日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

点描(1) 旧日向別邸へ行く Ⅰ 流れていく景色 

2007-05-31 13:28:52 | 建築・風景

重要文化財になった「旧日向別邸」の館銘板(案内板)検討のために熱海に向かった。
渡辺仁の設計した木造2階建ての一見普通の仕舞屋(しもたや)に見える上屋と違和感がなく、しかし庭になっている人工地盤の下につくられたモダンムーブメントといっていい、ブルーノ・タウトの設計した離れの空気も取り込みたいと、鉄と石とガラスでデザインした。

前庭や建築に対して、存在感のあるようなないような透明ガラスに、エッチングで文字を掘り込む。その見え具合の確認をしたいと思ったのだ。
文字のレイアウトは、グラフィックデザイナー、武蔵野美術大学教授の寺山佑策さんにお願いし、仕様は三種類考えサンプルをつくった。設置する場所は玄関脇の竹垣の前、逆光になるしバックに垣根や空が見えるので、文字が読み取れるかどうか心配になったからだ。制作をお願いする白水社の担当者と熱海市の職員にも立ち会ってもらう。

本厚木でロマンスカーに乗り換えた。小田急線の急行は朝のラッシュアワーなので乗り切れないくらい混雑しているが、ロマンスカーはあっけないほどがらがらだ。丹沢の見える窓際に座り、流れていく風景に眼をやる。
渋沢を過ぎ新松田に向かうと、深い渓谷を右に見る非日常性を感じる景色に変わる。この二駅間は結構距離があるのだ。ここを通るのが楽しみだ。
ずいぶん前のことになるが、ディック・フランシスの新作に読みふけっていて、ふと眼を上げたら車内ががらんとしていて一瞬どうしたのかと頭が混乱した。僕の家のある厚木を30分も乗り過ごしている。終電も近いし帰る電車があるかどうか愕然としたそんなことを、ここを通るたびになんとなく懐かしく思い出す。

小田原で東海道線に乗り換える。早川や真鶴を通っていくこの路線が僕は好きだ。左手に海が現れる。波の様子や漁船がぽつんといる有様などを眺めているとあっという間に時間が過ぎる。
ひなびた駅に止まると、錆びた線路に雑草が絡まっていたりする。単に雑草抜きの作業がされていない状態なのだが、この自然と人の手がほんの少し加わったこういう景色が僕は好きなのだ。

ふと、鉄の彫刻家若林奮の設計した、軽井沢セゾン美術館の庭園、小川のせせらぎを引き込み、自然石や草を取り込んで、自然と人の感性をさりげなく融和させたその作法に想いを馳せた。そこに架けた錆びた鉄板による小さな橋もいい。若林奮氏に会う機会はなかったが、亡くなった今も何かの折に僕の前に現れる。
沿線の植物は、勿論若林氏のように美意識を表現したものではないが、何か魅かれるものがある。原生林というのではなく、といって作為に充ちた作業をしているのでもない、ありのままの世界。流れていく景色に身を委ねた。



沖縄文化紀行(Ⅱ―7) 今帰仁村中央公民館の赤紫と闇

2007-05-26 14:14:46 | 沖縄考

建築家は誰しも「気になる建築」を持っている。
今関わっているプロジェクトを考える中で、見ておきたい建築は沢山出てくるが、何かの折にふと浮かんでくる建築があるのだ。
僕の心の奥深く、まるで澱(おり)のように澱んでいるのが`象設計集団`がつくった「今帰仁(なきじん)村中央公民館」である。

この建築は、象設計集団の沖縄での活動を、建築という形に結晶させたとして1977年の芸術選奨文部大臣賞を受賞した。中心になった建築家大竹康市は受賞に際してこう述べている。
「私は今回の受賞をてれずに率直に喜ぶことにした。なぜなら報道で象設計集団が代表としてクローズアップされすぎてしまったが、本来は、これにかかわったすべての人々がもらうべき内容だからである」
全ての人というのは、建築家だけでなく、村民や役所・教育委員会の人々を指している。だから「おめでとう」とあいさつされると、こちらも負けずに「おめでとうございます」と言い返すことにしている、という。

