日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

季節は訪れる、 山形のさくらんぼう佐藤錦と伊勢原の枇杷

2011-06-26 20:42:11 | 建築・風景

梅雨の晴れ間に、東北、山形の米澤に居る友人T.Aから山田錦が届いた。小粒だが美しく品のいい`さくらんぼう`だ。`さくらんぼう`ってこういう味なのだった。清涼なプレゼントである。

T.Aは高校の同級生で、オヤジさんは中国文学の権威だった。ところが彼は理系、コンピューター構築の先端を走った研究者でもあり教育者でもあった。
過去形で書くのはいよいよ現職を退き、僕がオヤジさん(ご両親と言うべきです)のために取手(茨城県)に建てた、外壁がコンクリート打ち放しの住宅に住むことになったのだ。少し手を入れるがこの住宅(住居と言いたい)は、僕のいわばデビュー作である。つまり独立して初めて手がけた建築なのだ。

困ったことに、この建築を見ると僕がわかってしまう。僕自身が「俺はこういう建築家なのだ」と言わざるを得ない。俺もまんざら棄てたものでもないと思いながらも、髪が薄くなり、ますますオヤジさんに似てきた彼を見ていると、オヤジさんの穏やかな笑顔が目の前に彷彿と浮かび上があがり、柔らかな口調も聞こえてくる。更に亡くなる寸前まで電話を下さったお年を召したお母さんの、可愛らしい声も響いてくるのだ。

さて今年も軽トラックで、伊勢原の自宅の樹林からもいで持って来てくれた「枇杷」である。
持ってきてくれたのはHさん、僕が大学を出て叔父の建築会社で、現場員として働いていたときの先輩である。
この枇杷は、見た目は無骨だが旨いのだ。季節のものだからと、でももう終わりなんだけどね、枇杷はもぎるまでおいとかないと駄目、もぎてからも熟すほかの果物とは違うんだけど鳥に突っつかれちゃってね、そうなんだよね!と言葉を返しながら、お互い去年と同じことを言ってるなあと思った。

A邸は僕の(ブログではなく)HPのワークスに記載してある。
3月11日のあと、東北にいる知人が気になって真ッ先に電話を入れたのがAへだった。揺れたが住居は大丈夫、ブロックの塀がやられたものの心配しなくても大丈夫だよ!とのことで、ほっとしたものだ。

Hさんは日本蜜蜂にもトライしているいわば自然人である。

愛しきもの  愛用している3本の筆記用具

2011-06-19 10:24:47 | 愛しいもの

休日を除いての僕の午前中は、メールの対応で過ぎ行く。
一昔前、事務所(オフィスとか格好良くアトリエといいたくて、時折そう書いたりするがどうも気恥ずかしい)にPCを入れる前は、手紙や葉書を書くことで過ぎていった。ときおり事務所に来た妻君にまた書いているのと呆れられものだ。手紙と葉書は僕の人とのコミュニケーションの大切な手段でもある。
慌しいときや、書いていておさまらなくなって欄外に小さな文字にして書き加えたりするものだから、僕が読み返してみても判読できない文字があったりして、どうしようかと思っても、まあいいやと投函してしまう。申し訳ないとちょっぴり気にしている。

でもそうであっても嬉しいことに、僕の手紙や文字を喜んでくれる人も結構いるのだ。
時代が変わり、メールなしでは何も出来なくなり、原稿もWORDがなくては書けなくなってしまったが、それでも手紙は手書きである。欠かせないのが「万年筆」だ。

写真の左は「シータ」である。セーラーの`85周年記念万年筆 10―5000」スペックを見ると、ペン先は21金クロスポイント仕上げ(KICA処理)、蓋は真鍮で胴は本漆仕上げと書かれている。
封筒に宛名を書くときに使う。太いので具合が良く、意外といい字ジャン!と自画自賛し、一人でニヤリとしたりする。「心ゆくまでお楽しみください」と取扱説明書に記載されているが、至極と言いたく、正しく楽しんでいる。

でもこの万年筆では手紙の本文は書きにくい。太すぎるからだ。そして手に取るのが中字のモンブランである。品番などは失念した。でもこれもまた吾が人生には欠かせない。胴の重さと材質感、僕の指との一体感、愛しき万年筆である。

右のは、ペリカンのシャープペンシル。細見のスーべレーンD400。シャープペンの芯は柔らかい方が好きで、0,5ミリでは4Bを、建築のプランニングのスケッチに良く使うの0,9ミリは2B。アアルトは7Bで建築のイメージのあの独特の味わいのあるスケッチをしたと言われているが、さて7Bなんてのがあるのかナア?
さてこの愛しきペリカン。常用している芯はパイロットENO2B、0,7ミリである。

