日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

暑い日の中で4年目を迎えたブログ

2008-07-27 19:48:39 | 日々・音楽・BOOK

新宿超高層街の欅並木。街の喧騒の中から蝉の鳴き声が聞こえてくる。学校が夏休みになり街の景色は夏真っ盛りだ。
梅雨が明け、からっとした夏日がくると思ったら蒸暑い。東京近辺が連日33、4度、名古屋が36、7度。とうとう昨日の多治見、タイルや陶磁器の里が39度になったそうだ。熱中症で亡くなった方もいると伝えられた。僕たちの住むこの日本で。

ヒートアイランド現象、地球温暖化だと新聞でもテレビでも連日報道しているが、自然現象ではなく人災だという問題認識である。問題認識はあるが政界も財界も手をこまねいている。
人はつまり僕たちは短いスパンでしか物事が見えない。インドや中国、そしてアメリカの対応はおかしいとは言うし、各国の抱える問題は理解もできるし、だからと言って誰しもそれで仕方がないとは言わない。しかしそれが施政者や財界人の単なる「際限のない欲」によるものだとは言わない。誰もがそれでいいとは言わないのに言えない亡霊のような今の社会の組織とは何なのだろうか。

日経アーキテクチユアの最新号の冒頭に、首都大学東京高橋日出男教授の、「都市を襲う局地的な集中豪雨」は超高層街に多発するとの研究成果が記載された。
10日ほど前、駅を出て事務所に歩き始めたらパラパラと雨が降り始め、あっという間に豪雨になった。

バケツをひっくり返えしたような、いやいや浴槽が?いやそんなものではなかった。小さな湖の底が抜けたような、と言いたくもなった。
あっという間に舗道が池になった。折りたたみの小さな傘は何の役にも立たない。あまりなことに呆れながら歩いて事務所に着いたが、困った。着替えがない。
Gパンを通りこしてパンツもびしょぬれだ。人が来たらどうしよう!
1時間後事務所に着いた妻君が僕の格好を見て笑った。どうしたの?

今年の夏はいろいろなことを考えさせてくれる。

3年前の7月、ふと思いついてブログを書き始めた。壇ふみの書いたエッセイに登場した安藤忠雄さんのコメント、思わずにやりとさせられたこういう軽いタッチで建築を伝えたいと思ったのだ。
「ブログ」というのがあるよと教えてくれたのは娘だ。
お蔭様で大勢の人に読んでいただけるようになった。ブログを通して終生の友とも言える人との出会いもあった。日経アーキに「保存戦記」と言うコラムを1年間書かせていただくきっかけにもなった。

何気なく書いたJAZZと酒。コメントをもらって驚いた。JAZZ界に関わりのあるいわばプロ。僕にとってはJAZZの師というだけでなくJAZZによって人の生き方にも思いを寄せることになった。マイルスの人生、麻薬の時代、僕がJAZZにのめりこんだ時代の出来事に驚いたりする。
僕の世界が広がったのだ。
イギリスにいる知人が、僕のブログを読んで大人のJAZZ、エラとジョーパスのテイク・ラヴ・イージーのCDを買って奥さんと秋の夜を楽しみ、美味いと書いたアイレイをお土産に空港で買い求め喜ばれたと手紙が来た。アナログ人間の僕が、デジタル化していく今の時代を認識することになった。

『生きること』を書いた。
父と母が書き残してくれた僕が生まれたときからの「育児日誌」を紐解いたのだ。戦争の時代の「普通の一家族の記録」だ。この記録(エッセイ)はファイルにして母の一周忌に来てくださった親戚の方々に差し上げた。
ブログと言う媒体がなかったら書いてみようと思わなかったかもしれない。人が生きるということはどういうことなのかとつくづく考えた。皆様にももう一度読み返していただけるとうれしい。

ささやかだけどこのブログをこれからも大切に書き綴りたいと思う。膨大な(ちょっと大げさ!)新聞のスクラップをひっくり返しながら書いてみて、一晩置いて読み返して手を入れてUPしている。

