日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

ノンフィクションとフィクション:沢木耕太郎と稲葉なおとの場合(Ⅱ)

2011-11-27 10:52:13 | 建築・風景

金寿根の旧タワー記念館(韓国 ソウル)―タワーホテル― 

フランスの建築家ル・コルビユジエの設計した「サヴオワ邸」を家族で訪ねる一編からスタートした「建築遺産のある街へ」というシリーズの、巻頭フォトエッセイ(という表記に惑わせられるが)に、オヤッと思ったのが`稲葉なおと`との出会いだった。
ル・ポルタージュだと思って読み進み、読み終わっていやこれはフィクション、物語なのだということに気がついたのだ。掲載されたのはGOLDというJCBカードの機関紙である。

最終回第13回のタイトルは「近代建築の巨匠が遺した記念碑 旧タワー記念館」。旧友が手配したホテルは、改修の度に話題を呼ぶ、巨匠の建築作品だった、というサブタイトルから小さな物語が始まる。

美大生時代からテレビドラマにも出演して衆目された彼に、自然に接してくれたのがキムという韓国人留学生で、親友と呼ぶようになった。彼は俳優への道を歩み、キムは建築家を目指す。いつしか疎遠になり年末のカードのやり取りする程度になる。彼は見栄えだけの役者として落ち目になるが、キムは大きな設計競技(コンペ)を勝ち取りスターになっていく。

彼は苦労をかけた家族にせめてものサービスと思い立ったのがソウル旅行だった。家族にみすぼらしいたびをさせたくない彼は、思い立ってキムにメールを入れる。「君にふさわしいホテルを予約したから」。
ホテルのHPを開いて彼は萎縮する。あまりも高級感に溢れている。料金を尋ねる彼に(同じキムという名の)[金寿根(キム・スグン)という名前を覚えているか。僕の方で費用は負担するので心配無用]そして〔志は木の葉に包め]という故事成語が添えられていた。
客室に入った妻と小学1年生の息子が、感激の声を上げるなかで、チェックイン出来たかとメールが来て[君からもらったまた別の言葉、来るものこだわらず。「来るものを」仕事と思い、どんな小さな仕事でも全力で向き合った、だから今の僕がある。名建築は蘇る。名優も!]。

金寿根は東京藝大に学び、東大で修士学位を取得。ソウルオリンピックのメイン競技場を設計するなど韓国の近代建築の礎を築いた建築家だが、1986年51歳の若さでなくなる。現在では財団がつくられ数々の名作の保護がなされている建築家である。

僕は2003年、金寿根さん自身の設計した仕事の拠点、言い方を変えれば建築を学ぶ学生にとってのメッカともいえる空間工房で行われたDOCOMOMO Koreaの設立総会に招かれた折、ソウル市内の数々の金寿根の建築を案内してもらったが、このホテル(旧タワー記念館)も含まれていた。それがこのときの訪韓のもう一つの楽しみでもあったのだ。

本編の主題「旧タワー記念館」は、案内してもらったときには「タワーホテル」と銘が打たれていて、竣工1967.6.25大統領朴正熙と日本語で刻まれた定礎石が外壁に取り付けられていた。
日本に学びコルビュジエの影響も受けてコンクリート打ち放しによるモダンムーヴネントにトライした金寿根は、1965年に建てたPuyo National Museumに対して韓国の伝統に背を向けているとの批判を浴び、韓国古来の村落や歴史的な建築調査に取り組み、人になじむレンガを多用する建築に取り組む。その成果の一つが空間工房なのだが、タワーホテルはその前期の代表作の一つでもあるのだ。

「建築遺産のある街へ」にはファイルとしてこの建築の変遷経緯が記載されている。
タワーホテルは当初17階建てだったが2層増築されて19階建てになり、最上階にワインバーが作られるなど高級ホテルとして蘇る。1963年に建てられた(定礎石の記述と合わないのはなぜだろう?伝統にのっとったレリーフを取り付けるなど国の費用によって改修した年なのだろうか)この建築(タワー記念館)は74年に低層棟が増設され、その低層棟は昨2010年宿泊客も利用できるプライベートクラブに大改修されたという。

