日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

「大魚丸」船上仕込みのいかの塩辛

2014-07-26 23:33:15 | 愛しいもの
ふと「旅に求めて」というタイトルが思い浮かんだ。
でも長いこと探し求めていたとは言え、「塩辛」ひとつに大げさだと思いながらも、この度の新潟・佐渡行きは、やはり「旅」だったと言いたくなった。出会うために旅に出る。

會津八一記念館の存続がテーマの新潟だったが、多賀野に出かけて板画家小林春規さんのアトリエを訪ね、近くの建築をいくつか案内してもらった後、新居千秋さんの設計した`洞窟`新潟市港南区文化会館に立ち寄った。僕にもある建築家魂が沸きあがり、ホールを見たくなって、大倉宏さんの知人’ たっつあん’がリサイタルの練習をしているのというので覗いてみたら、その歌の面白さに魅かれて2枚組みのCDを買ってしまった。
それに佐渡だ!
建築ツアーになったが、でも書いておきたいのは「塩辛」。

一昔前(二十数年前)になるが新潟で仕事をした。そこで出会ったのが『「大魚丸」船上仕込みのいかの塩辛』である。当時は新潟駅の構内に、今のコンビニのアイスクリーム入れのような大きなボックスがありその中にあった塩辛に出会った。細長いビンに入った塩辛に細長いスプーンがついている。好物になった。
ところがいつの頃からか駅舎が拡幅されて様々な店が出来、構内の売店はなくなり、塩辛が見当たらなくなった。

その塩辛に佐渡汽船の佐渡港の売店で十数年ぶりに再会した。
瓶の後ろに張ってある和紙には、こんな風に書いてある。「振れば振るほど旨くなる。お召し上がる前に逆に持ち、上下に振って下さい。少量になりましたら―ビンを逆さまにした絵が描いてあり―(さかさまにして)保管して下さい。

沖縄と新潟:風土と建築 <會津八一の會津記念館と日本海タワー>

2014-07-18 19:08:26 | 建築・風景

「モダニズム建築の抱える課題 保存と活用」

明日の朝新潟に向かい、版画家小林春規さんの里「阿賀野」に行って、下記親しい友人大倉さんや伊藤純一さんとも一緒に阿賀野と新潟市内を一緒に歩き、明後日、7月21日(日)の午後、標記のタイトルで、大倉宏さんが館長を務める新潟砂丘館で講演をさせてもらうことになった。

1881年(明治14年)に新潟市古町に生まれ、早稲田大学で学んで1931年には早稲田大学の文学部教授に就任し、仏教美術史論文によって博士号を得、歌人としても書家としても評価されて「秋艸道人」を雅号とした會津八一は、新潟の名誉市民を授与された新潟の偉人である。その記念館が新潟市の中央区船見町にあるが、耐震の問題があるなどとして、新築された高層ビルに移転、近々オープンする。

この記念館は長谷川洋一という地元の建築家が設計した2階建ての瀟洒なモダニズム建築である。その存続が課題、議会では跡地利用が検討されているとのことで、建築としての存続が懸念される。
會津八一の出身校早稲田大学には、今井謙次の設計による旧図書館(1925年)が、會津八一記念博物館として転用され、早稲田にとって大切な建築として存続されている。

日本海タワーは、東京タワー(1958年)の10年後の建てられた建築(給水施設)と塔(タワー)で、低いが日本海と市内を望めるよく似た展望台があって嘗ては人気があった。しかし、まちの様相が変わるとともに訪れる人も少なくなって閉館された。
課題はいくつもあるが、新潟というまちのなかで、時を越えて「人の生きることと建築・その記憶」テーマに、会場に来て下さった方々と語り合いたい。

その夕方、佐渡に向かう。街歩きを何度もご一緒した友人夫妻が、民家に手を入れて蕎麦屋を開業、その内部設計をした建築家伊藤純一さんに案内してもらう。そして泊めてもらう。初めての佐渡、翌日は金山などを案内してもらって大急ぎで帰京。伊藤さんはJIAの委員として活躍、僕より一回り半ほど若いが、価値観を共有している。

