日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

最初の一枚 妙なる音楽

2006-01-28 15:27:15 | 日々・音楽・BOOK

今朝のモーニングミュージックは、シンディ・ローパーの「ザ・ボディ・アコースティック」だ。
いつもはエバンスとかキースのソロによって朝の光を味わうのだが、今朝はなんとしたことか、娘から借り出してきた,あの引っかかる声を聞きたくなった。
マネー・チェンジズ・エヴリシングがはじまる。カントリーの風が吹いてくるような妙に懐かしい歌声だ。アメリカの歌い手は何処かにカントリーの心を秘めているような気がする。
この声を迎えてコーヒーは、舌に引っかかる苦い`ブラジル・ブルボン・完熟セラード`にする。なんのこった、完熟とは!なんて思いながら。

マイク・モラスキーの「戦後日本のジャズ文化」を読んでから、音楽を文化史の中で聴いてみよう、まあ僕の視点で捉えてみようという気持ちが起きてきた。音楽がなくては生きていけない、といってみたくなるくらい生活の中で聴き続けている。といってもただ好きなだけなのだ、とすぐに予防線を張るのだけど。

ということで、僕の最初の一枚はナンだったかと考えている。

高校時代、中学生の妹の音楽の先生が秋葉原から部品を買ってきて、オーディオセットを造ってくれた。音楽が好きなのに、お金がなくて買えなかったのを見かねたのかもしれない。
そして買った最初の一枚は、SPの「こうもり序曲」(ヨハン・シュトラウス)だったと思う。捨てるはずはないのになぜか手元にないので演奏者がわからない。まだSPが現役の時代だったのだ。

LPの最初は「幻想交響曲」。シャルル・ミュンシュとボストン響だ。
今そのジャケットを見ながら上野一郎によるライナーを読んでいる。この頃のライナー・ノートは、ジャケットの裏に書かれている。誰の絵か、補修したセロテープだらけのこのシュールっぽいジャケットは、幻想交響曲と聞いただけで即座に思い浮かぶくらい僕に焼きついている。まだステレオではないその音と共に。
五十年近くになるのに・・・・

そしてどうしても書いておきたい2枚目。
カール・ベームとウイーンフィルのシューベルトの「未完成交響曲」。
冒頭の、朝、山々が少しずつ光を帯びてくる有様を描いているような弦のささやき、そして次ぎへ移るときのふっとする息遣い。ほんの瞬間のこの息遣いはこのベームの演奏にしかないもので、カラヤンをはじめどの指揮者を聴いてみても納得できない。僕はこの瞬間だけでベームを支持する。

何故こだわるかというと、実行委員長をやった高校の文化祭で「山々は・・・」で始まり、陽が沈むまでの詩を描き、それを漆黒の会場(講堂)で文学部の一年後輩の男性にスポットライトだけを当てて朗読させたのだ。未完成をバックに。息を呑んで聴いてくれた高校生たち・・・・・
僕は会場の最後部で懐中電灯を点滅させ、息遣いを指示した。つまりベームの未完成が隅から隅まで頭に入っていたのだ。
この僕の書いた詩とこのときの公演は、僕の仲間では伝説になっている。ガリ版刷りの詩はあっという間に売切れてしまった。この詩も手元にない。なくて幸いか、恥ずかしくて読めないかもしれないので。

JAZZの最初は「チコ・ハミルトン」だったが、これもなぜかジャケットがない。赤いバックのチコがいた様な気がする。
日本のジャズメンのレコードは笠井紀美子の「ONE FOR LADY」だ。マンではなくジャズウーメンか。
ライナーに `ビリーに捧ぐ マル・ウォルドロンと笠井紀美子` と書いてある。ケメコといわれて愛された笠井紀美子がなんとマル・ウォルドロンのピアノをバックにスタンダードを歌っている。アルバムの最後は「レフト・アローン」。このドュオを僕は銀座にあったJAZZクラブ・ジャンクで聴いている。あのときの興奮が蘇る。

音楽にも物語があるのだ。僕のね!

