日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

一年経った僕のブログ CAMUSで乾杯

2006-07-30 11:14:20 | Weblog

ふと思いついてブログにトライしてから一年を迎えた。
書き始めて思いがけない発見があったりした。何より自分自身が何に惹かれ、様々な事象にどう対処しようとするのかというささやかな己の確認作業でもあった。後で述べるが、「文体」という厄介なものにも対峙することになった。しかし終生の友となりそうな予感する若き人との出会いがあったりした一年でもあった。
出会いとは好奇心と野次馬根性の賜物だ。とにかく機会があればどこへでも出かけること、出かけることによって新しい発見もある。この年になってそんなことを言うなんて!

何言ってるの、暑いのはしんどいなんていって街歩きに最近出てこないじゃない、といわれそうだが。でもそれはちょっとね、言い難いこともあるのだ。僕にも。
まあね、言い訳の予防線を張っておくのだ。年の功です。

書いたのは僕の生活のほんの一部分なのだが、それでもいろいろなことが起きるものだと思う。えらいね!と僕をよく知っている友人たちは言う。
そうかなあ、何かをやれば何かを失う。一日24時間という時間は誰だって同じで変わらない。ブログを書く時間でできることができなくなったかも知れない。でも同じことを感じている友人は周知のアナログ人間の僕が、ブログにトライしていること自体が不思議だという。また僕が高校時代に文学部だったことを思い出したという後輩もいたりする。僕の文章でもそれなりに読んでくれるのだと思うと嬉しいものだ。

語彙が乏しく、特につい何度も使ってしまう感嘆詞や、ハードボイルドぞっこん見え見えの文体に、時にはカッコいいと自画自賛したり、時にはいやみだと自己嫌悪、それなりに一喜一憂する。そんなこと言うとアホではないかと思われそうだ。
それとて他人のブログを読んで、個性豊かな言い回しであるほど感心しながらもいつも同じ発想、言葉の使いまわしだとどうも情けなくなるので、時折読み返してみて僕も気をつけようなどと考えたりする。

文体には感じるところがある。少し鼻についているスペンサー。一歩引いてみると彼らはおかしな会話をしている。
スペンサーの恋人スーザンは問う。
「彼がホークになるのに、なにが必要だったか」
「ホークであり続けるのに。彼は、維持するのが容易なホークを選ばなかった」
女性のいう言葉か!
実際にあんな言い回しでは生きていけないとは思うが、それがロバート・B・パーカー独特の文体。いや翻訳の菊池光の創り出したものか。でもプロはプロだ。鼻につこうがつくまいが。

書きたいと思うのは何故なのだろう。
ほぼ一月に5編のエッセイ。まあこれからも今までと同じこれくらいのペースになるだろうか。情けないことにテンプレートを変える勇気がない。
ともあれ2年目を迎える。

これまたふと思いついて一人で乾杯をすることにした。
ついにCAMUSのXOをあけた。COGNACが飲みたくなったのだ。
いつ手に入れたものか、何かの折にと思っていたブランディだ。甘い。でも風味が!
小さくかけているキースのピアノソロも心に響く。ケルンでのライヴだ。明日は設計している「二人の家」の図面をまとめたい。だがジ・オープンで谷原ががんばっている。眠れないではないか。蒸し暑い夏の深夜のひとり言。(7/23記)

ポスターの中の青山学院・間島記念館

2006-07-24 19:53:03 | 建築・風景

視ていないようで視ているのが電車の中の広告だ。
エミール・ガレとドーム兄弟の展覧会(渋谷bunkamuraのザ・ミュージアム)と、ポップアート1960`-2000`の展覧会(損保ミュージアム・東郷青児美術館)のポスターが並んでいる。
一方は黒茶の色調によるまさしくアールヌーボーのランプがあしらわれているし、ポップアートのほうは、リキテンシュタインの涙を流すおびえる少女のシルクスクリーンによる顔、知られている「夢想・Reverie」と同じシリーズの一枚がレイアウトされている。

