日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

楽しみな:新宿西口広場で行うシンポジウム

2008-09-28 14:13:52 | 建築・風景

「主催する`建築文化ネットワーク`というのが問題なのですよ」と述べたら、それを始めに言わなくっちゃ!とメンバーから笑い声が上がった。建築学会の会議室で行ったDOCOMOMOの会議で、10月3日に新宿西口イベントコーナーの会場で行うシンポジウムの「協力」名義の承認を得た席上のことだ。

このシンポジウムのタイトルは「持続できるか、建築文化!(Ⅱ)」。
東京都建築士事務所協会が行う`建築ふれあいフェア2008`の一齣として、今年も企画開催要請が在ったのだ。(Ⅱ)となったのは、昨年も同じタイトルで、ほぼ同じ問題意識を持って、同じ会場で開催したからである。

首謀者は(笑)、東京都建築士事務所協会情報委員会の委員長、川田伸紘さん。
昨年の大会で、僕は「建築保存の現在」というテーマで話をし、シンポジウムでもパネリストとして参加した。
西口広場の一角にある会場は、通りがかりの人でざわつくのではないかと心配したがそんなことはなく、立ち見の人も沢山いて、延べ120人の人に聞いていただいたと、事務所協会の報告書には記載されている。
今年も川田さんから、コーディネートしてくれないかと相談があった。事務所協会は、スペースを提供し協力するので有意義な企画をしてほしいというスタンスである。僕の所属するJIAにはない懐の深さだ。

今年も僕でいいのか、と迷った。でも迷ったときはやったほうがいい。建築文化を広く社会に伝えるいい機会でもある。
よしと思った。日頃お付き合いをしているいろいろな立場の人に、その人が日頃考えている今の建築界と社会の関わりについての問題意識を自由に語ってもらおう。そして意見交換をすることによって何かが見えてくるかもしれない。そう思って参加打診をしたところ、全ての人がOKしてくれた。ありがたい。

問題は主催をどうするかだった。昨年は、東京女子大のレーモンド建築を残そうと尽力しているOGの会「東京女子大のレーモンド建築を考える会」が主催してくれた。
川田さんと打ち合わせをしている時にふと「建築文化ネットワーク」はどうかと問うた。実体がないが川田さんは喜んだ。これを機会に緩やかな集まりを考えていこう。
とりあえず川田さんとの二人でスタートすると述べたらDOCOMOMOメンバーは笑いながら承認してくれた。東京都建築士事務所協会の最終会議で、主催ではなく企画のほうがいいのではないかとなったそうで、これでしっくりした。

「わが家のミカタ」を連載している朝日新聞の神田剛さんも本社からの承認を得た。腹の座った記者だ。
新潟市役所の高橋さんに話をしてもらうのも楽しみだ。建築の大好きな主婦、長いお付き合いだが、所属がくるくる変わる。行政と市民の立場、目に見えない市民という存在についての話を聞きたいが、そういわれても困るだろう。でも楽しみだ。
堀さんが出てくださるのは望外の喜びだ。
日高さん。いい男なのだ。東京建築士会で広報を担う観音さん。論客だ。寺尾さんからは局地的な集中豪雨の起きた昨今の状況を建築家の視点で、面白い考察が聞けるかもしれない。
皆様、ぜひお出かけ下さい。

シンポジウム「持続できるか、建築文化!(Ⅱ)」
日 時 10月3日(金)pm3:30―6:00
場 所 新宿西口広場イベントコーナー会場内、イベントスペース
総合司会   川田伸紘(東京都建築士事務所協会)
コーディネータ 兼松紘一郎(JIA・DOCOMOMO Japan)
パネリスト  観音克平(東京建築士会)
       寺尾信子(JIA環境行動委員会) 堀勇良(元文化庁)
       日高敏郎(日高敏郎建築設計事務所・元BCS 設計専門部会)
       高橋照子(新潟市役所)
       神田剛(朝日新聞記者・火曜朝刊コラム「わが家のミカタ」担当)

