日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

この日常的な三日間!(後編)JIAの会議でサンデル教授の「ハーバード白熱講義」談義

2010-06-30 10:10:59 | 建築・風景

PK戦になって駒野の球がバーを弾き、JAPANのW杯が終わった。抱きかかえられる駒野を見ていて、僕も涙が出た。JAPANはいいチームだった。ウインブルトンでは、ビーナス・ウイリアムスが負けた。
「閑話休題」の後半をUPします。でも其の前に一言だけ。TV中継のアナウンサーがのべつ幕無し能書きを言い続けるのに閉口し、耳をふさいだ。残念だった。

さてその翌日の写真展。
写真家飯田鉄さんからの案内は、四谷三丁目Rooneeでの「ライカレンズの楽しみ」。土曜日の夕方パーティーをします、カメラ好きの人たちです、なんて書いてある。でも頼まれた原稿もあるので1時間半をかけて出掛けるのは辛い。
飯田さんの写真はM9ではなくM8で撮った王子近辺の都市の光景、深いカラーの発色に魅かれた。流石にデジタルのライカを使いこなしている。プロに向ってこんなことを言ってとも思うが、僕が言うのだから仕方がないと彼は苦笑するだろう。

そしてもう一つ。麹町JCIIでの、若松豊光作品展「百花 誰が為にか聞く」。
思わせぶりと捉えられかねないタイトルだが、ベス単(単は一枚のレンズ)で撮った昭和30年代の日本の様。
風景とは言いたくないし、光景というのも言い得ていない。モノクロのふわっとした風景なのだが、引きずり込まれた。この撮影者は、建築家、坂倉建築研究所のOB、若松滋さんの父親なのだ。

坂倉のOBでJIA神奈川の代表もやった金子修司さんからメールが来て、建築家会館の役員会で、7月に発行される会館のシリーズの第三巻「建築家の清廉上遠野徹 北のモダニズム」の試作版に掲載された僕の撮った降りしきる雪の中の上遠野徹自邸の写真を見て、僕の自然への想いを感じ取った。同じく感銘を受けたベス単若松豊光の写真を見て欲しいというものだ。
あの時代の日本社会の受け止め方が僕とは違って、何故そこに眼を向けたのかと思わせられる写真だ。それは又其の時代の日本にはそういう風景があり、若き日の僕は一体何を見ていたかという想いと裏腹なのだが、これは出来得れば別項で論じたい。

二つの写真展(27日に終了しました)を梯子して、新宿の「日本設計」プレゼンテーション室で行われるDAAS(建築デジタルアーカイブス)の運営委員会に出席する。理事長の槇文彦氏から退任したいと申し入れがあるので後任の候補者を検討したのだかどう思うかと、国交省の高見さんに問いかけられた。候補者は親しくしている人なので、成る程と思いながらもぐもぐと答える。

会議の終わった後、JIAでの「JIA―KITアーカイヴス運営委員会」に出席。
議題についての意見を取り交わした後、ふと僕がもらした、日曜日のpm6:00より放映されていたNHK3チャンネル、マイケル・サンデル教授の「ハーバード白熱講義」論議に、相田武文さんや仙田満さんが夢中になった。
相田さんはアメリカの学生に設計課題を出して講義をしたことがある。おかしな提出案にときどきぶっ切れたくなるが、アメリカの教師はとことん丁寧に学生に付き合う。それが1年経つとその学生が考えられないくらい成長する。それとマイケル・サンデル教授のハーバードでのこの講義が重なって見えるというのだ。
そして日本の今の学生たちはねえ!と仙田さんが同調して嘆いたりする。サンデル教授のテーマ設定も興味深いし、学生の考えを引っ張り出す其の方法も見事だが、教授と渡り合う学生が素晴らしいといったものだ。