美術館が逆じゃあないの、と一瞬思ったが、行くとしたらどちらだろうと考えた。
ナンシーやニューヨークの都市の有様が浮かんできたりする。ヨーロッパの歴史を刻んできた街に限りない羨望を感じるが、行くとしたら好きなリキテンシュタインだろうな、と思う。1960年代辺りの時代反映、どうもノスタルジックになって困るが僕の青春と重なっているのだ。リキテンシュタインを視てノスタルジックを感じるとは・・・
なんてまあ!とは思いながら、この作品は今に(現代に)生きていて僕に刺激を与え続けていることに気がつく。更に好きなウオーホルと共に。

ところでそれにも増して気になったのは、その二つ置いた隣にある「青山学院」のオープンキャンパス案内のポスターだ。レイアウトは青山らしくもうちょっと垢抜けした都会的なものにならないものかと余計なことが気になるが、そこに「間島記念館」の写真が取り上げられている。
やはり青山学院の象徴は、『間島記念館』なのだ。

関東大震災で破壊されたガードナーによって設計された弘道館を、6年後の1929年青山大学の交友間島弟彦野の寄付よって再建されたこの建築は、軽やかで優しいパラディアン・スタイル。建てられてから既に77年を経て青山学院の象徴というだけでなく、青山という地域を表現する建築になった。
建築は時代や建てられる時の理念を形として表現して僕たちに働きかけるが、同時に周辺にも影響を与える。時を経るとゲニウス・ロキ、つまり地霊を内在するようにもなっていくのだ。
青山は高級住宅地というイメージが僕にはあったが、どっしりとしたお屋敷街というよりも、文化を内在したインテリジェンスに満ちた街。その一角にある学院は、なんとなくお嬢さん学校だと思っていた。

それが井口などの活躍により、かつては野武士集団だった我が母校明治を有する東京六大学をいとも簡単に粉砕する。男っ気もあるのだ。
青山の街は見事に変貌し続けるが、この学院の存在はこの街に欠かせない。同時に間島記念館は、やはり常に快適で軽やかな空気を街に送り込んでいる。
学院の理事会では、この建築を解体してレプリカで再現する検討をしているとHPで公開したが、内外からオリジナル存続を望む声が起きた。
学院の象徴がレプリカ、偽者であってはいけないからだ。

建築歴史学者有志からの保存要望に続いて、6月14日(社)日本建築家協会(JIA)から、保存要望書を提出した。
この建築が歴史的な視点で建築や都市を考える上での価値を有するだけでなく、学院のOBや青山地域の人々にとっても記憶を顕在する大切な存在であり、免震工法を検討することにより残す可能性があると言及している。
さらに周辺環境との関わりにも触れ、ベリー館の屋根と間島の向こうに見える空の貴重な存在をも指摘した。
対応した常務理事は、持参した委員の想いに一つ一つ頷きながら受け取って下さったと報告を受けた。僕は委員会のOBだし、相談役としてこの文案作成にほんの少し関わったので。

交友や学院と共に学院と間島の存在を考えるシンポジウム企画は、学院側から秋に延期して欲しいとの要請があって先延ばしになったが、理事長は免震工法を検討して残すことを考えたいと洩らしたという。
先の僕のブログ(4月12日)でも触れたが、東大本郷の安田講堂の背後には、ガラスカーテンウオールによる高層校舎が建っている。ガラスが空を映して建築の存在を消せると言うが、見えるものは見える。

建築家・JIA保存問題委員会委員の感性は素晴らしい。間島の存在の、その軽やかな姿と共にある背後の青空にも触れた。都心にあってのなかなかの贅沢だが、その贅沢は学院の財産だ。背後に高層による図書館建築の計画があるが再検討を望みたい。
母校でもないこの学院の建築が何故気になるのだろう。
青山という街が好きだから。キットそうなのだ。格好よいことは僕の生きがいでもあるからだ。それにモダニズム建築を大切に想う僕だが、なぜかこの建築が好きなのだ。ガレに魅かれ、リキテンシュタインに今でも刺激を受ける僕が!
この間島記念館は、建築そのものの在り方に示唆を与えてくれる。

