日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

相田武文・東京都戦没者霊園を経て、川里村から芝浦工大大宮キャンパスへ

2015-01-25 15:40:08 | 建築・風景

相田武文という建築家がいる。
早稲田大学で今井兼次、明石信道に学んで大学院博士課程を終了後、設計事務所を設立、芝浦工大に招かれて学生を指導しながら数多くの建築をつくり、名誉教授として退任して建築に取り組む。現在は教え子を代表にして現役バリバリ、僕はJIA(日本建築家協会)のいくつかの委員会でご一緒してきた。

建築誌に連載している「建築家模様」に登場いただくことになって、身近にある相田建築巡りをしてきた。
僕のイメージの中には「積木の家」がこびりついているが、評論家長谷川尭も相田自身も`線状に空に伸びる列柱群`構成に「ゆらぎ」をキイワードとした建築論を展開してきた。
論考は難解で旨く表現できないが、列柱は壁、そこで醸し出される類例の無い空間を味わうと、「ゆらぎ」というキイワードが僕のどこかで共鳴していることに気がつく。

東京都戦没者霊園内を歩きながら、相田も相田に学んだ建築家も長谷川も指摘していないが、その壁による列柱が、戦没した人の姿に思えてきた。例えばフィリピン・ルソン島で戦没した僕の父がこの壁のどこかにいて、父の2倍以上を生き延びてきた僕を見ながら、かすかに微笑んでいるような気がしてきたものだ。

阪神大震災と復興の一断面を思いながら・・

2015-01-17 18:30:08 | 自然

20年という節目だから、ということではないが、新聞やテレビの報道を見ていると、1995年の1月17日、この日の惨事についての様々な記憶が、僕の中にも留まっていることに気がつく。
阪神大震災が発生したのが午前5時46分、巨大な建造物の破壊と共に、住宅地の道路や敷地に亀裂が入り、倒壊した住宅の隣地に建つ住宅はほとんど無障ということも起き、現地を訪れて活断層というコトバの実態を確認したりしたことを思う。

JIA(日本建築家協会)の近畿支部からの要請があって、全国からJIAに所属する建築家が神戸に出かけた。神戸の建築家自身が被災していて、炊き出しなども含めた市民への支援が出来ない。JIA事務局員はすぐ呼応して長田に仮事務局を設置、親しい建築家が何人も出かけたが、仕事の調整をして打診したところ(奇妙な言い方だが)満杯、事務局では対応できないということだった。
被災地の状況が気になる僕は、ほぼ一ヵ月後、仕事を一緒にしていた建築会社の社長を誘って現地へ赴いた。
鉄道が動かないので途中からバスを乗り継ぎ、瓦礫の中のJIAの事務局に立ち寄ってJIAの支援・作業状況を聞いた後、2日間に渡って神戸を中心に歩き回った。

20年を経て気になっていたことがよみがえる。木造住宅が密集していた長田地区が火災に見舞われ、批判はあったものの、これをいい機会だと道路を拡幅した再開発事業を推進。ところが今ではシャッター街になってしまったという報道がなされている。

18年前に江ノ島、藤沢を中心としたJIAの保存問題の大会を行うために現地確認をしたときに気になったのは、箱根駅伝で通る旧東海道遊行寺近辺の商店街がシャッター街になっていることだった。
結局藤沢の中心街に建てられて都市が生き生きと発展していく姿をテーマの一つとして捉えることになったときの違和感。そして2006年前後、数年に渡って文化人類学の教授や学ぶ学生たちと沖縄を巡ったときの、活気に満ちた名護市中心街が、3年前に訪れた時には思いがけなくシャッター街になっていたことに衝撃を受けたことと重なってくる。

阪神大震災の発生が未明だったので、亡くなった方が6434人という少数だったのがせめてもの救いだったとも言われたりした。.
しかし、子女をなくされたり後遺症に悩む人、そしてこの歳に生まれて成人になった若者の、この日が来ると常にあれから何年(何歳)になったという指針になるとのメッセージをきくと、東北や沖縄の人たちと重ね合わせながら、たとえ一人であっても、人為的なものであっても、自然の引き起こすものであっても、「人の生きていくこと」を重ね合わせて、人は涙とともに生きていくのだと瞑目せざるを得なくなる。