建築は様々な制約を受けながらつくられる。当然の事ながらクライアントの意向があるし、予算や工期、土地や環境、それに建築基準法や都市計画法という法規もある。隈研吾さんに会ったときに、ここはこうできなかったの?聞いたら法規がね、と苦笑した。法規を何とかしたいという戦いを承知の上での建築家同士でしか通用しない会話だが、事実結構厳しいのだ。

さらに公共建築の場合は各部屋のおおよその面積配分も、予算との関係などもあってほぼ決められており、それをクリアしていかなくてはいけない。大竹さんはこの公民館を「大屋根分舎方式」と述べた。必要とされる部屋を取り、壁の無い半屋外の空間を屋根の下につくった。この部分は建築全体の半分にもなる。

「一見無駄に見えるこのスペースをよく村が思い切って設計させたものだ。これは村が偉い」と沖縄の大竹の友人が感嘆したそうだが、僕にいわせるとやはり大竹が偉い。役所主導ではなく村民共々一体になる建築活動をしてきた成果だからだ。
建築家であり、冒険家でもあり、教育者でもあった恩師吉阪隆正の薫陶を見事に受け継いだといってもいいのかもしれない。

コンクリートブロックを積んでつくったこの建築を大竹は、沖縄のたくましい石造文化に迫りたいと考えたと述べている。ふと沖縄を石造文化といっていいのかと疑問がわいてくるが、僕がどうしても引っかかるのは、今まで述べてきたようなことではなく「色」と「闇」だ。

この建築は緑の鮮やかな芝生の広い前庭に立つ数本の柱と、屋根を支える列柱に囲まれている。その柱が赤紫の原色に塗られているのだ。この赤紫は、足場材を屋根に組んで建築を覆い尽くそうとしたブーゲンビリアの色かもしれない。この赤と芝生の緑、強烈な補色関係。そして半屋外の闇、決して暗くは無く風の通る心地良い空間なのだが、あまりにも外が明るいので、僕のイメージは闇なのだ。その対比が心の底に留まっている。

沖縄文化を捉えようとするときに、ふっとこの色と闇が浮かんできてしまう。

僕はこの建築を沖縄文化研究の同行したメンバーに観てもらいたいと思った。何度も沖縄に訪れたことのある大学院生たちは、初めてみたこの建築に意表を付かれたようで何も語らない。
この半屋外で集会をやっていたおばさんたちに、この建築をどう思うか尋ねてみた。しかし彼女たちは「建築といわれたって!」と困ったような顔をしている。当たり前のように使っているのだろう。ところで沖縄での大きな課題、台風のときはどうするのだろうか。
さて誰も(大竹さんも)書いていないが、前庭の正面に木々に囲まれた墓がある。破風(家型)墓である。やはりここは沖縄だ。

象設計集団の沖縄での活動で知られているのは、この公民館と同じようにコンクリートブロックを多彩につかった名護市庁舎である。多くの市民に親しまれているこの庁舎のイメージ色は淡いピンクだ。


手に入れた二眼レフ! マミヤC330 Professional F

2007-05-23 11:37:26 | 写真

ファインダーを透して視た、忘れられない景色がある。
奈良白豪寺に近い村落の蔵の漆喰壁だ。四十数年前にシャッターを押したときの感触をまざまざと覚えている。撮れたと思ったのだ。ところが二重写しだった。そのときのカメラがマミヤの二眼レフ、マミヤフレックスCプロフェッショナルだった。

このカメラはレンズ交換ができる世界で唯一のカメラだった。ところが二重写し防止装置がついていない(当時はまだ)。あああ、何枚失敗したことか!
シャッターを切った後巻き上げたか未だなのか、ついついうっかりするのだ。それにかさばるしなんたって重い。閉口した僕はやっと手に入れたこのカメラを友人に売ってしまった。最大の理由は、撮れたと確信した映像がだめだったことにショックを受けたからだと思う。