さてさていつの間にか流れる音、流れるなんてもんじゃないのだが、コルトレーンのワン・ダウン・ワン・ナップになっている。マッコイ・タイナーのピアノも凄いが、コルトレーンのほとばしるまさに戦いといえる音、負けないロイ・ヘインズのドラムス、最初の一枚を書いてきて気持ちが昂ぶっているので受け留められるのだ。
次は好きでたまらないディア・ロードを聴こう。新しいバージョンのシンディのヒット曲True Colorsも捨てがたいのだけど。

やはり最後はJAZZになるのか、僕は。


巨匠ルイス・カーン「マイ・アーキテクト」劇場公開

2006-01-24 22:28:16 | 建築・風景

建築家ルイス・カーンのドキュメンタリー映画「マイ・アーキテクト」が一般公開されることになりました。建築に関わっている人だけでなく、多くの人に是非観ていただきたい映画ですので、2005年10月8日のブログに記載した文章を再録させていただきます。
  
公開劇場:  Q-AXシネマ 東京都渋谷区円山町1-5  Q-AXビル
         TEL 03-3464-6277
  公開開始日: 2006年1月28日(土)より 
  上映開始時間 連日21時15分より 全席指定
  <当日一般料金> 1800円

※ 場所など詳細についてはQ-AXシネマにお問い合せください。
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マイアーキテクト(巨匠ルイス・カーン)2005/10/8

六本木GAGAの試写室で,映画「マイアーキテクト」を観た。
室内が暗くなり、靄のなかに池を前にしたダッカのバングラディッシュ国会議事堂がぼんやりと現れると、30名あまりの建築家の吐息で、試写室の空気が揺れ動いたような気がした。後で気がつくのだが、このドキュメンタリーは靄のダッカで始まりクリアなダッカで終わる。それがカーンの生き方を模索した制作者息子ナサニエル・カーンの見つけ出したものだったのだ。

ルイス・カーンが1974年3月インドからの帰りのニューヨーク、ペンシルヴェニア駅で倒れ、パスポートの住所が消されていたために身元がわからず、3日間死体安置所に収容され、世界の建築界を震撼とさせたことはよく知られている。73歳だった。
地元フィラデルフィアで人種差別により仕事が実現できなかったユダヤ人のカーンが、芸術家としての完全主義を貫く苦闘の中で三つの家族を持ち、住所を記せなかった人生が明かされていく。

二人目の愛人の息子として生まれたナサニエル・カーンは、11歳の時の父の死や、父の存在も受け入れられなかった。しかし父の創った建築と向き合い、父と関係した施政者、多くの建築家、タクシーの運転手、それに親族などのインタビューをしていくうちに、父ルイス・カーンの生き様を探り当てていく。カーンを受け入れない建築家や市民もいるし、思わず涙ぐみだしそうになる、タクシーの運転手もいる。

評論家スカーリーは映像の中で、カーンの建築に入ると、作品の中にある神と語っているようだと述べている。納得できる言い方だ。
興味深いのは親交のあったフィリップ・ジョンソンが、芸術肌で仕事に恵まれないカーンを尊敬の目で見ながら、顧客に恵まれる自分がやや甘く、代表作ガラスの家をカーンが訪れたらどう思うかというナサニエルの質問に対して、認めてくれないだろう、なぜならこれは四角い箱だからと自嘲気味に語る率直さに驚かされる。

カーンを辿っていくうちに、様々な建築家の建築家像が浮かび上がってくるのだ。
またフィラデルフィアの都市計画者が、カーンを罵倒する様子も編まなく映像化されており、父の生き様はそれはまたサニエル自身の生き様でもあることに気がついていく。

バングラディッシュ国会議事堂をサポートした地元の建築家が、カーンの息子が訪ねてきたことに驚き、息子がいたのかと思わず涙ぐんでナサニエルを抱きしめ、この建築の映像放映が10分程度だと聴くと、この素晴らしい建築を10分では捉えられないと嘆く有様に、僕は思わずほろりとしてしまった。息子ナサニエルはそこで何を見出したのか?(書きたいが書かない!)