<写真 2007年のシンポジム>

飛んできたブラジルの酒ピンガ「CACHACA51」

2008-09-23 09:28:13 | 日々・音楽・BOOK

ブログに「ボサ・ノバ」を書いた翌日、事務所に宅急便で背の高い箱が届いた。送り主はB・RAFAEL。
はて?そして、もしかしたらと思った。あの留学生かもしれない。
お酒らしい。封を開けると現れたのは「CACHACA51」。なんとブラジルの酒ピンガではないか!
ジャズ・ボサの名盤`GETZ/GILBERTO`を聴きながら、ピンガがあると更にブラジルの風を感じ取れるのにねえ、と思ったらピンガが舞い込んだ。僕の想いに応えようと急いで飛んできたような気がする。

日本語はつたないが、心のこもった短い手紙が同封されている。
「・・今私は修士論文を終わりました。もうすぐ帰国します。兼松さんがブラジルに行ったらぜひ連絡してください。そこであなたに会うのは、大きい喜びでしょう。
そのインタビューは本当にありがとうございます。このブラジルの酒はお礼を申し上げる私のつまらないやりかたです。・・」

RAFAELさんは東大の鈴木博之先生の研究室に在籍しているブラジルからの留学生。忘れていたが、数ヶ月前に彼は、DOCOMOMOで一緒の東海大学渡邊准教授に伴われて僕の事務所を訪ねてきた。修士論文で、日本のモダニズム建築の保存問題をとりあげたのだ。
数多くの人にインタビューをしたようだが、僕は鎌倉の神奈川県立近代美術館の現状と、保存活動について話した。
建築家や美術関係者、それに市民や学生と共に「近美100年の会」をつくって坂倉準三が設計した日本を代表するモダニズム建築の存続を願って活動しているからだ。
時折難しい言葉を、渡邊さんが英語で通訳してくれる。僕にとっても様々な経緯を振り返ることが出来て有意義だったし、外国から来た若者の好奇心に触れて楽しかったことを思い出した。

帰国する?僕がブラジルに行ったときに会いたい?それはちょっと無理だなあ!
彼が日本にいるとときに、もう一度会いたい。今度は僕がインタビューをする番だ。建築のことだけでなく、サンバやボサ・ノバ、そしてカーニバルのことを。何よりなぜ日本に来たのか?
やはりね、修論の成果についても語り合いたい。

このエッセイを書きながら聴いているのはボサ・ノバではない。GETZ/GILBERTOに触発されて、スタン・ゲッツのライブの一曲`KALI-AU`、そして`CHAPPAQUA`。
輸入の廉価版なのでライナーノートがなく、どういうライブなのかよくわからないが、シンセサイザーが遠くから響き、エレキトリックギターが爪弾くようにメロディを弾き、スタン・ゲッツがささやくようにテナーを吹く。
ふとピンク・フロイドの原子心母を思いだした。これはJAZZ?いや70年代、僕が銀座のジャズクラブ・ジャンクに通い詰めた頃、聴いていた音楽だ。とするとJAZZなのだ。

ちびちびやっているのは、もちろんCACHACA51だ。
プラッサオンゼでは氷と水で割ってほんのすこしsugarを入れ輪切りにしたライムをおく。スピリッツとはいえアルコール分40パーセントもあるのだ。今はロックで。いやいやなんともねえ!
そして想いを馳せているのは・・妻君と出会う直前の70年代だ。


秋の始まりを聴く、ジャズ・ボサの名盤・「GETZ/GILBERTO」

2008-09-18 00:47:56 | 日々・音楽・BOOK

このエッセイを書きながら聴いているのは「GETZ/GILBERTO」。45年前になる1963年ニューヨークで録音されたボサ・ノバだ。
聴きながら飲むISLAY BOWMORE 12年がなんとも美味い。ブラジルの酒「ピンガ」にレモンを絞って格好よく飲みたいが、さすがに我が家には置いてない。ではと北端のアイレイ、酒は世界を巡る。リビングがライブハウスになった。

パーソネルが素晴らしい。
スタン・ゲッツ(ts)、ジョアン・ジルベルト(g,vo)、アントニオ・カルロス・ジョビン(p)、トミー・ウイリアムス(b)、ミルトン・バナナ(per)、それにアストラッド・ジルベルト(vo)。このアルバムは、ブラジル音楽、ボサ・ノバを語るときに欠かせない一枚なのだ。

