日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

取り壊される歌舞伎座・そして中郵 「建築家は!」 

2009-02-24 11:18:34 | 東京中央郵便局など(保存)

まったく!と舌打ちしたくなる出来事が起こる。まだ僕はあきらめないが、東京中央郵便局の経緯も、時を経れば「なんてことをしたのだ」と誰しもが悔やむと思うのだが、マネーにこだわる人たちは「時」を想うことができない。今しか見えないのだ。人の記憶を内在する「時」を感じとることができないのだ。つくづく舌打ちをしたくもなる。

僕はおおよその状況は知っていたのだが、改めて歌舞伎座建て替え新聞報道を見て唖然とした。
その数日前、NHK報道局のTさんから電話をもらった。近じか「歌舞伎座」建て替えについてのプレス発表がある、JIAが保存要望書を出すと聞いたがどうなのか?
JIAは改築検討という報道のなされた数年前、既に要望書を出しており現在どう対処するかと情報収集と検討している段階だと答えた。
そしてTさんには、演劇評論家や歌舞伎フアンの有識者からのこの建築に対する想いだけではなく、建築としての歌舞伎座の、「建築家」の見解を伝える機会をつくって欲しいとお願いした。

建築をつくる行為は、本来多くの人々と喜びを分かち合い祝福されるものだ。そうあるべきだ。そういうものだ。だからつくる建築家は「文化を築く」人として尊敬もされるし期待もされる。
それが、いつから、どこでおかしくなったのか!

「東京中央郵便局」だって、郵政内部の建築部門の人々が、率先して壊そうとしている。見え透いた嘘を平気で公表しながら。彼らの大先輩である郵政を率いてきた建築家吉田鉄郎が心血を注いでつくった日本が世界に誇れる建築を。
彼らが「建築家・吉田鉄郎の手紙」(鹿島出版会)を読んでいない筈はない。建築への想いの溢れるこの本に触発され憧れの郵政建築部に入社したのだと僕は信じる。それなのに一体どうしたのだろうか?そういう郵政OBの建築家と親しいのでそう思うのだが、さほど版を重ねていないところを見るとそうでもないかもしれない。なおさら情けなくなる。

「歌舞伎座」新聞報道のタイトルは「歌舞伎座 顔立ち一変」そして『石原知事「物言い」簡素に』とサブタイトルがついている。(朝日 2009・1・28)

歌舞伎座は、明治22年(1889年)檜材による木造3階建てで建てられたのがスタートだった。その22年後に大改造がなされ、正面の車寄せは唐破風、左右と2階は破風を用いた日本風の意匠にかわり、当時の写真を見ると現在の姿の原型になったのだと感じ入る。
ところが大正10年漏電によって消失し、3年後の大正13年(1924年)東京美術学校(現在の東京芸大)の岡田信一郎によって鉄筋コンクリートによって日本一の大劇場として再築された。更に昭和20年(1945年)の大空襲で、外郭を残して消失するという数奇な経緯を辿る。

現在の歌舞伎座は、美術学校の後輩吉田五十八によって昭和25年になって再現された。外観の意匠をほぼ踏襲し、内部は時代の要求を受けて近代化された。以来59年間、あの東銀座の欠かせない風景として愛され続けている。
それを事もあろうに石原慎太郎知事の、装飾に充ちたこの建築を「銭湯みたいで好きではない」との一言で、ガラスと格子を多用したそっけない姿に変えてしまう。デザイン・設計は隈研吾と三菱地所設計。それを仕切ったのは歌舞伎座再生検討委員会の伊藤滋委員長だ。

当初、所有者松竹は、現在の意匠を継承しようとした。役者や歌舞伎フアンのこの建築に対する強い想いがあるからだ。
都知事に、多くの人々の記憶や想いを踏みにじる権限が在るのだろうか?
石原知事はかつて、建築学会、JIA、建築士会会長の面談要請を蹴って、都が所有していた同潤会大塚アパートメントを取り壊した。数年経った今、地下鉄茗荷谷を降りると、空地に仮囲いがされた空しい景色が現れる。