<JIAからの保存要望書は、JIAのHPに記載されているが、このブログにリンクしている僕のHPの保存の項からも開ける。是非読んでいただきたい>






生きること(6) 兄になった

2006-07-22 14:08:17 | 生きること

声をかけると目を開いた。僕を見て微かに微笑んだような気がした。指先を同行した愛妻に向けると母は目をそちらに向ける。
この前来たときは眼を開けなかったし、先週の土曜日に妻と娘が訪ねたときには、眼を開けたものの反応がなかったと二人は不安げだった。
看護婦さんが二人できて、動かしますよと言いながらよいしょっと手を差し込んで向きを変える。床ずれを起こさないための手当てだ。それが彼女たちの仕事とはいえありがたい。
「にっこり笑うんですよ、可愛いんだ」という。そういう二人は若くて明るく、母にも増して可愛い。
40分ほど居てまたくるね!と手を振ると、声が出ないが母は微かに手を振り返えしてくれた。思わずこみ上げてくるものがあって去りがたくなった。

まだ元気なとき、母はぼくの家と弟のところに数ヶ月ごとに行き来していた。僕のうち(家)の母の部屋をいつ帰ってきてもいいようにそのままにしてある。
介護を受けることになり、弟は自分が面倒を見るという。彼にも家族があるので大変だと思ったが、弟に委ねることにした。下町っ子の彼の奥さんも受け入れてくれる。

我が愛妻に言わせると、血液型が母と同じ僕と妹は母によく似ているという。性格が。
その一つは多分、状況に素直に自分を委ねてしまうことだ。僕は置かれた状況に眼を配り、面倒見のよいのが僕の特質だと思っているのだが、それは本人がそう思っているだけで、マイペースの面倒見のよさ、愛妻もそう言うし、弟からはいつもそれで苦労させられると文句を言われている。
しかし父や母や僕たち兄弟の人生は、言い換えると置かれた状況は今の若者には思いもよらない特異なものだと思うが、僕も母もその時代の日本の多くの人々に与えられた普通のものだと思い、僕の家族だけが受けた特別な状況だとは思ってこなかった。

母の愚痴を聞いたことがない。まだ及ばない僕は、よくぼやきはするが愚痴は言わない。母と僕はその状況を受け入れてしまうのだ。受け入れざるを得ないとも言えるのだが。
だから出来るときに出来ることを当たり前にやる、意識しようとしまいとやることをやろうとするのかもしれない。

弟はどうも理屈っぽい。同じ血を引いているので僕にもその気はあるが、いっぺん言ってしまうと僕はどうでも好くなる。でも弟はなかなか、そうではないのだ。納得できないものは納得できないし納得してもらいたい。らしい!
明治が負けて早稲田が勝つと得意げに自慢し、明治は10年追いつけないなどという。他愛のないラグビーの話だ。
僕だって母校のふがいなさにがっくり来ているのに、何度もそう言われるとね!納得しろといわれたって・・・
僕だったら早稲田が負けても弟に気を使って、いや、でもね、来年はいいかも!なんていってしまうのに。でもまあこの辺りが絶妙のコンビネーネーッション。兄弟ってそういうものか。だから僕は素直に母を弟に委ねるのだ。まだ若い姪たちにも気を使いながら。
そこにはやはり底の所での共有認識・価値観があるのだろう。

その弟が昭和17年に生まれた。僕が二歳になるころだ。
前年の昭和16年(1941年)11月26日、日本は真珠湾攻撃を仕掛けて泥沼の戦争に入るが、この「吾が児の生立」にはその記述がない。