ルイス・カーンはミースやコルビュジエと共に、モダンムーブメント(モダニズム建築)の代表的な建築家といわれるが、凛とした空気感を漂わせるその建築はカーンにしかないものだと思う。僕が好きなキンベル美術館は、光を見事に導き入れたコンクリートとトラバーチンによる温かみのある建築だ。訪れたのは19年前も前になるが、いつまでも忘れ得ないその空間は、やはり凛とした空気に満ちていたと思う。巨匠といいたくなるあの風貌のように・・・

このドキュメンタリーは、シカゴ映画祭最優秀ドキュメンタリー賞など、数多くの受賞を得ているが、2006年1月一般公開とのことである。



何の脈略もなく Mフェア

2006-01-21 23:01:21 | 日々・音楽・BOOK

雪の土曜日だ。
愛妻もいないし娘もいない。まあ娘は自立しているので我が家にはいないのだが、二人してチョット出かけているのだ。ブログ仲間の妙なる大阪の文化人七重さんも、雪の東京をさまよっている。いやいや根策している。MOROさんはイタリアから帰り、刺激的なメッセージを伝え始めた。

さて僕は一人、とっかえひっかえ[JAZZ]を少し音を大きめにかけ,Yesterday I Heard The Rainなどなど、おや!やっぱしビル・エバンスかなんて思いながら、JAZZ論考家TAROさんのメッセージにどう応えようかと雪を見つつ思案、つまり贅沢な時間を楽しんでいるのだ。

ということで早めに晩飯の用意をして一杯やっている。といったって今はやりの台所男でない僕は、愛妻用意の食い物を食い尽くしたものの、なんだかガランとした冷蔵庫をあさってみたりする。いやはや結構旨いものがあるのを発見。ちくわとかカマンベールチーズとかね。

朝青龍が勝った笑顔がいい。TV見ているのがばれるなあ。スイッチを入れたのだ。まあね、優勝はなくなったがチャンと自分の役割を心得、僕たちに何がしかの思いを伝えることが出来る。まだ20代なのに。人間の不思議さを感じる。日本人でないことなどが吹っ飛んでしまう。

おや、仲のいい内田清蔵教授が現れた。何だこれは!住まいの極意という番組、いつになくちょっと理屈っぽいんじゃない。でもあの笑顔には皆参るだろう。これか、極意というのは!グラスを揚げ、画面に向かって乾杯。

ああ、どうしても書いておきたいことがあるのだ。
森山良子デビュー40周年のミュージックフェア。あのテーマソングは彼女の声だ。
「涙(ナダ)そうそう」僕が大好きな夏川りみとビギンのデュオ、そこに森山良子がダブル。
なぜ書いておきたいのか。音楽や人間や自然に「面」と向かっているからだ。「涙そうそう」自体が素朴に人の想いに対峙していてそれを受けて真摯に歌っている。皆が。それが今の僕にはとても大切だと思えるのだ。

法の裏ばかりくぐろうとし、法に沿っていると開き直り、それが時代の寵児として受け留められ、若者が憧れ、(おい、若者よ、大丈夫か!)それを政界のトップまで礼賛する。至誠を持って?Aさん至誠ってなに?

このおかしな状況を持ち上げるマスメディアと自称文化人・評論家、大学教授。と書いていたら、NHK`日本のこれから`が始まってしまった。お金の話、つまり増税、無駄、施設の必要・不必要、何処かおかしいのは文化なしの論議、金ばかり。
しかし今夜のMフェアはそうではなかった。俺は(急に僕ではなくなった)なにを言っているのか。ウイー!酔っ払った。TAROさんではないけど・・・

写真史の転回点、フイルムカメラからのニコンの撤退

2006-01-17 13:54:41 | 写真

「フイルムカメラ ニコン撤退へ」という1月13日の新聞報道には驚いた。サブタイトルに「老舗 デジカメに押され」とあり、F6と安価なFM10以外は生産を終えるという。
更に同日、同紙(朝日)に「デジカメ市場消耗戦」とカメラ業界のレポートが記載されているのも偶然ではないだろう。生き残りをかけた厳しいカメラ業界に改めて暗然とするが、この出来事は写真の根幹を揺るがす事件と言ってもいいのではないだろうか。僕はこういう言い方を必ずしも大げさだとは思わない。