一昔前(なんと20年を超えた)になってしまったが、新潟で仕事をしたことがあって馴染のまちの変貌が気になっている。
まちと建築、ことにモダニズム建築の存在を改めて考えるいい機会になった。課題のある沖縄の写真なども取り込み、PP(パワーポイント)の構成をしながら様々な人との出会いが楽しみだ。

八天堂のくりーむパン

2014-07-12 16:03:57 | 愛しいもの

お土産に「八天堂」の`くりーむパン`をもらった。箱には八天堂としか書いてないが、生菓子なので今日中に食べて下さいねと言われる。
うちへ持ち帰ると「八天堂だ!」と妻君が声を上げた。そして「広島の!」。
一つの箱に、三つの包みが入っていて、そこにも八天堂としか書かれていない。一つをとって口に含む。ふんわりとしていてすっきりとしていると言いたくなるお菓子。和菓子?洋菓子?調べてみると広島県三原市にある八天堂の「くりーむパン」だ。これがパン?
こういうおしゃれなお土産を持ってくる、口ひげを生やして柔らかい笑みを浮かべるこの人の、人柄がわかったような気がした。

都市と写真の狭間で 飯田鉄さん論考第2項

2014-07-05 14:20:32 | 写真

JIAでの飯田鉄さんの講話は、「建築ならびに都市の景観写真略史」と題した世界の写真史の紹介・論考から始まった。

配布された資料の冒頭に1453年のレオン・バティスタ・アルベルティが「幾何学遠近法」を書き表すという一行がある。よく言われることだが、人の目から見る光景は正しく遠近法なのだが、単純に見上げて撮る建築の写真は間違いなく歪むものの、歪んで見えない人の目の不思議さを、改めて考えたりする。
ここからスタートする飯田さんの取りまとめた資料に、写真の実態を伝えたいという飯田さんの試みが現れている。

世界で最古とされる1826年のニエプスが南仏の自邸の窓から撮影した「窓からの眺め」を、写真を写しながら紹介。そしてタルボット、ダゲール、デラモッテ、マルヴィルなどと続き、1900年に小川一真が伊東忠太らに従って北京紫禁城を撮影して東京帝大に収蔵と紹介。F・R・ライトが活躍を始めると建築家に触れる。
1914年に第一次大戦勃発、1925年にライカがⅠ型を発表し、ル・コルビュジエがパリ万博で「エスプリ・ヌーボー館設計」と続く。

アッジェ、マン・レイ、アボットという聞くことの多い写真家の名前が続き、1938年(昭和13年)、僕の生まれる2年前に、ウオ-カー・エヴァンスがニューヨークの近代美術館で初個展開催するが、その後その7年前にエヴァンスは、アッジェやアウグスター・サンダー等の写真を論考と記す。
写真が作品として認識されたという言い方をしてもいいのだろうか!
飯田鉄の論考は、戦前戦後の都市を主要なテーマとして撮影した写真家として、主として桑原甲子雄を取り上げ、聞いている僕は飯田の撮る写真との写真家としての共通認識と、先達への敬意を感じ取った。

その後の僕と飯田とのやり取りでは、デジタル化の課題など多少マニアックな論考になった。
ともあれ三十数名が参加したこの会合は僕自身もそうだったが、おそらく来場された方々も写真を撮るという行為の原点を感じ取っていただけたと思う。

ところで帰り際に、親しい建築家から、飯田さんは都市景観が大きく変わった昨今の都市を写真家としてどう観ているのだろうか?と問いかけられたことが気になって、翌朝飯田さんに電話した。

電話先の飯田さんのメッセージは、11年前(2003年)に発行した「街区の眺め」を取り上げながら、一見ノスタルジックだと思う人がいるかもしれないが、撮った写真はその「まち」(都市)の最新の状況を捉えていてそのスタンスはいつになっても変わらない。そしてこう付け加えた。
「撮るということは、まちに、種を埋め込む行為である」。

そうだ!と聞いていて溜息がでた。そこにあるものを撮るのが写真だ。
それが未来に示唆を与える!