母の字でこう書いている。
「紘一郎がお兄様になった日。夜中の三時頃に生まれたので、隣室で寝ていた紘一郎は、赤ん坊の泣き声で目をさましてびっくり。手伝いの女中が、23日目位に帰ってからは、急におとなしくなり、お母ちゃまの用事の間は、ブーブー(自動車)の絵をかいて遊んでいる。赤ん坊が泣くと、「庸ちゃん、泣いちゃだめよ」なんていって玩具を枕元においてやっている」

三ヵ月後
「お兄ちゃまになって、うば車に乗ってもすみの方に小さくなっているし、つい云うことをきかないとおこってしまう。考えるとまだ三つだもの、かあいそうにといつもあとで、かあいそうになってしまう。本当にごめんなさいね」
三つと言ったって満二歳、当時は数え年で言うのだった。

<写真・昭和15年新宿にて。左から智叔父、父と僕、母。 叔父もおしゃれだが、父と母の着物姿が格好良い。僕は後ろ向きだが好きな写真だ>

ガラスの建築・金沢21世紀美術館

2006-07-15 21:22:23 | 建築・風景

金沢工業大学(KIT)と連携をとってアーカイヴス設立の検討しているJIAアーカイヴ委員会の後、建築家会館(JIA)のバーで建築談義になった。
この日はKITアーカイヴス館長の建築歴史の研究者竺(チク)先生も金沢から駆けつけて同席されており、委員だけでなくバーにいた室伏次郎さんや河野一郎さん山口洋一郎さんという建築家も加わり、僕がいるものだから自然に保存の話になった。

「ところで金沢21世紀美術館をどう思うか?」と言い出したのは、委員長の大宇根さんだ。あのガラス建築はいつまで持つかというのだ。
前川國男の薫陶を受け、その苦悩を眼の当たりにした前JIAの会長の彼は、ことある毎に今の建築のあり方に警鐘を発している。確かに建築は、ことにコンクリートの打ち放しを多用したモダニズム建築は、メンテナンスをしっかりとやらなくては存続できない。

大高正人さんの栃木県庁舎の議会棟は,氏の代表作というだけでなく、PCを使った日本のモダニズム建築の成果として高く評価されているし、確かに発表当時の写真を見ると、技術の革新と、だから生み出された建築の姿に今でも僕の心が騒ぎ出す。しかし張力を受けとめるコネクターが傷んきて、修復がままならない。
大宇根さんは、前川事務所の時代の先輩でもある前川さんの愛弟子大高さんが、前川の苦悩を引き受けていないと手厳しいのだ。

僕は事務局長を担い、その存続を願って活動をするために4年前に設立した「神奈川県立近代美術館100年の会」(略称「近美100年の会」)発足時のシンポジウムで、槇文彦さんがこの鎌倉の近美のようなモダニズム建築は、理論より何よりメンテをやらなくては残せないのだと呟くように発言されたのをいつも思い起こす。
その仕組みや物理的な問題だけでなく、建築を愛する心が大切なのだという槇さんの志が忘れられないのだ。それはまた「建築をどう創るか」という命題にもなっていく。

大宇根さんの論旨は明解で、メーカーの保障も取れない「シール」つまりコーキングを頼りにするガラス接合建築の否定論でもあるし、メンテに金の掛かる建築を何の危機感も持たずに創り続ける建築家のあり方への問いかけでもある。

俄然話が面白くなった。

委員でもありJIA副会長を担う水野一郎KIT教授もいて、金沢での評判や使われ方情報もリアルタイムで聞けるからだ。
場所を行きつけの中華料理屋上海へ移し、紹興酒を飲みながらのやり取りは、傍から観ると殴りあい寸前と見えたかもしれない。こういうのを喧々諤々と言うのか。日本設計の渡邊善雄委員も唖然として聞き入っている。

「兼六園の真下の古都の趣の残る街に降って沸いたようなあの円形のガラス建築を、町の人はどう見ているのか」とKITアーカイヴ見学と打ち合わせのために訪れた、あの晴れていたかと思うと急に雪の落ちてきた3月の美術館を思い起こしながら問いかけると、竺先生も水野さんも、入館者が多く街の活性化に大きな役割を果たしており、いざとなればメンテ費用はまかなえそうだという。
つまりガラスシールより何より、あの美術館を存在させたのは成功なのだというのだ。
いつものことながら僕の応えは、サーテネ!人気がなくなったらどうするの?