4年目に入った暑い日の独り言です。

<写真 君子蘭・4月から5月にかけて咲く花なのに7月末の今見事に咲いた。育てている妻君は、狂い咲きだと苦笑しているがなんとも綺麗だ>

愛しきもの(6)うれしいグランドセイコー

2008-07-20 12:55:39 | 愛しいもの

40年ほど前に買ったキングセイコーが1年前に動かなくなった後、ちょくちょくヨドバシカメラの時計売り場を覗いては溜息をついていた。僕が見ていたのはGS・グランドセイコーだ。そしてついに買っちゃった。

`ちょっと見てよ`と妻君を誘い出した。ささやかな作戦。しょうがないと呆れ顔の妻君が、こっちだね!とにやりとしたのは、淡いアイボリーの文字盤のほうだ。9f61というシンプルなベーシックなスタイル。もう一つの8j55は少し薄いが文字地盤が白い。僕の好みと一致した。
説明をしてくれた店員の、柔らかい口調でクオーツであっても秒針の美しい動きを実現する`ひげぜんまい`の説明をしてくれる顔がいかにも嬉しそうだ。セイコーの人なのかもしれない。
機械式時計の人気が高くぼくも幾つか持っているが、使っていないと留まってしまうのが困る。だから今の僕はクオーツ党だ。とは言っても引き出しを開けて秒針が動いているのをみると、健気な気がするものの人気(ひとけ)のないところでも密やかに動いているのが気味悪かったりもする。

グランドセイコー(GS)愛用者カードに○をつけていて、僕の生きかたを確認した。
問いは幾つかあるが、例えばこの時計を購入した時の考えや気持ちについてどの程度当てはまるかを知らせて欲しいとあって、非常にそう思うから、そうは思わないまで5段階の欄に○をする。
セイコーのブランド時計GSを、メ-カーのセイコーウオッチがどう位置付けているのかと言うことと、時計メーカーとしての「文化」の捉えかたが見えて、その質問構成が面白かった。
「僕が非常にそう思う」にためらわずに○をつけたのが幾つかあるが、例えば「腕時計を自己表現の一部と考えた」、それに「機能や造りにこだわりのあるものを選んだ」などで、そうは思わないに○をしたのは「製品についての周囲の評判を重視した」である。

「個性的なデザインであることを選んだ」という項目の「個性的」と言うコトバにはちょっとためらった。僕が欲しいと思っていて手に入れた9f61は、いま流行の「個性的」とはいえない平凡とも言えるデザインだからだ。
でも僕は、これがグランドセイコーのコンセプト、ベーシックなスタイルで、不朽のデザインだと思った。一見平凡だがいや実は非凡、並ではない。それが研磨職人の手仕事でつくられたりゅうずガードを持つ9r65になっていったのだ。

東京中央郵便局をつくった建築家吉田鉄郎が「平凡な建築をたくさんつくりました」と晩年に述べたコトバと重ね合わせたりした。平凡の裏にメーカーと職人の信じられないくらいの「ものづくり」へのこだわりがあるのだ。キングセイコーが動かなくなって、次はこれだと思った時計。GSの中では安価で買えなくもないと思ったのだ。
しまってあるキングセイコーを取り出して並べてみた。GSは更に洗練されている。つけてみて改めて感じた。品がある。うれしいものだ。

次の項目も興味深い。
「周囲の目を気にせず、自分らしく生きたい」。うーん、自分らしくとは何か?と考えてしまうが、まあ「非常にそう思う」だ。
そう思わないの項目、「人がうらやむような豊かな生活を演出したい」。「演出したい」には思わず笑ってしまったが、非常にそう思う人が世の中にいるということなのだろうか。
ちょっとためらったのでややそう思うにしたのは、`知的で上品な生活がしたい`と、`洗練された華やかさのある男性でいたい`だ。
「知的で上品な生活がしたい」などとは全く思っていないのに、「やや」とはいえ○をしたのは、泥臭さに憧れてはいるものの、それに徹しきれないので、ではこちらで!という思いがあるからだ。泥臭く、生々しくなければ撮れない写真がある。何を捨ててもどうしても撮りたいという写真がある。『建築』ではなく写真なのに溜息が出てくるのだが・・・
「洗練された華やかさのある男性」。そうだなあ。しかも謙虚でね、大らかで格好いい男。ないものねだりだけど。GS愛好者の生活観・人生観は多分そういう男たちだ。