というのも一昨年の秋、ニコンはフラッグシップ機フイルムカメラのF6の発売をしたばかりで、その時のメーカ関係者は、フイルムカメラ存続への意欲を述べていたし、つい最近の写真誌によってもF6の販売実績も悪くないと聞いていたからだ。
F6の発売は写真の世界がデジタルに移行していくことは動かせないとしても、写真の本流は二本立てで存続する、或いはそうさせるというニコンの姿勢を表明したと、多少危惧を持ちながらも感じていたのだ。

僕はあるときからニコン党になった。特段キャノンが嫌いだということではなく、やはりどこかでニコンに憧れていたのかもしれない。FE2、FAと遍歴し、今はF3とF4を使っている。同時に講談家の高座を撮る為に手に入れたライカM6もかなり使い込んでおり、いわばアナログ人間なのだ。
レンズもズームは使わず,F4を使いながらAFは使わず、フィルムはトライXしか使わず、それも液温設定を工夫して800に増感し、誰しもそうだがペーパーも自分なりにこだわっていた。しかし墨のような漆黒の黒の出るILFORDの24Mも製造が中止され、個展のために新しいペーパーを探す羽目に陥ってから3年あまり経った。

過去形で書くのはその僕がデジカメで撮る機会が多くなってしまったからである。
ニコンマウントのFUJI S1proを手に入れ、それを友人に譲って今はS2proという一眼レフを使っている。おまけに半年前にレンズ一体型のディマージュA200まで買ってしまった。僕自身決して納得していないのに。

僕にとって何が問題か。
まずデジカメになってカラーで撮るようになってしまった。ズームを平気で使うようになった。ディストーションに業を煮やしながら。更に絞り優先で、写真の遠近、つまりボケの具合にいやでもこだわっていたのに、Pで平気で撮るようになった。
要するに堕落したのだ。
撮ろうと思えば何枚でも撮れるし、写真撮影が安易になってしまった。デジタル写真とはそういうものだという観念が(・ふと思ったのだが観念したということか・)僕にはある。

まずカラー化。
比較的安易なRCペーパーを使う僕が言うのもおこがましいが、銀塩では粒子にこだわるし(こだわれる)、何よりフィルムの現像と作品のプリントを、自分の手作業によってコントロールできる。たとえ下手であろうと。こういう時はチョッと謙虚になるのだ!それに何より自分の伝えたいことを表現できる。
このモノクロとカラーの問題は、写真の世界の永遠の命題でもあるのだが。
ボケのコントロールに気が回らなくなったのは、映像素子がAPSサイズ、つまりレンズ画角がおおよそ、1,5倍になり必然的にワイドレンズを使うことになったからだ。しかもごみが付着するのでレンズの交換がしにくいことにもよる。
機械に僕が制御されている。

しかしそういうものだと割り切ると結構便利なのだ。
それに人を撮る事にこだわっていた僕が、建築の写真を撮る機会の多くなったこともある。DOCOMOMOに関わりはじめ、建築行脚の機会が増えたことにもよる。そこで撮る写真は作品として撮るというより記録のために。そしてそれを伝えるメディアの変貌にもよるのだ。
まあ僕は今の時代をまだ生々しく生きているということか!