「イパネマの娘」「ソ・ダンソ・サンバ」「オ・グランジ・アモール」などボサ・ノバの代表的な曲が収録されていることもあるが、ゲッツのテナーとジョビンのピアノ、体が動き出してしまうリズムセッション、それにつぶやくように唄うジョアンとアストラッドのボーカルが見事に溶け合って、聴きだすとあっという間に時間がたってしまう。

ところが藤本史昭氏のライナーノートにこんなことが記されている。
「レコーディングの最中、ボサ・ノバのニュアンスを解せないゲッツに苛立ったジョアンが、`このグリンコに、お前は馬鹿だといってくれ`と罵倒し、しかし気を利かした通訳役のジョビンが`彼はあなたとレコーディングするのが夢だったといっています`と伝えたところ、ゲッツのほうは`どうも彼はそうは言っていないようだね`と皮肉っぽくこたえたエピソードがある」。

このアルバムは、「ジャズ・ボサ」と位置づけられるようになったが、何度聴いても、ゲッツのテナーがボサ・ノバのリズムと空気、つまりボサ・ノバの真髄を表現していると感じ、決してそういうやり取りがあったとは思えない。

つぶやくように歌いかけるジョアンとアストラッドに、ゲッツのテナーはビブラートをかけて優しく応える。テナーにかぶせてジョアンがスキャットでささやいているではないか。ゲッツよ、なかなかいいぜ!と。
泣きたくなる。身体が動き出す。生きているのがうれしくなる。ISLAYに酔ったのではないぜ!決して。僕はこのアルバムを聴いてボサ・ノバが好きになったのだ。

名盤誕生にはこのような何がしかのエピソード・物語があるのだ。マイルスの「カインド・オブ・ブルー」にもキースの「ザ・ケルン・コンサート」にも、心に沁み込んでくる物語がある。

ライナーノートの役割は、その誕生の経緯や当時の音楽界や社会状況、パーソネルのことなどをきちんと紹介してくれることが大切なのだと、これを読むとつくづく思う。
このスタジオ録音の経緯は伝説化していて、必ずしも確なものではないのかもしれないが、この伝説自体が記録になっているともいえる。ボサ・ノバとJAZZ、それにテナーの巨匠スタン・ゲッツを語るときの資料にもなるアーカイヴスだ。
タイトルにボサ・ノバの文字がなく、GETZ/GILBERTOとしたのもこの二人のエピソードを裏付けているような気もしてくる。

僕は藤本氏の記述を読むまで、ボサ・ノバは、ブラジルの土着音楽だと思っていた。ところが当時のブラジルの首都(現在はブラジリア)リオで行われた「ア・プリメイラ・ノイチ・ダ・ボサ・ノヴァ」というコンサートがボサ・ノバが演奏された最初なのだという。1959年の9月22日。
そして5年後のこの「GETZ/GILBERTO」でボサ・ノバという音楽が世界に広まった。

ブラジル音楽を聴くと、映画「黒いオルフェ」を思い出す。サンバだ。リオのカーニバルとダブって、あのエネルギッシュな祭りの中に潜む不安が若い日の僕を惹きつけた。サンバ歌手`斉藤みゆき`を青山のライブハウス「プラッサ・オンゼ」で追いかけた。魅力的な彼女のHPのプロフィールは僕の撮った写真だ。
熱気を発散するサンバと、浮き立つリズムの中に切々たる哀愁を込めてうちに向かうボサ・ノバ。
少し涼しくなり、秋の始まった夜を、ブラジル音楽とクリスタルグラスに注いだISLAYで楽しむのだ。

<写真 プラッサ・オンゼでの`斉藤みゆき`さん>

青森へ(2)十三集落・冬になると詩人が来る

2008-09-13 17:32:52 | 建築・風景

津軽十三は、明大神代研究室が調査を行った1972年では、北津軽郡市浦村十三だった。今では五所川原市十三だが、五所川原市の中心地から40キロも離れていて、車でも1時間以上掛かる飛び地になっている.
十三は五所川原市になったが、周辺地域は住民の思惑があって、市町村合併がまとまらなかったようだ。でもそれがよかったと若山さんが云う。土地固有の風情・文化が残ったと言うのだ。

