプテンの島が、今度は良く通る低い声で「叩き潰すぞ!」言葉にならない叫びが控え室を満たす。コンクリートの床を揺るがし、壁をひびわれさせそうな怒声が桐生の体に染込んでくる。

後は書く必要もないだろう。人それぞれの「決着」のために戦った。正しく「二度目のノーサイド」だ。決着に自分の人生を併せて考えてしまうのは勝手だが、戦うスポーツの世界って何かを感じることも大切だとふと思った。

作者堂場瞬一はメジャーリーグに挑戦する日本人投手藤原雄大を主人公にした「8年」で`小説すばる新人賞`(2001年)を得てデビューした作家。刑事鳴沢了を主人公とした連作はテレビドラマ化された。`今いない全ての友へ`と送辞のある「棘の街」という作品の主役上条の鬱積は、堂場自身のものではないか。これが案外彼の本音かとふと思わせるが、爽やか感がない。次々と新作を発表して多作作家の道を歩み始めた堂場瞬一から眼が離せなくなったが、後味の良い作品を読みたいものだ。

<写真 今読んでいる「キング」>

007「カジノロワイヤル」をシェイクする

2007-02-04 14:25:47 | 日々・音楽・BOOK

イアン・フレミングの『007』シリーズ第一作「カジノロワイヤル」は、1953年に書かれ、翻訳されて早川文庫で発表されたのが1963年、2000年には60刷にもなった。
若き日、親友U君と新作が発表される度に変わりばんこに買っては回し読みしたことを思い出した。フレミングが亡くなったとき、僕たちはもう二度と新しいボンドを読めないのだとがっくりきたことをつい先日のように思い起こす。それから既に40年以上になってしまった。
映画を観たら、原作を改めて読んでみたくなった。改訂版を買い求め、読みながらいろいろと考えているうちに映画の公開が終わってしまった。サイクルが早い。

「ゴードンのジンを三に、ウオッカを一、キナ・リレのベルモットを二分の一の割合で。氷みたいに冷たくなるまでよくシエークしてレモンの皮を薄く切ったやつをいれる」

このドライ・マティーニを気にいったCIAのレイターは「モロトフ・カクテルと呼んだらどうだろう」とボンドに言う。でも名付けられたのは、原作ではボンドガール、ヴェスパーの「ザ・ヴェスパー・マティーニ」。
普通はステェアするマティーニをシェイクするところがボンドスタイルなのだ。このカクテルが映画『カジノロワイヤル』でも狂言回しのように使われる。

若き僕たちは、ボンドにあこがれた。いや、というよりも、ボンドカー・ベントレー(映画ではアストンマーチン)、バハマとかモンテカルロというまだ見ぬ地名や美女に出会うシチュエーション、それに大人の世界を垣間見たカクテルに胸を躍らせたのだった。
僕は、シェーカーやベルモットやビター、松脂の香りのするジン、それも奮発してゴードンなどを買い込み、ステェアしないで氷を入れカチャカチャとシェイクしたりして飲んだものだ。様々なカクテルのレシピも手に入れて得意になった。
つい最近弟と酒の話になったとき、僕は当時自宅にガールフレンドを連れてきて自慢げに飲ませたりしたという。記憶にないそんな出来事やすっかり忘れていたその女性の名を言われて驚いた。さすがにちょっと恥ずかしくなったが・・・

今度の映画では、シェイクだろうとステェアだろうとそんなことどうでもよいと呷るように飲むドライ・マティーニに、追い詰められて余裕のなくなったボンドの心理状態が表現され、思わずにやりとさせられた。このおしゃれは原作を読んでいないと何のことやらわからないだろう。
折角そういう挿話をはさみこみながらも、ちょっぴり残念なのはこの映画が、このふっくらした大人の面白さの表現に成功したとはいえないからだ。

