日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

世界バレーでJapanがポーランドとペルーに勝ったが、丹下の代々木が凄い、そこから反住器

2010-10-31 20:41:22 | 建築・風景

Japanがポーランドに逆転勝ちし、ペルーにも勝って、改めてバレーボールって面白いと思った。世界大会だ。おや、竹下はまだ頑張っている。新人もいいなあ!なんてのめり込んだが、感じ入ったのは勝ったからだろう。でも僕は女の闘いにのめり込みながらも会場になった丹下健三の設計した代々木の体育館は凄いと思っていた。言うまでもないが絶妙な天井のカーブを持った空間構成、豊かで歓声を包み込むこの建築があるから世界大会がある。ああ俺も(俺になってしまう)建築家だと、これはどうしようもないのだ。
とカッコいいこと言ったあとで伝えたい一つの建築がある。「反住器」である。

JIA建築家写真倶楽部の写真展で、僕は(俺ではない)四つの建築を出展する。「幻庵」は、一緒に見学して撮影した朋友藤本幸充さんに譲った。ということで・・・
レーモンドの設計した東京女子大学の建築群。大学時代の恩師川島甲士先生の津山文化センター。鎌倉の近代美術館。言うまでもない坂倉準三の代表作、視点を変えると丹下の代々木の体育館を越えて世界に誇れる日本の建築だ。そして「反住器」。

会場に貼る僕の解説文を紹介したい。一つ一つの建築に物語がある。反住器にも。

『反住器 1972
北海道釧路市
設計:毛綱毅嚝

北の国、釧路に建つ母のための住居。
三つの立方体が入れ子のように組み込まれ、内と外がはいつの間にか入れ替わるメビウスの輪のように階段が構成されており、反機能、虚像としての器を強調して「反住器」と命名されたが、入れ子状の構成が保温効果があったりして、毅嚝が亡くなったあとも、母親は毅嚝の姉に支えられながら、大切にメンテナンスをして、慈しむように住まい続けている。
この住居はJIA25年賞が贈呈され、DOCOMOMO選定建築物としても選定されている。』

というもので、手元にあった資料をいくつか読み返しながら要点を組み込んだ。メビウスの輪、つまり建築の「内と外」の捉え方を僕はひどく気になっていて、ハイデガー・フォーラムでの隈研吾さんも建築を考えるときの命題として捉えていて共感するのである。

「反住器」の階段を`メビウスの輪`と捉えていいのかと考えるとハテ!とも思うが、入れ子の立方体構成がメビウスの輪のような「内と外」の関係、内と思ったが外、外だけど内、言い方を変えると、人がいる場が内で、外から見ると(考えると)内は外なのだ。だから毅嚝はその論旨を明快にするために外壁も天井もガラスで構成させたのだ。
その繋ぎ役が2階と地階へ下りる階段、とは言い切れないような気もするが、意識としてはそうなのだとは言えそうである。その地階もドライエリヤがあって外光が入る。

お母さんは三つ目の一番小さな入れ子を取り外して生活している。そうしないと窮屈でね!そうでしょう?と微笑まれた。そうやってこの建築を慈しむように大切に使いこなして生活されている。だから今では二つの立方体。機能更新した『反』『住器』なのである。

さて明日の早朝から札幌行きである。欅並木がほんの少し色づいてきたと思ったら、10月26日の夕方から急に寒くなり、秋の来ないまま冬になってしまった。この日を記録しておきたい。人生いろいろとあると考え込んだ日。