その若山さんの車で僕たちが連れていかれたのは小高い丘の中腹にある唐川城址。十三集落と十三湖を一望に見渡せる景勝地だ。僕たちが調査に来たと聞いて「全貌をみておけ!」とは云わないけれど集落の位置付けがわかるよ、と僕たちの好奇心を受け止めてくれたのだ。それはまた遊びに来たのではなさそうな僕たちへの若山さんの好奇心なのだ、と思う。

十三を支えているのは十三湖で獲れる蜆だ。
十三湖には山岳信仰の対象岩木山を源とする岩木川が注がれ蜆を育てる。その十三湖と日本海にはさまれた細長い土地に道路を挟んで十三集落がある。かつてはその入り江を通って北前船が十三湖、つまり十三湊に入ってきたのだろう。そのさまが見渡せるのだ。

神代先生が調査をした36年前にはまだ木造の跳ね上げ橋が掛かっていた。今はコンクリート橋。岩木川が運ぶ土砂によって水深が浅くなり、大きな船が入らなくなったからだ。十三湖は湊(港)でなくなり村が衰退していった。集落を見ながらしみじみと語る若山さんの話に打たれた。

コミセもかっちょ(囲い塀)も、過酷な冬の寒さと風から生活を守る知恵だった。「日本のコミュニティ」に掲載されたモノクロ写真はその様を見事に捉えていて心を揺さぶられる。
倒れないように低く這い蹲った板張りの家、かっちょの板は寄木(よりき)と言われる流木を使った。住民がうち(家)を守るために自分の手でつくったのだ。だから高さが凸凹。貧しかったのだ。僕は天草で過した小学生時代の竹屋根の家を思い出していた。でもここは更に厳しい厳寒の地。

雪と氷で人は道を歩けない。道路に面して下屋を作り、板で囲って人の行き来ができる通路にした。その連なるコミセは今はない。温暖化だ。厳寒の季節でも道を歩けるようになった。
安い建材が生産され、少しだけ裕福になり、少しだけ階高の高い2階建てが建てられるようになって街並みが変わった。昔の面影を宿す家屋はまだあるが、なんとまあ新建材街並みに変わっていく。

寄木の`かっちょ`があるかもしれないと若山さんは日本海側の対岸に車をむけた。一言。「ないなあ!」。改めて自分のまちを見て驚いている。あっても大半が大工が製材した板を使っている。
日本海との間の狭い陸地は背の低い暴風林になっているが、ひらめの養殖がなされている。集落の産業だ。
かつてあった丸太の火の見櫓はなく、すぐ傍に太い丸太でつくった大きな鳥居が道をまたいで建っている。神社の鳥居も丸太だ。ずしんと僕の心に響くものがある。神に支えられた自然との共存。少し様が替わったがお祭りは綿々と行われていて14日(8月)に終わった。これから冬を待つ。だから今は静かなのだ。

若山さんは昭和27年生まれ。父親は役場に頼まれて十三湖の対岸に渡る渡し船の船頭をやっていたそうだ。冬になると仕事がなくなる。村人全てがそうだったのだろう。出稼ぎに出るのだ。
それでは家族や子供がかわいそうだ。修業に出た。そして弘前で奥さんと出会った。十三集落の突端に民宿と食堂を開業した。昭和49年だ。
村人と共に蜆にトライした。「とぎょっこ」、蜆はきれいな水でないと育たない。そこからはじめた。村おこしだ。そして、若山さんは自分の店でいろいろと試した。残ったのは蜆ラーメンと蜆のバター炒めだけだったと笑う。

民宿和歌山の裏、十三湖側に蜆の競り場(市場)がある。見せてもらった。ランク付けされた蜆が網に入って2時から行われる競りを待っていた。
一日歩いただけで津軽十三が解ったとはいえない。でも若山さんに出会えたのはありがたい。
冬に来なければと思った。津軽に惹き込まれたのだ。
来る人はいる。絵描き、写真家、作家。そしてふと声を替えて「詩人」。その言い方と若山さんの笑顔に思わず僕たちは声をあげて笑った。

<写真 `かっちょ`と丸太の鳥居>