以来延々と、このときのがっかりした気持ちが、その景色・映像と共に忘れられないのだ。
とは言え、このカメラのメカニック的な機能をデザインとして表したスタイルは、心に描くだけでもどきどきしてくる。なんたってピントを合わせるためにノブを回すと蛇腹が繰り出してくるではないか。

僕は写真を撮るためにカメラを手に取るのであって、カメラオタクではないと宣言している。
ライカだってM6を2台も使っているが、ライカウイルスには掛かっていない。とは言うものの、ライカの3fも数年前に買ってしまった。
それには写りはいまいちなのに、ズマロンの35ミリがついている。しかもなんとしたことか、時折空シャッターを切ってにんまりしてしまう。まあ時々はシャッターを切らなくては、機械として良くないということもある、のだとおもうので・・

ふとマミヤC330を買おうと思った。
この「ふと」というのが曲者なのだが、ほしいと思ったらどうしようもない。ヨドバシカメラによったら写真工業出版社の「魅力再発見・二眼レフ」というのが目に付いた。ためらわずに買い込む。
延々とローライの記述が進むが、当然の事ながらマミヤのページがある。タイトルは「日本が誇るレンズ交換二眼レフ」。記述は詳細で15ページに渡っている。

このカメラは1994年1月に、最後の機種つまり最高グレードの、C330プロフェッショナルS型が販売終了した。これによって国産の二眼レフカメラの販売が終了したのだ。なんとまだ13年しか経っていない。
寝る前の楽しみ、雑誌アサカメ(アサヒカメラ)の何店舗もある広告を毎晩見比べる。
最終バージョン、最高級だというSはちょっと高いし、多分誰もがSを持ちたがるだろう。僕はその一つ前のバージョン「f」に決めた。

新橋駅の近くにある大庭商会で、ショーウインドウから出してもらって手に取ったとき、店長の江口さんに「f」のほうがいいですよ。Sは軽量化の為にプラスチックを使ったりしているので、といわれ、イヤアうれしくなった。

江口さんは写真家飯田鉄さんに紹介してもらったのだ。
このカメラ店では実は何度か中古のカメラを買ったことがある。でも飯田さんが前日電話をしてくれていたおかげで、江口さんとカメラ談義に話が弾んだ。
飯田さんは飲み友達なのだという。「写真談義で盛り上がるでしょうね」と聞いたら一瞬眼をつぶり[いやね、カメラ談義なんですよ]とにっこり。そうだろうなあ。なんとも楽しそうだ。

その江口さんが、店頭にまだ出していないピカピカのfを出してきて「こっちのほうが程度がいい、これにしましょう」と言ってくれたときは感激した。
よくこんなにきれいに使ってきたカメラがあるものだ。建築も撮るので方眼スクリーンに取り替えてもらった。
愛妻や娘に「また買うの!」といわれるのは覚悟の上、でもこれだけしかお金を使わなかったよと言いたいが為に、使わないキャノンL2やスクリューマウントのキャノン28ミリF3,5などを下取りしてもらった。

さて何を撮るか。それが問題だ。
でも僕には撮りたいものがある。ちょっと大げさだが、正方形の6×6でこの世を切り取りたい。
すっかりデジタル派になってしまった今の僕だが、銀塩でしっかり構えてまず、僕に撮ってくれと呼んでいる風景を撮る。合わせてやはり人だ。建築写真の前に。

写真の原点を考えてみたいのだ。木村伊兵衛はライカ使いの名人といわれたが、ローライで正方形の傑作を沢山撮っている。僕だって正方形にトライだ。
そして今日(5月13日)、まず愛妻と娘を撮った。