「銭湯」。いいではないか。それが庶民の文化だ。
「歌舞伎!」。この建築関係者はその語源「歌舞く」という意味を知っているのだろうか。歌舞伎を愛する岡田信一郎、吉田五十八は`歌舞く`を形にした。その姿を僕たちは愛した。59年の記憶が消える。知事は、日本の文化にとって欠かすことができない歌舞伎の持つ一面を理解し得ないのだろうか。
この知事の一言と、伊藤滋氏に仕切られる「建築家」の姿に忸怩たるものを覚える。
ますます影が薄くなり市民の信頼が揺らぐ建築家の存在。日本文化の継承は大丈夫なのか。中郵の歴史検討委員会の委員長も伊藤滋氏。肩こりが酷くなるというものだ。

<写真 賑々しく装飾に充ちた歌舞伎座>

―見ることは 撮ること― 写真家木戸征治さんからの手紙

2009-02-20 10:23:03 | 写真

娘を連れて新中野「SEA」のドアを押した。僕を見た木戸さんが驚いた。久し振りなのだ。
JAZZはもう一つといっていた娘はサチヨさんのハスキーな声にぞっこんになった。「かっこいい」。JAZZシンガー中野幸代。味わいが深くなった。ピアノは星野美香。
ニコンD700で撮った写真を写真家木戸さんに送った。手紙が来た。かつて繰り返し語り合った写真論議。改めて考え込んだ。写真の存在と写真家木戸征治が僕の中に居座っている。ライカM6でモノクロにこだわって撮り続けた写真、だが、デジカメになってから時間を経た。
木戸さんの了解を得たので、その手紙を掲載する。

<木戸さんの手紙>
『なんの予告もなしの突然の出会い、嬉しかった。
兼松さんのマルチな活躍何よりです。行動するエネルギーが軒昂の源なのかも。

デジカメによるスナップショット、店内の不思議なほどの暖かいトーンの発色、外部夜景のショット、冷えた寒々とした色調。
最新のテクノロジーを使って、色のコントロールやバージョン作画は可能ですよね。「記号」だから、補正してどんどん変えられるね。パソコン管理なのでしょう。

デジカメ、フイルムカメラ、選択するのは自由です。いずれにしても、現実を映像化する装置なのですから。
写真は、外観の反映です。現実の「鏡」と表現してもいいでしょう。その現実の反映を作者は自己表現に変える。その意味で心の「窓」でもあり、作者そのものです。写真が保有している記録性と作者自身の表現、つまり、客観性と主観の矛盾、様々な葛藤のなかに写真のダイナミズムがひそんでいる。
大切なことは、どちらを使うにせよ「何を撮りたいのか、大切な事は、どちらを使うにせよ`何を撮りたいのか、何を伝えたいのか」でしょう。来て感じる作業です。

カメラは人間がものを見るとはどうゆうことかを考える非常に面白い装置だと感じます。
モノクロによる表現は、見る側に創造力を刺激するインパクトは捨てがたいです。
モノクロフィルム、ペーパー、薬品が手に入る限りは。゛モノクロ゛を続行です。

そんな話題とデジカメ、銀塩かめらについてを先日TBSテレビでOAされた番組でコメントしました。
―見ることは 撮ること―

スナップショットありがとうございました。
寒さがつのります。どうぞご自愛のほどを。
また会える日を楽しみに。お礼まで。    木戸征治』



伊勢・志摩・京都(2)ワインリストのお話しと岡田Japan

2009-02-15 13:44:41 | 建築・風景

新横浜から「のぞみ」に乗った途端`朝シャン`が出てきたのには驚いた。朝シャン?朝のシャンパンだ。
NV Luois Picamelotというフランスのスパークリングワイン。僕はワインは苦手でよくわからない。でも美味いものは美味い。この旅の門出を祝って乾杯だ。ソムリエ(?)は、オバラチャン。少壮のと云いたくなるが、高校時代は建築家`隈研吾`と同級生だった`いい男`と同年輩の実業家だ。