何事にも、ささやかな物語がある。
僕の親友の一人、かつて僕は彼にくっついて十数年、写真を撮り歩いた。
木戸征治、高知県土佐清水の分校、富ちゃんの入学から卒業までの6年間を追いかけて「ちんまい分校」(1983年あかね書房刊)を発表し、過疎になっていく長野県の豪雪地帯小谷村戸土集落にただ一軒残った赤野さんご夫婦の生活を8年かけて撮って「家族原点」(1986年晶文社刊)という写文集を出し、写真展を行った写真家である。
彼の(写真の師を彼と言うのはおこがましいが)還暦の祝いに、ほしかったとずっと思っていたと言う懐中時計をプレゼントした。

翌年の2月の誕生日に、僕がもらったのは、このペリカン・スーベレンD400である。写真が僕の人生の一翼を担っていた、その伴侶なのだとも言いたい。


友あり 遠方より来る

2011-06-12 21:07:06 | 建築・風景

タイトルに二言書き加えて本稿をスタートしたい。

「友あり 遠方より来る アイレイと共に また楽しからずや!」。

共に来たアイレイは、CAOL ILA 12 である。
僕が愛飲しているBOWMORE 12 には、スコットランドISLAY島の草いきれや潮風が漂ってくるような強烈な味わいがあるが、CAOL ILAはFresh、Sweetly、and smooth-bodiedとパッケージボックスに書かれているそのとおりで、すっきりしていて品が良く、シングルモルトの清冽な香りもあって僕の思い描いていたISLAY(アイレイ)島のイメージが揺らぐ。

僕のアトリエに訪ねてきたのは、イギリス(UK)の建築家マイケル・ポプキンス卿の下で設計をしている若き建築家南雲要輔さんである。年賀状のやり取りをし、時折メールがきたりする旧知の仲なのだが、ふっと考えたら会うのは初めてなのだ。
そうなのに、昨年渡邊研司東海大教授が率いたDOCOMOMO JapanのUKツアーで、ポプキンス事務所の見学を薦め、南雲さんを訪ねるよう紹介したりした。

ある時、広島の建築家からJIAに入りたいという建築家がいるので推薦状を書いて欲しいと依頼があった。いいですよっと言ったら入会書類が送られてきた。そのときの南雲さんはロンドンのAAスクールに在学していて日本にはいなかったのだ。経歴を見ると日大を出て竹中工務店の設計部に勤務していた時に担当した建築が写真と共に記載してあった。さて何年前だったのか!

ポプキンスがプロジェクトのサポートをした新丸ビルの担当者として来日をしたときに、僕のブログに記載したBOWMORE12を空港の売店で買ってお土産に持ち帰り、友人や父親に喜ばれたと言う南雲さんとはまずアイレイ談義。そしてプレゼントをしてくれたマイケル・ポプキンスの作品集をめくりながら、話が弾んだ。

鉄やテントを多用しながらも、木やレンガの質感を大切にするポプキンスの空間構成に惹きつけられた。アクロバット的な形態で話題を呼ぶ最先端の建築家が多い中で、建築界への貢献によって王室からKnight(ナイト)の称号を与えられて、ポプキンス卿と呼ばれることから窺われるどこかに品のある建築群、UKの伝統を引き継いでいるような気もして、南雲さんはいい建築家と出会ったのだと思う。

場所を「三国一」に移した。諸国名物手打ち麺処、ホテル新宿京王プラザの前にあるので、外国からきた人にも人気のある旨いうどん屋、気に入っている店だ。東北地方の地酒を酌み交わしながら話し込む。原発報道がUKではどうなされているのか気になっていたが、冷静な報道がされているようでほっとする。

世代の違いが吹っ飛んだ正しく旧知、初めて会ったとは思えなかった。彫刻家安田春彦に言わせれば、70歳なんて青春じゃあないか、「風たちぬ、いざ描かん」。そうかとも言い切れないがまあまあ!僕も・・
聞くに、南雲さんは何はともあれAAスクールに行きたかったのだという。だから僕たちは知り合った。その前の広島の建築家との出会いがあった・・人との出会いは不思議だ。ブログを介したMOROさんとの出会いなんてこともあるし・・・妻君との出会い、があるから愛しき吾が娘(こ)がいる。

UKに戻った南雲さんとメールのやり取りをした。親父とCAOL ILA を酌み交わしてすっきりしていいアイレイだねと愉しんだのだとある。親父さんは僕と同世代なのだ。多分。
南雲さんは、9月に行われるUIA(世界建築家連合)の大会にあわせて再来日する。丸の内ギャラリーで行うDOCOMOMO150選展を観てもらい、鎌倉に案内して地元に在住する若い(?)建築家を誘い、鎌倉近美を見たあと一杯やるのはどうか?