まったくね、しょうがないねえ、と妻君と娘が頷きあっている。こういうときの母娘はやけに仲がよくなる。ものにこだわるのが「わからん」というのだ。そうかなあ!と僕はぶつぶつとつぶやく。お前たちだって着るものにこだわったりするじゃない。でもお金を掛けないか!
ところで、僕のGSは僕に似合っているのだろうか?


長崎・天草紀行(2) 空路・天草エアラインと航路

2008-07-13 21:46:24 | 日々・音楽・BOOK

東京から天草へ行くのには、羽田から長崎の大村空港へ飛び、バスで市内を経由して茂木まで行き、フェリーで天草下島の富岡に渡る航路がある。もう一つのルートは、熊本空港経由で天草五橋を車で渡るのだが、馴染みがあるのは実家のある長崎のルートだ。
ところが和正君は、福岡へ飛んで天草エアラインに乗るのがいいと電話で言う。娘が帰ってくるときのルートなのだそうだ。なんと天草に空港があるのだ。気がつかなかった。

旅の目的は三つだ。
一つは、僕が小学生時代をすごした下田村(今は天草市天草町下田北だが僕にとっては下田村だ)を訪ね、僕の住んでいたところを歩いてみたい。そして旧友と酒を酌み交わす。下田が変わってしまったことは聞いているし小学校が無くなったことも知っているので、ノスタルジイを満たすというより好奇心のほうだ。村が市になるのというのはどういうことなのだろうかと?
二つ目は建築を観たいのだ。何だか情けないような気がしないでもないのだが、建築家の性(さが)のようなものかな。熊本県には「後世に残りうる優れた建築物をつくり、地域文化の向上を図る」という熊本アートポリスプロジェクトが進行中で、天草にも建てられた気になる建築がいくつかあるのだ。
それに「大江の天主堂」や、なぜか今まで観る機会のなかった隠れキリシタンの里に建つ「崎津の天主堂」もある。
そしてもう一つは、長崎の我が家の墓におまいりし、原爆資料館を見て、隈さんと日本設計のつくった県立美術館と黒川紀章さんの市立博物館を見る。
書いていて思う。これでは僕と旅するのを妻君(細君の当て字だそうだが)が嫌がるのももっともだ。何だか建築ツアーっぽいではないか。

天草エアライン(AMXという)は楽しかった。
福岡―天草便が主で日に4便(9月から神戸にも1便飛ぶことになり、3便になってしまう)熊本―天草が2便、何故か松山―天草というのがあって1便。それを一機で飛び回る。機体の整備期間(3日間ほど)は全便休航してしまうという素朴なエアラインだ。
飛行機はボンバル社(本社がカナダの世界3位の航空機会社)が製造したDASH8-100という39人乗り双発のプロペラ機。立ち上がると頭がつかえそうになるが、ちゃんとステキな客室乗務員(スチュワーデス)もいる。窓から車輪が見えるのもうれしい。

空港に和正君と一視君、それに豊子さんが迎えてくれた。そうだ彼らに会いに来たのだ。観光旅行に来たのではない。それは福岡空港でも感じたことだ。
羽田からの飛行機を降りると「天草に行く人はついてきてください」と案内の女性が現れる。待合室に集まった人々をみると里帰りの人ばかりのようだ。かつての「船」(まだフェリーではなかった)に乗った人たちと同じ匂いがする。僕もその一員だとふと思った。違和感なく、昔の船旅を思い出したからだ。

