重要文化財になった「旧日向別邸」の館銘板(案内板)検討のために熱海に向かった。
渡辺仁の設計した木造2階建ての一見普通の仕舞屋(しもたや)に見える上屋と違和感がなく、しかし庭になっている人工地盤の下につくられたモダンムーブメントといっていい、ブルーノ・タウトの設計した離れの空気も取り込みたいと、鉄と石とガラスでデザインした。
前庭や建築に対して、存在感のあるようなないような透明ガラスに、エッチングで文字を掘り込む。その見え具合の確認をしたいと思ったのだ。
文字のレイアウトは、グラフィックデザイナー、武蔵野美術大学教授の寺山佑策さんにお願いし、仕様は三種類考えサンプルをつくった。設置する場所は玄関脇の竹垣の前、逆光になるしバックに垣根や空が見えるので、文字が読み取れるかどうか心配になったからだ。制作をお願いする白水社の担当者と熱海市の職員にも立ち会ってもらう。
本厚木でロマンスカーに乗り換えた。小田急線の急行は朝のラッシュアワーなので乗り切れないくらい混雑しているが、ロマンスカーはあっけないほどがらがらだ。丹沢の見える窓際に座り、流れていく風景に眼をやる。
渋沢を過ぎ新松田に向かうと、深い渓谷を右に見る非日常性を感じる景色に変わる。この二駅間は結構距離があるのだ。ここを通るのが楽しみだ。
ずいぶん前のことになるが、ディック・フランシスの新作に読みふけっていて、ふと眼を上げたら車内ががらんとしていて一瞬どうしたのかと頭が混乱した。僕の家のある厚木を30分も乗り過ごしている。終電も近いし帰る電車があるかどうか愕然としたそんなことを、ここを通るたびになんとなく懐かしく思い出す。
小田原で東海道線に乗り換える。早川や真鶴を通っていくこの路線が僕は好きだ。左手に海が現れる。波の様子や漁船がぽつんといる有様などを眺めているとあっという間に時間が過ぎる。
ひなびた駅に止まると、錆びた線路に雑草が絡まっていたりする。単に雑草抜きの作業がされていない状態なのだが、この自然と人の手がほんの少し加わったこういう景色が僕は好きなのだ。
ふと、鉄の彫刻家若林奮の設計した、軽井沢セゾン美術館の庭園、小川のせせらぎを引き込み、自然石や草を取り込んで、自然と人の感性をさりげなく融和させたその作法に想いを馳せた。そこに架けた錆びた鉄板による小さな橋もいい。若林奮氏に会う機会はなかったが、亡くなった今も何かの折に僕の前に現れる。
沿線の植物は、勿論若林氏のように美意識を表現したものではないが、何か魅かれるものがある。原生林というのではなく、といって作為に充ちた作業をしているのでもない、ありのままの世界。流れていく景色に身を委ねた。