返事はいうまでもないだろう。

明建祭(続Ⅱ) 震災で見えた 個から全体へ・地方と都市

2011-06-05 20:03:04 | 建築・風景

手元にスクラップをした東京新聞がある。新聞配達人が間違って郵便受けに投げ入れたようだ。
読み返してみて、舞い込んだといいたくなった。被災地の復興に関しての僕の懸念を代弁している。
5月12日夕刊のコラム「紙つぶて」。
内橋克人(経済評論家)の書いた記事のタイトルは「復興ファシズム」である。

16年前に起きた阪神大震災の1ヵ月後、臨時市議会で可決された「震災復興緊急整備条例」で神戸市が出した都市計画事業は、住民の反対や批判で難航していたもので、震災で打ちのめされているこの時に実現させた。
区画整理地域にロープを張って元住民の立ち入りを閉め出し、不幸な震災を好機として幹線道路計画、都市計画整備計画が一挙に強行され、住民にとっては第二の大災害だと長文の抗議書が記録されているというものだ。
今回の大震災で、復興会議の某氏がこの「16年前を成功モデル視」していると、内橋克人は警戒する。

明建祭シンポジウムではこのコラム記事のあったことを失念していたが、復興計画について`国際コンペ`をやるべきだと言う某(としておく)建築関係者からの論調が新聞掲載されて、危機感をもった。
主に東北地方の農漁村地域の人々の「生きること」、つまりコミュニティ構築と復興は切り離せなく、その「場」を汲みとり得なくては悲惨なことになるからだ。

明建祭シンポジウムのテーマは「建築を拓く・明治大学を巡って」。
時代を切り拓く、それにトライしている建築家と彼らの作品を通しての問題提起を語り合おうと思った。
パネリストの篠田義男さんは6年後輩だが、井口浩さんはその14年後に卒業、中村拓志さんは更に14年も若くてなんとまだ30代、でも羽田空港(東京国際空港)のマスターアーキテクトとして活躍している次代を担う建築家である。
興味深かったのは、PPで発表された作品群に見る共通項が「自然環境と建築」、そして(当然の事とはいえ)「人」だった。

PPで新宿西口の小田急デパート外壁の姿が映し出され、篠田さんがこの建築を担当(チーフは坂田誠造氏)をしたのかと感慨を覚えた人もいたと思う。そして日頃見慣れている改修された小田急線の幾つかの駅舎の屋根などにガラスを多用して自然採光と空気の流れを検証したシステムや、井口さんがNPOまで設立してトライしている(僕には実験していると見えるのだが)地球環境問題と社会、そして中村さんの、ここまでやるのと思わせられる樹木と建築との触れあい、言い方を変えれば興味深いせめぎ合い、そして練り込んでいくほどに形がバナキュラーっぽくなり、つくるのだけど「生まれてくる」と言いたくなる面白さを、進行役を務めながら指摘したりした。

そして僕が彼らに投げかけたのは、震災で見えてきた僕の問題意識、コミュニティの崩壊・構築と建築家の役割である。

明大建築学科には、創設時より神代雄一郎教授がいて、僕が卒業した後になる60年代の後半、各大学で取り組むことになった「デザインサーベイ(集落などの実測調査)」に触れ、神代先生は民俗学者ともコンタクトを取りながらコミュニティに踏み込み、その成果が「日本のコミュニティ」(鹿島出版会刊)に集約され、建築界と共に社会に刺激与えたことを紹介しながら、3月11日の震災を経て、建築家としてこの問題にどうたち向うのかと問うた。
僕は、青森の建築家が発行している雑誌「Aハウス No.9」(2010年7月発行)に「神代雄一郎の津軽十三」というタイトルで、僕の原風景ともいえる天草で小学生時代を過ごした様などを織り込んでこの問題を書いたことがある。

暫し考え込んだ篠田さんから、難しい問いかけだが「個と全体」を考えなくてはいけないと言うことでしょうという答えを得た。数多くの「公共建築」に取り組んでいる篠田さんのこの一言は重い。
そうなのだと、僕も考え込みそうになった。
篠田さんは坂倉建築研究所のOBとして活躍しているが、震災に対してもJIAの災害対策委員として建築学会や文化庁との橋渡しをしながら建築界の一分野を率いている。若い世代に対して都市や社会を構築していくときの建築家の役割を示唆したのだ。

僕はこの震災によって見えてきたのは都市と田舎(どういう言葉を使えばいいのかと迷うが、過疎と言われていても自然と向き合いながら共同体システム・コミュニティ・の中で生計を立てている、都市生活規範では括れない地域)の課題、つまり大都市論理で全てを考えてはいけないと言うことだと改めて思い、この震災で都市から見ると埋没していたと思える「地方が見えたということですね」と括った。

明建祭で、世界を見ることと、日本の中の一地方を考えることの、両方の課題が浮かんできたと考える。
小、中、高、大と学んできて、どれしも先生に学んで友人が出来、人生を豊かにしてくれたが、とりわけ最終学校は、社会を生きる人生に影響を与える職業を選択したことで意義深い。

さて懇親会。弦楽合奏をバックに肩を組んで歌う校歌は格別だ。
大勢のOB、OGやサポートしてくれた現役学生、理事長、交友会長、学長などと共に僕も身体を揺らしながら「白雲なびく・・・」と大声を上げた。

<写真 懇親会でのコンサート、最後に肩を組んで校歌をうたう>