長崎中学に入り時折帰郷した中学時代、長崎から富岡港に降りバスに乗ると、天草弁が飛び交い、どこかで見たような顔に出会ったものだ。天草エアラインもあまり変わらない。那覇空港で宮古に行く飛行機に乗り換えるのとは趣が違う。天草は観光の島になったのではないのかとふと気になった。

「ボンバル社」。聞いたことがある。昨年のその前後、ボンバル社製の飛行機事故が多発し、安全性が問われていた。「予定通り運行するのかどうか気になっていた」と和正君は絶好の晴天を見上げて笑った。ちょっと気になるとすぐに運休して点検をするそうだ。みな歳を取ったが笑っているうちに小学生時代に戻った。

さて三日後、富岡港からフェリーに乗って茂木経由で長崎に向かった。普通のフェリーだ。
55年前、長男の僕は母に見送られて大都会の長崎中学に入学するために船に乗った。狭い階段を下りると畳敷きの船室があって、担ぎやのおばさんたちが寝転がっていた。長崎の市場に向かうのだろうか。船酔いで苦しそうに吐く人もいる。
板張りの甲板では大勢の大人が車座になって懸け将棋が行われていた。何か手品のようなことをやってお金を巻き上げる人たちもいた。香具師(やし)ともいえない、香具師崩れ。貧しい天草の人から巻き上げる金なんて些細なものだったのではないかと思うが、その光景を忘れ難いのはなぜだろう。
13歳だった僕の「都会」という、異空間へ向かう途中の大人世界との初めて出会いだったからなのかもしれない。天草に観光に来る人なんていない時代の航路物語だ。

船とバスの時間がリンクしていて、フェリーを降りるとあまり待たないでバスが来る。それはありがたいが港町が閑散としているのが気になった。お店もない。バスに乗って走り始めて気がついたが、神社がある。港には必ずある海の安全を祈る神社だ。茂木は名だたる「枇杷」の産地だ。歩いてみるのもいいものかもしれない、と瞬間思ったが神社はあっという間に消えた。


愛しきもの(5)ガジュマルとゴムの木の絵

2008-07-04 10:55:07 | 愛しいもの

我が家の壁のどこかに必ず掛かっている絵がある。
居間のメインの壁だったり、僕の部屋の机の前の狭い壁、玄関、細君(愛妻に愛妻はやめてと言われたので悩んだ。暫定的に細君と書いてみる)のベッドの脇の壁、何処にかけても存在感がある。今は・・・トイレの壁だ。
額縁は桜三角と言う最も安いもの。これが妙に似合う絵だ。何だ、それじゃあ面白くないや、といわれそうだけど、描いたのは僕の娘。幼稚園のときのクレヨンと水彩絵の具で描いたガジュマルとゴムの木だ。
木の幹がなぜかやけに太い。小さかった娘の感じ取った幹なのだ。緑で一気に書いた葉っぱには勢いがあり、ゴムの葉には緑と渋いブルーが大胆に塗られている。バックが水彩絵の具の黄色だ。
このタッチでは僕は描けない。

作意のない絵は大人には描けないと言われる。そして画家の一見子供風の絵でも、感性を修練によってつかみ取り、それを作品として昇華させたのだという。描けるのだ。技術の修練もしたし時も受け留め得たから。だから子供の絵みたい!と言われても、到底子供には描けない絵なのだという。
そうだと思いながら、でもこの絵を見るたびに不思議感に襲われる。なぜ黄色なのか。でもほかの色ではたぶんこの絵は成り立たない。どうして複雑な葉っぱの重なり合いをこんなにあっさりと省略して描いたのだろう。こういうふうにしか描けなかった。技術がないから。そうなの?と言われても娘は困るだろう。もう大人だから。
でも、このガジュマルとゴムの木を見るたびに、子供の面白さと、だんだん大きくなっていく様に刺激された好奇心がふつふつと沸いてくる。それは今でも変わらないのだけど。