札幌は今朝から少し暖かくなったとMOROさんから電話があった。


静謐な幻庵・石山修武の建築

2010-10-24 20:39:38 | 建築・風景

三十数人の見学者と共に、幻庵の石山修武の言う「茶室」に座り込み、白い壁に映りこむ窓の影を見ながら僕は、`居心地のいい` と言うコトバを反芻していた。

このコトバは、先月早稲田大学の大教室で行われたハイデガー・フォーラムで隈研吾さんの発表の司会をやった時に、前講者Nさんの発表に対して僕の前の席の女性が立ち、荒川修作の`三鷹天命反転住宅`を例に引いて、荒川修作は「住む」という行為を、生きることに対して常に刺激を得る場であるべしとしてこの共同住宅をつくったが、わたしは「居心地がいい」ことが住いの原点だと思うのだが、建築家のあなたはそれをどう考えるか?というものだった。
回答するNさんは戸惑い、アリストテレスが云々と繰り返し、質問者はそんなことを聞いているのではない!と声を荒げ、奇妙な空気が一瞬満席の会場に漂い、いやこれは面白くなった!と思ったものだ。
このフォーラムは哲学者ハイデガーが1951年にドイツで行った「建てること、住むこと、考えること」と題する講演をひいてタイトルにし、数名の研究者・建築家が発表して会場との受け答えをするもので、隈さんの論旨も刺激的で会場や僕とのやり取りも面白く、共感することが多々あったのでいずれここでも書いてみたい。

幻庵は石山修武が愛知県の山中につくった「茶室」である。
クライアントの望んだのは「コーヒーの飲める茶室」。早稲田大学の石山研究室を訪ねて石山さんとDOCOMOMO+OZONEセミナーと見学の打ち合わせをしたときに、暫し瞑目した石山さんがどうだろう!と述べたセミナーのタイトルは「幻庵をつくらせたもの」だった。
つくったのか、つくらされたのか。そこにこの茶室の原点がある。

クライアントEさんは昨年亡くなられたが、ご夫人にお聞きすると、ご主人と石山さんは一言も言葉を交わすこともなく、いつまでも酒を酌み交わしていたという。クライアントとの生涯を懸けて通じあえたもの、それはナンだったのだろうか。
コーヒーを飲みながら幻庵でマイルス・デイビスを聴くのだと石山さんは言う。僕は「カインドブルー」のマイルスの美を思ったが、そのアルバムの中で弾く、ビル・エバンスのあの音を慈しみ、呟くようなピアノタッチをここで聴きたいと思った。

同行した難波和彦さんは、大勢だったので石山さんのいう「カーンと音のする空虚」を味わえなかったという。確かにそうだと思いながらも、僕はお濃茶からお薄になる時間を経た光の移り代わりを味わった一畳台目三渓園金毛窟での茶会の一時を思い出していた。
幻庵はお茶室なのだと確信しながら、いつまでもここに居たいと思ったこの居心地のよさはナンなのだろう、コルゲートパイプを用いた円形の天井や、ステンドグラスから注がれる淡い赤や黄色や青、路地ともいえるこの空間を渡る鉄筋を組み合わせたメッシュの朱色に塗られた太鼓橋という一見異様な空間が、当たり前のように人を受け入れる。

陽が落ちてゆき、あるいは雨や雪や、季節による光の強さ高低や角度の違いによって、人の生きることの虚しさのようなことをもこの建築は感じ摂らせるのだろう。難波さんが計ったところこの茶室は15度東に振れているというのだ。
この建築に全てをかけた瞑想する石山さんの姿が頭をよぎる。荒川修作の刺激と`居心地のよさ`がここに同居しているのだ。

小さな川のせせらぎを、E夫人とご子息Uさんが用意してくださった長靴を履いて渡った。樹々の中に置かれているこの建築は、ごく自然に佇んでいた。そこにあるのが当たり前のように。思いがけないことだった。

川合健二に私淑した石山修武は、天才川合健二の下にいては駄目になると思って独立した。
しかし全てを懸けた石山は川合健二のコルゲートパイプにインスパイやされて幻庵をつくる。そしてこの建築を抜け出せたのは、カンボジャ・ブノンペンに建てた「ひろしまハウス」だったという。
27歳だった石山さんは62歳になっていた。

<時代をリードした建築>モダニズム建築の多様性を撮る

2010-10-20 16:44:04 | 建築・風景

JIA(日本建築家協会)関東甲信越支部のイベント「アーキテクツ・ガーデン」で、「時代をリードした建築」と題する`建築家写真倶楽部`の写真展を行います。
日時は11月1日(月)~5日(金)、場所はINAX銀座7階。地下鉄銀座線「京橋」駅のすぐ近くです。部会長を担っていますので、会場に展示する解説のような一文を書きました。ちょっと長くなりましたがお読みください。
-写真が文章に負けていないか、それが問題! 是非お立ち寄りくださいー


「時代をリードした建築」があり、それをつくった建築家がいる。建築家が時代の一翼を担い、時代が建築家を生んだ。その建築を「建築家写真倶楽部」の面々が撮った。日本橋高島屋からスタートして主要なモダニズム建築、そして青山のプラダに至ったその一端を見ていただきたい。

