日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

生きること(19) 貧しくても豊かだったが・・・

2006-11-29 10:43:19 | 生きること

昭和27年(1952年)3月、僕は熊本県天草郡下田北小学校を卒業した。
この小学生時代の6年間が今の僕を育ててくれたと思う。僕はいつの間にか天草弁を話すようになり、よそ者という違和感はなかった。
疎開先でいじめられたと言う話をよく聴くが、小学生時代だけでなく僕にはいじめられたりいじめた記憶がない。しかし坂を上った道の脇に`マンボウ`と呼ばれた気の良い上級生がいて何かありそうだと彼の傍に寄り添った微かな記憶がある。ささやかとはいえ身を守るすべをこの頃から身につけるものなのだろうか。

金さんというボロをまとった浮浪者がいて、学校に行く途中にあった階段をはるかに上る神社を定宿にしていたというこれも微かな記憶がある。
金さんを揶揄すると言うこともなく、金さんの存在と共にこの神社は僕達にはちょっと近寄りがたい異空間だった。此処には宮司もいないしお祭りもない。
賑やかな祭りがあり、露天が出た境内で全校生が学年に関係なく背の高さの順に並んで相撲を取った杜の神社は、川向かいの山裾にあった。神社の名前は思い出せないが下田村北の氏神なのだ。きっと。

この祭りで忘れがたい思い出がある。貧しかったが母は祭りの小遣いを僕たちに渡してくれた。露天を覗きながら僕たちが買ったのは、母にプレゼントする包丁だった。喜ぶ母の顔を見たかったのだ。母の苦労がわかっていたのかもしれない。
よく隣組(宮本部落)の常会があり、母は真っ暗な道を`つぶき`という黒く淀んだ底知れない深さのある下津深江川の淵を通って出かけた。僕たち三人の子供は心配しながら寄り添って母の帰りを待った。

小学校二年生になったとき新制中学が誕生することになり、校舎がないので講堂を仕切って教室にしていたことを覚えている。そういう時代だった。
1年生の時は優しい横山先生、2年と3年は西島明子先生、西島先生になにを教えていただいたのか覚えていない。きっと文字の読み書きや算数という基礎を教えててくださったのだと思うが僕の記憶に在るのは、僕たちのクラスをとても可愛がって下さったことだ。僕たちも先生が大好きだった。西島先生を想うとき、二十四の瞳の大石先生を連想する。先生にとっても初めてのクラス、僕たちは特別な存在だったのではないだろうか。先生も僕たちと一緒に様々なことを学んだのかもしれない。今でも先生の明るい笑顔が即在に目の前に現れる。

4年生から卒業するまでの先生は、正しく恩師矢野四年生先生だった。
先生は熊本県菊池郡の出身で、師範学校を卒業して下田北小に赴任された。僕たちのクラス(学年)が始めての生徒だ。昭和4年に生まれたので四年生だ。
新しい日本を夢見て生涯を子供の教育に懸けた若干21才。僕は矢野先生に巡り会ったのだ。
先生は後に玉川大学を卒業され、東京の足立区の小学校で教鞭をとり、鹿浜西小学校の校長を最後に定年退職されたという。多分先生に触発されたのだ、
6年生のとき抽象画を描くようにもなった「僕の生きること」の始まったこの時代を語るのは別の機会にしたい。
天草を訪ねて同級生に会い、その時代を地元の子供たちはどう見ていたのかを聞く。僕の一家はどういう存在だったのかも。そして僕の住んだところを見てからに・・・

サーカスが来た。講堂で映画会があり、村中の人が集まる運動会があり、隣村との対抗の村を上げての野球の大会、学級新聞も出した。僕にとっては貧しくても豊かな天草の生活だったが、夫を失い、遠く東京から離れた母には辛い時代だったのかもしれない。
思い立って天草からの母の半生を聞こうとテープを何度も回したが、いつも同じところで先へ進まなくなった。僕たち3人の子供をつれて防波堤に行き、一緒に飛び込んで僕たちの父のところに行こうとしたところで。

<写真 西島先生を囲んで>
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沖縄文化紀行(Ⅱ-3) 雨音を聴く浮ぶ屋根

2006-11-25 22:03:19 | 沖縄考

那覇空港に塩真さんが迎えに来てくれた。
今年の彼からの年賀状は、中庭に大勢の子供を招いてバーベキューをやっている賑やかで楽しそうな写真だった。バックの外壁の白と黄色とオレンジの色があざやかだ。沖縄の若き建築家が創った自邸。見たいと思った。