でもね、アレはいいところだけを抽出して番組構成しているに違いないと力み、僕たちの会議室は和やかな笑いに満ちた。こんな会話が満ちるところが建築家集団・JIAの面白いところで、だから僕は時間をやりくりして出かけるのだ。
其の僕はつい最近早川書房から出版されたサンデル教授のこの講義を取りまとめて書いた「これからの´正義`の話をしよう いまを生き延びるための哲学」を持っている。
僕は教授のテーマの「正義」だけでなく、TVで関連して論考した「コミュニティ論議」に興味があるのだ。この本がベストセラーになる日本も、棄てたものではない。

ところで僕はこの一文を、決勝トーナメント韓国とウルグアイ選(残念ながら韓国が敗退した)の始まる前、TVドラマ「交渉人遠野麻衣子」をチラチラと見ながら書いていた。
舞台の建物が瞬時写りおやっと思った。DOCOMOMOで20選に選定した林昌二さんの設計したパレスサイドビルの、改修されたエレベーターホールだった。

この日常的な三日間!(前編)乗り続ける車とMRI、そしてW杯

2010-06-27 14:17:32 | 添景・点々

次の「ぶらり歩きの京都」は、訪ねた「桂離宮」に触れるのだがちょっと一休みして一言を。
JAPANがデンマークに勝ち、参院選も始まってTVや新聞が賑やかになったと思ったら、JIAやDAASの会合が重なり、友人から観て欲しいと写真展の案内が来たりして慌しくなった。

更に検査のために大学病院に行き、2箇所をまわったら一日がかりになってしまった。声帯をやられて声が出なくなってから一月を越えたが完治しないし、自動化検診(人間ドック)の折MRIで脳波を撮ったら・ポチがついた。そのための面談でもある。

RXエイトに乗りたいのだが、悩んだ末にそろそろ14年目を迎える車を乗り続けてみようと決断し、病院の帰りにディーラーに寄る。愛車は4WDのステーションワゴンだ。
付き合い始めてから十数年にもなる担当者は何が起こるかわからないので乗り換えた方がいいというが、コーヒーを飲みながらの車談義・車文化論になった。13年も乗ったとはいえメーターはまだ3万7500キロだ。
最高潮のエンジンから「乗り続けてよ!」といわれているような気がするのだ。メンテナンスをしてくれる技術者のプライドと、車にかける心も読みとれる。建築だって同じじゃない!と僕はすぐに建築に転化したくなる。
「閑話休題」的にこんな三日間を書いておきたくなった。ちょっと長くなるが読んでいただけるとありがたい。

5月13日と14日、築地市場と東京藝大を会場にして行ったDOCOMOMOテクノロジー国際セミナーの後半から風邪気味になって、声が出なくなった。出ない声を振り絞って伝える電話の声が聞き取れなかったのか、奇妙な誤解をされて信じがたい事態が起きたりして困惑もした。

医者に時間がかかるよといわれたとおり直らない。桂離宮で鼻血が出て驚いたが、半年毎の定期観察のために大学病院に行った折診てもらった耳鼻咽喉科の先生に、下を向いて鼻を摘まんでじっとしているとすぐ留りますよと教えられた。僕には驚天動地の出来事が、先生には日常茶飯事、鼻からカメラを入れて傷んだ声帯を撮った写真を見せてもらった。でもこうなった原因はわからない。
ゴトンゴトンと音の響くMRIと共に、医療の最先端技術を垣間見た一時、先生方とは医療談義になる。加齢症カナ?しょうがない、病院も楽しんでしまえばいいのだ。待っている間に本も読めるし・・・

其の夜、というか明け方、目覚ましが鳴って3時に起きた。言うまでもなくW杯・ワールドカップ、JAPANとデンマーク戦を見るのだ。体調が万全ではないのに全くしょうがないねと妻君はいつものことながら呆れ顔だ。僕はそれでも気を使って音を小さくし、点が入っても大きな声を出さない。
結果を此処に記すまでもない。今に至ってもなお繰り返し放映されるTVを見てしまうが、その日はサッカーの合間に、ウインブルドンの森田あゆみの戦いを時折チャンネルを回して見た。