原作は極めてシンプルだ。映画では時代を反映して『テロ組織』に資金供給するとされるが、原作では(旧)『ソ連』と繋がりのあると設定したル・シッフルが資金に枯渇しカジノのバカラでそれを取り戻そうとしている。イギリスの諜報機関Mの率いるM16は、女好きだが賭博も好きなボンドをその対応員として指名し、同僚としてえもいわれぬ美人のヴェスパーと組ませる。
胸が締め付けられるようなカジノでのバカラの戦い、CIAのレイターの助力を得てル・シッフルを破滅させるが、逆襲されてベントレーは鋲をまかれてパンクし破壊される。捉えられて拷問されたりするが、まあ最後はうまくいくのだ。

ヴェスパーと寝たいと(生々しく)言っていたボンドだが、なんと二人はプラトニック的な純愛関係に陥る。二人は結婚したいと悩むもののハッピーエンドにはならない。ショックを受けたボンドは女は道具だ、非情な007になると宣言して話しは終わる。

「カジノロワイヤル」に限らずボンドはスーパマンではなくなんとなく愚痴っぽい悩み多い男として描かれる。元々ボンドは悩み多い男だ。サンダーボール作戦では仕事が与えられなくて酒におぼれるし、ゴールドフィンガーではストレスでハードスモカーになってしまう。
これがボンドを登場させ連続ものにしようと考えたフレミングのボンド感である。

この映画では荒唐無稽で御伽噺に陥っていたシリーズを、原作の原点に戻ってシリアスに捕らえなおそうという取り組み方をしたという。しかし原点に返るといっても映画ではそうとは行かず、やはり今の時代のスピード感溢れるアクションをこなす強靭な男として描かれた。

忘れてならないのは、ヴェスパーのエヴァ・グリーン(フアンには申し訳ないが)ではなく、敵役ル・シッフルのマッツ・ミケルセンだ。なんたって血の涙を流すのだから。
そして言うまでもないのだが、六代目ジェームス・ボンドのダニエル・クレイグには溜息が出てしまう。格好良いのだ。
だから魅力的な新しいボンド映画が生まれた。

息詰まるアクションもそうだが、舞台になったヴェネチアの趣のある建築が海に崩れ落ちる有様に建築家として見ていて唖然とした。そして何より憧れのあのアストンマーチン(DB5は、最新のDBSになったが)の動く姿を見て陶然とする。でもなんとあっという間に壊されて姿を消してしまう。もったいない。もったいないがそこに夢が残る。

さて「ああ面白かった!」と余韻に浸りながら夜の街に出たもののなんとなく物足りなさも感じる。もともとこの本はフレミングが、エンターティメントとして書いたものだから、シリアスなんてないのだ。
荒唐無稽ではなくなったかもしれないが、最近よく観る良質なアクション映画になってしまった。「夢」。それも大人の夢が見たい。人間ボンドの酒を愛し女を愛し、車を愛し、街を、建築を音楽を愛し、そしてそれを楽しむふっくらした(使う言葉が二度目だ)大人の魅力を見たいものだ。それが僕の憧れるスーパーマンだから。




旅 トルコ(6) カッパドギアへ

2007-02-01 13:20:04 | 旅 トルコ

アンカラからカッパドギア・ギヨルメ村に行くバスの旅は、ステップという大平原を横断する旅だった。一つ手前の街ネヴシュヒルを過ぎると、突然奇岩が現れる。延々と続く草原に呆れていただけに刺激的で思考回路が瞬時切断される。

バスターミナルを出た途端僕の乗ったバスは膨大な再開発中の街を走り始めた。柱と梁のラーメン構造による工事中の躯体が路の両側に林立している。
トルコの首都でありながらアンカラ空港は国際便もない小さなローカル空港で驚いたが、すぐ隣に国際空港が工事中だ。猛烈な勢いで街が拡大しているのだと実感する。そしてすぐに平原が拡がり始まる。