彼がこだわったのは家の色だけではない。イギリスのファッションデザイナー、ポール・スミスのカラーコーディネートによるちょっと紫の混じったあざやかな紺色のミニクーパー。それが彼の車だ。こだわる紺は塩真さんの好きな色だという。そのミニで読谷の陶芸家大嶺實清さんの陶房にも送ってくれる。
このために今年は文化人類学の一行より一日早く沖縄を訪れることにしたのだ。

糸満の狭い坂道を登るとなぜか既視感に捉われた。品のある心の隅に描いていた家が現れた。正面の黄色に塗られた壁に、留めたミニの小さな雨粒をはじくボンネットの紺が映える。軽いアルミの屋根が壁の上に回されたガラスのせいで浮いている。浮いた屋根を作りたかったという塩真さんの思惑がうまくいき、明らかに建築家のデザインした家でありながら周辺の家に溶け込んでいるのだ。対峙しながら馴染む。思わず僕の頬が緩むのがわかる。

沖縄の家は南入りで、彼は気の通りを考えたという。空気と言わずに「気」という。
南国沖縄では通気(通風)を工夫することは当たり前なのだが「気」と言われると!
塩真さんは風水(塩真さんはフーシーと発音する)を意識しているとは言わないが、潜在的に沖縄の,いや琉球の伝統が彼の中に根付いているような気がする。子供や人の集いの為に自分の家に中庭を作るのは出来そうで出来ることではない。彼の人生観がそこに現れているが、中庭をつくりたかったのはそれだけでなく気の通りと南入りを意識したようだ。将来のために計画した仏壇の向きにもこだわる。僕たちが鬼門をさりげなく考えるのと同じように。
小雨の家。しっとりと濡れた中庭の芝生がきれいだ。ボールが転がっているのを見ると、子供の歓声が聞こえてくるようだ。

實清さんの陶房からの帰りに立ち寄った塩真さんのアトリエにスタディ模型が幾つもある。骨格は発想時からさして変わらない。創りたかった自邸のイメージがだんだん整ってくる様子がわかる。最後まで残っていた駐車場になっている前庭から左に中庭を見て玄関に行く通路の低い塀がなくなり、開放感に溢れたアプローチになった。そして玄関は南入りだ。本来沖縄の家には玄関はないものだが、そうもいかないので作ったというその玄関はしかし小さい。沖縄にこだわる建築家の姿が垣間見える。

北西の角が大きな吹き抜けの円形の居間になっていて、壁からはねだしたコンクリートの階段で2階の寝室や子供の部屋につながる。北西の角を円にしたのも思惑があるようだ。
吹き抜けのトップライトは円形でその内壁は好きなブルーだ。
居間と一室になっている、しっかりしたステンレスの台に組み込まれたキッチンや食卓のある部屋の前は中庭だ。そしてその中庭を囲む浮いた屋根の部屋、琉球畳の敷かれた和室の天井と屋根は木の梁や束の構造材はむき出しになってそこにも建築家のこだわりが見える。

その壁に建築家は悩む。木造で軽い部屋にしたい。しかし外壁はカチッとしたい。そしてコンクリートの壁にした。
中庭に面したウッドデッキを張った縁側にも悩みに悩んだ。結果は下屋を出し、削り丸太の柱で支えた。日陰が出来る。中庭に樹を植えて木陰を作るのでなく下屋を創った。木陰でなく彼は青空をつくったのだ。

でも何故丸太なのだろう。
ふとトルコの大平原にポツン、ポツンと建てられた平屋住宅の玄関ポーチの屋根を支える柱の自然のままの丸太が思い浮かんできた。そのとき何故だろうとおもった不思議感が蘇る。塩真さんは自然のままでなく削り丸太を使ったことに自分のことでありながら釈然としないようだ。僕はそれでよかったと思うのだが、今は明解な答えが出なくても、多分時を経て振り返ったときに、若き日の自身の想いが見えてくるのではないだろうか。

この家はコンクリートの家だ。断熱はどうなのだと聞いた。いやね、お金が足りなくなってね、と屈託なく彼は笑う。コンクリートに蓄積された熱はそう簡単にとれない。それよりその熱と共存するのだと言う。単なる開き直りではなく実験だ。良い建築家だ。
沖縄では彼は構造設計者として知られている。デザイナーではなく。でも彼はデザインにも取り組みたいと言う。