旅 トルコ(15)今は昔、でも好奇心が触発される旅だった

2007-05-16 17:06:44 | 旅 トルコ

イスタンブールには、1933年からのおおよそ2年間日本に滞在した後トルコに移住し、1938年12月24日客死したドイツの建築家、ブルーノ・タウトの住んだ旧自邸がある。
僕はタウトが日本で建てる機会を得た2軒の建築のうち、唯一現存する「旧日向別邸」の建つ熱海市の日向邸に関する委員会などに関わっているので、非公開とはいえ表からだけでも見たいものだと思っていた。DOCOMOMOの大会の前に事務局からDOCOMOMO Turkeyへ見学の打診をしたが、まったく返事が来なかった。

大会会場で手に入れたトルコのモダン・ムーブメントの建築ガイドには、建築名は書いてあったもののプライバシィに関わる建築案内は注意深く削除されていて、残念ながら見る機会を得られなかった。
この大会はDOCOMOMO Turkeyの主催によるものだが、お別れパーティがオランダ大使公館で行われるなど、トルコの影が薄いのがちょっと気になった。国際関係は難しい。

ところで旅に出るといつも買わずに帰ってからしまったと思うことがある。なぜかふと`けち`になってしまうのだ。そして、帰ってきてからあーあ!と溜息をつく。
今度の旅でも地下宮殿を出るところにあった売店で、トルコ音楽のCDを買わなかったのが悔やまれる。

トルコの旅。トルコへ行くのだ、と思ったときに描いたベーリーダンスも見なかったし、篠田夫妻が思い出してはうっとりした顔をして夢のようだったと語る、旋回する舞踏も見なかった。でもそれはいいのだ。一人で観るってなもんじゃないような気もするし・・・
トルコは、ことにイスタンブールは、その音楽なしには空気を味わえない。トルコを語れないのだ。と思うからだ。

バスに乗っても、タクシーの中でも、ホテルのテレビからも流れてくる音楽、屋台の叔父さんが街行く人に呼びかける声もリズム感があり音楽のようだ。全てが街の喧騒と一体になるが、のどかな景色の中ではゆったりと永久の響きのようにも聞こえる不思議な旋律。新しくても時を感じる音楽、声。
今は昔、おなかを壊し、2,5キロ体重が減った旅、心もとない一人旅、だけど好奇心が触発された旅、僕にとってのトルコはそういう国だった。

<この紀行を書き終えるのに半年もたってしまった。DOCOMOMOの大会の様子を書いた文章も組み込んで、後日構成を整えたいと思う>




旅 トルコ(14) 垣間見たトルコの抱える問題

2007-05-10 17:06:20 | 旅 トルコ

トルコへ行く直前、イスタンブールで爆破テロが起こった。一瞬出立をどうしたものかと戸惑った。そのほぼ一月前の8月27日にもイスタンブールと、エーゲ海に面した観光地マルマリスで計4件の爆発があり27人が負傷している。その翌日の28日トルコ南部のアンタルヤでも爆発が起こり、3名が死亡、数十人が負傷したという。アンタルヤは地中海に面したリゾート地で、観光客でにぎわう都市だ。

「クルディスタン開放のタカ」を名乗る組織がインターネット上で27日の事件について「トルコは安全な国ではない。観光客は来るべきではない」とする声明を出したと朝日新聞が伝えている。
観光はトルコのドル箱産業である。真偽は不明だが、反政府武装組織PKKがクルド人による独立を求めて武装闘争を続けており、トルコ軍が掃討作戦を行っているが、観光地の爆破は政府に打撃を与えるためだろうと報道された。

トルコは共和国建国以来80年以上にわたって国是としている政教分離の世俗主義と、国民の大半が信仰しているイスラム教との亀裂が起きている。EU(欧州連合)加盟を目指しているが政治の場でのイスラム化が難しい問題を引き起しているのだ。

EU加盟のもう一つの課題はキプロス問題だという。地中海にある島国キプロスは、ギリシャ系キプロス共和国と北キプロストルコ共和国に分裂して対立し、トルコは北キプロスを承認したが他国は拒否し、北キプロス共和国は2004年5月に単独でEUに加盟してしまった。それを受け入れたEUへの反発から過激な民族主義が台頭し始めている。
僕が国策だと感じたイスラムの都市風景にはこういう難しい問題が内在しているのだ。

