金寿根の旧タワー記念館(韓国 ソウル)―タワーホテル―
フランスの建築家ル・コルビユジエの設計した「サヴオワ邸」を家族で訪ねる一編からスタートした「建築遺産のある街へ」というシリーズの、巻頭フォトエッセイ(という表記に惑わせられるが)に、オヤッと思ったのが`稲葉なおと`との出会いだった。
ル・ポルタージュだと思って読み進み、読み終わっていやこれはフィクション、物語なのだということに気がついたのだ。掲載されたのはGOLDというJCBカードの機関紙である。
最終回第13回のタイトルは「近代建築の巨匠が遺した記念碑 旧タワー記念館」。旧友が手配したホテルは、改修の度に話題を呼ぶ、巨匠の建築作品だった、というサブタイトルから小さな物語が始まる。
美大生時代からテレビドラマにも出演して衆目された彼に、自然に接してくれたのがキムという韓国人留学生で、親友と呼ぶようになった。彼は俳優への道を歩み、キムは建築家を目指す。いつしか疎遠になり年末のカードのやり取りする程度になる。彼は見栄えだけの役者として落ち目になるが、キムは大きな設計競技(コンペ)を勝ち取りスターになっていく。
彼は苦労をかけた家族にせめてものサービスと思い立ったのがソウル旅行だった。家族にみすぼらしいたびをさせたくない彼は、思い立ってキムにメールを入れる。「君にふさわしいホテルを予約したから」。
ホテルのHPを開いて彼は萎縮する。あまりも高級感に溢れている。料金を尋ねる彼に(同じキムという名の)[金寿根(キム・スグン)という名前を覚えているか。僕の方で費用は負担するので心配無用]そして〔志は木の葉に包め]という故事成語が添えられていた。
客室に入った妻と小学1年生の息子が、感激の声を上げるなかで、チェックイン出来たかとメールが来て[君からもらったまた別の言葉、来るものこだわらず。「来るものを」仕事と思い、どんな小さな仕事でも全力で向き合った、だから今の僕がある。名建築は蘇る。名優も!]。
金寿根は東京藝大に学び、東大で修士学位を取得。ソウルオリンピックのメイン競技場を設計するなど韓国の近代建築の礎を築いた建築家だが、1986年51歳の若さでなくなる。現在では財団がつくられ数々の名作の保護がなされている建築家である。
僕は2003年、金寿根さん自身の設計した仕事の拠点、言い方を変えれば建築を学ぶ学生にとってのメッカともいえる空間工房で行われたDOCOMOMO Koreaの設立総会に招かれた折、ソウル市内の数々の金寿根の建築を案内してもらったが、このホテル(旧タワー記念館)も含まれていた。それがこのときの訪韓のもう一つの楽しみでもあったのだ。
本編の主題「旧タワー記念館」は、案内してもらったときには「タワーホテル」と銘が打たれていて、竣工1967.6.25大統領朴正熙と日本語で刻まれた定礎石が外壁に取り付けられていた。
日本に学びコルビュジエの影響も受けてコンクリート打ち放しによるモダンムーヴネントにトライした金寿根は、1965年に建てたPuyo National Museumに対して韓国の伝統に背を向けているとの批判を浴び、韓国古来の村落や歴史的な建築調査に取り組み、人になじむレンガを多用する建築に取り組む。その成果の一つが空間工房なのだが、タワーホテルはその前期の代表作の一つでもあるのだ。
「建築遺産のある街へ」にはファイルとしてこの建築の変遷経緯が記載されている。
タワーホテルは当初17階建てだったが2層増築されて19階建てになり、最上階にワインバーが作られるなど高級ホテルとして蘇る。1963年に建てられた(定礎石の記述と合わないのはなぜだろう?伝統にのっとったレリーフを取り付けるなど国の費用によって改修した年なのだろうか)この建築(タワー記念館)は74年に低層棟が増設され、その低層棟は昨2010年宿泊客も利用できるプライベートクラブに大改修されたという。
沢木耕太郎は、41歳のときに自分が死んだときには、「死んじまってうれしいぜ、この馬鹿家郎が!」といってくれる友人を、一人くらいは持ちたいものだと思う」と書くが、ソウルを訪ねると常に歓迎して集ってくれるDOCOMOMO Koreaの方々を思い浮かべ、更に僕は稲葉なおとのこの小さな物語の、彼とキムとの小さな物語を重ね合わせながら、71歳になった己に[馬鹿家郎!]といってくれる奴がいるか!と考えるのである。
<写真 2003年訪韓時のタワーホテル 改修によって2層増築し、あわせてサッシ(窓)も改修された>