夜になり那覇新都心にあるアトリエの近くの観光客に著名な、でも至極居心地の良い居酒屋で泡盛を酌み交わしながら建築論を語りあった。島歌を聴く。至福の時。
面白いことを言った。
木の屋根、それもアルミを貼った軽い屋根。屋根を叩きつける雨音が聞きたかったと言う。子供のときにナマコ屋根の雨の音を聴いて育ったのでと言うのだ。彼にもちょっと聞き難い歴史がある。沖縄の秋の夜は長い。

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旅 トルコ(3) 新市街・とはいえ歴史の街だ

2006-11-22 10:39:11 | 旅 トルコ

装飾に満ちた建築群が建ち並ぶ。時に見かける四角い窓の連なるシンプルなモダニズム風の建築の外壁がくすんだ白に塗られているものもあるが、その多くは赤や黄色或いはブルーで塗り分けられている。色は原色に近いが毒々しくはなく周辺の装飾建築に溶け込んでいる。

朝の9時過ぎだと言うのに大通りを大勢の人が歩いている。ウイークデイなのにね。観光客には見えないし。何故だ?
腕を組んだ若いカップルもいるし皆なにやら楽しそうだ。道の舗石修理をしている職人がいる。ついつい立ち止まって手元を覗き込む。素朴な手作業。良い街だ。活気があるのだ。

後で気がつくのだが、僕は新市街に迷い込んだのだ。

ガラタ橋辺りへ行って様子を見、トプカプ宮殿にでも行ってみようかとドアマンに方向を聞いて町へ出た。ところが歩き始めた途端交差する路地に惹かれた。
狭い道の両側は色とりどりの建築で埋め尽くされ、跳ねだしたバルコニーの腕木には彫刻が刻まれている。避難用とおもわれる鉄骨の螺旋階段が沢山あり、どれも建築群に馴染んでいる。今建てている「二人の家」に螺旋階段を造るので気になるのだ。引き込まれるように好奇心に駆られてふらふらと路地を曲がった。

道端にサイドカーが鎮座したりしている。路地に又路地が交差し、椅子に腰掛けて新聞を読んでいる老人がいて、おや変な奴が迷い込んだといった様子で上目で使いで僕を見たりする。ニヤリと笑い返す。更に曲がると路に張り出したカフェのテーブルに座り込んで語らっているおばさん達もいる。そして大通りに出た。そして又路地へ。

歩いても歩いてもガラタ橋に出ない。彷徨い、どこにいるのかわからなくなってしまったのだ。すると「ジャポネ?」と声を掛けられた。渋谷でトルコ料理の店を開いているのだと言う。一瞬警戒心を見せた僕に30才くらいのその男は身分証明書なるものを見せる。「板橋って書いてあるよ」というと住まいはね、そして休みを作って実家に帰ってきたのだ、女房は日本人でコンピューターのプログラマーだとやけにうまい日本語をつかう。

ところでね、此処は何処なの?とガイドブックの地図を見せる。なんと銀座通りのようなイスティクラール通りをガラタ橋とは反対方向に一時間半も歩いていたのだ。ありがとう、じゃあね、と何か言いたそうな男を残してさっさと路地へ入る。何だか怪しげな男だし。

さてこっちへ来たのだから、トラムヴァイ・トプハーネ駅の傍にある海に面した「現代美術館」行こうと思い立った。
そこのレストランで昼飯を食おう。僕はワシントンでもNYでも美術館で昼飯を食ったのだ。何とか`サンド`なんだけど。でもI,Mペイの設計した(だから足を運んだのだが)ワシントンナショナルギャラリーの肉を挟んだでっかいサンドイッチは酷かったなあ。

急な坂道を降りはじめた。ちょっと恐そうな路地。靴や鞄を作っているらしい家内工業的な一角など、作業有様をちらちらと覗き見しながら通り抜けた。
イヤアそれでも薄汚れたそのあたりの建築も面白い。新市街といったってちっとも新しくはないではないか。イスタンブールの新市街の歴史を僕は歩いているのだ。