沢木耕太郎は、41歳のときに自分が死んだときには、「死んじまってうれしいぜ、この馬鹿家郎が!」といってくれる友人を、一人くらいは持ちたいものだと思う」と書くが、ソウルを訪ねると常に歓迎して集ってくれるDOCOMOMO Koreaの方々を思い浮かべ、更に僕は稲葉なおとのこの小さな物語の、彼とキムとの小さな物語を重ね合わせながら、71歳になった己に[馬鹿家郎!]といってくれる奴がいるか!と考えるのである。

<写真 2003年訪韓時のタワーホテル 改修によって2層増築し、あわせてサッシ(窓)も改修された>

ノンフィクションとフィクション:沢木耕太郎と稲葉なおとの場合(Ⅰ)

2011-11-23 21:15:30 | 日々・音楽・BOOK

―バーボン・ストリ-ト―

文庫本がいいのは、小ぶりでめくりやすく電車の座席で読むのに具合がいい上に安価だからだが、もう一つ気に入っていることがある。全てにではないが、著者の「あとがき」や識者による「解説文」あるいは「著者へのオマージュ」が書かれていることだ。

このブログに自分で書いた沢木耕太郎の`深夜特急ノート`に刺激され、書棚にあった沢木の「バーボン・ストリート」を引っ張り出した。この文庫本は平成元年の発行だからすでに23年を経ていて、収録されている15編のどれをも読んだ記憶がないことにも驚いたが、7歳若い沢木がこのおしゃれなエッセイを書いたのが41歳だということにもある種の感動を覚えた。
書かれているエピソードが物語のようにカッコいい!

ここには山口瞳が解説文を書いているが、この軽妙な一文にも触発された。この中にこういう一節がある。
「・・・ヤラレタ、完全にヤラレタと思ったものだ。それはノンフィクションをフィクションのように書く、エッセイを小説のように書く作家に遂にめぐりあったような気がしたからだ」。

この一言を、23年を経たとは言え読んだ覚えがないということを考えると(書棚にあるのだから読んでないはずはないのだが?)、やっとこの面白さがわかる歳になったのかと一人でにやりとしたくなる。41歳の沢木に触発される。俺もまだ若い!・・・といいたくなることに苦笑だ。

さて、このバーボン・ストリートに「死んじまってうれしいぜ」というタイトルの一編がある。ネオンが点滅するロサンゼルスの安宿に泊った沢木はこう書く。
「フリップ・マーロウの町だった。この町でチャンドラーの世界の男たちは会い、分かれていったのかと思った」そしてその思いをもってニューオリンズに寄りバーボン・ストリートでデキシーランド・ジャズを聴く。こういう曲があった。「お前が死んじまって俺はうれしいぜ、この馬鹿家郎が!」。
ここには強い語調の底にたたえられた深い悲しみがある。男が男を埋葬するときの惜別の辞としてこれ以上のものはない。・・自分が死んだときには、「死んじまってうれしいぜ、この馬鹿家郎が!」といってくれる友人を、一人くらいは持ちたいものだと思う。

―この国の大臣の友人に対する思いの一言を、この国のプレスとジャーナリストが鬼の首を取ったように指弾したことに、僕はこの国の危機を憶えるのだ。そしてそれに乗っかる政治家がこの国を仕切る―

沢木はノンフィクションをフィクションのように書くが、フィクションをノンフィクションのように書く作家がいる。インドを舞台にした旅行記で、JTB紀行文学大賞奨励賞を受賞した`稲葉なおと`だ。(この稿続く)


浦辺鎮太郎の愛媛県西条市「西条栄光教会」

2011-11-20 13:36:31 | 建築・風景

棟方志功夫妻から「浦鎮(うらちん)さん」と親しまれ、また信頼されていた倉敷の建築家浦辺鎮太郎のつくった建築が、愛媛県西条市の西条藩陣屋跡の堀の内に建っている。
一つは、僕の`うらちん`さんのイメージにもある大原美術館分館(DOCOMOMO100選:1961)に通じる蔵のある歴史に呼応した骨太の建築「西条市立郷土博物館・愛知民芸館」で、もう一つは瀟洒なと言いたくなる「西条栄光教会」である。