イスタンブールにある日本領事館はテロを恐れて中心街から離れた高層ビルに移転した。
この領事館は大使館が首都アンカラに移った後もイスタンブールに残ってつかわれていた。オスマン朝末期の様式を伝える木造建築で文化財にも指定されている。
その建築が売りに出されたという。親日家として知られる研究者たちがその価値と保存を訴えるために、2006年末日本を訪れた。
「建築学的に重要なだけでなく、日本との友好、知的交流の証、それを売るなんて日本はそんなに貧しくなったの?」とは日本近代史の研究者ボアジチ大学のセルチュク・エセンベル教授の言葉だ。

こういうシビアな事態を垣間見た二つの事例を書いておきたい。
早朝に着いたイスタンブール、アタチュルク空港の出国の列がなかなか動かない。数人の検査官が現れ二人の男を連行した。「良くあるのよ・・偽のパスポートが露見して密入国者が捕まった」のだと、僕の後ろにいた日本人の団体客を案内しているガイドがいう。
僕は彼女のコトバを聞き、異国に来たことを実感し、さりげなくこのガイドが引き連れる観光客の後ろにくっついて薄暗く閑散としている両替所に向かった。

アンカラ空港で爆破があった。
イスタンブールの空港で篠田夫妻と待ち合わせ、アンカラで行われるDOCOMOMOの総会にむかう。そのアンカラ空港で篠田夫人がトイレに行った。なかなか戻らない。空港の出口が閉鎖された。篠田さんが心配して探し回ったがいない。十数人が取り残されたが突然出口の外で爆破音が起きた。

しばらくして正面のガラスの扉が開いた。篠田夫人が駆けてきた。ちょっと表を覗こうと思って裏口を出たら扉が開かなくなって戻れなくなり、離れて待機するように言われたという。不審物(もしかしたら不発弾)を爆破したようだ。
なぜか空港の係員も待機していた旅客も平然としている。

実はこうやって僕のイスタンブールとアンカラの旅が始まったのだ。

<写真 今振り返ってみると、ことのほか面白かった新市街の裏通り>

この建築を壊すのか!「東京中央郵便局」「三信ビル」「中銀カプセルタワー」などなど

2007-05-05 18:33:01 | 東京中央郵便局など(保存)

月2回発行される建築雑誌「日経アーキテクチュア」に、「保存戦記」というコラム(4月9日号より隔号毎)を書き始めた。
僕が建築の保存に関わるようになったのは、母校千葉県立東葛飾高校本館取り壊し問題が発端なので12年を経たことになる。12年も経ったというより、まだ12年なのかという思いのほうが強い。建築観だけでなく都市の在りかたや社会の仕組み、更に人の生き方を、この保存の問題を通して考えることになった。大勢の人や組織との出会いもあった、というより現在形の「ある」という言い方のほうがいいかもしれない。

コラムは字数の制限があるだけでなく、当たり前のことなのだが、主語を明確に記述しなくてはいけないと編集者に鍛えられている。書き始めて改めて思うのだが、複雑な経緯と関わった人の思惑もあるので、短いなかでその状況を網羅するのは至難の業だ。
更にこの数ヶ月の建築界(というより企業の、或いは中央郵便局の場合だと国のと言っていいか)の様子がおかしいと思っていて、過去の成功例(失われたものの方が多いのだが)などを書いていていいのかと忸怩たるものを感じてしまう。要するに経済優先、言い方を替えれば「拝金主義」を何が悪いのかと開き直るような風潮を感じとれるのだが、その対処に四苦八苦しているからだ。

<東京中央郵便局>
5月1日付けで新聞各紙に「中央郵便局、高層化」と報道された。郵政公社は1日から東京中央郵便局の建て替え基本設計業者の募集を始めると書かれている。業者といういい方が気になるが、それよりも地上37階、地下4階、延べ床面積19万平米と詳細が記載されているのが気にかかる。様々な組織が建て替え検討のサポートをしていたことは聞いていたのだが。
10月の民営化で「郵政株式会社」の所有になったので不動産開発が可能になったからだと併記もされた。