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沖縄文化紀行(Ⅱ-2) もの言う建築

2006-11-19 10:56:10 | 沖縄考
「本土で一般的である木造住宅の建設戸数は、沖縄県では住宅建設戸数全体の1.25パーセントしかない」。
このデーターは、1995年の沖縄県による`沖縄県の住宅事情`に記載されている。
此処に書かれた本土と言う言い方に戸惑う。内地と言う言い方もありそれは更に気になるので石垣島出身の建築家Tさんに聞いた。本土と言う言い方に彼は逡巡し、「僕たちは`ヤマトーウ`と言うけどね」といわれてますますどう言って良いかわからなくなった。でもこの1.25パーセントと言う数値は、僕の見た沖縄の街がコンクリートとコンクリートブロックの住宅で満たされていることを裏付けてくれる。

僕はこのブログでの論考を建築学会の計画系論文集に記載された論文を参照しながら書き始めるのだが、沖縄の現在の住宅情況と街を考えるときに、戦争と戦後の米軍キャンプ住宅建設を抜きにして語ることは出来ないことに思い至る。

1944年、昭和19年、終戦の一年前、つまり悲劇の沖縄戦の前年、世帯数は12万6千、そして終戦直後の世帯数はなんと2万になってしまった。この数値を僕たちはどう受け留めるのか。戦争によって住宅の80パーセント以上が消失したのだ。そして米軍の軍用地として接収した土地の住民はテントで作られた基地の周辺に作られた捕虜収容所に収容される。
沖縄に魅かれて訪れる僕でも、やはりこの数値の意味することを考えざるを得ない。
悲劇と書いたが第二次世界大戦で、日本で唯一戦場になった沖縄の人々の思い(重い)を受け留めるのに、悲劇と言うコトバはふさわしくない。しかし僕には受け留める言葉がない。大江健三郎が「沖縄ノート」に記す黙して語らない沖縄の人ウチナンチュー。昨年訪れた「對馬丸記念館」の展示の前で僕たちは、立ちすくんでしまったことも思い起こされる。

1945年、終戦の年、土地の所有者の承諾なしに住民に割り当てられる「割当土地制度」が施行された。この制度によって基地周辺の土地は細分化された。土地の所有者と住民のトラブルも発生しただろう。眼に見えるようだ。
住民の住まいはテント(捕虜収容所)から次第にバラックになりその間の通路が道路になっていく。都市の骨格は思いがけない様相を呈していく。

一方基地内住宅の不足により、基地周辺にキャンプ住宅を規範にした民間による米軍関係者用の住宅建設が許可され、沖縄の建設技術の発展に大きな役割を果たした。台風とシロアリに悩まされていた沖縄の人々がブロックやコンクリートの住宅をうけいれるようになったのにはこういう経緯があった。

当初米軍は「コンセット」と呼ばれる波板鉄板を使ったかまぼこ型の住宅を米軍関係者のために作ったが、厳しい台風の為に壊滅した。そのために1950年代に入って沖縄群島政府、後の琉球政府は米軍の要請によって沖縄住宅公社を設立して基地内にコンクリートブロックに赤瓦の木造屋根の住宅を基地内に作ることになった。

赤がわらを採用したのは、輻射熱対処などのためと地元産業の育成のためもあり、戦後の沖縄産業復興に大きな役割を果たしたという。しかし空調機の発達などの結果、次第にコンクリートスラブ屋根による`スラブヤー`つまり当時の人々のあこがれたアメリカ住宅へと変わって行ったのだ。今でもこのスラブヤーは人気があり、デザイン系の事務所や飲食店に転用されて使われている。
僕が見て気になった赤瓦のブロック壁やコンクリートの庇のある老朽化し汚れた住宅は、施策として作られたこの米式住宅なのだろう。
当初仮説的なコンセットが建設されたのは、米国では基地の恒久化は念頭になかったのかもしれない。1950年代の朝鮮戦争、60年代のベトナム戦争を経てその役割が認識され、大きな問題を孕みながら今に至る。

戦後の住宅政策については米国統治下にあり必ずしも明らかにされていないが、琉球大学や九州大学の研究者によって研究がなされはじめた。戦後60年を経た現在。1972年の沖縄県本土復帰からも30年を過ぎた今。今後の研究継続と成果の公表が待たれる。