でも確かにあの一帯がぱっと明るく存在感があるようなないような、高さを抑えてあるのも威圧感を与えず妙に街に溶け込んでいる。僕はこの美術館を面白いと思ったのだ。
そういえばいち早く観てきた仲のいい建築家大澤秀雄さんは、どうもね、何処に自分がいるのかわからなくなってしまう、それが建築としては問題、つまり未解決を残したまま出来てしまったのだと言った。
同じことをこの席でも誰かが言い出した。
しかし僕はそれが必ずしも欠陥だとは思えない。どこに居たっていいじゃない。居場所がわからないとも思えないが、仮にわからなくたっていいじゃない。その不安感だって非日常空間の魅力かも、なんて無責任なことを述べる。

室伏さんが室伏さんらしいことを言い出した。
いやそれはともかく、あの美術館の面白さは、概して展示室を外周にとって中を回廊とするものだが、この美術館は反転して内部に展示室を閉じ込め、外周を人が動き、町に向かって開放していることだ。
なるほど!と僕は感心する。
しかしそれならガラスをシールで閉じるのでなく、隙間を開けて開放すべきだった、と室伏さん。
なにを言うの、あの寒い金沢でそれをやったら誰も来なくなる、ゲニウス・ロキとはいわないが場所だ、と水野さん。
だからあの空調費のかかるガラス建築は本当に市民の建築と言えるのかと蒸し返す大宇根さん。そうではない、建築とは!と顔色の変わる室伏さん。

「ね、竺先生。JIAって面白いでしょう」と僕がウインクすると、いやなんとも素晴らしい!とにやりと返された。
肝胆相照らす。JIA・KITアーカイヴスはこれでうまくいくのだ。きっと!

この美術館は、今年の建築学会作品賞を得た。候補になったもののJIA建築賞は逃したが、同じ設計者妹島さんの創った住宅、鋼板による梅林の家が、建築大賞を取った。


生きること(5) 馬橋三丁目 浦島太郎みたいだね

2006-07-11 10:46:30 | 生きること

僕が生まれたのは、東京都杉並区の馬橋三丁目。JR中央線の阿佐ヶ谷駅と高円寺駅の間の普通の住宅の建っている、山の手ではなくといって下町ともいえない普通の街だ。
昭和20年1月に千葉県の柏に疎開するまでここにいた。
「吾が児の生立」にはところどころに写真の頁があり、29頁に家屋のわかる写真が貼ってある。
初節句だ。小さくてよくわからないが、2階で僕をおんぶして立っているのが母だ。二間と一間半もある二尾の大きな鯉のぼり。長崎の実家から贈られた。
「お父ちゃまと智おじちゃまで鯉のぼりの棒を立てて鯉のぼりを上げる。紘一郎は知らずによく寝ていたが、お隣の子供や近所の子どもが大騒ぎ。風をいっぱいにはらんで大空におよいでいる」。

2階の南側に物干し場のあった木造2階建ての長屋。
この一階の押入れの中で一升瓶に入れた米を棒でつっついて精米をした記憶がある。そのザクザクとした手触りや匂いまでもほんの微かだが僕のどこかにある。空襲警報が鳴ると電灯の光が表に洩れないようにカーテンをひいて、それでも用心のために押入れに入ったのだろうか。いやカーテンがなかったのか。たどる記憶はあやふやだ。

3年前のことになるが、JIA建築家写真倶楽部のイベントで、かつて撮った(或いは写っている)街並みの写真をアルバムから探し出して、現在の様子と並べて展示し、時の移り変わりを考えてみる写真展を企画した。
僕は60年後の馬橋三丁目を歩いてみようと思い立った。空襲で焼けてしまった街を。