本田圭佑は先を見ているので喜べないとコメントしたが、勝てた試合を不甲斐なく落とした森田は、負けたがここまでやれたと充実感があると述べるのが情けない。宮里藍も負けてもニコニコして先を見るという。ランキングのトップに出たが、この風潮はマスコミやジャーナリストが求める現在の世相に乗っかったコメントなのではないかと嫌になる。悔しさをぶっつけない今時の`いい若者たち`。それを望む視聴者に媚びざるを得ないということはないのか。

オシムのコメントが面白い。
『(本田の)プレーを褒めるとしたら「任務を果たした」ということだ。・・けどチヤホヤするのはやめたほうがいい。若者はすぐに付け上がる』

その日の午後、寝不足の僕は、20年前に増築設計をした新宿のビルの、テナントの撤去した既存部分だった地下室の漏水対策を勘案した調査と改修のため現地視察を行った。こじんまりとした建物だが、屋上に非常用電源装置が設置されている地階の、排煙設備点検が必要だ。
ともあれ僕は、仕事もしている。

ぶらり歩きの京都(5) 葱をぶっかけて喰う`葱や`「平吉」と、飲み処「れんこんや」

2010-06-23 20:01:13 | 建築・風景

高瀬川を一跨ぎした右側西木屋町通りとの間に、葱や「平吉」があった。此処で昼飯を食い、夜は「れんこんや」で飲むことにした。どちらも高瀬川沿いの味わい深いリーズナブルなお店だ。

<葱や「平吉」>
`京都高瀬川水流るる 葱や平吉`と書かれた暖簾をくぐり、格子戸を開けて見渡す店の奥に大きなガラスの窓があり、高瀬川沿いの木々が逆光気味に眼に飛び込んでくる。落ちつく暗さの店内の中央に、カウンター風のテーブルが四角くしつらえられていて、大勢の人が嬉しそうに食事をしている。

2階の畳敷きの大きな部屋に案内された。真壁の柱の中の黒く塗られた壁、川面の窓から木々が見える。ああ良いなあと思った。この店は娘がこのあたりを散策していて見つけたという。娘と妻君のお気に入りの食事処なのだ。

その妻君は湯葉とろろめし、僕と娘は日替わり定食(880円と安いのだ)。ご飯が選べる、僕は炊き込み(なかなか旨い)、妻君は玄米で娘は白米、細い葱を刻み盛り込んだ大きな枡が添えられた。味噌汁にも飯にもおかずにも好きなだけぶっ掛けて喰うのだ。この葱は不思議なことに生臭くなく意外感もあってなかなかいい。こういう食べ方があるのだ。話も弾むというものだ。

<れんこんや>
京都に行くのだと知人にメールをしたら、「れんこんや」ってのがある、きついお上がいるが最近いい感じになった、何かいいことがあったみたい、なんて返信があった。そう聞くと行かざるを得ない。好奇心が刺激されるし、取材や講演をするため美術館の学芸員と京都に行くたびに立ち寄るという彼女が「いい店」だというのだからいい店なのだ。
場所は、西木屋町三条下る。

夕方になりホテルにチェックインした後、行ってみようということになって電話した。どの席に?と聞かれ、初めてなので!と言ったが、店に入ると小上がりで待っててくださいと、カウンターの前のテーブルを片付けてくれた。町屋風の梁のむき出しになったこじんまりした店の一番いい席だ。

今のお上さんは3代目、初代が熊本出身でその自家製「からしれんこん」が此処の売り、店の名前にまでしてしまった。どこにでもありそうな、でも京都にしかないような我が家族にはピッタシの店だった。酒もいい。
某著名な、品のいい素敵な若き女優(タレント)が相棒と入ってきて隣のテーブルに腰掛けた。聴くともなしに聞こえてくる声。僕たちと同じようにいい店があるよといわれて初めて来たと掛かってきた携帯電話でそっと話をしていて近じか東京で飲もうね!なんて言っている。

