日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

悩んでいる日々を 「建築家 走る」

2013-02-28 13:12:16 | 日々・音楽・BOOK

新潮社から「建築家、走る」(隈研吾著)が送られてきた。現(うつつ)の幻、みた夢が現れたのだ。まず「あとがき」を読む。そのあと冒頭の一文に目をやるのだ。あとがきは、文筆家(ジャーナリスト)清野由美によるものである。

この本は、清野が建築家隈研吾に5年に渡って聞き書きをしたもので、率直に書かれたこのあとがきは、清野由美自身の文化論でもあり、文明論でもある。
こんな一節がある。「隈のすごいところは、80年代のデビューから一貫して、時代の最先端に位置していることだ」。
しかし・・全共闘に遅れた世代で・・ル・コルビュジエやフランク・ロイド・ライト、安藤忠雄という建築界の変革者と違って、本流のエリート教育を受けてしまっていた・・・(ということは)それは同時に、枠外のパワーに恵まれなかった、ということでもある・・(つまり)、どこにも拠って立つ立場がない、と看破する。だから隈は走らなくてはいけないのだとの思いが、読む僕にも伝わってくるのだ。

そして清野はこう締めくくる。一人の建築家の軌跡は最後に、「何かが生まれるプロセスを真剣な思いの人たちと共有したい」。何といっても、この言葉には希望がある、と。

送られてきた封筒には『波』2013,3月号に記載された清野のこの本に関する著述「現在進行形の語りおろし文明論」が挟み込まれていた。この著述と、建築家、走るの「あとがき」は、いつの日か清野由美を捉えるリストとかエッセイ集が編まれたときに欠かすことができない論考になるような気がする。

ところで隈研吾の冒頭の一文のタイトルは「悩んでいる日々を」である。
その最後の一文はこうである。『ぼくは「強い時代」に遅れた世代の建築家です。「弱い日本」に生まれざるを得なかったがゆえの悩み、迷いこそが、僕の本領なのです。』
そして隈は、この本は、清野さんの解像度の高いヒヤリングによって偶然にも出現した、と締めくくる。

さて拾い読みした本文を、これから精読するのだ。

夢の中で・「建築家 走る」隈研吾

2013-02-26 12:24:38 | 素描 建築の人
夢はさて覚めては現(うつつ)幻の・・などというが、目覚めるころにはこれは夢だと思い、よしこれを書き留めておこうと夢の中で思ったりすることが時折ある。しかし、目覚めてみるとそこまでは覚えていても、はて?さっぱり様子が分からないことが多い。

実は昨夜NHK・BSで、何度も観た「プレティ・ウーマン」を改めて見て涙ぐみ、善意の人を描き出した映画っていいものだと改めて感じとって、それを書いておこうと思っていたのだが、変な夢をみたので忘れないうちにそれを書き留めておきたくなった。

場所はどこかの教室のようだった。15センチ角くらいの繊維の残るわら半紙のような紙が分厚く綴じられたもの木の机の上にあり、そこには太い鉛筆で絵(図面)のある課題が無数に書いてあって、それを短時間で解けというものだ。
僕の周りでは数多くの建築家たちが真剣に取り組んでいる。こんな具合だ。数枚の四角い紙を使って立体化した様々な造形を組み立てろ!
時間も無くなって呻吟し、まあいいやと思ったら場面が変わり、僕ともう一人(それがなぜか、どうも鈴木博之さんらしい・建築家ではないナ!)の二人だけがその課題を出した建築家に指名されて別の建物に連れて行かれた。この木造の建物は僕の夢によく出てくるものだ。

いつもは2階建ての2階のようで、横長の窓の連なりの、光が注ぐ中庭を挟んだ向かい側の建物が地震によって流れるように動いてゆき、場合によっては崩れかけるのだが、そこで夢が閉じる。しかし昨夜は向かいの建物は動いておらず、二人で単に新たな課題に取り組むことになるというようなものだった。
その課題を出す建築家がどうやら隈研吾さんらしいのだ。顔が現れないのが不思議だしなぜ隈さんだと解ったのかも分からないが夢だから仕方がない。そこで目が覚めて考える。沢山の課題も周りの建築家たちの姿も覚えていたのに全ては現(うつつ)幻の。これしか思い出せない。

さてと思う。昨日親しい文筆家、清野由美さんからメールが来た。
「聞き書きを担当した隈研吾さんの語りおろし本『建築家、走る』(新潮社)が上梓の運びとなりました」というものである。
取材中のエピソードも聞いていたし、このメールにも面白い一言が書かれていてそれが僕の頭の隅に残っていたのだろう。
さてそれにしても鈴木博之教授は?沖縄の建築家とのやり取りで昨日も名の出たお名前がどこかに在ったものか?でもすべては幻だ。

沖縄へ(2) フライト

2013-02-16 17:32:40 | 沖縄考
ふっと目が覚めた。
エンジンの音と共にイヤホーンからEtta Jonesの唄が聴こえてくる。窓からは青空とその下に密生した雲しか見えない。通路を挟んだ座席のテーブルには、飲み終えた紙コップが置いてあり、若中年の男がライトを点けて文庫本を読みふけっている。そうか水平飛行になったとたんに眠り込んだのだ。ジェットスターではなくてANAB777-300の機内である。

娘は昨夕帰京し、携帯のメールに一報が来た。
「着きました。ゆれなかったしなかなか快適だったよ。明日窓際に座るのなら左側がいいよ。夕陽がすんごく綺麗で感動した!」
娘のフライトはジェットスターだった。