この教会には、牧師の住まう「牧師館」と「幼稚園」が併設されていて小さなコミュニティが築かれているが、浦辺鎮太郎という建築家を考える上で、大変興味深い建築群である。
シンプルでピュアなモダニズム建築という側面があり、後に建てる町並みに呼応した建築の佇まいとは趣が違うからだ。

明治の末に生まれた(明治42年:1909)浦辺は、京都帝国大学を卒業した後倉敷レイヨン(現クラレ)に入社して営繕部門に技師として配属され、大原美術館分館を在職中に設計した。1962年に社長大原総一郎の庇護の下に建築家として独立するが、愛媛県西条市に建つこの「西条栄光教会」もまた、倉敷レイヨン在職中の1951年に設計をしたものである。ちなみに郷土資料館・民芸館(二つの建築が連なっている)は、独立した後の1967年に手がけたということも興味深い。

僕が訪れたのは3月に行われた鬼北町庁舎の委員会の翌日で、民芸館では収蔵しているお雛様を公開するための展示変え作業をしている最中だった。取り出している古色に満ちたお雛様などを快く拝見させてもらったが(展示変え作業中だから無料でいいですよと言われて)、そこで棟方志功との関わりが出てくる。館長との話の中に棟方のお孫さん、僕の飲み友達石井頼子さんの名が出てくるのだ。
棟方は、浦辺の設計した倉敷の「倉敷国際ホテル」の壁に、巨大な板画「大世界の柵<坤>人類より神々へ>をかけるが、大原総一郎は大原美術館に棟方の板画館をつくるなど縁が深い。

教会はお堀端に建っていて、左手に牧師館、右手に校庭を前にした平屋の幼稚園がある。
掃除をしていたおばちゃんに教会を拝見させていただきたいとお願いしたら、若き伝道師を案内してくれた。この建築に惚れている伝道師さんとの話が弾む。

壁と天井が白い漆喰塗りのこじんまりした空間に、引っ張り材としての鉄筋と木の梁(垂木)によるトラスと木の柱、2メートルほどの木の板による腰壁がしっとりした味わいを持って僕を魅了する。伝道師は半年ほど前に赴任したばかりだが、先代時に入り口の扉を、信徒さんがアルミに取り替えてしまったようだと残念がる。そして信徒の数も、少子化の影響もあって園児も少なくなってなかなか厳しい時代になりましたとのこと、僕はこの瀟洒な教会の存在を伝えるために、登録文化財への登録を検討するなどしてみるのはどうかと進言した。

この教会堂に、浦辺鎮太郎という建築家の原点があるような気がする。ふと横浜の港の見える丘公園に建つ浦辺の設計した同系列の「大仏次郎記念館」を思い起こす。16年後にこの教会の奥に博物館と民芸館を建てたこととあわせて見ないと、浦辺を解き起こせない。

浦辺は「建築家が歴史を築くのではなく、作品の結果が建築家なのだ」と述べる厳しい一面を持つ建築家だったというが、棟方志功ご夫妻が「浦鎮(うらちん)」さんと慈しむように述べていたことを思うと、密かに僕の建築の師と想っている、岡田信一郎の弟子で山本学や圭の父親「山本勝巳」先生の穏やかな口調と笑み、その風貌を思い出すのである。

一言添えておきたいのは、この建築は西条市の瀬戸内海を望む地に、倉敷レイヨンの工場設置を認めサポートしてくれた西条市(市民)に感謝し、大原総一郎が寄贈したとのこと、現在の財界人の様を想うと思わず唸ってしまう。

<写真 教会の左手に見える大屋根の住宅が、牧師館です>

ものおもう晩秋ー札幌の雪、秘湯・会津、八重山情唄ー

2011-11-15 20:39:30 | 添景・点々

床に落ちる日差しが延び、その陰影に見とれていてふと気がついたら、その幅が大きくなっていた。日が低くなって影がいつの間にか動いていることに驚いている。
秋の日は`釣瓶落とし`というが、オフィスから外を見て薄暗くなったとふと気がつくと、まだ5時だったりする。晩秋は`ふと気がつく`ことが多いのだ。そしてあっという間に真っ暗になる。