1920年代、ヨーロッパにバウハウスが誕生し、コルビュジエが活躍を始め、日本では堀口捨巳、山田守や石本喜久治等によって分離派宣言がなされた。
産業形態が変わって安価で良質な建材が大量生産され、それまでの国の威信や企業のステータスのための建築ではなく、市民に目を向け、技術の革新を受け入れて装飾を排して抽象的な美意識に支えられた建築が生み出されるようになった。世がモダニズムに向ったのである。

1919年、帝国ホテルを建てるライトの弟子として来日したアントニン・レーモンドは、1921年に東京女子大学のキャンパス計画を行い、24年より校舎群を建てた。故郷チェコのキュビズムやライトの影響がまだ残っていて魅せられるが、同じく24年にコンクリート(RC)打ち放しの自邸を建てる。モダニズムへのトライである。その相克がチャペルのRC打ち放しによる円柱に見て取れる。

第2次大戦がおきた。日本の多くの都市が破壊され時代が変わった。コルビュジエに学び、パリ万博の日本館で建築部門のグランプリを得た坂倉準三は、戦後間もない1951年、インターナショナルスタイルの典型、白い箱といわれる神奈川県立近代美術館を鎌倉に建てた。
だが人はこの建築のどこかに日本建築の伝統を感じるのである。日本のモダニズム建築独自の魅力を見ることができるのだ。

高度成長期の50年代、レーモンドに師事した前川國男や吉村順三が建築を世に問い、丹下健三が広島ピースセンターを建てる。村野藤吾がいて白井晟一がいた。菊竹清訓がスカイハウスで住宅の多様性を世に示し、東京オリンピックを迎えた。1964年だ。このオリンピックの一連の建築で多彩な日本の建築を世界に伝えることになった。
ラージファーム(組織事務所)が都市構成に力を注ぎ、パレスサイドビルをつくった林昌二が活躍する。

同時期にメタポリズムの思潮が生じる。そしてチャールス・ジェンクスの著書「ポスト・モダニズムの建築言語」によって明快になった建築の変遷。その兆しは1970年の大阪万博にあった。日本の建築界の転機となった。
だが、槇文彦は「私はモダニストです」と述べ、代官山ヒルサイドテラスをつくり続け、アガ・カーンの建築にトライし世界の建築界を率いる。

モダニズムの潮流の中でつくってきたのではないと述べる建築家もいる。モダニズムの捉え方は多様なのだ。母の家「反住器」を建てた毛綱毅曠がいた。毅曠は亡くなったが母は毅曠の姉に支えられて反住器で生活している。
27歳で幻庵をつくった石山修武は、三十数年を経てブノンペンに建てた「ひろしまハウス」で、幻庵に追いつき越え得たかもしれないと言う。建築に生涯をかける建築家の軌跡を感じ取れるコメントだ。

青山にプラダが生まれ、時代が拡がる。
建築には様々な物語があるが、さて我々はその多様な物語の一端を撮り得ているだろうか!

<写真、広島ピースセンター>、

仄かな香気の北見名物「薄荷羊羹」

2010-10-14 18:42:32 | 日々・音楽・BOOK

コーヒーを飲んだ後、薄く切った北海道北見の名物、薄荷羊羹を食べている。
小豆を主材として薄荷を入れたこの羊羹は、見かけは小倉羊羹だが、薄荷特有の清涼感に満ちていて「夏の味」だと包装紙に挿入されている案内文に書いてある。更に日本茶のデリケートな味をとばしてしまうので、日本茶(煎茶や玉露)には合わないので、冷たい水か番茶で召し上がれ、でもコーヒーの後食べるのも案外いい、なんてことも追記してある。
まあそんなものかなあと思ってコーヒーを入れて食べてみたのだが、どうも僕の味覚はいい加減だ。コーヒーとの合性が特段いいとも、日本茶は駄目とも感じなかった。仄かな香気があってなかなか美味いのである。

北見市は薄荷の産地で、全国生産量の70%を占めているそうだ。夏の羊羹だが、冬の暖房のきいた部屋で、小さくさいの目に切り、シロップなどにつけて食べるのもいいのだそうな!羊羹にシロップをつける?へえーと思わず首を傾げるがこの薄荷羊羹は、熱海の日向邸を見に行った札幌の友人MOROさんのお土産なのである。