<記憶って何だ>
というのはそのときの、展示した写真の説明文のタイトルだ。僕はこう書いた。
『杉並区役所住居表示係に調べに行って愕然とした。
僕の生まれたのは、新宿から荻窪に向かって線路の右側だとばかり思っていた旧馬橋3丁目は左側だった。阿佐ヶ谷北口の近くに、石目ガラスの入った白い扉の伯父の家があって、よく遊びに行ったが線路を渡った記憶はない。でも父に抱っこされ、父の弟(叔父)と一緒に踏み切りを渡っている写真がある。

考えているとなんだかおかしくなってきた。戦後長崎の父の実家に引き取られて昭和21年の暮れ祖父が陶石の事業をやっていた天草に渡り、中学2年の時柏の伯父の会社の社宅に僕達一家は戻った。しばらくして母と馬橋を訪ねてみたが、その時も家の在った場所がわからなかった。
僕の生まれた家は杉並区立第六小学校の近くだ。ドイツ下見風の木造校舎をバックにして校庭で父とブランコに載っている写真が残っている。その近辺を歩いて町のおばちゃん達に当時の様子を聞いてみた。

誰も覚えておらず、浦島太郎みたいだね!とからかわれた。
・生まれた場所がわからない!・
地面に足がついていないようななんとも変な感じだ』

家の斜め向かいには、微かな記憶だが尾関医院があった。
「種痘の日」の母の字。
「昭和16年2月25日。身体も健康で暖かでもあったので、午後だいて近くの尾関医院につれてゆく」ちょっと痛そうで顔をしかめたが別に泣かず五日目に熱っぽくなったが、別に痒がらず機嫌もよろしいとある。
結構僕はいい子ではないか。

さて杉並第六小学校を訪ねてみたが、鉄筋コンクリートの校舎では記憶が戻らない。本当にこの近くに木造二階建ての長屋があったのか。尾関医院が在ったといってくれた人もいなかった。

でも僕にはこの育児日誌がある。

生きること(4) 一歳になった

2006-07-09 00:52:45 | 生きること

「初の誕生日に・父の感想」
紘一郎よ
お前が生まれてから丁度一年になる。お前が大きくなってから知ることだが、今は日本にとって非常に難しい時で、すべての物が統制。自由にものが買えない時代なのだ。そしてお父さんはメトロ電気工業といふ小さな会社の一サラリーマンに過ぎない。あれも買ってやりたい、これも買ってやりたいと思ひ乍ら、思った通りの事が出来ないのだ。
だけどお前は元気にすくすくと育ってくれる。嬉しいことだ。
会社から疲れて帰っても、お前の笑顔を見るとそれで救われる気持ちだ。この一年間にお前の写真を何枚撮っただろう。生まれた時からの写真で、お前の成長振りがよくわかる。
これから先も元気でうんといたずらをしてくれ。

「母の感想」
紘一郎が生まれて一年たった。本当に早い。病気にもならず、元気に発育も早く、大きくなってくれた。紘一郎が生まれて家の中がにぎやかになった。紘一郎を相手にしていると、面白くて楽しくて。
本当に子供の可あいさがしみじみわかった。いろいろなものが不足で紘一郎が気の毒だと思うが、でも元気に大きくなったので何より有難い。

父へ
僕は大きくなって、父が迎えることができなかった還暦も過ぎて、この日誌をよんでいる。そして父や母の想いを書き記している。母がまだいるときに書いておきたいのだ。
日誌によると、生まれて三十六日目に高円寺の写真屋さんにいって写真をはじめて撮った。お天気がよくて暖かいので写真屋さんにいった、とあえて書くところに両親の気持ちが読み取れる。この「吾が児の生立」の冒頭の写真だ。父はこの写真を持って会社に行き、皆に自慢しているようだ。うれしかったのだろう。
時々阿佐ヶ谷の従兄弟に来てもらって写真を撮ってもらったりしたようだが、7月にとうとうカメラを買ってしまった。