ネットでは`おばんざい`と書いてあったが、大皿に料理が盛ってあるのではなく、こだわりの丸干しや厚揚げを焼いてくれたりしてその味を楽しんだ。大人の味といいたくなる。最後に食べた雑炊がまたなんとも旨い。京都だ。

灯りがともり、仄かに浮かぶ高瀬川沿いの、この川を開削した角倉了以の記念碑などを覗き込みながら回り道をし、新風館の近くにある三井ガーデンホテルに向う。


ぶらり歩きの京都(4)祇園さんの御朱印・信三郎帆布から高瀬川へぶらり

2010-06-20 15:53:34 | 建築・風景

八坂神社で御朱印をもらった。僕の旅には御朱印帖は欠かせない。のだが、たいてい持って
ゆくのを忘れてつい零(こぼ)す。いつものことなので気を使ってくれた妻君が前の夜に用意してくれた。
八坂神社という大きな朱印を押し、筆で「祇園社」と書いてくれた。
八坂神社は明治元年まで祇園社といわれていて「祇園さん」として親しまれ信仰されていたのだ。御祭神(中御座・大神)は暴れん坊の素戔鳴尊(スサノオノミコト)。本殿にお参りもしないで御朱印をもらっていいのかと思いながら、東大路通を歩いて一澤信三郎帆布に向った。

様々なエピソードで話題になっている店を一度は覘いてみたいと思ったのだ。さほど混んではいないが幾つものトートバッグを抱えたおばちゃんがいて驚いた。渋い紅柄色の帽子がちょっと気になってかぶってみたが帽子は沢山持っているし、他には僕の感性に合うものなし。店内をさっと一回りして表に出た。

「南座」で玉三郎が踊っている。
1929年(昭和4年)地元の白波瀬工務店の設計施工で建てられたこの劇場は、つい最近内部から取り壊しの始まった銀座歌舞伎座の改修を戦後にやった吉田五十八の弟子、今里隆によって、1991年(平成3年)内部や設備などを改修し見事に使いこなされている。
ここで芝居を見たことはないが、一階にある松葉屋でにしん蕎麦を賞味したことを思い出した。ところで僕たちは高瀬川の「葱や」へ昼飯を喰いに行くのだ。

四条大橋を渡る。ヴォーリズの設計した東華菜館(1926年・大正15年)の鴨川に張り出した桟敷が昼間なのに人で一杯だ。土手に連なって座っているカップルも沢山いて鴨川が賑やかだ。
鳥彌三を左手に見、そうだった此処にあったのだとフンフンと頷きながら、木々に囲まれたせせらぎ、高瀬川沿いの小道、木屋町通りを下る。

ぶらり歩きの京都(3) 石塀小路をぶらぶらと

2010-06-13 21:36:25 | 建築・風景

陶器店やおみやげ物屋を覘きながら、3年坂(産寧坂)から2年坂をぶらぶらと歩いた。外国から来た観光客や、石段に座ってまちなみのスケッチをしている人もいる。例年なら梅雨時の6月4日、初夏の日差しが眩しいが思ったより人が少ないと妻君と娘が喜んでいる。こんなに人がいて!と僕は思った。

案内役の娘が立ち止まった。前方の連なる屋根の向こうに伊藤忠太のつくった祇園閣の奇妙な形の塔が見える。学生時代に登ったことがあるのだという。へー!上れるんだと思わず吐息が出た。上ってみたい?といわれたが今日はねえと、「石塀小路」に入った。