郵政建築を率いてきた吉田鉄郎の設計したこの建築は、大阪中央郵便局などと共に、かけがえのない文化遺産だとして建築学会、建築家協会(JIA)、DOCOMOMO Japanから2006年5月19日、保存要望書を郵政株式会社宛に提出した。まだ郵政省の在った時代、僕がJIAの保存問題委員長時代に重要文化財、或いは登録文化財への指定や登録の検討要望を時の郵政大臣と、文化庁長官に出して以来、いくたびかこの建築の存在することの大切さを伝えてきた。民営化とは何だと考え込んでしまう。

今回の発表をうけて、急遽5月1日付けでDOCOMOMO Japanから民営化委員あてに、保存要望と共に既に各界から要望書が提出されている旨併記し、そのコピーと昨年行った「東京中央郵便局の価値」と題したシンポジウムの資料(報道した毎日新聞記事)なども同封して速達で送付した。芝浦工大の南教授も同日DOCOMOMOとは少し違う視点で記載した保存要望書を民営化委員に送った。

内閣は民営化委員会を設け、今回の実施に向けてとりまとめを行うとしている。
民営化委員は、評論家として名の知られている田中直毅委員長(21世紀政策研究所理事長)のほか下記4名で構成されている。
増田寛也・東京市政調査会 元岩手県知事、辻山栄子・早稲田大学商学部教授、冨山和彦・㈱産業再生機構清算人、野村修也・中央大学法科大学院教授。

発表を5月1日という連休の合間に設定したのは、反対意見や問い合わせを封じるために用意周到に調整したものと思われ、またこの発表を受けた民営化委員会を連休明けの5月7日に開催することなど考えると、これが今の日本の国のやることなのかと憤りを隠せない。
たまたま僕は1日に事務所に出てDOCOMOMO Japan会長の鈴木博之東大教授と打ち合わせができて要望書作成と送付をしたが、本来ならDOCOMOMOでは幹事会などを開いて対応すべきなのだ。

<三信ビル>
東京日比谷にある「三信ビル」に足場が掛かっている。表示看板には5月1日から解体と記されているが、2週間ほど前に所有している三井不動産宛にJIAから見学の申し入れをしたが、既に取り付けてある彫刻などの取り外し作業をやっているので許可できないとの回答が来た。
「残すことも検討したがどうしようもなかった」という三井不動産のコメントを記載した新聞記事が気になる。

今年の1月、僕がコーディネート役を担ってJIA主催によるシンポジウムを行ったが、足場設置を見て急遽JIAから保存要望書(既に2005年1月に提出、建築学会からも2005年3月提出)を提出した。保存問題委員会から持参して意見交換をしたい旨打診をしたが、六本木ミッドタウン公開作業に忙殺されているとのことで、時間をとってもらえなかった。したがって三井不動産の「なにがどうしようもなかったのか」という詳細を聞くことができないが、察するに、いろいろと工夫したが、「残しては許容容積がとりきれない」ということとしか思えない。

皇居寄りの道路に面した敷地は、暗黙の制約があって高さが抑えられているのだ。高さの制限のなかでは容積をクリアできない。結局経済優先、三井のシンボル三信ビルだって壊して当然だという企業論理が見えてくる。
いずれ彫刻などを取り付けたレプリカっぽい高層ビルが建てられ、歴史と記憶を継承したと自己宣伝する有様が眼にちらつく。

<中銀カプセルタワー>
黒川紀章の代表作というだけでなく、メタボリズム理論を実践した建築として世界に知られる「中銀カプセルタワー」が、所有者の5分の4の同意を取り付けたので解体する旨報道された。