「この間お父ちゃまが写真機をお買いになって、盛んに紘一郎をうつしていらっしゃる。大きくなるとよい思い出になるでしょう」
有難いことだ。でも吾が愛妻は僕が娘を父にも増して撮っているのに、うつして 「`いらっしゃる`」とは書かないだろうな。





生きること(3) `可あいい子`だったのだ

2006-07-04 10:50:37 | 生きること

生まれた日のことを母も書いている。
「元気な産声をあげよく泣いたが、産湯に入ってからはよく寝る。夜中に二度ネエヤにおむつをかへてもらう。二日目の夜から私がかへる。二日目うまい砂糖湯を少し飲む。夕方の三度目位に私の乳房にすひつく。」
そして`初の歯`の欄に、「ずーとまえから下あごに白いところが見えていたが、いよいよ出てきた。左側2本。別に熱も出ない。おっぱいをのます時、歯がさわってこそばゆい様ような痛さを感じる」と。生まれてからおおよそ7ヶ月目だ。

この育児日誌には、上旬、中旬、下旬という三項目に仕切られている一月目の記事から十二月目の記事という頁が設けられており、僕が笑ったり、飲んだり、寝むったり起きたり、熱を出したり、おしっこがよく出て安心したとか、はいはいについて「教へもしないのに、だんだんとおぼへていく」とか、母の流れるような文字でびっしりと書かきこまれている。
その全てから若い母の好奇心が滲み出てくる。自分のことなのに母の思いだけに眼が行ってしまう。
この記事によると僕は、よく笑い、よく寝て、なんとも?かわいかったようだ。

三ヶ月目の上旬、「紘一郎をだいてお外に行って他所の人にほめてもらう。ああいい顔をしているなんて云われると、とてもうれしい」。4月29日、親戚の駒込にゆく。丹波さんの凱旋祝いなのだとある。凱旋とはなんの、どこから?と思うがそこでもかわいいとほめてもらう。
下旬には阿佐ヶ谷に行き辰っちゃんが帰ってきていてあやしたところ大きな声で笑ったようで「俺の顔がそんなにおかしいか」なんてみんなで大笑い。

6月には父の弟と一緒に4人で国立にある父の母校に行った。下宿のおばさんとか学生時代の知り合いの家に行くが皆僕が父似でかわいい赤ちゃんだという。帰りに井の頭公園に行くが、僕が重くて父もへとへとになったそうだ。
四谷に`喜よし`という寄席があって連れて行ったところ、声色の芸人が変な声を出すので泣き出して困ったなんて書いてある。あちこち僕を連れて行ったようだが、寄席が好きだったのだ。まだ寄席もあったのだ。

水泳の選手として長崎の僕のおば(父の妹)が神宮プールへ来た。自由行動が取れる日に新宿の伊勢丹にお土産を買いにゆき「店員が可あいい可あいいとて抱いて大さわぎ、本当に可あいい子は、赤ん坊の時からとくだ」とある。
そういえば紘一郎は小さいときはかわいかったのよ!と写真を見ながらよく母に言われたものだ。小さいときは、というのが問題だけど、当時の百貨店の有様も窺えて興味深い。太平洋?戦争開戦間近なのに人の情が細やかだ。

しかし、七ヶ月目の9月5日の記述には「防空演習中、家庭防火班で紘一郎をおんぶして出る。バケツを運んだり避難したり。紘一郎は背中でねてしまった」とある。
既に国では空襲を受けることを予測していたのだろうか。

銭湯に行った。
「お風呂に行って主人が洗ってしまうまで、紘一郎をだいて待っていて、ガラス戸のむこうに主人の姿が見えると、体中で喜ぶ。もうどんなに大勢の人の中でも、お父ちゃまは、見つけられるらしい」。こうせつの神田川っぽい。11ヶ月目のことだ。



緊急シンポジウム 討論 東京中央郵便局庁舎の価値!