何をボーっと考えていたのだろう。夏の日の朝、都庁の角の交差点で信号が青になるのを待っているときの猛暑をさえぎるために、少し離れた歩道橋の下に身を隠したり、電柱の影に寄り添ったりしたことを、そしてこのごろは日差しを求めても、超高層の影が交差点一帯を覆っていて日当たりができないことに気がついて、季節は巡るものだと実感したことなどだった。

北大の銀杏並木が満開(変なコトバだが)の報が伝えられたのはつい最近なのに、昨日初雪が降ったと報じられた。それでも例年より17日遅いという。昨年11月1日に訪れた初雪の中の紅葉真っ盛りの札幌市立大の白樺を思い起こしたりもする。初雪が豪雪になって枝が折れたり、倒れた樹もあったのだ。

夏は猛暑、晩秋に豪雪、雨が降れば暴雨、冷え込んでくると東北の人々の生活を思って何もいえなくなる。
陸前高田で母を亡くした写真家畠山直哉が「誰かを超えた何者かに、この出来事全体を報告したくて写真を撮っている」(アサヒカメラ9月号)と述べた「何者か」とは何か!とぼんやりしていたら、同じ昨秋の11月、母校の先輩六代目宝井馬琴師に誘われて会津を訪ねた珍道中を思い出した。

行ったことのなかった大内宿に寄るのが楽しみだったが、だんだん乗客がいなくなり終着駅で降りたのは馬琴師と僕の二人だけ、迎えに来た若者に聞くとこのツアーは「秘湯のたび」なのだった。そして入った秘湯の周辺は雪景色で長い階段を下りてゆく。
オヤッ?と思った。じっと目と目で見つめあうとその娘がつっと湯船を出て浴槽の淵に腰掛けた。おっぱい丸出しの二十歳くらいの美形。数人いた小父さんの一人が大胆だねえ!と声をかけると、気持ちがいいですからねえと胸を張る。秘湯なのだった。

`ふと`思いついて、安里勇の八重山情唄「海人(うなんちゅう)」を聴く。
三線に乗せた「ちんだらぶし節」と転調した「九場山越路節」がゆったりと流れてくる。このCDの写真は藤原新也で、「海士の声」と題する藤原のライナーノートと、池澤夏樹の、ほんとうに静かな夜を想像していただきたい、という一言から始まる「竹富島の夜の風」、そしてカムチャッカでヒグマに襲われて亡くなった写真家星野道夫の、沖縄と安里勇に寄せる思いに満ちた一文に目をやる。
この南国沖縄諸島八重山の「海人」は、不思議にもの思う晩秋に似合うのだ。

時計を見る。
11月15日のam11:30。これからある部位の針生検のために東海大学病院に向かうのである。

どうも気に入らない「東京文化会館50周年」記念切手

2011-11-07 19:10:08 | 建築・風景
新宿中央郵便局に立ち寄って記念切手コーナーをのぞいてみたら、発売されたばかりの「東京文化会館50周年」切手が目に付いた。

1961年前川國男は、師ル・コルビュジエの「西洋美術館」と`軸線`を構築して「東京文化会館」を向かい合わせに建てた。これは師へのオマージュでもある。

大と小の趣の違うホールを持ち、会議室なども併設させた複合施設でもあるが、建てられたとき大学生だった僕は、音響にも配慮して大ホールの両壁にしつらえた向井良吉のレリーフ(彫刻群)にも目を見開かされた。このホールは音の良さと相まって、海外の音楽からの評価も高いクラシック音楽の殿堂になったといってもいい。といってもここでキースジャレットのトリオを聴いて、胸が熱くなったこともある。本物の中で本物に浸る悦びといってもいいのかな!

打ち放しコンクリート壁の小ホール舞台正面の壁面音響版は、屏風を横にしたようなデザインで、このホールの空間も好きだ。
前川國男の建築を一つ、と言われたら躊躇なく僕はこの会館を推挙する。

そうか50周年か、と思ったものの切手を買うのをためらった。面白くないのだ。
記念切手なのだからこの会館へのオマージュがなくては、つまり音の響きが聞こえてこなくてはいけない。さらに感動に満ちている気配が伝わってこなくてはいけない。
ああだめだ。この建築への、此処で公演されたオペラ歌手への、物語への敬意と憧憬がどこにも感じ取れない。