自分の作品としてはモノクロにこだわる建築を撮る写真家もいるが、例え自分の作品としても記録という要素は抜き差し難いと考え、カラーでしか撮らない写真家もいる。写真は作品か記録か、あるいは記録を内在した作品かと考えてしまうのだ。考えるの結構楽しいのだが・・・

さてF6は残すとはいえ、ニコンのフイルムカメラからの撤退は、僕にはデジタルで作品を撮れるのだと宣言されたような気がする。撮れ!ということではなく。
ニコンの声明でなくてはそうは思わなかっただろう。
デジタル写真に初めて真剣に対峙してみようと思い始めた。でも結果はわからない。

しかし写真界全体が震撼とした事件、という言い方は間違いではないような気がする。フィルムやペーパーなどのメーカの対応も気になる。
今僕たちは写真史の展回点に立っている。(1/13)

        <写真 2003年に開催した写真展の案内>
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と言っている矢先の今朝(1/20)の新聞に、コニカミノルタが、デジタルを含めてカメラ製造から撤退、さらに恐れていたフィルム(さくらカラーとして愛された)も作らないと報道された。それを受けて富士写真フィルムは事業を継続すると発表、しかし同日発売の写真誌では、需要の減少と原燃料の高騰のためにプロ用カラーフィルムとモノクロ製品の値上げを表明している。事態は深刻だ。

時間の終わり・建築の面影

2006-01-13 11:00:06 | 写真
どうも気になって仕方がなかった展覧会に足を運ぶことが出来た。最終日の3日前。「時間の終わり」という妙に心を打つタイトルの、写真家杉本博司の回顧展である。
杉本は1948年生まれの57歳、バリバリの現役なので回顧展というのには早いのだが、単に写真家というだけでなく世界で高く評価される美術作家としてのまとまった作品紹介がされるのは初めてなので、回顧展と銘打つのもうなずける。

写真雑誌や作品集で印刷された写真を見て気になっていたのは、海の水平線をただ撮っただけの「海景」シリーズ。それがなぜ作品になるのか。
それと建築が関わる2つのシリーズである。
一つは映画の上映中カメラを据え放しにして撮り、スクリーンが真っ白になったアメリカの古い映画館を撮った「劇場シリーズ」。それによく知っている建築をあえてピンボケで撮った「建築」シリーズ。
いずれの写真も「建築の面影」が写し撮られているが、微妙な濃淡をかもし出すディテールが気になっていた。これらの写真は印刷ではわからないのではないかとずっと思っていたのだ。
これは正しくそうで、大きくプリントされた写真展示を視た後は、カタログや作品集を手に入れる気持ちがなくなってしまった。

プロの写真家は基本的に印刷を頭に入れて機材も選び撮影をする。だが杉本はそうではなさそうだ。そこが多分写真を超えた存在として注目されるのだろうが、同時に写真とは何かという常に僕自身に問いかけている悩ましい課題を、改めて突きつけられたような気もする。

僕はどうしても1950年代のロバート・フランクやウイリアム・クライン、日本では60年代から70年にかけての東松照明、プロボーグ時代の森山大道や中平卓馬あたりから写真を考え、そしてそこに戻ってしまうのだが、杉本の写真を見るとやはりそれだけが写真ではないのだという思いと、写真とタブローとの関係を考えてみたくなる。
しかし終わってしまった展覧会を論じてもさほど意味があるとは思えないので、それは別の機会に考えることにして、杉本の写真の建築に関わる二つだけを書いておきたい。

一つは、ネガかプリントか、という問題だ。
田町にあるインターナショナルギャラリーのディレクター山崎信さんによると、プリントこそが作品で、ネガの存在は気にしないという。
これは写真アーカイブをどう考えるかという根底に関わる大きな問題で、彼はプリントされた作品、たとえば所蔵している石元泰博のシカゴシリーズも、プリントされた作品を劣化させないように保存していくことこそが何より大切で、中性紙による保存の箱や収蔵の際、プリント面に宛がう紙、展示のときの照明やガラスの材質(アクリルも)などに腐心している。

僕は何処かにネガさえあれば、つまりネガを劣化させないように保存していくのがアーカイブだという思いが抜けきれないのだ。写真を作品と見るか、記録と考えるかという課題にも関連した問題ではあるのだが。
建築界では、図面や資料のアーカイブが大きな課題である。同時に当然建築写真のアーカイブも緊急課題なのだが、何の手当てもされていないのが現状なのだ。