2006-07-01 00:09:31 | 建築・風景

東京中央郵便局の保存を願ってシンポジウムを行う。

6月9日のブログで報告したように、建築学会、日本建築家協会(JIA)、DOCOMOMO Japanから提出した要望書を受けての企画だが、内田青蔵助教授からコーディネーターを引き受けてもいいからシンポジュウムをやらないかとの提案があり、DOCOMOMOコアメンバーに投げかけて企画をつめた。幹事長としての役目だ。
幹事でもある内田さん、篠田さんと僕の三人で担当してパネリストを調整し、学会,JIAの後援を得て会場も決めた。DOCOMOMO会員によるメンバー構成だが、林さんは日本のオフィスビル構築を率いてきた建築家だし、南さんは郵政設計陣のOBで楽しみだ。
まとまった企画案をDOCOMOMO Japanフレンズの東海大院生深川さんがチラシデザインを担当し、資料の整理や当日の段取り役はDOCOMOMO副幹事長の東海大助教授渡邊研司さんが引き受けてくれる。

『価値!』と書いたのは内田さんで、「討論」としたのは篠田さん。
「価値」という言い方には多少考えるところがあり、パネリストとしての僕の発言はそのあたりから始めるつもりだ。
全ての建築には生き続ける権利があるといいたいのだが、この吉田鉄郎が1931年に創った庁舎を見ると、やはり秀でた建築というのがあり、また時代を動かした建築があるのだと、それは「建築家」の存在なのだ言いたくなる。「価値」というコトバも微妙なのだ。

掲示した写真はその庁舎の客溜まりから観た辰野金吾の東京駅だが、この駅も 近々3階建てに復元される。吉田鉄郎は、この庁舎を建てるときこの赤レンガの東京駅を意識して白いタイルを張ったのだろうし、この駅を見せるために客溜りをデザインし、「どうだい、いいだろう!」と内心胸を張ったに違いない、何しろ、建て替わったがあの丸ビルもその当時は赤系統の外壁だったようだし。この一見なんでもないと思わせる白い建築によって、人々は新しい時代が始まることに胸を躍らせたのだ。

ぜひお出かけください。
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緊急シンポジウム
『討論 東京中央郵便局庁舎の価値!』

東京駅と並び丸の内地区のシンボルであり、またわが国のモダニズム建築の代表例でもある東京中央郵便局庁舎について再開発計画があるとの報道がありました。これに対し日本建築学会、日本建築家協会そしてDOCOMOMO Japan 三団体では、東京中央郵便局の建築的価値を重視し、それぞれの立場から保存要望書を提出し、保存を訴えております。
今回、保存を求める三団体では、この東京中央郵便局庁舎の価値を一般の方々に広く周知すると共に、その存続について多くの人と意見交換することを目的に、合同で緊急のシンポジウムを開催します。それぞれの観点から改めて東京中央郵便局庁舎の価値について考察し、あわせて、保存の可能性について広く議論したいと思います。お誘い合わせの上、ご参加くださいますようご案内いたします。

日時: 2006年 7月 19日(水)18:00 - 20:30

<総合司会> 篠田義男(建築家)
<コーディネーター> 内田青蔵(埼玉大学助教授)
<パネリスト>
鈴木博之(DOCOMOMO Japan 東京大学教授)
藤岡洋保(東京工業大学教授)
兼松紘一郎(日本建築家協会 建築家)
林昌二(建築家)
<コメンテーター> 南一誠(芝浦工業大学教授)

資料代: 一般1000 円   学生500 円
会場場所: 建築家会館1 階大ホール
【東京都渋谷区神宮前2-3-16】
東京メトロ銀座線 外苑駅 徒歩10 分
大江戸線 国立競技場前駅 徒歩13 分
JR 千駄ヶ谷駅 徒歩15 分

主催: DOCOMOMO Japan
後援: 日本建築学会関東支部
日本建築家協会(JIA) 関東甲信越支部
申し込み: 当日直接会場にて申し込み、先着150 名

問合せ先: 内田青蔵・埼玉大学教育学部住居学研究室
【TEL048-858-3243】
兼松紘一郎・兼松設計
【TEL03-3376-9671】