彼には痛い目に会ったことがある。テニスだ。
僕は壮年(テニスの世界では40歳)になったばかりの頃、海老名市の大会で何度か優勝し、都市対抗の代表にもなった。その後膝を痛めて引退(ちょっと大げさだけど)してからかなりになるが、自信はあった。
この思い出もいつのことだったのか忘れるほど昔になったが、`いい男`グループで八丈島に行ったとき、ラケットを借りてホテルのコートで闘った(戦いではなく・笑)。

まあ今考えると無謀だが、一回り廻り若い現役のプレーヤー、それも小癪なぎっちょ(これは差別語かな?サウスポー)。ワンゲームも取れない。容赦ない。それはそうで、そうではないと何が起こるからわからないのがこの世界で、強かったときの僕もそうだったが、兼松さんが現役だったらどうでしたかね!といたわられたのが良き(かどうか!)思い出になった優れものなのだ。

ワインリストをオバラチャンからメールで教えてもらった。お昼のワイン、Newton Unfiltsred Chardonnay 2005・カリフォルニアの白と書いてある。
お昼のワイン?
お昼は、伊勢うどんならここだというお店だったが、そのお店で飲むわけがない。さて、どこで飲んだのか?近鉄特急の車中かも!これもとても美味かったという記憶がある。何をつまんだかはっきり思い出せないが、オバラチャンこだわりのチーズだったかも・・

夕刻、志摩観光ホテルでの晩餐会のワイン。
白 Sancerre La Jouline 2005(フランスロワール地方)
白 Pouilly Fume 2006(フランスロワール地方)
赤 Gigondas VV 2006(フランスローヌ地方)
赤 Chapoutier Saint Joseph Deschants 2005(フランスローヌ地方)

さて、どうだ!とこのエッセイを読んでくださっている皆様に問いかけたいが、僕は美味しいね、としかいえないのがちょっと残念だ。日本酒なら一言いえるのだけど。

僕が自慢してもしょうがないが、曇っていて沈む夕日が見えなかったとはいえ英虞湾の絶景に見ほれたあとの、シャンデリアの輝く村野藤吾の志摩観光ホテルメインダイニングルーム。`いい男の創業40年を祝い、オバラチャンこだわりのなんとも味わいの深いワインの、オバラチャンと`いい男`の注釈を聞きながらの会話を楽しんだ会食。リーズナブルで品のいいワイン。いいものだ。
僕は村野藤吾の講釈をちょっぴり。

書いていたら一杯やりたくなった。
今日は建国記念日。せっかく娘が来たのに妻君と一緒に銀座に出かけてしまった。この後ワールドカップの予選、対オーストラリア戦がある。ほろ酔いでのTV観戦もいいだろう。
ストックしているワインを引っ張り出してみたが、口のあいている日本酒、新潟県妙高市の千代の光酒造・もろみを搾ったままを飲む無ろ過生酒にした。
酒は酒だ。気に入っている金城次郎の魚が描かれているぐい飲みに、大嶺實清さんの創作した四角いカラカラで注ぐ。
音楽は、UK(イギリス)のちょっとハスキーなケイティー・タンストール「アイ・トウ・ザ・テレスコープ」。 

UPが遅れたらオーストラリア戦が終わってしまった。
ふっと息がこぼれた。いい試合だった。岡田Japanはいいチームになった。密度の濃い時間を得たその充実感がある。
でも勝てなかった。日本は勝とうと思って戦い勝てなかった。オーストラリアは負けまいとして戦い負けなかった。その差は一歩だが果てしなく大きい。
中村俊輔はその一歩が遠いと率直に述べた。ヨーロッパを転戦して戦いの本質を見据えていて大丈夫だと思った。だがしかし玉田の「精度を上げなくてはいけない」と何度云えばすむのだといいたくなる一言に、岡田JAPANへの危惧を感じる。