千代の光 緑川 〆張鶴 純米吟醸生酒 と 丹波の漬物

2010-10-09 17:43:34 | 日々・音楽・BOOK

高槻に住む従兄弟から4本の酒が届いた。
製造元はバランバラン。生が多いのでクール便だ。
その前に、京都の漬物屋「丹波」の`京きさらぎ漬`を沢山送ってくれた。きゅうりとなすの「昆布漬」「白かぶ漬」「はくさい」など諸々。
あまりにも多いので、どうしたの?と電話したら、半額特別セールをうっかりして、いつもの金額で注文したら倍になっちゃったと笑っている。
近くにいてもなかなか会えないのに遠くにいるとねえ!なんてやりとりしているうちに、話が酒になった。丹波の漬物は塩味に少し酸味があり、酒にはピッタシなのだ。

`千代の光`は佐渡の酒。亡くなった母の名前を偲んで毎年正月に贈ってくれる。ラベルには、雪室醸成とある。緑川は新潟県魚沼、越後の酒だ。〆張鶴。いうまでもなく越後の村上。
さて「純米吟醸生酒」という名称が気になる酒がある。和紙のラベルに佐渡の加藤酒造店と書かれていてその下に落款が押してある。家業としてつくっている清酒なのだろう。さてどんな酒?と好奇心が湧き上がったがまず口をあけたのは`緑川`。濃い。甘みとほのかな米の香り。これがうまみというのだろうか!

佐渡に親しい酒店のある従兄弟は、最近は酒宅配所みたいなものよ!という。酒好きの仲間が沢山いてみな頼りにしていて喜んでくれる。貰う方は嬉しいが送る方は大変、でもそれが豊かな人生ってなものだ。と僕は勝手なことを言っている。

場と建築 山本忠司の「瀬戸内海民俗資料館」

2010-10-03 15:02:39 | 建築・風景

場と建築を考えたいとしきりに思う。
鎌倉の近代美術館や東京杉並にある東京女子大など心を打つ建築に触れて感じるものがあるからだ。場は土地或いは地域と言い換えても良い。だがよく言われる環境(エコ)という視点、つまり空気の流れや陽の光などとは一線を画し、考えたいのは場の持つ力と建築との関係性である。

四国に、場を感じとり、慈しむように建築をつくった建築家がいた。山本忠司である。代表作は「瀬戸内海民俗資料館」。
五色台山のワインディングロードを駆け上がり、車を降りて見たのは「石」だ。そして打ち放しのコンクリート。

外壁に城壁のように積まれた石は一つ一つが小ぶりで、エントランスの敷地の高低を仕切るための石は大きく、そのいづれも積み方は大胆、素朴というのではなく上端をフラットにして建築の存在を明確にした。

積んだ石は整地のために掘り起こした石を砕いて使ったと建築書に記載されているが、まさに場と建築の関係性、つまりその橋渡しの役割を見事に果たしている。
場との調和というより「場」を「再構築」したいというつくる建築家山本忠司の意思が感じ取れる。
そこに打ち放しのコンクリートをコラボレートした。時代にトライするモダニズム建築の源流を見たと思った。
場を「慈しむ」とはそういうことでもある。
この建築は翌1974年日本建築学会の作品賞を受賞した。

山本忠司は、瀬戸内海の歴史資料、例えば木造船、漁具や船絵馬などを収録・展示するために、中庭を囲む回廊式の展示室構成をした。敷地の高低をそのまま床の高さとしたようで、回廊空間は視点の変化に富む。
さらに大きなガラスによって外部の景観を取り込んだので開放感があり、木々や山の変化も感じ取れる。その寸法感覚やディテール(おさまり)がしっかりしているので、建築家の建築を「つくる喜び」が率直に伝わってくる。
いい建築に出会えたと心が震えた。

この建築が建てられたのは1973年、山本忠司が香川県の建築課長時代の作品だ。
四国には八幡浜市の職員時代に日土小学校を設計した松村正恒という建築家がいた。つくるのは組織を越えて「人」なのだと改めて思う。

山本忠司は1985年設計事務所を開設し、四国建築学会長を務めるなど四国の建築界を率いたが、1998年逝去した。74歳だった。