さて杉本博司はどう考えているのか。アサヒカメラの2005年12月号で大竹昭子との対談でこの展覧会について語っているが、それを紐解きながら考えてみたい。あの水平線の淡くもあり光も感じられる黒の絞まりは、実はネガにかかっているのだという。
「完全なネガが出来ればプリントはやさしい」
しかし、あのモノトーンの色調をどうやれば生み出せるのか、僕も暗室にこもって苦心するのでわからないでもないのだが、話に聞くその杉本のネガ創りは想像に絶する。
詳細は記すこともないだろうが、しかし展示作品プリントの素晴らしさを視ると、とてもとてもネガさえよければ簡単にプリントできるとは思えなくなる。結局それは改めていうまでもないということなのだろう。
建築写真のアーカイブ、建築写真家の作品を、つまりプリントの保存も考えなくてはいけないか。

それにしても大きなプリントの中に、実に微かに浮かぶ映画館の微妙なディテールの面白さはなんとしたことか。そしてふと思うのだがほとんど暗黒にしてみるための映画館を、様々な装飾で飾った建築家の建築に対する思いと、その時代の映画を見る人の、その映画とは何だったのかという存在に思いをはせる。日本にもこういう映画館は生まれたのだろうか。
でも。上映中シャッターを開けっ放しで撮る写真。
そんなに苦労しなくたって、スクリーンに光だけを映写して撮ったっていいじゃない。どこが違ってくるのだろうか。うーん!杉本に聞いてみたくなる。

さて二つ目は建築に関するテーマだが、これは会場に記載されていた杉本のコメントが興味深いのでそのまま記すだけにする。

「建築」
・モダニズムで、装飾から人間の魂が開放され、神の気を惹く必要なく、王族の自己顕示も必要なく、機械によって人間の力を上回る形をつくる自由を得た。
・優秀な建築はボケ写真の洗礼を受けても溶け残る。

<いずれも極めて明快でなかなか興味深い指摘だ。確かにピンボケのバウハウス校舎も、サボア邸も、クライスラービルも、アインシュタイン塔も溶け残っていた。さてね、アインシュタイン塔はモダニズムか、クライスラービルは!>

閑話休題。「海景」
ところで水平線を撮った作品の海のさざなみが、まるで波打っているように見える。会場の六本木ヒルズ53階の森美術館が揺れているのだそうだ。
写真に当るシャッターライトがゆれているから。
大竹昭子は思わず「嘘でしょーっ」。僕もえー!本当?


始まった「前川國男展」・モダニズムの先駆者

2006-01-08 12:55:40 | 建築・風景

前川國男展が始まった。
案内チラシには「モダニズム建築の先駆者・生誕100年」とサブタイトルが書かれているが、控えめな紹介の仕方だ。
前川國男をたどる事によって日本のモダニズム建築の軌跡が見えてくるし、同世代の共にコルビュジエに学んだ坂倉準三、吉阪隆正、そして吉村順三や丹下健三を生んだ建築界だけでなく、日本の社会構造が浮かび上がってくるからだ。
そして展示だけではそこまで深読みできないとしても、カタログに記載されている25名に上る建築家、研究者や評論家による論考、それに作品の解説によって前川自身の建築家としての足跡、つまり建築家とは何か、建築家の職能とは何かという命題も見えてくる。
そしてそれを確認できるのが、今では建築展の定番になったと言ってもいい、写真、図面、模型それにスクリーンに映し出される映像だといえる。そういう意味でもこの展覧会には何度か足を運んだほうがいいかもしれない。

この展覧会は既に様々なメディアで紹介されているので、スタート前日の2005年12月22日、慌しい暮れに行われた内覧会の様子を伝えてみたい。こういう展覧会はオープニングパーティ或いはセレモニーとは言わずに内覧会という言い方をする。まさにデパートの内覧会と同じような招待者や関係者で溢れかえった賑やかなひと時だった。

