昭和27年(1952年)3月、僕は熊本県天草郡下田北小学校を卒業した。
この小学生時代の6年間が今の僕を育ててくれたと思う。僕はいつの間にか天草弁を話すようになり、よそ者という違和感はなかった。
疎開先でいじめられたと言う話をよく聴くが、小学生時代だけでなく僕にはいじめられたりいじめた記憶がない。しかし坂を上った道の脇に`マンボウ`と呼ばれた気の良い上級生がいて何かありそうだと彼の傍に寄り添った微かな記憶がある。ささやかとはいえ身を守るすべをこの頃から身につけるものなのだろうか。
金さんというボロをまとった浮浪者がいて、学校に行く途中にあった階段をはるかに上る神社を定宿にしていたというこれも微かな記憶がある。
金さんを揶揄すると言うこともなく、金さんの存在と共にこの神社は僕達にはちょっと近寄りがたい異空間だった。此処には宮司もいないしお祭りもない。
賑やかな祭りがあり、露天が出た境内で全校生が学年に関係なく背の高さの順に並んで相撲を取った杜の神社は、川向かいの山裾にあった。神社の名前は思い出せないが下田村北の氏神なのだ。きっと。
この祭りで忘れがたい思い出がある。貧しかったが母は祭りの小遣いを僕たちに渡してくれた。露天を覗きながら僕たちが買ったのは、母にプレゼントする包丁だった。喜ぶ母の顔を見たかったのだ。母の苦労がわかっていたのかもしれない。
よく隣組(宮本)の常会があり、母は真っ暗な道を`つぶき`という黒く淀んだ底知れない深さのある下津深江川の淵を通って出かけた。僕たち三人の子供は心配しながら寄り添って母の帰りを待った。
小学校二年生になったとき新制中学が誕生することになり、校舎がないので講堂を仕切って教室にしていたことを覚えている。そういう時代だった。
1年生の時は優しい横山先生、2年と3年は西島明子先生、西島先生になにを教えていただいたのか覚えていない。きっと文字の読み書きや算数という基礎を教えててくださったのだと思うが僕の記憶に在るのは、僕たちのクラスをとても可愛がって下さったことだ。僕たちも先生が大好きだった。西島先生を想うとき、二十四の瞳の大石先生を連想する。先生にとっても初めてのクラス、僕たちは特別な存在だったのではないだろうか。先生も僕たちと一緒に様々なことを学んだのかもしれない。今でも先生の明るい笑顔が即在に目の前に現れる。
4年生から卒業するまでの先生は、正しく恩師矢野四年生先生だった。
先生は熊本県菊池郡の出身で、師範学校を卒業して下田北小に赴任された。僕たちのクラス(学年)が始めての生徒だ。昭和4年に生まれたので四年生だ。
新しい日本を夢見て生涯を子供の教育に懸けた若干21才。僕は矢野先生に巡り会ったのだ。
先生は後に玉川大学を卒業され、東京の足立区の小学校で教鞭をとり、鹿浜西小学校の校長を最後に定年退職されたという。多分先生に触発されたのだ、
6年生のとき抽象画を描くようにもなった「僕の生きること」の始まったこの時代を語るのは別の機会にしたい。
天草を訪ねて同級生に会い、その時代を地元の子供たちはどう見ていたのかを聞く。僕の一家はどういう存在だったのかも。そして僕の住んだところを見てからに・・・
サーカスが来た。講堂で映画会があり、村中の人が集まる運動会があり、隣村との対抗の村を上げての野球の大会、学級新聞も出した。僕にとっては貧しくても豊かな天草の生活だったが、夫を失い、遠く東京から離れた母には辛い時代だったのかもしれない。
思い立って天草からの母の半生を聞こうとテープを何度も回したが、いつも同じところで先へ進まなくなった。僕たち3人の子供をつれて防波堤に行き、一緒に飛び込んで僕たちの父のところに行こうとしたところで。
<写真 西島先生を囲んで>