僕は建築学会、JIA、DOCOMOMO Japanの要望書を理事長や、中銀マンションに持参したが、一度だけ対応してくれた理事長は、趣旨は理解できるが、私達は文化財などどうでもいい、お金を掛けたくないしお金がほしいのだと明快に述べた。そんなことは当たり前だろうというスタンスだ。難しい問題が内在しているが、黒川さんに聞いたところ、約30%の所有権を持つ中銀マンションは名称だけが残っているものの、実態は外資系ファンドに既に売却積み、まだまだ紆余曲折があるという。

この5月1日、僕は黒川さんと相談して、黒川都市建築研究所の所員とDOCOMOMOのメンバーT・Kさんと共に25名のクロアチア建築家協会の一行をこの建築に案内した。日本を訪れているこのメンバーは、京都などを廻ってきて東京の建築も見て歩くのだという。彼らはこの建築の様子を世界の建築界に伝え保存の要請をするといってくれた。日本より世界に知られている建築なのだ。

<栃木県県庁舎議事堂>
建築家大高正人の代表作、1969年(昭和44年)に建てられた「栃木県県庁舎議事堂」に足場がかかった。解体して駐車場にするのだという。
この建築は昭和44年度の芸術選奨文部大臣賞(美術部門)を受賞した建築で、工場生産をしたPC部材を巧みに用いてその架構をそのまま見せて、独特な内外部空間をつくり出した。その姿は今でも僕たち建築家の心を震わせる。
JIAからは2005年11月に保存要望書が出されているが、モダニズム建築の代表作がまた消えるのかと思うと、いてもたってもいられない気持ちになる。



旅 トルコ(13)イスタンブール歴史地区を歩く③ アナソフィア踏み石の光

2007-05-02 20:14:44 | 旅 トルコ

すぐ隣のキリエ博物館で絨毯に見ほれた後、西暦360年、つまり気の遠くなるような今から1750年ほど前に建てられたギリシャ正教の大本山だったビザンツ建築の最高傑作といわれるアヤソフィア博物館に足を運ぶ。

この建築は漆喰で塗りつぶしてイスラム寺院として使われていたが、元に復しアタチュルクによって博物館として公開されるようになったのだ。
ガイドブックには「時代に翻弄されて幾たびも姿を変えた」と記されている。この17文字でトルコの苦難の、或いは豊かな文化を汲み取れるような気がした。
2階が回廊のようになっていて、上がっていくスロープの石がまったりと光っている。どれくらいの人々がこの石を踏んだのだろうか。

トプカプ宮殿にも足を伸ばした。様々な部屋のタイルに眼を奪われながら歩き回ったが疲れた。川の様に見えるポスポラス海峡を行き来する船を見ながら、階段を少し下りる野外レストランに目をやる。
日差しが強く、腹の調子もよくなく、ここでゆっくり昼食でも食べると楽しいのだがと思ったものの、混雑している中での相席はちょっと辛い。テンションが下降してきた。

誰も座っていない日陰になっている建物の基壇に腰を下ろした。ぼんやりと行き交う人を見る。グループを組んでいる一団も沢山いるが、年輩の夫婦も多い。中年の男性と若い女性のカップルもいる。親子ではなさそうだし果たして、なんてトルコまで来ておかしなことを考えている。此処にはなぜか日本人がいない。ふと気がついたらいつの間にか僕の周りは、休む人で一杯になった。俺は一休みの先駆者だ、と変な自慢をする。

大貯水池だった地下宮殿で、滴り落ちる水滴を楽しんだ。目にすると石になるという伝説のある有名なメドゥーサ像に見入る。
ここが造られたのが4世紀から6世紀といわれているが、コリント様式の柱で組まれたこの空間は魅力的で、この貯水池が宮殿といわれるようになったのもうなずける。貯水池の柱にまで装飾を刻むのだ。ロウソクの灯された喫茶コーナーでコーヒーを頼んだ。なぜかチャイでなくコーヒーを飲みたくなったのだ。

昼飯は抜きだ。そしてその後ガラタ橋のそばにある広場の夕暮れのなかで行き交う人々を見ながら、屋台の「HISTORICAL FISH&BREAD」を食うことになる。(本稿4を参照ください)
これで僕のトルコの旅は終わった。