数ある建築展は実行委員会を構成し、様々な企業の協賛を得て開催されることが多い。
この建築展の実行委員長は、建築家大谷幸夫氏。氏は東大名誉教授でもある。事務局長は実質的なキュレーターの役割をした前川事務所のOB、京都工芸繊維大学助教授の松隈洋さん。彼は建築家鰺坂徹さんと共に会場構成を担当した内藤廣さんと相談しながらこの展覧会を作りあげた。
昨春行ったDOCOMOMO100選展の打ち合わせで前川事務所を訪れたとき、必死になってこの展覧会の打ち合わせをしている松隈さんを垣間見ており、またプレイヴェントとして、藤森照信さんや林昌二さんを招いて数度にわたって前川を探る対談を行ってきた彼の執念!がついに実ったかと僕にとっても感慨が深い。
僕は藤森さんとの対談を聴きに行ったが、INAXの会場は立ち見が出るほど膨れ上がり、また第2次大戦前後の前川さんのスタンスについての、時を経た今だから言えるという藤森論考は、刺激的で興味深かった。それらを含んでの前川展といっていい。

展示されている模型が素晴らしい。その多くは様々な大学の研究室による大学生によって作られた。これも松隈ネットワークの成果といっていい。
例えば5年前に行ったDOCOMOMO20選展で、いまや伝説(ちょっと大げさかな?)となった繊細で大きな日土小学校の模型を作った神戸芸工大の花田教授が今回も乗り出し(乗り出させられ!)、28名の学生を率いて紀伊国屋書店(1947年木造2階建て)をつくった。
鈴木博之さんと一緒に覗き込み、凄いねえといったら彼はいつものようにモゴモゴと口ごもりながら「5 ヶ月もかかっちゃった」と苦笑した。しかしなんとも誇らしげだ。
日大広田研の東京文化会館も素晴らしい。屋根のシェルの微妙なカーブも上手い。どの模型もそれぞれ味があり前川のやったことが浮かび上がる。

僕にとって驚いたのは、駒場の民芸館に行くときいつも気になっていた、通り道に建っている木造の大きな瓦屋根の住宅が笠間邸といい、前川の設計によることを知ったことだ。誰だろう設計したのは?と実は何十年も思っていた。そういうこともあるのだ。ああ、中を観たい。

内藤廣さんや吉村行雄さんと話し込んでいるところに平良敬一さんが通りかかり、写真がいいねえ!という。吉村さんよかったねえ、今のこと録音しとかなくっちゃあ!と僕は茶化す。撮影の大半は吉村さんなのだ。ちなみに吉村さんは2月から彼の撮った写真を組んだ松下電工汐留ミュージアムで行う「アスプルンド展」(2/11-4/16)が控えている。
前川の作品は吉村さんしか撮れないと前川事務所に進言したのが内藤さん。内藤さんは僕をキュレータみたいに言うけど僕は人寄せパンダだよ、やったのは松隈さんだよなんていう。いやいや内藤廣あっての松隈洋キュレータだったかもしれない。

JIAの前会長前川事務所のOB大宇根さんが内藤さんを捕まえて、耐震偽装などの建築界を巻き込んだ事件に信頼を取り戻すコメントを出すよう要請する。いやね、ちょっと書いたよ、ところで近美は?と今度は内藤さんから僕に。先日鶴岡八幡宮の宮司さんと面談したと応える。JIAのアーカイブ委員会をどうしようかと前会長も僕に。こういう集まりはいい情報交換の場でもあるのだ。

林昌二さん、槇文彦さん、谷口吉生さんもいる。植田実さん、鈴木成文先生、当時神戸芸工大学長だった鈴木先生は晴海高層アパート取り壊しに際して個人名で住宅公団に保存要望書を提出した方だ。
勿論橋本前川事務所代表、高橋晶子さん、大川三雄さん、模型を作った明大の田路助教授、会ったばかりの韓国文化財庁の崔さん、ギャラ間の代表の遠藤さん、新建築の大森編集長も現れた。
レイモンドの秘書だった五代さん、土浦邸の中村さん、坂倉準三夫人の百合さんもお嬢さん同伴で来場されたので挨拶をする。皆さんとてもお元気だ。
カタログはバイリンガルで作られているが、翻訳した大西伸一郎さんがサポートをしてくれたオーストラリアのウオーラルさんを紹介してくれる。時間がないとぼやいていた大西さんの顔もやっと吹っ切れた。