5日前の午後成田空港で携帯にジェットスターから欠航になったという電話が入った。今夕(琉球舞踊を見ながらの食事)のアポと明朝に建築家真喜志好一さんにヒヤリングする約束があって流石にあせった。他のLCCのことが頭に浮ばなかったがふと思いついてANAのカウンターに行ってみた。娘は定額になるが、空席があると僕はシニアのチケットで安く行けるからだ。
興味深かったのは、羽田では経験したことのない乗客の大半が米軍関係者やその家族だと思われ、これから基地のある沖縄に行くのだと感じ入ったりする。
そして帰り便、なんと僕の一便だけが欠航になってしまった。

目が覚め、乗務員にりんごジュースを頼んで飲む。美味い!
そして例の魅力的な声のパーソナリティ、ローレンス・タンターのメッセージに聞惚れながらRee LitenourのLovely Dayを楽しむ。
コーヒーとハーゲンダーツのアイスクリームも頼む。

ゆったりとその二つを味わいながら、ANAのカウンターで相談し左側の窓際の席を取ってくれた可愛くて品のいい女の子の顔や、基地問題でTVに登場する真喜志さんや、案内してもらった展望台から見たオスプレイの姿、「美ら海水族館」や「那覇市庁舎」の設計をした国場幸房さんたちのオーラを発する風貌、そのお二人と深い繋がりのある陶芸家大嶺實清さんとの、のめり込んで話し込んだ「沖縄」を考える。
そして5日間も車で案内してくれた根路銘さんの建築家としての熱い思い、彼が中心となって聖クララ教会での7回目のコンサート、心打つ演奏した海勢頭さんや、にこやかに握手をした1年ぶりにお会いするラサール神父の笑顔を想い起こす。そして沖縄くとうば(言葉)を汲みこみ、想いを伝えた「那覇市民会館」への存続要望書の市長への提出、基本策定をしたのは根路銘さんだ。

でも疲労困憊だ。沖縄の人たちの沖縄への熱き想いとパワーは並ではない!

<phot:A・Kanematsu>

沖縄へ

2013-02-08 23:20:41 | 沖縄考
明日から沖縄です。
初めて乗るジェットスター、さてどうだろう。
建築ジャーナル誌に連載の始まった「建築家模様」のために、沖縄の建築界を率いているお二人の建築家に会います。お会いする前に、つくった建築を見て回ります。
今年も聖クララ教会で行われるコンサート(2月11日)も楽しみ。一言挨拶をといわれています。
懇親会は24時までとなっていて、2次会は24時からだってさ!なんてまあ!
アチコチと案内して下さる根路銘さんと一緒にJAZZを聴き、今年は食事をしながら琉球舞踏も味わいます。一日早く帰りますが娘が一緒です。
去年撮った写真・ヒンプン、天端(アマハジ)、屋敷囲いという沖縄言語が見て取れる存続が気になる那覇市民会館です。桜が咲いているんですよ。今年は担当部長にお会いし、その後記者会見に臨みます。

加藤学園初等学校(2)オープンスクール雑考

2013-02-02 16:06:35 | 建築・風景
昇降口の屋根は片流れで、入り口の左につくられた池からの光の波紋が天井にゆらゆらと揺れている。子どもたちはこの揺らぎを見て天気の移ろいをいつの間にか会得していくのかもしれない。

昇降口の前には、6本の円形柱に支えられた、奥の床がスキップした温室のようなガラス屋根のある階段室らの光が降り注ぐ大きなホールがある。入学式も卒業式もここで行うのだ。
白い6本の柱は、6色の紙でくるまれているが、この色は6学級のシンボル色だそうだ。槇さんの思惑とは異なるかもしれないが、この校舎が先生と生徒によって、生き生きと使いこなされていることが実感できる。

ホールの左手の教室は理科室などの特別教室群、右手は真ん中に円柱のある18m角の表室群で、それを4クラスが使うというオープンシステムである。意外と広く、生徒の描いた絵や教育資料などが天井や梁からぶら下げられていて賑やかだが、どの教室も外からの光が取り込まれていて明るい。
階段の床には英文字が貼ってあるなど、英語教育を実践している様が伺える。
撮影をしながら校長先生とやり取りした。国際感覚を身につける教育がなされていて、例えば理科の授業を英語で行う試行(ではなく実践か!)もされていると聞きさすがに驚いた。

DOCOMOMO Koreaから招請されてモダニズム建築に関するシンポジウムで話をしたときに、PPも講演でも日本語でいいといわれたが、会場に配布された冊子(資料)では、日本語と共にハングルと英語で翻訳して記載されていた。
上海同済大学j准教授は英語で講演、聞いている学生は資料をめくるでもなく聞き入っている姿を見て、これはかなわん!と思ったことなどを話した。私も英語はどうも不得手で?という校長先生(ホントかな?)との共通認識を得たものだ。
こういう学校が沼津という地にあって、日本の教育の一翼を担っているのだ。

オープンスクールについてふと考えたことがある。
故あって、戦後僕の学んだ熊本県天草の下田北小学校は、1学年一学級だったが、数年前に訪れた時には過疎化が進んで、全校生徒三十数名になって複式学級を余儀なくされていた。
形の違うオープンスクールと言ってよいかもしれない。
また僕の写真の師、木戸征治さんが土佐清水市、清水小学校横道分校を6年も追いかけて撮った「ちんまい分校」(1983年・あかね書房刊)には数人の生徒しかいなかったが、先生と生徒、それに村民との豊かな交流が記録されていて心が打たれる。
子どもの教育についてさまざまな課題が取りざたされている昨今、この沼津の初等学校は、僕たちにある種の示唆を与えているような気がする。