基地の間を通る道を車で走りぬけるときに見受ける基地内のシンプルな、そうなのだ、余りにもシンプルなスラブヤーは、丁寧に塗装され魅力的だ。屋根に防水がされていないというのも興味深い。那覇の建築家塩真さんによると、メンテ計画が綿密にされ塗装が終わると施工した年月が外壁に記載されると言う。どうやら最近の住宅の役所の(あるいは民間検査機関の)中間検査が終わると、検査官に貰ったシールを貼るのと同じようなことだ。
都市沖縄の汚れていくコンクリート住宅のあり方が気になるのもこういう有様を見るからだ。

住宅史を紐解くことは人の生きてきた経緯を見つめることになる。そして建築がその時代や社会の様相と共に人の生きる軌跡を具現化しているのだと改めて実感することになるのだ。物言わぬ建築が何かを言いたそうだ。いや建築は「もの」を言っているのだ。

<参照論文。戦後の沖縄における沖縄住宅公社による米軍住宅建設プロセスと計画管理技術に関する研究(琉球大学 中島親寛、池田孝之、小倉暢之)。沖縄における米式住宅の非住居機能への転用に関する研究(九州大学 田上健一)> <写真 沖縄の建売住宅>


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白い箱の魅力「モダン建築の夢」展とDOCOMOMO20選展

2006-11-11 10:16:40 | 建築・風景

10月の22日、札幌旧知事公舎の広大な庭に隣接して建つ北海道立「三岸好太郎美術館」を訪ねた。「モダン建築夢」展という素敵なネーミングの展覧会が開催されており、6年前に鎌倉の近代美術館で開催した「DOCOMOMO20選展」が巡回・併催されているからだ。
この美術館で建築展を開催するのは始めての試みだというが、岡田新一の設計した大きな窓によって外部に開かれ、複雑な壁面を持つこの難しい空間をうまく使いこなした展示構成は素晴らしい。

三岸好太郎は、バウハウス留学から帰国した建築家山脇巌の協力を得ながら自分のアトリエの設計に取り組んだが、竣工直前の1934年に亡くなった。しかし「私は建築家になるべきだった」というほど設計に没頭したアトリエは、日本のモダニズムの基点としての位置づけを得たと言っても良い魅力的な空間を持って東京鷺宮に建っている。吹き抜けに取り付けられた鉄による螺旋階段はよく知られているが、その姿は展示されているこの展覧会にあわせて撮った写真家清水襄さんの写真によってもうかがうことが出来る。

分離派の堀口捨巳、石本喜久治、山田守や土浦亀城などの作品の図面や模型、スケッチや写真などの資料も興味深く、正しく「モダン建築の夢」だ。
文献採録として同時代のバウハウスに関する作家や資料と三岸好太郎の作品、筆彩素描集「蝶と貝殻」のローマ字と蝶と貝殻のスケッチで構成されたモダンの夢に満ちた表紙や、「飛ぶ蝶」の絵と鉄で作った額縁などの忘れがたい作品を見ることもできる。

この展覧会は担当した髯男、学芸員穂積さんの「夢」の実現なのだと思った。氏の想いに満ちている。
この日は僕を招いてくれた札幌建築デザイン専門学校の諸澤先生と30名ほどの学生と共に訪れたのだが、作品を紹介してくれる穂積さんの熱のこもった言葉に皆聞き入ってしまった。僕が思わず身を乗り出したのは、ヨゼフ・ハルトヴィッヒのチェス・セット。積み木のようなシンプルなコマが、動ける方向を示した形態になっていて、装飾を廃して機能に目覚めたと言う穂積さんのユーモラスな解説が始まったときだ。

僕はいやあかなわないなあと言いながら、穂積さんの後、DOCOMOMOについて説明し、20選の紹介をした。学生が真摯に展示に見入っているのがうれしい。時折僕に質問する彼らの感性に驚いたりする。僕は彼らに触発されて思いがけない発見を得たりした。
改めて言うこともないが建築は面白い。そしてことに分離派の、つまり1920年から30年にかけての大正ロマンっぽい姿に魅せられてしまう。そしてその魅力が20選に引き継がれていくような気がしてくるのだ。何故分離派なのか。僕にとっては新しい課題だ。

僕は穂積さんから連絡を貰い、この展覧会の展示資料収集の相談に乗り、カタログに掲載する20選の写真のうちの14点と、日本のモダン建築断章というページの写真を提供したりして協力できた。
穂積さんは建築の知識には疎いと謙遜したが,いやどうして。氏は20選の紹介文にこう書いている。余りにも見事で成る程と考えさせられてしまったので採録させていただく。