ともあれ旅を思い、サッカーを楽しむほろ酔いの休日、それもいいものだ。

<写真 快晴になった翌朝の志摩観光ホテル>

「伊勢・志摩・京都へ」(1)上七軒の舞妓`尚染め`

2009-02-10 10:01:46 | 建築・風景

昨年(2008年)5月の京都で行ったDOCOMOMO総会の2ヶ月前、伊勢・志摩・京都へ出かけた。
クライアント(顧客?いい云い方がないだろうか)の会社創設40周年記念、2代目だが、今では仲のいい友人になった長いお付き合いの`いい男`を囲むメンバーによって思いがけないグルメ旅になった。でも美味いものを食い、飲んだだけではない。建築家にとっては溜息の出るような旅だった。
どうだ!とたまには格好よく云ってもいいだろう。そろそろ1年になってしまう。時の経つのが早い。来月にはDOCOMOMO Koreaと共催の「韓国近代建築ツアー」を率いる。その前に・・

伊勢では、内宮、外宮のいずれも内部に入ってお参りした。志摩では村野藤吾の設計した「志摩観光ホテル」に泊まった。気になっていた憧れの建築だ。京都の宿は吉村順三の「ホテルフジタ」。建て替えのうわさのあるこれも垂涎のホテル。客室の格調のある紙張り障子が心地いい。

日に一客しか取らない嵐山の精進料理も堪能したが、まずは上七軒の舞妓`尚染め`からだ。
「上七軒」。気になる地名だが、北野天満宮・天神さんの門前の花街である。「中里」が、僕たちが寄せてもらったお茶屋。`いい男`とその仲間の馴染みの店だというので驚いた。

京都には、祇園をはじめとして、先斗町(ぼんとちょう)、宮川などの花街があるが、西陣が支えた上七軒が京都最古とのことで、今では10軒のお茶屋さんのこじんまりとした花街だ。言わせれば「格は一番上でっせ」ということだそうだ。なるほど、現れた舞妓`尚染め`さんは美形(こんな言い方をしたくなる)、そしてなんとも現代っ子で頭の回転が速く話しの切れ味がいい。他愛のない取り止めのない今考えてもなぜ話が弾んだのか思い出せないが、溜息が出るような可愛さだ。
‘いい男`の長男が京都大学の院生と聞くと、会いたいとダダをこねるのもなんともねえ、まいったなあ!

もう一人の舞妓は`勝瑠`。横浜関内の出だというので話が弾んで追求したら、なんとなく話があやふやになった。この世界、いろいろとあるのだ。
軽く飲んで、記念写真を撮る。まあ、馴染みの「いい男仲間」を除けば、僕たちはおのぼりさんだからね!

さて、これから舞妓を連れて3台のタクシーで先斗町に乗り出すのだ。そして馴染みの倶楽部に行く。そこには先斗町の舞妓が待っている。それが仕来りだ。
仲間の一人・案内人は、ねえ、写真を撮らない?と僕の写真家?魂を刺激する。先斗町の入り口でタクシーを降り、`尚染め`にまとわりついてシャッターを切った。
カメラを持つと、僕は箍(たが)が外れる。恥ずかしくなくなるのだ。
いい歳の僕が、ハイティーン(なんだか古いコトバだなあ、今はどういう言い方をするのかな!)を前になり、後になって撮る。先斗町の路地を歩く人たちがやや呆れながら、でもうらやましそうにチラチラ眼をやって路をあけてくれた。