狭い路のことを小路というが、人家の間の狭い通りを路地という。路地は露地とも書き茶庭を指したりもする。石塀小路もそうだが京都では路地というコトバは使わないようで、名前のついた小路が多い。こんなところにと思わず疑う狭い小路がある。「ぎおん小路」だ。
タイルを外壁に貼ったコンクリートのビルと木造家屋の4尺(1,2メートル)ほどしかない隙間を工夫して通り抜けるようにし、家屋の表をデザインして料理屋などが連なる魅力的な通りにした。小路をつくるのも`まちづくり`だと言いたくなる一例だ。建築法規の接道がふと気になるが、野暮は言わぬことにする。

2年坂側から石塀小路に入ると、石塀ならぬ板塀に囲まれた瀟洒な料理屋や旅館が連なっている。だが突き当りの塗り塀を曲がると、石垣の上に建つ塀に囲まれた小路になる。観光客のあまり通らない味わい深い路だ。不思議な細い門形の石のゲートをくぐると、3尺ほどしかない町屋の真中を潜り抜け、弁天町の通りに出た。
妻君と娘は何度も歩いているようだが、振り返りながらこちらからは通りにくいねえという。細いしなやかな文字で書かれた「石塀小路」という扁額が掲げられてはいるものの・・知らないと町屋の庭に入り込んでしまうのではないかと思ってしまいそうな気がするからだ。

日が落ちるとほんのりと灯され料理屋の電飾看板の、細いはんなりとした文字が浮かび上がってくる。そこで取り交わされる男と女の会話が聞こえてくるようだ。これが京都という都会の、僕を捉えてはなさない風情なのだと思う。

<写真 左・石塀小路の出口 右・ぎおん小路>

ぶらり歩きの京都(2) 清水三年坂美術館の小村雪岱

2010-06-11 17:24:36 | 建築・風景

嵐山・大覚寺とか銀閣寺というバスの行き先の表示を見ると、わくわくしてくると同時に、歴史の佇まいに震撼とし、なぜか浮かれてはいられないような気もしてくる。こんなことがあるからだ。

娘が京都の大学にいたころ、僕は時折深夜バスに乗って京都に行った。
着くのは朝の6時過ぎ。娘とバスの着く京都駅で待ち合わせをし、まだまちは深閑としているが東本願寺の門が開かれていて砂利を踏んで本堂に上がり、ひんやりした京の空気を味わうのだ。
7時近くになると、講の方々なのだろうか、白装束に身を固めた30人ほどの方が現れ、本尊の前に正座をする。とお坊さんが出でて読経がはじまる。ふと気がつくと紋付の羽織で正装した数名のまちの旦那衆と思われる方々が、間をおいて回廊際に身を引いて正座しお経を唱和している。終わるといつの間にかすっといなくなる。
旦那衆の一日も始まったのだ。

京都は僕にとっては観光(非日常性)のまちだが、京都という都市文化の日常性が数百年、いや千数百年面々と引き継がれてきたのだと実感するのはこういうときだ。ジーパンの僕には厳しい京都の一面、いやその底にある凛とした文化に触れた其の時の想いが蘇る。

其の路線バスが、ウイークデイの朝なのに混んでいる。観光客だ。珍しいことに妻君が一言。タクシーで行こうか?助手席に座った娘が「三年坂美術館へ」。えっ!っと運転手に言われた娘は地図を差し出す。
好奇心を刺激された運転手からこれからどこを廻るのかと問いかけられ会話が始まった。
僕は京都のタクシーに裏切られたことがない。京都に誇りを持ち観光客を大切にしたいという気持ちに溢れているからだ。それに初乗りが570円と安く、近場で3人乗るとバスの値段と変わらなくなる。
くるくると路地を通りぬけて五条坂、そして三年坂の突端(僕には産寧坂のほうがぴんと来る)に運んでくれた。プロだ。