バスはベンツだ。客席はほぼ満席。でも観光客らしい乗客はほとんどいない。僕の隣に40歳代のケビン・スペーシイに似た格好いい男が座った。なんとなく二人でうなずく。挨拶のつもりだ。音楽が小さく鳴り始まる。コーラン風の,テレビやタクシーや街のあちこちで聞くトルコではやり(流行)の若者音楽のようだ。
若いバスの助手がボトルに入った水を配り、オイルのようなものを使うかと問いかける。お絞りの代わりだろうと思ったがとりあえずは断る。帰りにためしにと思って手のひらにたらしてもらったら、なんともトルコっぽい?匂いがした。手を揉んでいるうちにあっという間に乾いた。揮発性のアルコールが入っているのだろう。やはり日本でのお絞りの代わりなのだ。

トルコの温度は日本とさほど変わらない。砂漠にならない程度の雨が降り、でも樹木が育つほどには降らないのだろう。時折小さな街が現れる。平原の遠くの起伏の中に幻のように浮かび上がることがあったり、赤や青や黄色や文様の書いてある建物が現れるのだ。そして必ずジャーミイがあって二本の塔が立っている。塔の根っこにはスピカーが付いていて、時間になるとコーランが鳴り響く。

街に着くとバスが停車し、降りる人がいて乗ってくる人がいる。定期バスだから。
路に沿って貧弱な電柱と二本の電線が張っていて街と街を繋ぐ。こんな二本の電線で街の電力が保てるとは思えないがどうなっているのだろう。ベンツのマークの入った生コン車とすれ違うこともある。ベンツでも生コン車を作っているのだ。好奇心が刺激され延々と続く平原を走るバスの旅はまったく退屈しない。

スペーシイさんとカタコトの英語で会話とは言えない会話を交わす。「ホワットイズユアジョブ?」程度。ガイドブックを開き、何処を走っているのかときいた。余りにもアバウトな地図で、これではどの辺かわからないというが、大体の走るルートを教えてくれた。僕が考えていたルートとはまったく違う。
「サルト」と窓の外を指差していわれた。トウズ湖は塩湖なのだ。湖が白く輝いてえもいわれぬ美しさだ。塩が60センチも堆積しているのだという。ビューティフル!お互いにニコニコする。ガイドブックには書かれていない。何だか得したような気がする。

ネヴシュヒルに着いた。大きな街だ。スペーシイさんは此処で降りる。どうやら家があり家族がいてアンカラには単身赴任しているようだ。ネックストストップがギヨルメだと教えてくれる。グッドラックと握手をした。

そこへ若い男性が乗り込んできてバスチェンジだと叫ぶ。二人のおばさんを除いてみな降りてしまった。このバスはギヨルメへは行かないのかと残った二人の客に聴いても困ったような顔をしている。トルコ語でないのでわからないのだ。余りにしつこくチェンジだというので半信半疑のままバスを降りた。でもどうもおかしい。地元のスペーシイさんだって次がギヨルメだと言ったではないか。
気になり休んでいたバスの助手を捕まえ切符を見せて、ディスバスゴートウギヨルメ?と聞くとうなずく。あわてて乗り込んでこれだと思った。ガイドブックにそういう客引きがいるから気をつけろと書いてあった。客引きが乗り込んできても助手も運転手も知らん顔だ。やれやれと思ったが面白くなった。

翌朝ギヨルメの街中を歩いていたら、昨日ネヴシュヒルで降りた4人組の東南アジア系の若い女性グループにばったりと出会った。お互いになんとなく覚えていて、にやにやしながら手を振った。
翌日、30分も遅れてバス停にきた帰りのバスは、次のネヴシュヒルでバス交換した。これは本物のバス交換だった。何故交換するのか説明を聴いていてもわからない。トルコ語だし。
このバスでは映画が放映された。流行のアクションもので、トルコ語の吹き替えだがなんとなく筋がわかり結構楽しめた。長いバスの旅を楽しんでもらおうという心遣いだ。サッと雨が降った。大平原に巨大な虹が掛かった。
こういうことがあるから旅は刺激的で楽しい。