何より素晴らしいのは、模型制作や資料の整理をした沢山の学生を招待したことだ。
彼らは著名な建築家が自分の作った模型に見入り、うなずいているのを見てどんなに嬉しいことか。苦労が吹っ飛ぶだろう。勿論模型をつくることによって建築の面白さを堪能したことは間違いない。仲のいい建築家澤さんと今の学生は幸せだねえ!とお互いなんとなくうなずいたものだ。

おかしな前川展の紹介になってしまったが、会場になった「東京ステーションギャラリー」はこの展覧会終了後数年にわたって閉鎖され、東京駅復元工事が始まる。
新たな装いによって2011年またここで再開するそうだが、赤レンガの壁を使った展示が観られるかどうか。その魅力を味わうためにも是非足を運んでいただきたい。
更に前述したカタログを手に取って欲しい。
このカタログは、前川國男の足跡をアーカイヴとして残しておこうという趣旨によって構成され、貴重な資料でもあると同時にまたこれも松隈さんの(実行委員全員の、と言い添えておく)前川を伝えたいと言う思いに満ちている。そこに林昌二さんの厳しい指摘なども記載されており、一瞬どきりとする。必読。

唯一つ僕が気になるのは、ではこれらの前川建築が現在の社会、世相にどのように受け止められているか、存続に向けての課題がないか、という視点での記載のないことだ。
しかしこれは、車椅子に乗った大谷幸夫氏が挨拶で若い人たちに想いをこめて「この展覧会を足がかりとして、前川建築を観る旅に出て欲しい」と述べたその旅の中で、各自が発見、確認していくことかもしれない。

今後それぞれ2回にわたる記念シンポジウムと、東京ステーションギャラリー美術講座も開かれる。
その案内は恐縮だが、併設している僕のHPのイベント案内をご覧頂きたい。


新年だ!

2006-01-01 13:49:33 | 日々・音楽・BOOK

年が変わり2006年になった。
友人が送ってくれた濃密な奄美の花をチラッと見やる。
見上げる雲は厚いが丹沢の峰のあたりや、遠方の建物の稜線あたりの空が光り輝いている。
そうだなあ!昨年の自然界の異例の寒波や人間社会の様々な事件、ことに耐震偽装とそれにまつわる建築界自体の構造不審、設計料ダンピング問題、ますます増幅する経済優先による時を経た建築の解体などを考えると、正月の空に晴れろ!とは言い難い。
僕の親しい写真家からは、今年は人の生きかたの正念場だ、と言う葉書をもらった。前途多難な新年を迎えたと思う。

そこで身を清め、今年を想う為に初風呂に入った(暖まるためだけど)。ぽかぽかとして気持ちがよく、お屠蘇の越後の酒`雪中梅`で女房や娘と乾杯をしておせちを食べたながらぐいぐいと飲んだら、嫌なことを忘れてしまった。

新年だ。

くよくよしていられない。やることが山済み。うーーん、なんてディスプレイを眺めていると、はじけるような笑い声が聞こえてきた。
女房と娘が「こいこい」をやっているのだ。お互い好敵手なのだ。

この建築界に対する信頼を取り戻すには何をすればいいのだろうか。人はそれぞれの役割を持っている。さて僕がすることは、出来ることは・・・・

まあ、まずJAZZを聴こう。昨年よりはまっている「Kind of Blue」。何十回、何百回聞いたことか。年の初めにはふさわしいアルバムだ。マイルスの、コルトレーンの、キャノンボール・アダレイも素晴らしいが、ビル・エバンスフアンの僕は、ここでの彼のタッチにもしびれる。
ところでこのアルバムのスタートになる「So What」の冒頭、エバンスとポール・チェンバースがリズムを刻んだ後、マイルスの一吹きにジミー・コブがささやかだけどしっかりとシンバルを叩くのは、この歴史的名盤がこれから始まることをさりげなく宣言しているとはいえないだろうか。聴くたびにゾクッとするのだ。

ああ、なかなか建築に「思考」が行かない。