<今回は写真の掲載はしないことにします>



吉村順三の建築を語ること・愛知県立芸術大学

2015-01-12 16:08:44 | 自然

建築家吉村順三を語るのは難しい。難しいと言うよりは、ちょっと怖いというのが実感である。東京藝大で吉村順三に学んだ信奉者がたくさんいるし、建てた建築やお人柄、ゆるぎない建築への志は後輩に引き継がれているからだ。建築家の一人として何かの折に触れ合うと、建築についての価値観を共有してすぐに親しくなるが、師への熱い思いにちょっとたじろぐ。
信奉者という言い方はどうか!とも書いていて思うが、吉村順三が没してから17年を過ぎ、お互いに17歳、歳を取ったものの、建てた沢山の建築を通してその理念は現在に受け継がれているのだと感じる。

その僕は現在、吉村順三の設計した愛知県立芸術大学「施設整備委員会建築環境評価専門部会」の3人の有識者(建築の)一人として、県や選抜された愛知芸大の教員と共に、キャンパスの建築群の耐震改修を行い、その魅力を継承していく委員会(部会)に関わっている。DOCOMOMO japanの幹事長、学会のDOCOMOMO対応WGの主査として、この建築の選定も視野に入れて、選定年限を1970年までから1979年までに拡大し、建築学会の大会で論議して承認を得たという経緯もある。

名古屋から地下鉄に乗り、リニモ(磁気浮上式鉄道)に乗り換えて長久手市の丘陵地に建つキャンパスに向かうが、委員会のほか、ドコモモでの見学会を行うなど何度も訪れている。そしてその都度心打たれる。
新音楽棟が新設されたときには大きな波紋が広がったが、県も大学も県の予算取りを含めて様々な課題を斟酌しながら、難しい課題に取り組んできたと、僕は言える。

突然このような一文を記載しようと思ったのは、25稿で連載が終了する「建築保存物語」(新建の機関誌`建築とまちづくり`)の第22、23稿で執筆する事にしたからだ。渦中ではあるが県や大学を含めて関係者が、真摯にこの課題に取り組んでいることを伝えたいとも思うのです。

新年を迎えて

2015-01-02 21:10:07 | 自然

元旦。戴いた沢山の年賀状に見いって居たら、はらはらと雪が舞ってきた。
着物を着た娘は、妻君と賑やかに声を掛け合いながら花札で「こいこい」をやっている。毎年の恒例、元旦に有鹿神社へ車で行って初詣、だけど、この雪では三脚を立ててセルフタイマーでの記念写真が撮れない。初詣では明日にしようかということになった。そして娘が借りてきたDVD、映画「スラムドック弗ミリオネア」と「マリーゴールド・ホテルで会いましょう」を皆で見ることにした。

「スラムドック弗ミリオネア」は、インドの大都市ムンバイのTV局のクイズ番組に出て、100万ドルの賞金を得る若者が主人公。演者はディーブ・パテール。貧しい町に育ったその軌跡を織り交ぜながらのドラマに我が身と重ね合わせながら見入った。

我が娘がコミックのジャンルに在ったので借りてきたという「マリーゴールド・ホテルで会いましょう」は、奇しくも(と娘が驚いた)主人公を演じる若者はディーブ・パテール。
「舞台は同じくインドのジャイプールという町。人が満ち溢れ、喧騒に満ちた雑多なまちの中の荒廃した建物をホテルに再建しようと、客人として海外から呼び寄せた老人たちを相手に、三兄弟の末弟が右往左往する様子が、コミカルに、おい!そんないい加減な取り組方で大丈夫かと心配になるほどシリアスに描き出されていて画面に引きずりこまれた。

オヤッと思ったその客人の一人、映画007、3代目の「M」を演じたジュディ・テンチ。1934年生まれだというからこの時78歳。味わいのある風格があって眼を引いた。他の年老いた俳優連も、共感したくなる過ごしてきた人生そのものを演じているようで、我が身と置き換えたりしながら見入った。そして若き主人公、この客人たちを仕切ろうとする末弟の、どこかに品格のある風情にも惹かれた。

でも、新聞のスクラップの整理に明け暮れ、年内に書いてしまおうと考えていた原稿が書けていない。映画を見た後の夜は、ズービン・メータの率いるニューイヤーコンサートに引きずり込まれた。除夜の鐘のなる前に寝入る。

さて晴天になった2日、箱根駅伝に見入った。いくつかのアクシデントがあって心を痛めたりしたが、我が明大が2位で往路を駆け抜けた。
そして初詣。朋友moroさんのおみくじは大吉だったそうだが、僕のは小吉、「長閑(のどか)なる春の野中を家人と心安けく行く心地かな」。

妻君と娘は今夜も「こいこい」に興じていて賑やかだ。そのそばで、僕はこんな一文を記している。
いい年になりますように!