でも買ってしまった。一時は建て替えなんていうことがささやかれたものの、50年を迎えることのできた会館に敬意を表するために…いやそうではない。デザイナーにひとこと言いたいためのこの一文を書くためだ。50周年を祝して記念切手が発行された喜びを伝えたいのだが、ちょっと残念だからでもある。

笹井祐子展「オルデユーニャの光と風」

2011-11-03 21:17:41 | 日々・音楽・BOOK
昨年の夏、メキシコから届いた笹井祐子さんからの葉書に描かれた二羽の鶏があまりにもオモシロイので、額に入れて飾ってある。彩りに満ちたメキシコの切手が貼ってあり、大きな三角形の消印が絵の端にもかぶさっていて、それもまたいい。
その笹井さんが、御茶ノ水駅から数分の場所(神田駿河台1丁目コトー駿河台)にある「ギャラリーf分の1」で、作品展をやっている。タイトルは 笹井祐子「オルデユーニャの光と風」。
11月1日初日の、オープニングパーティに出かけた。

このギャラリーは(半)地階になっていて、道路から二方にある階段を下りると前庭と言いたくなる大きな通路があってギャラリーいっぱいに開かれたガラスから展示の見える小粋なしつらえになっている。11月になったばかりなのに5時半が秋の夜の始まり、日が落ちるのが早くてギャラリーの白い壁に浮かぶ作品に、別世界を覚える。

集まった笹井さんの知人たちは、通路に設置された素敵な女性画廊主の心づくしのおつまみを楽しみ、ワインを酌み交わしながら、ギャラリーを出たり入ったりしてこのひと時を楽しんでいる。僕は小さなテーブルに添えられたハンス・ウェグナーのYチェアに腰掛けて、ガラスから見える作品や集まった人たちの楽しげな姿を眺めている。若者(学生)がたくさんいるのは、笹井さんが日大芸術学部の准教授を務める作家でもあり教育者でもあるからだ。学生にとっては憧れの先生なのだろう。昨年の卒業作品展で、「メキシコから帰ってきた先生は元気?」と聞いたら「元気、元気」とはしゃいだ。その学生たちからは来場お礼の丁寧な葉書が届いたりした。

アクティブな多彩な活動に今が旬と僕も感じているし、誰かがワインをささげて同じようなことを述べたら、イヤソロソロ?四十代はねえ!とのたまわった。いや勢いもあり懐も深くなったと思うのだけどと臆面もなく僕はいう。その笹井さんは、僕の関わったドコモモ150選展を見てくれて、`思いがけず感動した`といってくれた。秋の夜は楽しい。

数年前になるが、親しい画家のグループ展を見るために妻君同伴で横浜に行った折、関連して行われた石川町のギャラリーへ足を伸ばしたのが笹井さんとの出会いだった。そして作品に魅せられたのだ。
手に入れたのはエッチングに絵の具を塗りこめた、版画ではなくドローイングといっていい小さな作品である。展覧会のタイトルは「風のおとずれ」だった。秋元紀美子さんという写真家とのコラボ展だったが、その作品は、もらった作品集の冒頭に掲載されている。

「そうだ、南へ行こう。私たちは駆りたてられるように、年の暮れ南に向かった。私たちを駆りたてたのは、風の匂いであり、風の光であった。南の風の記憶が私たちをそそのかした」と「風頌」と題した巻頭文に書かれている。
今回の作品は、昨年訪れたメキシコの工房で制作されたリトグラフによる作品が中心だが、やはり「風」なのだ。しかし、「人のいる風」である。人の気配が潜んでいるのだ。いや気配といってもただ事ではない気配、ちょっと怖いところもある

僕がこのギャラリーでの笹井祐子展を見るのは一昨年に続いての2回目だが、建築家東利恵さんの父の作品を中心とした建築展や、親しい建築家野中さんが友人に誘われて建築写真二人展を開催したこともある。
「オルデユーニャの光と風」展は、11月6日(日)までである。

さて「ギャラリーf分の1」から歩いて10分ほどの神田神保町のギャラリー「福果」を会場2として、赤など多彩な色によるドローイングの作品展も開催されている。笹井さんの一側面を受け取ることになるだろう。実は展示を僕はまだ見ていない。でもその中の一点を拝見したので期待しているのだ。
会期は11月12日まで。(日曜日休廊)