石段の上に降り立った娘は久しぶりだ!とうきうきしている。整った屋根の連なりが「京都だ」と僕たちに呼びかけている。

小村雪岱は明治20年(1887年)に生まれ、昭和15年(1940年)に亡くなった日本画家である。
川越に生まれたが育ったのは、三味線の音や芸者の行き交う東京八重洲河岸から入る数寄屋町と鳶が木遣を唄う檜物町。東京美術学校(東京藝大)で下村観山に学んだ。江戸の風物がまだ残っていた時代である。
泉鏡花の本の装丁を手がけたり、歌舞伎の舞台構成をやって歌舞伎役者に引っ張りだこになったり、朝日新聞に連載された邦枝完二の「おせん」の挿絵を書いて時代の寵児となった。

その「おせん」の原画と下描きが展示されている。たおやかな「おせん」の肢体が着物を通して訴えかけてきて、目がくらくらした。
下絵と本絵では背景が変わり、よりモダンになった。浮世絵が好きで其の歴史に堪能な娘は雪岱を知っており、ネットで展覧会が行われていることを検索していた。
僕はつい先ごろの「芸術新潮」やNHKの日曜美術館で小村雪岱の存在を知った。春信や歌麿とは違うモダンな筆使いは、まさしく妖しきモダニズム時代の絵描き、戦災で焼ける前の東京の面影を宿す。京都で見る雪岱もまた格別だ。

雪岱は1918年から5年ほど資生堂に勤めた。そこでこしらえた香水瓶がまたいい。
ここには展示されていないが、娘と妻君は掛川の資生堂美術館(企業資料館とアートハウス)に見に行くなどといっている。

ところで一言ご案内を!この「清水三年坂美術館」は金工、七宝、蒔絵、薩摩などの細工の細かい工芸品展示の美術館である。溜息の出るような細工物もぜひご覧あれ!

<なお小村雪岱展は8月22日まで開催中>

ぶらり歩きの京都(1) 旧京都電燈本社屋のモダニズム

2010-06-07 14:06:29 | 建築・風景

京都の旅は、京都駅前左手に建っている旧電灯本社屋(現関西電力京都支店社屋・1937年設計武田五一)の撮影からスタートした。今までに何度かトライしたがなかなかいい写真が撮れなかった。
連なったバスや駅前を通り抜ける車が多くて途切れたと思った途端にどこからともなく現れる車、ということだけではなく、眼の前の邪まっけな交通標識、それをはずそうとすると車道に乗り出さなくてはいけない。引きがなくてレンズのシフトに収まりきれない。
この旅は僕の好きなように付き合ってくれるという妻君と娘の好意がほのぼのと嬉しく、ちゃんと撮っておきたいと思った。

設計をした武田五一は京都市役所本館など関西を中心として記念碑的な建築をつくった建築家である。明治5年(1872年)広島県福山市(現)に生まれた。当時はまだ福山藩だったことを考えると、近代化に揺れたその時代が浮かび上がってくるような気がする。
東京大学(現)に学び、京都工芸繊維大学や京都大学の建築学科を創立し、日本の建築界、ことに関西の建築界に大きな軌跡を残したが、アールヌーボーやセセッションを日本に紹介した建築家・研究者としても知られている。

この社屋は1932年に欧米の建築視察をしてモダニズムの時代を受け止め、64歳になった五一が、装飾を排除して構造体を強調した外壁をつくった。ファインダーを覗きながら、翌年に逝去した建築界の大御所になった五一の、晩年になっても尽きない建築へかける想いに打たれた。

興味深く魅力的なのは玄関ホールの間接照明を配したドーム状の天井だ。建築家としての情念を残しながら電燈の時代を見据えた。DOCOMOMO選定建築として選定されている武田五一のモダニズム建築である。

朝の9時、新幹線「のぞみ」を降りて快晴の京都駅前にたち大きく深呼吸をした。
既に建ってから13年になってあの大空間が当たり前になった建築家原広司の京都駅、山田守の問題作京都タワー、批判が渦巻いたこの建築も建築技術の塊だ。西本願寺の大改修が終わったと思ったら大仮構で覆われた東本願寺。
京都の建築は現在(いま)に生きている。

さて、我が家の`ぶらり歩きの京都`がこの旧京都電灯本社屋からスタートした。