『此処に選ばれている建物には、必ずしも「有名な」とか「壮麗な」とかではなく、近代的な革新性が重要視されています。すなわち、近代における建築学的な問題と回答の道筋を示し、時代を見直す作品なのです。そういう意味でそれは「文化遺産」と呼ぶよりも、私たちの生きる現代に直結した課題なのだと言えるのでしょう。』

そして僕が社会に伝えたいことを言い当ててくれる。

『「白い箱のような」と称されるモダニズム建築は、その装飾性の欠如により、時に価値を矮小化されることもありますが、改めてその多様性と豊穣さを振り返ることで私たちの生きる現代を捉えなおすことが出来るのです』

この展覧会はあと一ヶ月、12月10日まで開催されている。
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沖縄文化紀行(Ⅱ―1) コンクリートの沖縄

2006-11-08 14:57:28 | 沖縄考

文化人類学を学ぶ大学院生と教授に同行した今年の「沖縄の旅」は、昨年にも増して楽しくもあり考えることも多い5日間だった。今年の旅・研究テーマは興味深い「風水」なのだ。が・・・

この一ヶ月は、トルコ、札幌、新潟、大阪と息つく暇もない旅に明け暮れることになり、その最後が沖縄になった。
その間を縫って「二人の家」の上棟式に出て形になってきた家に胸を震わせ、JIAアーキテクツガーデンで敬愛する建築家林昌二さん写真家の村井修さんと鼎談を行い、デジタルアーカイブ、DAASの委員会に出るなど、何故このようなことになってしまったのか自分でもわからないまま歩き回った。
だからくたびれ果てたイスタンブールでは、港に座り込んで2時間あまり人の行き交う様をボーっと眺めながら、取りとめもないことをぼんやり考えたりすることになった。札幌の北大植物園でも、芝生に座り込んで写生をしている人たちを、こちらはベンチに腰掛けて眺めたりもした。其れがなんとも楽しく面白い。

そうやっていて確信したことがある。
旅は「人の生きること」を確認する作業だということを。
旅に出ると自分が傍観者だということに気がつく。傍観者だから人を眺めるのが面白いのかもしれない。
いや旧知の人に会う喜びがある。時間を介して会うと和やかで穏やかな空気が漂い始めるのだ。無論新しい出会いもあるが、次の旅では旧知といいたくなるだろう。時を共有するのは少しく大人の体験だ。
傍観者だけでもない、「旅」。いいコトバだ。

そして建築家の僕はやはり建築の有様が気になってくる。建築は人の生きることを具現化していると改めて感じるからだ。さてその沖縄の建築は・・・

この風化した穴あきコンクリートブロックの写真を見せて「これが沖縄だ」といったら沖縄の人に嫌な顔をされるだろう。でも使われなくなったこの婦人科医院の外壁を覆いつくした遮光と通風と装飾を考えたブロックはなかなか魅力的で、こだわった建築家の感性を汲み取ることが出来る。
しかし覆われた内部はすべてここから差し込む光によって外部と繋がるが、鬱陶しくはないだろうか。さわやかな風を誘い込むとは思えない。それに年々劣化して汚れ始める。メンテは難しそうだ。金を掛けない建築に金をかけてメンテをする気持ちになるだろうか。そして放置されてしまう。

沖縄の建築の多くは、コンクリートとこのようなブロックの組み合わせで作られている。赤瓦の、沖縄に来たことを実感する住宅も、瓦の下はコンクリートブロックかコンクリートの壁なのだ。沖縄の都市はこういう建築で覆い尽くされているともいえる。

戦後の米軍キャンプ建築群に影響されて使われ始めたコンクリートブロックとコンクリートによる住宅は、あっという間に台風に悩む沖縄の人々に受けいれられた。沖縄には木造の建売住宅がない。全て「コンクリート流し込み住宅」だ。そして一様に同じような形態を取る。
しかし概して夏は暑く、冬は寒い。つまりコンクリート内に蓄積された熱や冷気が簡単には室内のコントロールを許さないのだ。

沖縄の都市の抱える課題のひとつは、このコンクリート建築だ。でも沖縄人は其れが課題だとは考えていないのかもしれない。
だって沖縄の人はコンクリートで家を作り続けているのだから。なんとなくバナキュラーっぽい建築群、沖縄にしかないこの都市景観が妙に気になり始めた。
ふと木造住宅に埋め尽くされた東京の街の姿が頭の隅をよぎる。
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