<写真 尚染めさんと記念写真、楽しそうでしょ、いい男とその仲間たち> 



「青蛙と月下美人」 滑稽俳句と誤読する狂歌の時代

2009-02-01 21:16:38 | 文化考

新聞に眼を通していて、芥川龍之介の一句に目が留まった。
「青蛙おのれもペンキぬりたてか」

青蛙の生々しい青色に、おい、ホントか?という驚きと、自然界の不思議さや、かなわねえなあ!とそれを感じる自分へのおかしさが読みとれて、うれしくなる。あの芥川龍之介の深刻な顔写真が眼前をよぎったりした。青蛙ってそうなのだとその姿の臨場感を感じとれる。

元NHKアナの八木健さんが「滑稽俳句を大繁盛させたい」と「俳句に滑稽がない、それが滑稽」と「滑稽俳句協会」つくってから半年を過ぎたそうだ。八木さんに言わせると、芭蕉の門人・許六はこういったそうだ。「滑稽のおかしみを宗とせざれば、はいかいにあらず」。

気になって「俳諧」を辞書で引くとなかなか微妙な答えがかえってきた。①おどけ。たわむれ。滑稽。②俳句(発句)。広義には俳文、俳論を含めた俳文学全般を指す。
滑稽ということになると「川柳」が気になってくる。辞書を引きなおす。「季節」に捉われない。
つまり季語がなくてもいい。それくらいは知っている。
多くは口語を用い、人情・風俗、人生の弱点や世態の欠陥をうかがい、機知、風刺が特色で、江戸末期には低俗に堕して「狂句と呼ばれた」とある。

十数年前の一夜を思い出した。
「月下美人」が咲くのでうちにこない、と誘われたのだ。
「月下美人」。これも調べた。メキシコの亜熱帯雨林が原産地で、1年に一回新月の夜にしか咲かない。咲けば芳香を放ち艶やかな美人(に見える?)。これは楽しみだ。
誘ってくれたのは棟方志功先生の長女`けよう`さんとご主人宇賀田さん。今では志功研究者として僕が頼りにするその長女頼子さん。日本民藝館の学芸員や、朝日新聞のデザイナー・絵描きの橋本さんもいる。

鉢に植えられた月下美人を皆で見据える。
まあ一杯と、青森の田酒が出てきた。ちびちびやりながら発句にトライした。連句とは行かないが思い思いに月下美人を詠んだ。皆呻吟しているが、思いがけず僕には次から次えと俳句らしきものが生まれる。
「月下美人待てど暮らせど月下美人」「月下美人一献傾ける輩見て」。
皆苦笑している。到底、俳句とは云えず川柳にもなっておらず、八木さんの唱える滑稽俳句的にもなっていない。狂句にもなっていない。でもそういうものしか出てこない。ではこれはなんだ?
けうさんも橋本さんも亡くなった。でもあの楽しかった一夜を「滑稽俳句」という一言で思い出したのだ。

さて、麻生総理が所信表明演説で文言を誤読した。ところが中川財務大臣が更に数多くの誤読をして、財務省から修正要請がなされるという異様事態が発生した。
オバマ大統領の20分に及ぶ就任演説は、大勢の人々に向って自分の所信を自分の言葉で投げかけた。僕が改めて言うこともでもないが、厳しい世界状況であっても希望が湧いてきた。

下を向いて書かれた文章を読み上げる。それを誤読する。誤読だけでなく意味を取り違える。改革だといいながら官僚の書いた文章をただ読むだけという政府と官僚の危うい関係を露呈した情けない人々の下で僕たちは生活をしなくてはいけないのだ。あああ!低俗に堕した狂句の世界だ。それを楽しもうかナ!
書きながらTVを見ていて、ブレア首相の名前を間違えた麻生総理の渋面が映し出された。さすがに笑えないのだろうが、笑わないだけでもホッとする。

明け方、楽しく可笑しかった宇賀田家を辞した。月下美人は咲かなかった。咲かなかったが今僕の眼前には、けようさんと橋本さんの笑顔が浮かんでいる。

<スケッチ 蛙 作:吾が娘  新聞記事・朝日1月31日>